政治学講義第四回 嫉妬の充満、またはリベラリズムの衰退

高橋一行

  
   この10年くらいジジェクに拘っていて、しかし専らそれはヘーゲル論理学との関わりで関心があり、そういう論文を書いてきたのだけれども、今回は政治的な問題である。
   ジジェクの嫉妬論から始める。ロールズは『正義論』において、最も恵まれない人々の便益が最大化されるべきだと主張する。つまり福祉の充実した社会を構想する。そこにジジェクが嚙み付く。そういう社会では人々は嫉妬に駆られて過ごすことになり、それは不幸の極みである。
   まずロールズは、自然的な不平等に基づく不平等はある程度許されるが、スタート地点での平等は必要で、階層の固定化、つまり出自による格差は是正される。要するに社会が不平等を作っていることが批判され、なるべく平等な社会が望ましいとされる。
   さてそうなると、つまりロールズの理想が実現されると、自分が低い地位にいるのは、自分の能力がないからで、社会が悪いからではなくなる。そこでは怨恨が爆発するだろうとジジェクは言うのである。
   誰もが自らの被る不平等が、自分のせいではなく、運が悪かった、自分の力ではどうにもならないのだと考えると、多少は気分が楽になる。自分が恵まれないのは、社会が悪いのだと言えるからである。しかし自分の力を超えた制度のせいではなく、自分が悪いからだということになると、人びとの気持ちは休まらない。そこで他者への嫉妬心が爆発する(ジジェク2008 p.68)。
   もうひとつ指摘すべきは、人は他人の幸福に嫉妬し、他人の不幸を望むものだということである。つまり自分よりも恵まれないはずの人々が、福祉を享受するとなると、それは絶対に気に入らない。ロールズは人々のそういう不合理な感情を見落としているとジジェクは考えているのである(同 p.69)。
   資本主義社会は不平等で、人びとは嫉妬に満ちている。そこで社会を改革して、平等な社会にすれば、人びとの嫉妬心はなくなるという考え方そのものがそこでは批判される。ジジェクの考えでは、羨望と怨恨は人間の欲望の根源なのに、制度が改善されればなくなるという楽観はむしろ危険であり、制度的な不平等がなくなった社会ではむしろ一層それらの欲望が爆発するという、根本的な洞察がロールズにはない。
   実はこれは単にロールズを揶揄する話に留まらず、ジジェクの共産主義論の根本に関わる。F. ジェイムソンの論を受けて、ジジェクは、羨望は資本主義固有のもので、共産主義社会では、人びとは連帯するだろうという楽観を批判し、むしろ共産主義社会では、それが正しい社会であるために、羨望と敵意が爆発するだろうと言う(ジジェク2018 p.311)。しかしジジェクは資本主義社会を批判し、共産主義社会の到来を望んでいたのではなかったか。
   今回はこのことを考察する。
   実はこのジジェクの嫉妬については、山本圭が2024年2月に出した本の中で引用している。私も以前、このことは書いているのだけれども、その後、深めることなく、放っておいた(注1)。それで山本に先を越されてしまったと思っている。この論稿も、今年の早い内に書いていたのだけれども、結果として、山本の本が出た後に発表することになってしまった。これは嫉妬ではなく、負け惜しみである(注2)。
   山本の本にはジジェクがいくつも引用されている。この本の根底にはジジェクの発想がある。あるいはジジェクに近いラカン派のJ. コプチェクも参照されていて、このあたりがこの嫉妬論の発想の根源である。
   私自身もまずは所有に拘って、「所有論」4部作を書き(高橋2010、2013、2014、2017)、それと並行して長くジジェクと付き合っていれば、この問題は必然的に出てくる。大学では政治理論を講じ、ポピュリズムの根源には嫉妬心があるというような話を毎年していたのである。だから山本の書いていることの半分は、私があちらこちらで話したり、書いてきたことなのだが、しかし残りの半分は随分と教えられることが多く、山本の本は、私が退職していなければ、間違いなく今年度の講義でも重要な参考文献として取り挙げていたはずのものである。
   ここでカントの嫉妬の定義を挙げる。カントは嫉妬について、「他人の幸福が自分の幸福を少しも損なう訳ではないのに、他人の幸福を見るのに苦痛を伴うという性癖」と記している(カント p.345、山本 p.41)。これは道徳論のカントではなく『法論』のカントである。他者を絶対的に尊重せよという道徳のカントと、現実の人間の性(さが)について正確に認識するカントがいる。そして私にとって、これは随所で書き散らしているけれども、カントの面白さは、この後者にある。
   ここで重要なのは、自分はある程度はすでに幸福なのかもしれないのだが、他人のことが気になって仕方ないという、人間の心性である。しかし同時に、自分の幸せ度が、以前よりも増していると思える状況なら、この嫉妬心はある程度減らすことは可能ではないか。段々と不幸になっているとか、将来が不安であるというときに、一層他人が気になるのではないか。このあたりのことを以下、考察したい。
   実はジジェクのロールズ批判と、共産主義社会への楽観論批判は、同時にユートピア批判でもある。
   かつてユートピア論の欠点は、それが逆ユートピアになってしまうということだった。つまり理想社会はその社会を理想だと思わせるよう、人びとに強制する全体主義社会であるというのである。そもそも成員全体に共通の理想社会を求めるという発想は、極めて危険なのである。
   そこでその成員全員が共有する理想は、それほど強いものではなく、最低限のものに留め、かつそれに対して自由に反対意見が言えるようにし、またどうしてもその社会に納得がいかなければ、その社会から抜け出す自由も認めるべきだということが必要である。ノージックの最小国家論が展開された『アナーキー・国家・ユートピア』という本はそういう風に読まれたのである(ノージック)。つまり国家が過剰な理念を国民に押し付けるべきではないということである。
    20世紀後半に、全体主義批判の理論がおおよそ出尽くして、さて現代のユートピア批判は、また少し様相が異なってくる。つまり今は、ユートピア社会には嫉妬が充満し、ユ―トピアを構想する人が、そのことを認識し得ていないという批判が出てくる。そういうユートピア社会の嫉妬についても、ノージックは十分認識している。
   つまり同書の第8章では、嫉妬が考察される。ノージックはここで多様性を重視する。価値観が様々であれば、ある人は金持ちであることに価値を置き、ある人は人生を武道の修行に捧げ、人によっては食べ歩きが最高の楽しみであると考えるならば、そこで嫉妬は、多少は和らぐ。価値観の多様性は、ユートピアが逆ユートピアになることを防ぐだけでなく、嫉妬をも減じることに寄与するのである。
   ノージックは、価値観が単一な全体主義社会を批判する際の理論的枠組を与えてくれたのである。そしてその理論は、今また嫉妬が爆発的に蔓延することに対して、多少はそれを抑制するものとなる。
   ここでさらに嫉妬が蔓延するのを防ぐ、解決案を示唆したいが、山本圭の指摘は、多元的な価値観を持つことの他、寛容な社会であるべきこと、メリトクラシーという、つまり能力の高さという一元的な価値観で人を判断することへの批判、労働の尊厳を取り戻すこと、そもそも人と比較をしないということなどを挙げている。どれもその通りだが、決定的なものではない。私の結論は、それらを組み合わせるということになるのだが、さらに嫉妬を個人の問題だと限定するのではなく、社会の問題だと考えるべきだということにも注意したい。つまり誰にも嫉妬は多かれ少なかれあり、それが大きくなると、社会全体に問題を引き起こすということなのである。それをどうすべきかということについては、このあとに展開することにして、ここでは差し当たって、人は永遠に嫉妬に突き動かされる存在であるという結論を、この山本の本から引き出したい。
   さて再びジジェクに戻って、結局、理想社会は目指さない方が良いという結論に至る。資本主義がこのまま進めば社会は破壊される。それだけは防がねばならない。具体的には、大き過ぎる格差がひとつの問題で、それは社会を崩壊させるからという理由で、是正しなければならない。しかしそこで過度の平等を理念として追い求めてはならないのである。また環境問題もひとつの問題で、環境破壊をこれ以上進めさせてはならない。しかし自然と完璧に調和した生活をするという理想を追い求めるのではない。私たちが生存できないくらいに自然を壊してはいけない。それは防がねばならない。それがジジェクの主張であり、それに私は同意する。
   それに対して、社会を構想する際に、エゴイズムを一旦切るというのがロールズの主張である。利己心からは社会秩序はできないという考え方が、この根本にある。実は私は、利己心をうまく飼いならせば、そこから社会秩序を見出すことができると思っているので、ロールズの考え方すらをも、功利主義に近付けて解釈することが可能だと思う。しかしそう言うと、ロールズ主義者は反発するだろう。ロールズの考え方の大前提が、この利己心からの脱却にある。だから利己心から秩序を作ろうという発想そのものを批判する。
   重田園江は、ここのところで、「狭隘な利己心をどこかで終わらせることでしか秩序は生まれない」と、その『社会契約論』という本の中で断言する(重田 p.235)。私は、ロールズ理論の説明として最も分かりやすいものが、この重田の本だと思っている。これを読解すれば、ロールズの真意が明確に理解できるはずだ。
   まずロールズの発想は、ホッブズとルソーの社会契約論を受け継ぐことで成り立っている。先の、利己心を絶つというのは、ホッブズやルソーに共通するものだとされている。
   そこからロールズは原初状態という考え方を提出する。この発想は確かに画期的である。そこでは人は自分が金持ちか、貧乏人か、白人か、黒人かという属性を一旦捨象して、自分がどういう人間であるかは分からないという前提で、望ましい社会を構想するのである。そのダイナミズムは十分魅力的だし、ロールズの言うところを順に読んでいけば、あるいは重田の説明を読めば、これは説得される。
   しかし一方で、世の中は現に嫉妬が渦巻いている。これをどう考えるか。それは単に今の社会が悪いからなのか。資本主義社会が人々をそうさせるのか。
   するとどうも私には、ロールズの考え方が魅力的に見えても、それで社会を説明できず、嫉妬の方が根源であると思わざるを得ない。あとはその嫉妬をどう減じるかということを具体的に考えることが必要なのではないか。
   とりわけ現在のように、経済が停滞すると、嫉妬は蔓延する。つまり経済は停滞しても、一部の人は金儲けをしている。エリートは何だか難しいことを言って、利益を独占している。また自分よりも下だと思っていた人たちが、不当に利益を享受していると思う。アメリカであれば、なぜ黒人や移民がなぜ優遇されるのかと不満に思う白人は大勢いるだろう。
   ここに嫉妬が絡む。と言うより、繰り返すが、嫉妬が根源である。
   だから嫉妬はなくならないということを、社会を構想するときに押さえておく必要がある。そしてこれは個人のレベルではなくならないが、しかし社会的に爆発するような状況は防がねばならない。そうジジェクは考えるし、それに私も同意する。
   さてしかし、ジジェクのロールズへの皮肉を読んでしまうと、如何にもロールズが嫉妬を考慮しない理想主義者のように思えてしまうけれども、ロールズ自身は十分そのことに自覚的である。『正義論』第三部第九章ではきちんと嫉妬について考察している(ロールズ)。あの分厚いロールズの本を全部読みこなさなくても、その目次を見るだけでも良い。そこには、「嫉みの問題」と「嫉みと平等」という節が設けられている。その上でなおロールズは、正義に適った社会では嫉妬は存在したとしても、それは大きな問題にならないとしているのである。
   誰もが嫉妬の持つ問題の重要性には気付いている。その上でなお、社会制度が良くなれば、嫉妬はそれほど深刻な問題ではなくなると考えるか、いや、そういう制度の下にいる方が却って嫉妬が大きな問題になると考えるのか。
   当然のことながら、ジジェク以外にも、ロールズに批判の矛先を向ける人はたくさんいる。そのことは先の山本の本に出てくる。具体的な話は山本の本に譲る。
   再度繰り返すが、嫉妬について十分な考察をした上で、それが社会を変革することで、軽減し得ると考えるのか、むしろ望ましい社会では嫉妬は爆発すると考えるのか。前者を批判するジジェクや私は、逆に資本主義社会に毒されているのか。
 
   嫉妬論と並んで、もうひとつここで批判されるのは、このようなロールズ型の福祉を実現するためには、熟議が必要だという考え方である。人々は表面的に見れば、エゴイズムと嫉妬に突き動かされているように思える。しかしじっくりと議論をすれば、それは克服されるはずだという考え方である(注3)。
   ここに熟議民主主義が出てくる。アメリカで20世紀の半ばに、民主主義論が確立する。それは言論の自由があり、人びとが公正な選挙に参加できるというシステムが理論的にも現実的にも確立される(ダール、森)。それがリベラルデモクラシーである。
   しかしそこでは少数者の意見は汲み取られない。つまりリベラルデモクラシーは本当のデモクラシーではない。言論の自由があり、公平な選挙があればそれで良いとリベラルデモクラシー論者は考えるのだが、しかし選挙や政党よりも、市民参加や対話が必要だ。熟議が重要なのである。そうでないと正義は実現できない。さらには権力概念を脱構築すべきだ。支配者のためのデモクラシーではなく、弱者を救出するデモクラシーが必要だ。そういう主張が左派の間にあった。
   しかしこういう「本当のデモクラシー」を求めること自体に潜む危険性に目を向けなければならないのではないか。歴史的には20世紀のファッシズムもコミュニズムもリベラルデモクラシーを超えていこうという話だったのである。それを考えると、トランプの出現した現在は良く状況が似ている。つまりリベラルデモクラシーが盤石なら良いのだが、そうでないときに本当のデモクラシーを語ると、このリベラルデモクラシーの行方が危ぶまれる。本当のデモクラシーを求めるという発想は極めて怖い。そういう発想が却って人々の嫉妬を招いているのではないか。
   私は福祉の必要性を、正義に訴え、熟議によって説得するのではなく、功利主義的に、つまり福祉があった方が、あなたも得しますよと持っていきたいと思っている。そうでないと他人の不幸を望む人々に福祉の必要性は伝わらない。
   人は嫉妬だけで動く訳ではない。エゴイズムだけで動くのでもない。共感もする。正義の感覚もある。ただ、人は100%正義の感覚を行動原理とするのではないのである。だからと言って、人は100%嫉妬で動くのでもない。
   私がここで功利主義を擁護するのは、功利主義ですべてが解決すると思っているからではない。功利主義を超える正義はあっても良いが、それを万人に求めることの怖さを考えるからである。もちろん功利主義を悪用して、多数決で少数者を抑圧することはあり得る。しかしその時に正義をかざすのではなく、少数者を守ることは多数者にとっても利益になるのだと言いたいのである。つまりあくまで功利主義的に人々を説得したい。
   また正義を強制するのではなく、熟議が必要だということについても、熟議を強制することにならないか。これも時代背景がある。つまりかつて、ユートピアが全体主義になってしまうということが言われたときは、それを防ぐのは議論であるとされた。それはそれで正しい。しかし今や、その議論が嫌われている。議論をするのはエリートだけだからだ。議論をするエリートに対する嫉妬がポピュリズムを生む。そこで熟議が必要だと言われると、それはエリートからの強制だと思われてしまう。
   そこでどうすべきか。
   私は『所有しないということ』という本を書いたので、私の本を読まないで題名だけで判断する人から、お前も解脱したのか、悟ったかと言われるけれども、話はまったく逆である。まず私はエゴイズムを肯定する。金儲けをしたい人はすれば良い。但し税はきちんと払ってもらう。それだけで良い。一方、情報化社会になると、所有欲は少しずつ弱くなる。しかしなくなる訳ではないので、そこに葛藤はある。むしろモノを所有することで満たされなくなるから、人によっては嫉妬心が大きくなる。自分がテレビや車やスマホを持っているだけでは満足できない。自分よりも恵まれている人々を嫉妬し、自分よりも恵まれない人々の生活が少しでも良くなれば、それもまた嫉妬の対象になる。そこに以前と比べて生活の質が落ちているという実感が加われば、妬みや恨みはピークに達する。テレビや車やスマホを持っているにもかかわらず、嫉妬心に狂う。
   そこで先に少しだけ触れたのだが、経済が重要だということは言いたい。雇用が確保されるのは、嫉妬を減らすひとつの有効な策にならないだろうか。人は働くことで他人から認められる。自分の尊厳も感じられる。また将来の不安も減る。
   だからリベラル左派は、平等だの熟議だのと言っていないで、本来の左派の仕事である雇用問題に専念しろということである。ジジェクはそう考えている。
   資本主義社会では必然的に雇用がなくなり、かつ一部の人に富が集中する。これは経済的必然である。そこをどうするかということが重要だ。つまり労働が必要とされなくなる時代に、どう雇用を確保するかということが問われている。
 
   もう一点、書いておきたいことがある。ここからジジェクの宗教論に進む。ジジェクについて、嫉妬論、熟議批判と並んで、この宗教の問題が今回のテーマとなる。
   ジジェクは言う。宗教は幻想だが、それは必要なものである。それは超越論的錯覚であるとも言うべきものである。私たちは虚構と幻想の中を生きているので、宗教をどうしても創り出してしまうのである。それなしには生きていかれない(Žižek 2020 p.66)。
   私たちは、宗教はアヘンであるというマルクス主義の呪縛から解き放たれないのであるが、ここはひとつ何とか宗教を信じる人と信じない人との間で、また現実的には世界の多くの人々がそれぞれの宗教を信じているので、それら異なる宗教間で、何とか妥協を図らねばならないのである。宗教が事実必要とされているということに、まず思いを寄せねばならないし、また理論的にも宗教は必要だとジジェクは言っている。
   もちろん宗教が必ずしも嫉妬を抑えるという訳ではない。むしろ逆に宗教は人を集団的な狂気へと駆り立てて、戦争を引き起こすかもしれない。しかしそれにもかかわらず、宗教は必要なのである。そして事実、必要とされているから、この世から宗教はなくならない。
   ここで批判すべきは、宗教は社会の矛盾が生み出したものだから、社会が良くなれば、なくなるはずだという考え方なのである。
   そうではなく、宗教は今後もなくなることはなく、宗教を信じる人と信じない人との間で、また異なる宗教を信じる人との間で、対話が可能な程度に、他を排除する過激な宗教を押さえていくことが必要である。
 
   さて、以上の話に別の話を接続させる。
    F. フクヤマもまたリベラル左派を批判する。リベラリズムは、もともとは個人は自由であり、そのことは保証されるべきであり、言論の自由は守られ、宗教的な寛容もあるべきだという考え方である。これを古典的リベラリズムと言う。それが20世紀に、誰もが自由であるべきだということから、福祉の必要性が叫ばれ、ロールズに代表される考え方が出てくる。これがリベラル左派で、現代ではリベラルと言えば、この左派を指すことになる。このあたりのことも、私は先のサイトに書いている。
   フクヤマはここで、古典的リベラリズムの立場でリベラル左派を批判する。と言うより、リベラル左派によって、リベラリズムが衰退してしまったと嘆く。
   ここで取り挙げるのは、フクヤマの『リベラリズムへの不満』である。
    30年前に、ソ連が崩壊し、冷戦が終わり、アメリカのリベラルデモクラシーがひとり勝ちし、そのために歴史が終焉したと説いた人が、さて30年経って何を言うのかと思う。
   つまりひとり勝ちしたはずの、そのアメリカで今、リベラリズムが劣化しており、そのリベラリズムは右派からも左派からも攻撃されていると言う。それは私も感じる。その通りだろう。しかし30年前のもうひとつの主張、つまりアメリカのひとり勝ちについてはどうなのか。つまりアメリカはひとり勝ちだった時期は20世紀末のほんの短い時期に限られ、すぐにイスラム圏が反発し、中国が経済成長して、発言力を高め、また今、ロシアがアメリカに反発している。つまり対外的にもアメリカは弱くなり、また国内でもその威信が減じている。それはどうしてか。
   著者は自ら古典的なリベラリズムを主張する。それは法によって政府の権力を制限し、政府の管轄下にある個人の権利を守る。それは法の支配を重視する。そういう考え方である。
   当然、20世紀にアメリカで広まった、福祉重視のロールズ型リベラリズムは批判されるが、新自由主義とリバタリアニズムも批判される。と言うより話は逆で、著者のリベラリズムがこれら左右両方から攻撃されているのである。
   ロールズ型福祉重視リベラリズムは、理念において、自由で理性的な個人ではなく、人格も道徳的深みもない人間を描いている。それは福祉国家の正当化を最重視するために、集団化の中に組み込まれた個人の概念を打ち出すことになり、そのために、リベラリズムの持つ普遍性や個人の尊厳の重要性や寛容の必要性を切り崩す。そうフクヤマは考える。
   一方、新自由主義は経済的自由を第一義的に考え、過度な不平等や金融不安によってリベラル民主主義を脅かす。またリバタリアニズムは、市場の配分効率の優位性を強調するあまり、国家を信用せず、それを敵視する。しかし法の支配や寛容の原則は国家によって保障されるのである。このようにフクヤマは右派リベラルを批判する。
   現代のリベラル民主主義の危機は、民主主義よりもリベラリズムの方が、左右両方から批判されて、より危機に瀕しているために生じているものである。
   その原因は寛容の喪失である。まず左派(現代思想と言っても良い)は人種やジェンダーの多様性を重視するが、宗教と政治的見解に対しては、多様性を十分成熟させていない。しかし古典的リベラリズムは宗教戦争の中から出てきており、宗教的寛容こそが、その思想の中核にある。この寛容の原則の上で、多様性を認め、政府に干渉されない個人の尊厳が認められ、この自由が民主主義と結び付く。さらにそれが市場経済ならびに財産権と結び付き、資本主義を発達させてきたのである。こういった点を左派は認めない。
   また一方で、このアメリカのリベラルデモクラシーを、アメリカ国内の極右が攻撃する。アメリカはリベラルな価値観を世界に広める危険な国であり、米国が存亡の危機にあるのは、国内にリベラル派がいるからだと言うのである。アメリカを支えてきた、アメリカのリベラルデモクラシーに対しては、今まで国民の間に幅広い合意があったのに、今やそれは左派の考え方だと断定され、そのためアメリカは分断される。
   トランプがこういう思潮を広げたのか、すでにこういう思潮が広がっていて、その中でトランプが支持を得たのか。恐らくはその両方であろう。
   さて、私のフクヤマに対する批判は何か。まず彼の分析は鋭く適切である。しかし今後アメリカはどうなるのか。そこではますますリベラリズムは衰退するだろう。中国はますます権威主義的になって、世界の中で今のアメリカが持っている地位に就くだろう。一方で衰退するアメリカでは、プーチンを崇拝する人物が大統領選で再選されるだろう。それはしかし短期的な話に過ぎないか。長期的にリベラリズムは勝つのか。
   こうなった原因は格差が大きすぎるからだと私は思っている。これに尽きるのではないか。そしてこれは今後ますます広がるから、今後も解決されることなく、悪化するだろう。
   つまりこうなった原因の分析がフクヤマにはない。私の言い方では、ひとつは情報化社会の進展のために雇用が減り、また、低所得白人と中南米からの低所得移民が衝突しているということを理由として挙げることができる。またアメリカの国力低下がある。つまりリベラリズムがなくなったから、アメリカの経済が低下したのではなく、因果関係は逆である。
   かつてフクヤマは『歴史の終わり』という本を書いた。そこにおける通俗的ヘーゲル理解に私は辟易したが、つまり主と奴の論理に象徴される、対立する双方が交互に勝者となるという弁証法が歴史を支配していて、今までは米ソ対立で世界が進んで来たが、対立する一方が消えたので、歴史は終焉したという話である。ヘーゲル云々と言わなければ、それはそれで説得力のある話ではあった。
    1989年にベルリンの壁が崩壊し、91年にソ連が崩壊し、そしてこの本が92年に書かれると、直ちに翻訳され、フクヤマの主張する、アメリカ中心の幸福な時代に入ったのである。しかし90年代の後半には、世界が多極化し、中国とイスラムが組み、そこに日本が加わって、欧米諸国と戦争を始めるというハンチントンの論が現れ、そして実際に、2001年のテロが起き、アメリカは戦争を始める。
   ブッシュの8年はアメリカの戦争の時代である。その反動がオバマを呼び、さらにその反動がトランプを呼び、4年ののちに、もうトランプは止めようということでバイデンが選ばれ、しかし今、再びトランプが出てくるかというところである。
   アメリカの力が弱まると、つまりリベラリズムの衰退はアメリカ経済の衰退とともに生じているのだが、中国、イスラムが出てくる。20世紀の枠組みの最後の悪あがきとしてロシアも自己主張する。
   こういう30年間があって、フクヤマは30年前の自説を覆したというのではなく、この30年間に起きたことを正確に分析しているのである。
   すでにこの『歴史の終わり』には、次のような指摘があった。すなわち、リベラリズムが共産主義という相手と戦っているときは、アメリカはまとまっていたが、それがその敵がいなくなると、国内での対立が生じ、そのためにアメリカの力が衰え、世界に対する影響も減じる、という指摘が。また2018年に書かれた『IDENTITY』という本は、移民問題とトランプ出現をアイデンティティ論で説明する。世界中がアイデンティティを求めているとし、承認、尊厳、ナショナリズム、宗教といった単語がそこではキーワードになる。
   このアイデンティティ問題は現在のポピュリズムの根源にあるが、しかしうまくこのアイデンティティを活用して、ポピュリズム政治を改善したいというのが、この本でのフクヤマの問題意識である。
   すると繰り返すが、フクヤマのリベラリズム論の主張の背景には、この30年間の政治に対する正確な認識がある。現代の問題に対する解決策が展開されているようには思えないが、分析は正しいと思うのである。
   また私がこの古典的リベラリズムをある程度評価するのは、以下の理由からである。
   先に書いたように、リベラルデモクラシーは本当のデモクラシーではないと考えて、デモクラシーにそれ以上のことを望むのは危険である。本当のデモクラシーを求めるという発想は極めて怖い。そういう発想が却って人々の嫉妬を招いているのではないか。
   私の言い方では、せめてリベラルデモクラシーくらいは守らねばならない。それ以上のことを求めると、却って、その基礎に過ぎない部分すら維持できなくなるからである。
   最低限のこと、つまり言論の自由と公正な選挙という、「本当のデモクラシー」を求める人々が馬鹿にしてきたことだけはせめて守っていく。そういう戦略が必要ではないか。
   また、リベラルデモクラシーの強みは宗教に対する寛容である。つまり古典的リベラリズムは宗教戦争を経て成立している。前回のライシテの回に書いたように、現代まさに求められているのはこれである。
   フクヤマの本は思想的にまったくつまらないものだけれども、しかしこのリベラリズムは、私たちが最低限守るべきものとしてある。
   古典的リベラリズムは、熟議が大事だとか、平等が重要だというような話はしない。古典的リベラリズムはJ. ロックから始まるが、そのロックは、十分にものがあり、周りに迷惑を掛けない限りで、所有物を自分のものにして良いと言っている(ロック)。それだけの話だ。それもまたは思想的にははなはだ面白くないのだが、しかしとりあえずその程度のことが守られれば良い。周りに気を使い、適度に財産を持つ。適度なら、持っても良いのである。
   そのロックの所有論から、さらにはヘーゲルを援用することで、私の所有論は始まる。その帰結は以下の通りである。
   まず所有は肯定されるべきである。しかし情報化社会の中で、所有欲は減じている。一部の人は猛烈な所有欲に駆られているが、多くの人は所有することで満足できなくなる。所有していることで承認されなくなっているからである。それが屈折する。価値観の多様化は前提だが、適度に承認されることが必要である。
   情報化社会は、所有によって満足することができなくなる社会であると私は考えているが、それは所有欲がなくなる社会でも、嫉妬が深刻でなくなる社会でもない。むしろ逆である。そこでは欲望がモノで満たされないから、他者との関わりの中で露骨に他者から影響を受け、他者に跳ね返っていくのである。
   そこで雇用を確保しようということになる。それは経済的に保証を得るためだけでなく、働くことで、人から認められるということがあるからである。しかし現在進んでいるのは、本来まったく必要がないのに、人をおだてたり、騙したりして金を稼ぐ仕事である。グレーバーはこういう仕事を「ブルシット・ジョブ」と呼ぶ。それはまさしく人の嫉妬心に付け込むことで成り立つ仕事である。無駄な会議や形式を整えるだけのために膨大な労力を要する資料作成などをそのカテゴリーに入れても良い(グレーバー)。
   こういう批判を考慮して、脱資本主義社会における労働の意味を問いたいと思う。ジジェクは単に資本主義批判をするだけなので、そこは私が補うしかない。つまりジジェクは未来を構想しない。
   またフクヤマはそこのところで結局は古典的リベラリズムへの郷愁を語ることに終始している。その先が重要なのに。
 
   ここで話をまとめたい。
   ジジェクは、古典的リベラリズムは嫌いであろう。リベラル左派も嫌いで、とにかく左派は左派として経済対策に徹しろということだ。リベラル左派が軟弱だから、保守が台頭するのだと思っているのかもしれない。
   フクヤマは、古典的リベラリズムの立場から、リベラル左派とリバータリアンやネオリベラリズムや保守を批判する。
   私が今回、リベラリズムの衰退と言うとき、それはフクヤマを念頭に置いて、古典的リベラリズムの衰退を指している。しかし同時に、リベラル左派の衰退も意味している。左派はリベラルになってしまったから衰退したので、ここは左派の原理を取り戻して、復活してほしいというジジェクに賛成している。
   私はリベラリズムは要らないとは思っていない。ジジェクの本心は分からないが、私はリベラリズムは、その現代的なものも古典的なものも、必要であると考えている。しかしそれはそれだけで独立した思想とはならない。つまりリベラリズムそのものが左派となって、リベラル左派になることを考えているのではない。そうではなく、左派がリベラリズムの必要性を認識して、左派にリベラリズムをくっ付けることを考えている。
   またフクヤマの立場なら、リベラリズムは保守の一部の共和派を支える理論となるべきだろう。ここで共和主義とは、王制を廃止せよという意味ではなく、公共性を求めるべく、積極的に政治参加せよという考え方を指している。また日本ならば、リベラル保守ということになる。このことも上述のサイトに書いている。
 

1 以上のことはすでにこのサイトに書いている。「リベラリズムが嫌われる」( 2019/01/25)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6115
 
2  「政治学講義第三回」を2023年12月に書き、その後、今月下旬に出る『身体の変容』(社会評論社)の校正や、ジジェク研究に追われていた。
 
3 ジジェクはロールズとともにハーバーマスも熟議派であると批判する。その際に、分かりやすく言うと、次のような人間観がある。つまり人間とは何かということについて、ハーバーマスは「肯定的な規範的な判断基準を定式化することで、行き詰まりを打破しようとする」が、ラカンはこの行き詰まりという人間性を再概念化し、「人間であることは、有限性、受動性、脆弱な無防備状態の特殊な態度である」と考える(ジジェク2010 p.204)。
 
参考文献(アルファベット順)
ダール, R., 『ポリアーキー』高畠通敏、前田脩訳、岩波書店、2014
フクヤマ, F., 『歴史の終わり』(上)(中)(下) 渡部昇一訳、三笠書房、1992
—-     『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』山田文訳、朝日新聞出版、2019
—-     『リベラリズムへの不満』会田弘継約、新潮社、2023
グレーバー, D., 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳、岩波書店、2020
ハンチントン, S., 『文明の衝突』鈴木主税訳、集英社、1998
カント, I., 『カント全集11 人倫の形而上学』楢井正義、池尾恭一訳、岩波書店、2002
ロック, J., 『統治二論』加藤節訳、岩波書店、2010
森政稔『変貌する民主主義』筑摩書房、2008
ノージック, R., 『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳、木鐸社、1985
重田園江『社会契約論 ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』筑摩書房、2013
ロールズ, J., 『正義論 改訂版』川本隆史、福間聡、神島裕子訳、紀伊国屋書店、2010
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—-   『知的所有論』御茶の水書房、2013
—-   『他者の所有』御茶の水書房、2014
—-   『所有しないということ』御茶の水書房、2017
山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』光文社新書、2024
コプチョク, J., 『<女>なんていないと想像してごらん 倫理と昇華』村山敏勝、鈴木英明、中山徹訳、河出書房新社、2004
ジジェク, S., 『ラカンはこう読め』鈴木昌訳、2008
—-     「想像力の種子」『アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制』田尻芳樹、小澤央訳、書肆心水、2018
—-     『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社、2010
Žižek, S., Hegel in a Wired Brain, Bloomsbury Academic, 2020
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x11386,2024.05.15)