物と心のあいだに―西田幾多郎のハイゼンベルク読書 2025/08/23 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 王陽明を対象に執筆した拙著前作「真の自己は身体を離れない―王陽明『伝習録』を拾い読む」では、自然と人間(文化)の相関、〔自然⇄人間〕思想における Continue reading →
S. ジジェクを巡る思想家たち 第1回 見通し 2025/08/16 by Ω No comments 高橋一行 S. ジジェクはまず、J. ラカンの解釈者として知られている。これは確かにジジェクの第一の功績として挙げるべきものである。またそのラカン解釈の上で、ジジェクはヘーゲルを独 Continue reading →
真の自己は身体を離れない―王陽明『伝習録』を拾い読む 2025/08/06 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 中国明代の儒学者王陽明(1472-1529、陽明は号で、本名は守仁)は単なる官僚士大夫ではなく、むしろ民衆世界を哲学する人だった。浙江省出身の彼 Continue reading →
釈尊思想の原初性―人間(原初)から如来(文明)へ 2025/07/23 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 直近の拙稿「道元と日蓮のリアリズム―仏舎利・坐禅・地涌の菩薩」において、私は以下のような結語を綴っておいた。①「法華経」はイメージの世界だとして Continue reading →
道元と日蓮のリアリズム―仏舎利・坐禅・地涌の菩薩 2025/07/14 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 旧高田藩の城下町に生まれ育った私は、幼い頃、大寒の夜な夜な、うちわ太鼓を叩きお題目「南無妙法蓮華経」を唱えつつ拙宅前の雁木通りを足早に行き交う Continue reading →
死にゆく人間釈尊―フレイザー『金枝篇』と親鸞「正信偈」を参考に 2025/07/01 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 本稿は、前稿「空海〔即身成仏〕に関する〔身体知〕的考察」の姉妹編である(☆01)。この数年、私は研究活動において、人類の生活と思考の圏域を以下 Continue reading →
空海〔即身成仏〕に関する〔身体知〕的考察 2025/06/24 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 論題に記されている〔身体知(bodisophy)〕のうち「知(sophy)」の部分は、通常なら身体でなく頭脳・精神に関係する。これはギリシア語由来で、内容として Continue reading →
葬送文化の諸類型―仏陀の涅槃経と親鸞の改邪鈔を参考に 2025/06/15 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 本稿は、私がこの数年間継続して研究してきたテーマ〔賽と葬の文化誌〕について、その後半部〔葬の文化誌〕をまとめたものである。本稿に先立って、前半 Continue reading →
賽(さい)のトリプルダンス―賽子・賽銭・賽の河原 2025/06/11 by Ω No comments 石塚正英 はじめに 本稿は、私がこの数年間継続してきたテーマ〔賽と葬の文化誌〕について、その前半部〔賽の文化誌〕についてまとめたものである。本稿に続いて、近々、後半部 Continue reading →
老いの解釈学 第17回 脳は老いるのか 2025/06/08 by Ω No comments 高橋一行 脳は老いるのかという問いを立てる。この問いに対しては、脳が身体の一部であると考えるなら、脳も身体の他の部位とともに老いるということになる。わざわざ問いにするまでもない。 Continue reading →