老いの解釈学 第7回 小説の中の認知症(1) 2025/01/16 by Ω No comments 高橋一行 永井みみ『ミシンと金魚』を読む(注1)。これは認知症の老婆が一人称で語る物語である。壮絶な人生を送った女性が、自分の人生を振り返り、やがて死が近付いてきたことを悟って、穏 Continue reading →
老いの解釈学 第6回 フーコーとドゥルーズ 2025/01/03 by Ω No comments 高橋一行 M. フーコーとG. ドゥルーズにJ. デリダを加えて、この3人は20世紀の後半を代表する思想家である。彼らはいずれもフランスの思想家として出発して、英語圏に受容され Continue reading →
老いの解釈学 第5回 プラトンとアリストテレス 2024/12/28 by Ω No comments 高橋一行 プラトンとアリストテレス間に、老いを巡って意見の対立がある。そのことを岡本裕一朗が紹介している。今回はその話から始める。 岡本は、プラトンが国 Continue reading →
老いの解釈学 第4回 映画の中の認知症 2024/12/23 by Ω No comments 高橋一行 短い間奏を挟む。 先だって、「大いなる不在」という映画を見る機会があった。近浦啓監督のもと、森山未來と藤竜也が親子役で共演している。2024年 Continue reading →
北総湿原ドライブ記 2024/12/22 by Ω No comments 西兼司 11月28日のドライブ紀行文を書けとWさんからの要請ですから、久しく文章を書いていない身ながら、一筆啓上致します。まず、前提に石塚さんの立派な紀行文がありますので、それを補足するところから書き始めていこうと思いま Continue reading →
老いの解釈学 第3回 マラブーの破壊的可塑性について 2024/12/18 by Ω No comments 高橋一行 老いと病は異なるカテゴリーのものとして分けて考えたいと前回書いた。しかしC. マラブーは、基本的に両者は同じものではないかと言う。老いはゆっくりと来るもので、病は急激に来 Continue reading →
公共空間ドライブの印象―我孫子から香取まで(2024年11月28日) 2024/12/16 by Ω No comments 石塚正英 昨日(2024年11月28日)私は、公共空間XスタッフSさんの運転で、JR我孫子駅から香取神宮まで、ミニ旅行に出かけました。Sさん、Nさん、Wさん、そして私の4名で一 Continue reading →
老いの解釈学 第2回 ヘーゲルにおける病と老い 2024/12/10 by Ω No comments 高橋一行 老いと病を分けて考えたい。両者はもちろん重なる。老いとは、いくつもの病が発症して、それらが治癒されることなく、日々進行し、やがて死に至るものだと考えれば、老いとは病そのも Continue reading →
現代の“デモクラシー”は「一般意志」を代理しているのか?――この間の選挙結果を見て考える 2024/12/05 by Ω No comments 相馬千春 1. 九月からの諸選挙で政治状況は大きく変わったが・・・。 今年の9月以降、自民党総裁選、立憲民主党代表選、そして衆議院選がありましたが、この三つの選挙によって、日本の政 Continue reading →
パウロ・ルター・フォイエルバッハ―柴田隆行死去3年目によせて 2024/11/04 by Ω No comments 石塚正英 はじめに わが畏友の柴田隆行(1949-2021)は、勤務先の東洋大学で講座「社会文化思想史」を担当し、その講義概要(2000年度)に、次の文を記していた。 Continue reading →