Tag Archives: 『失われた時を求めて』

私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(5)

蒲地きよ子 (4)より続く  こうして、作家プルーストと、作品中の≪私≫との間の、像の重なり工合と、ずれ工合とを一応不充分ながら見てきたと思うので、わたくしははじめの疑問に戻って、どうして作家がその話者に名を与えなかった Continue reading →

私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(4)

蒲地きよ子 (3)より続く    「ただし、≪私≫とだけは決して言わないことですね。」とジッドに忠告したプルーストは、従来の小説に用いられた一人称の、≪複眼的≫でない、一般的に使用される意味の≪私≫を言っている Continue reading →

私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(2)

蒲地きよ子 (1)より続く    わたくしの視線が一度正確に作中の一文に触れるとき、その文章は突如としてスポットライトを浴びた彫像のように、怪しく闇のなかに輝きはじめる。ゲルマント公爵夫人が『ベルマ』を観ている Continue reading →

私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(1)

蒲地きよ子    1971年7月、ちょうどマルセル・プルーストが生れて百年経った夏休みを、わたくしは二月ばかり家に閉じこもって『失われた時を求めて』の第一篇、第二篇を読んだ。日中、数頁よんでは家事をしながら考え Continue reading →