身体論補遺(3) 間合い

高橋一行

                                    
 
   間合いという言葉を聞くと、私は武道、特に空手と居合の稽古を今でも続けているので、それらが念頭にあり、次のような場面を考える。まずは空手の場合、組手において、自分と相手との距離が間合いであり、その間合いを詰めて、こちらから仕掛けるか、向こうが攻めてくるのを受けるなり、かわすなりして、反撃するか。そういう問題だ。居合ならば、普段の稽古において、抜刀し、刀を振り下ろすときに、常に目の前に相手がいることを想定している。つまり相手との間合いを意識する。またときに竹刀や木刀を使って、実際に打ち合いをすることもある。相手の剣を避けてこちらの刀を振り下ろすか、受け流して反撃するか、相手の間合いに飛び込んで、柄当てをするかというところが、居合の組手の基本である。
   もうひとつ例を挙げれば、私は大学の仕事のひとつとして日本拳法部の部長職を拝命していて、大会では目の前で組手の試合が見られるという特権を持っているのだが、そこにおいて選手はとにかくひたすら間合いを詰めていくのである。一瞬でも早く相手の懐に飛び込んで、突きか蹴りを繰り出すか、相手の手足を取ったり、肩をつかんで、投げ飛ばす。また相手の動きを良く見て、相手が体勢を崩したときに足を掛けて倒し、倒れたところで顔面に突きを入れる。フルコンタクトの防具を付けて、空手と柔道とその両方の技が使える激しいやりとりをする武道である。スピードと力をもって、とにかく間合いを詰めていく。空手ならば、身体をくっ付け過ぎたときは、一旦離れるように審判に注意をされるが、拳法では、身体が互いに近付いたとき、膝蹴りに注意をしつつ、そのまま柔道の技に移行すれば良く、間を取っても間を近付けても、そのどちらでも攻撃ができる。
   私にとっては間合いとはそういう使い方をする言葉であるが、そこから話を広げて、人間関係一般、隔たり一般が間合いだということになる。もちろん本来話は逆で、そもそも間合いとは隔たり一般のことであって、武道における間合いはその特殊な一例なのである。
   もう少し一般化すれば、間合いとは身体がこの世界にある在り方である。そのようにまとめることができる。
   さてそういう問題意識を持っていたところで、諏訪正樹『「間合い」とは何か』を読む機会がある。本書で明らかになるのは、今書いたこと、つまりそもそも間合いとは人間関係一般に関わるものなのであるということだ。
   この本には7つの章と序章と終章がある。野球、日常会話、サッカー、フィールドワーク、建築空間(とりわけカフェ)、歯科診察、柔術がその7つの章のテーマである。カテゴリーとしては3つあり、つまり第一に、スポーツ、武道が3つの章で説明され、次に人間関係を論じるものが3章あり、最後に建物との関係が扱われる。まずはこれらをきちんと全部追うことにして、さらにあと何か足りないものはあるかどうかをこのあとに考えたい。
   序において、間合いを形成するというのは、場が内包する「エネルギーのようなものの疎密場」の中で、自己の動きを臨機応変に調整すること」(諏訪2020 p.16)とある。また身体で感じることを一人称視点で表現する認知行為を「からだメタ認知」と言う。認知とは身体に依存して生起するものである(同 p.144)。
   これとともに「二人称的関わり」があり、これが本書の主題である。何度もこの表現が出てくる。間合いとは本来的にこの二人称的関わりである。まず野球において、投手と打者の間合いが論じられる。打者は投手の投球動作を見て打撃の動作をする。その間合いの駆け引きを、その裏にあるエネルギーの連動と共感的関わりという観点で説明している。
   サッカーはこの点が複雑で、ボールに対して複数の選手が関わるのだが、ここで敵味方それぞれ複数対複数の駆け引きがある。またひとりの選手の中にも、身体の様々な部位が関わる。こういったシステム論的に動的な関係性から成り立っているのである。
   これが柔術になると、ここでは絞め技や関節技が主体であって、自分と相手とは最初から身体を接している。そのために触覚を中心とした駆け引きがあり、相手をこちら側に引き寄せて、間合いを制する。つまり相手を封じ込める。このように自分に有利な間合いをどう形成するかが論じられる。
   人間関係においては、日常会話の協調的な間合い形成がまず論じられる。ごく普通の会話であっても、実は水面下で間合いの調整のプロセスが働いていて、そこでは話し手と聞き手が協働して場を作っているのである。
   またフィールドワークにおいては、対象となる人たちとの、時間を掛けた人間関係構築が必要で、そのコミュニティの内側にいるのではないが、完全に外部でもなく、仲間であると認められ、心を開いてもらう、二人称的関係が主題である。
   さらに歯科と患者の関係においては、患者が会話をしていたら、診療はできない訳で、会話をするのか診療を受けるのかというジレンマが発生し、患者と医者双方で臨機応変な調整が求められる。その微妙な関係が分析される。ここでも水面下での、さりげない調整がなされることが、他者との付き合いを心地良く保つために必要とされている。
   また本書で取り挙げている二人称的関わりとは、経験的には容易に具体例を挙げることができる。子どもがお菓子が欲しいと駄々をこねるとき、本当に欲しいのは母親の愛情で、つまり母親の関心を引きたいのだということは、すぐに了解できるはずである。諏訪もまた、観察対象を客観的に見ることを超えて、対象の奥に潜む訴えや体感を聞き入ることが必要だと言っている(同 p.23f.)。そもそもこの本のサブタイトルが「二人称的身体論」で、二人称的共感が主題の本である。
   また一人称的視点の研究として、著者は喫茶店巡りを続ける。そして自分の意識を置くモノの位置に私自身が経ち、そこから世界を眺める。これを二人称的な関わりと呼んでいる(同 p.158f.)。つまりここで一人称研究が、実は二人称研究に繋がっていたということが分かる。
   著者は対象となるモノの位置に私が立ち、そこから世界を眺めるという言い方をする(同 p.158)。これが二人称的な関わりだと言うのである。私はモノを他者だと思うのである。ただし他者であるモノは私を承認する訳ではないので、相互承認が成り立っている訳ではない(同 p.164)。
   本書で取り挙げられている野球、サッカー、柔術の間合いと、私が馴染んでいる空手と居合、さらには日本拳法をそこに入れて、これらの間合いとは異なる。同じ武道と言っても、身体をくっ付ける柔術と、少し距離を取っている後者の武道とでは事情が異なる。しかし一般に間合いというと、後者が多く論じられてきたので、少し趣向を変えて、本書では野球、サッカー、柔術が論じられていて、これでおおよそスポーツと武道については了解が可能なのではないか。
   また人間関係と建築空間の他の具体例はいくらでも出てくるだろうが、カテゴリーとして、何かここにないものはあるか。自然の中で、例えば大木との間合いも論じられるか。樹と対話をすることは当然ある。大木に圧倒されるという経験もある。
   また波乗りの間合いはあるか。今夏、私は孫と九十九里浜で遊び、そのときの経験で言えば、孫は波の動きを真剣に観察し、それに対処する。人に教わることなく、大きな波が来れば、うまくその波に乗って、浮き具とともに波打ち際まで流されていく。何度もそれを繰り返す。その感覚は凄いと思う。
   球技を論じたところで、間合いは、他者とボールと三者の感覚であった。つまり間合いは常に他者との関係であるだけでなく、物や自然が相手の間合いもある。ボールと敵味方両方の他者と、複雑な間合いが必要だ。
   また先にも書いたが、著者は「エネルギーのようなものの疎密場」という表現を使う(p.14f.)。圧迫感や勢いである。これはこのあとで説明するが、気でもある。また身体が他者と私を繋ぎ、精神と物質を繋ぐと、これは何回も私が言い、かつ次の本のテーマになるべきものなのだが、これを象徴的に集約しているものでもある。間合いの対象は、他者だけでなく、物質でも良いのである。
 
   諏訪は2018年にも本を出している。『身体が生み出すクリエイティブ』という本である。
   本の題名の通り、身体が生み出すクリエイティブが主題である。クリエイティブな知の代表としてお笑いが取り挙げられる。これこそ間合いを考える最適な例である。まずクリエイティブであること、柔軟で臨機応変であることの基礎となっているのは物理的な身体の存在であるという仮説が展開される。それを著者は身体知と名付ける。それは身体が中心的な役割を担っている知のことである(諏訪2018 p.18)。本書では、体感、身体の発露、身体の調整という言葉が何度も使われる。その身体の運動を基盤に、ツッコミとボケから成るお笑いが論じられる。そこでは相手の発言を受けて、それをずらしたり、対極的な関係に持ち込んだり、比喩で以って跳躍したりということがある。またいきなり最初からお決まりのパターンから外れる発言がなされたりする。
   ここでは間合いという言葉は使われていないが、主題はやはり間合いである。先のカテゴリーで言えば、それは人間関係の中に分類され、その特殊なものだと位置付けることができる。問題は次のことにある。
   ボケとツッコミは空間的にもすでに非対称である。それが時間的なずれを生む。あるいは時間的にずらすことで、効果を発する。つまりここで空間的な間合いは時間的なものになる。これはお笑いという特殊なやり取りだけでなく、日常的にどこでも見られることである。
   例えば、食事を誘われたときに、それに承諾するとして、その答え方には次の3つが考えられるだろう。つまり①待ってましたとばかり、すぐに応じる。②適当の間合いで以って承諾する。③しばらく間を空けてから応じる。以上である。
   これらの微妙な間の開け方は、相互の人間関係がどんなものなのかに依拠し、また今後の関係を決めていくことになる。本当はすぐに承諾したいのに、こちら側が優位に立ちたいと思い、少し返事を遅らせて相手をじらすとか、逆に気が乗らないが、そのことを悟られないよう、即座に返答するといった戦略が取られたりするだろう。
   空間と時間の中で私たちは生きていく。日々私たちは巧みにバランスを取っている。意識的かつ無意識裡にそうしている。その戦略が先鋭化したものがお笑いなのだと言うことができる。
   諏訪はこの本の第7章で、ロボットとお笑い芸人とのやり取りを取り挙げている。お笑いタレントと落語家が集まっているところに、Pepperくんと呼ばれるロボットが登場する。Pepperくんはしかし、あらかじめ用意された答えしかいうことができない。お笑いタレントたちは、瞬間的かつ臨機応変にぼけたり突っ込んだりということが得意な人たちで、彼らとの話は嚙み合わない。会話のキャッチボールがロボットにはできないのである。著者はここでロボットには身体知がないと言う。2014年の話である。
   お笑いにおける話の展開の仕方は、この時点でのロボットの情報処理モデルではできないのである。このことは次回にその続きを書きたいと思う。つまりまだこの時点では身体を使って、ロボットは会話のやり取りができないという話を紹介して、次号に繋げたい。
 
   以下私自身の経験を書く。先のカテゴリーでは、3つ目の、モノと私の関係を問うものである。
   まずひとり旅の快適さということを考えている。森の中にテントを張って、焚火をし、ちょろちょろと燃える炎を見ながら酒を飲み、ひとり静かに過ごすのは快適である。そこまでしなくても、鄙びた宿で、部屋の窓を開けて、暗闇を見詰め、深々と時が流れ、夜の更けるのを感じるのは快楽である。国内外の観光地で、パブや醸造所などで酒をしこたま飲んで、ひとり見知らぬ道をホテルに向かって歩くのも旅の楽しみである。国内だと、飲み屋のはしごをするかもしれない。外国だと、二件目はホテルにあるバーを利用する。缶ビールを買って、部屋でさらに飲むかもしれない。いずれにしても、この見知らぬ空間に自分がいることを楽しむ。私がこの世界の中に存在していることのありがたさをあらためて思う。何か縁があって、私はここにいる。その幸せを感じる。これも間合いである。
   国内のひとり旅では、必ず地元の居酒屋に行く。ひとりなので、大抵カウンターに座る。その後ろには地元の常連が数人、大きな声で話をしながら、大体は焼酎を飲んでいる。私は猪口を見詰めて、ぼんやりと過ごす。長居はしない。こういう体験も楽しい。この楽しさは何物にも代えられない。
   私の場合は、このように時に旅に出て、身体の立て直しを図っている。この世界の中で自らの居場所を確認する。自分の落ち着く時空を求める。
   実は先だって、東京から離れた小さな町の雑木林に武道場と書庫を兼ねた草庵を建てることができた。週に一度は訪れて、一泊か二泊する。道場の凛とした空気の中でひとり稽古をすること、自然の中にいること、ひとりで夜が更けるまで酒を飲むこと、車を持たず、歩いてどこにでも行くこと、井戸の水を使うこと、いくばくかの庭があり、狸や雉がいて、春には蝶を呼び、夏にはカブトムシが集まること。そのような空間にしたい。
 
   以前論じたことのある内田樹の武道論をここでも参照したい(注1)。彼は合気道の達人であり、その修行の過程で独特の間合い論を得ている。それは他者論であるとまとめることができる。間合い論は結局他者論である。日々の稽古において他者との関係が武道の術であると内田は考えている。
   内田はE. レヴィナスの研究者であるが、レヴィナスの弟子を自称している。レヴィナスの主張の最も根本に他者論があり、内田もまた他者論を展開していることを考えれば、このことは良く分かる。
   内田は、都立大の院生と助手時代の10年間、毎日レヴィナスを読み、自由が丘にある合気道の道場に通っていた。それから神戸女学院に就職している。こういうことができた境遇にいられたことは、30歳まで極貧に喘いでいた私には羨ましいが、それはともかく哲学者であり、武道家である内田はこの時期に形成されたのである(『武道論』 p.79、『武道的思考』 p.131)。
   さて今回は「ラカンによるレヴィナス」というサブタイトルを持つ『他者と死者』を中心に参照したい。ここで問題はラカンである。まずレヴィナスとラカンは1906年と1901年の生まれで、同時代と言って良い。ともにフランスで活躍し、ハイデガーの弟子である(注2)。
   内田の場合、その理論の根本は師の重要性である。間合いは、戦いにおいて自分と相手との距離のことだが、内田の言う合気道は、修行がすべてで、そこにおいては師との間合いが問題になる(内田2013)。
   武道において、師の重要性を繰り返し内田は説いている。自ら若い時に合気道の師に出会えたことを、「生涯あとについてゆくことのできる師に出会えたというのは私の「武運」である。これは身体能力よりもはるかに武道家としては重要なことだと思う」と言っている(内田2021 p.64)。
   師に就いては学ぶことは他者との出会いの原基的形態を経験すると言う(内田2011 p.55)。この師というのはしかし、機能的なものである。つまり師は必ずしも人格的にもまたその分野の力量においても傑出した存在ではない。師は弟子に、弟子の中には存在していない知が外部にあることを教える。人はまず誰かの弟子になり、弟子になって初めて自分の持っていない知や技能が存在することを知るのである。内田は次のラカンの言葉を引用する。「自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。・・・師は弟子が答えを出す、まさにその時に答えを与える」(同 p.60f.、ラカン1991 p.3)。
   弟子はしばしば師が教えていないことさえ学ぶ。かくして師の偉大さは、弟子によって、事後的に検証される。
   師とは何か弟子の持っていない知を知っていると想定された存在で、弟子はそれを知りたいと望む。それが弟子の欲望である。その時点で弟子は師に対して、「絶対的な遅れ」がある。「欲望する者は、欲望されたものに絶対的に遅れる」。弟子は自ら師に対して、絶対的な敗者としての位置を選んだのである。これが武術の極意だと言う(同 p.72f.)。ここで参照されているのはレヴィナスである。『全体と無限』が使われているが、そもそもこの内田の本は、ラカンを参照してレヴィナスを読解しようとしている。ここで武道の経験とレヴィナス読解が重なり合う。また子弟関係という空間的な配置が、時間的なずれになる。そういう間合いを論じている。
   つまり間合いは空間的なものだが、時間的に考えることができる。潮時とか、タイミングとか、時機という言葉がある。機が熟するのを待つとか、しかるべき時などとも言う。相手に理解してもらうときに、時間的な間合いを詰める、つまり適切な距離を取って相手の中に入り込むことが必要だ。相手が受け付けないのに、こちらが一方的にまくし立てても伝わらない。受け入れてくれる時機を待つ。つまり間合いを図る。
   私たちが間合いを見計らうという表現を使うとき、その間合いは時間的なものである。適当な時機や頃合いを測るのである。
   私はかつては学習塾を経営し、その後はずっと大学で教えているが、人に何かを教える場合、相手がそれを受け入れる準備ができているかどうか、その見極めが大事で、一方的に何かを話しても、聞き入れてももらえる訳ではないことを痛感している。頃合いというのが大事である。教えるのに適当な時機がある。
   さらに内田は主体は事後的に出来(しゅったい)すると言う。主体は他者に遅れて出来する(同 p.122f.)。ここで時間的な間合いを論じることができる。
   また武道には残心というものがある。ひとつの動作を終えたあと、力を抜かずに、しばらくの間、そのままの姿勢を保つ。戦いのあと、つまり相手を倒したあとも、しばらくはそのままでいるのである。これは単に見得を切っているのではない。
   私はこの残心によって、今なし終えた技をもう一度構成し直すのだと考えている。すでに終えた行為を事後的に振り返って、そこに意義を与えるのである。内田は、「残心によって、その前に終わった動きの質が変わる」と言っている。「時間が局所的に逆行したような感じ」とも言う(同 p.48f.)。
   ここにも時間的な幅と、前後のずれや逆転する因果関係が問われている。これも間合いである。
   間合い論は身体論であり、他者論である。この他者論が空間と時間の中で展開される。
   身体は他者と私を繋ぐ。また先に諏訪を参照して書いたように、物質もまた他者となる。そこでは相互承認はないが、私からの物質へのアプローチはできる。すると身体は私の精神と物質を繋ぐということができる(注3)。
   かつて論じたヘーゲルの身体論と間合いの関係を考える(注4)。人は身体そのものを他者だと思う。私は相手の顔を見て、握手をし、抱擁する。相手もまた私の身体を私だと思う。送られてきたメールを読む際も、その相手のことを良く知っている場合は、メールの文面から、相手の顔や声を思い出している。また知らない人であっても、どんな人なのか、その身体的特徴を想像する。
   間合いとはまさに身体としての他者との距離を測ることである。
   
   最後はデリダの差延理論で話を締めようと思う。空間的な間隙だけでなく、時機遅れということがそこでのテーマになる。私と他者との空間的な差異から、時間的な差異へと話は進展する。そこでは意味は遅れてやってくる。差延とは間合いのことであると書くと、ここはデリダ研究者に嘲笑されるだろうが、しかし私は実際そう思っている。デリダ哲学の根本に間合い論がある。
   差延の語源学から始めたい(デリダ2007 p.41-44)。フランス語のdifférerにはふたつの使い方があり、ひとつは同一でないこと、他であること、区別し得ることと訳すべきである。もうひとつは迂回、遅延、延滞、保留、代理(=表象)を孕む操作という意味があり、一言で言えば、「時間稼ぎ」ということになる。ここからさらにこの語がdifférendになると、「互いに異なる諸要素の間には、活動的に、力動的に、そしてある執拗さで続行される反復の内に、隔たり、距離、空間化(=間隔化)が生じる」と言う。つまり「争い」が意味されている。さらには現在そのものが差異を包含して、過去と未来が緊張関係に置かれ、そこから現在が「遅延」するという意味が出てくる。
   ところがdifférerence という単語は、ただ単に「差異」でしかなく、上のふたつの意味が表せない。そこでデリダは、différeranceという語を作り出し、これを日本語では「差延」と訳すのである。
   問題はこのふたつの概念、すなわち「間隔化としての差延」と「時間稼ぎとしての差延」がどのように結び付くのかということである(同 p.44)。
   諏訪が空間的な問題として論じたものを時間的にも拡張する。するとこういう話になる。また内田が他者論として論じたものを、自他関係として空間と時間の中で論じ直したい。
   私は、内田がレヴィナスとラカンを通じて言い得たことを、私はヘーゲルとデリダを通じて言ってみたかったのである(注5)。
   デリダ理論においても、空間的に対立するものは、対立したまま動的な均衡を図っていく。また遅れてきたもの(弟子)は先を行くもの(師)に永遠に追いつくことなく、師の意義を事後的に解釈していく。そう解釈すると、それは内田武道論と変わらない。
   内田は大学を早期退職して、合気道の道場を創り、そこに弟子を集めて武道に明け暮れる日々を過ごしているそうだ。私も少しばかり定年を早めて大学を辞めて、山の中に創った道場に時々出掛けて武道に励みたいと思っている。師の指導に従って、神棚を祀り、地元の神社と武道に所縁のある神社からそれぞれお札をもらってきて、そこに納めると、大分道場らしい雰囲気ができてきた。暖かくなったら、ぜひ師と仲間にここまで来てもらって、稽古ができたらうれしいと思っている。
 

1 以下を参照せよ。「身体の所有(1) 武道について」(2022/05/03 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8535 )
2 この内田のラカンは、象徴界と想像界を重視しているラカンである。しばしば私が言及する、現実界を重視する後期ラカンではない。
3 かつて気について書いたことがある。「身体の所有(2) 野口整体または気について」(2022/05/26 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8639 )。私は人が近付いて来たと気付く。まだ相手の姿が見えず、音も聞こえないのだが、まずは気が働く。かすかに何か音がして、何かが匂い、空気の流れがいつもと異なって感じられるから何かも知れない。つまり気とは五感が総合的に働いて、かすかな変化を察知することなのかもしれない。いずれにしても私は人の気を感じることができる。また気は精神と物質を繋ぐ。二元論的に精神と物質を考えて、それを気が繋ぐのではなく、気は身体そのものであり、その身体は精神でもあり、物質でもあると考えるべきであろう。
4 高橋2020を参照せよ。
5 デリダ論については、高橋2024を見てほしい。S. ジジェクはデリダの差延理論をヘーゲル論理学に結び付けて議論をしている。それがこの論文のテーマである。
 
参考文献
内田樹 『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』文藝春秋、2011(初出は2004)
—-  『修行論』光文社、2013
—-  『武道的思考』筑摩書房、2019
—- 『武道論』河出書房新社、2021
諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』ちくま新書、2018
諏訪正樹編著『「間合い」とは何か 二人称的身体論』春秋社、2020
高橋一行「ヘーゲルの身体論」『政経論叢』Vol.88, No.1.2, 2020
—-   「デリダ理論を参照してジジェクのヘーゲル論を吟味する」『政経論叢』vol.92, No.3.4, 2024(3月予定)
デリダ, J., 『哲学の余白(上)』高橋允昭、藤本一勇訳、法政大学出版局、2007
ラカン, J., 『フロイトの技法論(上)』小出浩之他訳、岩波書店、1991
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x10668,2023.12.09)