主体の論理(15) 脱所有の論理 2022/02/19 by Ω No comments 高橋一行 大澤真幸の新しい本『経済の起源』を読む。贈与がテーマである。 大澤は前著で脱資本主義を論じている(注1)。それに対して今回は、経済の起源が問われ Continue reading →
主体の論理(14) ヘーゲル論理学のトポロジー 2022/02/08 by Ω No comments 高橋一行 本シリーズ第11回で扱ったS. ジジェクの『性と頓挫する絶対』(以下、『性と頓挫』)にトポロジー理論が出て来る。そこではメビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺が論じら Continue reading →
主体の論理(13) 脱資本主義に向けて 2022/01/27 by Ω No comments 高橋一行 キューブラー=ロスの死の受容に至る5段階論は、S. ジジェクがしばしば参照するものである。これは次のようなものである。人は死に直面すると、つまり助からないとされる病の最終 Continue reading →
主体の論理(12) 実体としてだけでなく、主体としても 2022/01/13 by Ω No comments 高橋一行 「真なるものをただ単に実体として把握し、表現するだけでなく、主体としても把握し、表現する」という文言は、『精神現象学』の序言にある(p.16ff.)(注1)。S. ジジェ Continue reading →
主体の論理(11) ジジェク『性と頓挫する絶対』における主体論 2021/12/20 by Ω No comments 高橋一行 「主体の論理(10) 女の主体 ― C. マラブーと円地文子に触発されて ―」を書いてから二か月以上たち、この間にこのテーマ、つまり文学を題材に、身体と主体というテーマで Continue reading →
(続)「武士のエートス」とその喪失を考える 2021/11/25 by Ω No comments ――リベラル・左派の何が問題か?(八) 相馬千春 (七より続く) この連載のサブタイトルは「リベラル・左派の何が問題か?」なので、「武士のエートス」とその喪失というテ Continue reading →
主体の論理(10) 女の主体 ― C. マラブーと円地文子に触発されて ― 2021/10/04 by Ω No comments 高橋一行 C. マラブーの新著『抹消された快楽 クリトリスと思考』はもうその題名を見ただけで、私の手に負えるものではないと Continue reading →
主体の論理(9)身体は主体か、客体か 2021/09/21 by Ω No comments 高橋一行 谷崎潤一郎の「刺青」という短編をM. フーコーが論じている。小説の粗筋は以下の通りである。時は江戸、まだ「世間がのんびりして居た時分」、清吉という名の腕利きの刺青師(ほり Continue reading →
「武士のエートス」とその喪失について考える 2021/09/20 by Ω No comments ――リベラル・左派の何が問題か?(七) 相馬千春 1. 「兵学的リアリズム」を支えるものとしての「武士のエートス」 前回、幕末・維新期の武士たちの「兵学的リアリズム」について触れましたが、「兵学 Continue reading →
主体の論理(8) エーテルから生まれる主体 2021/08/20 by Ω No comments 高橋一行 1. エーテルは純粋存在である エーテルはヘーゲル論理学における純粋存在であるという主張がある(加藤尚武1988)。これは単に比喩として成り立つという話ではなく、ヘーゲル Continue reading →