老いの解釈学 第9回 日本ではなぜ老いの本が多いのか 2025/02/19 by Ω No comments 高橋一行 帰国している。今回から第二部に入る。 日本に戻って、あらためて驚いたのは、老いに関する本が多く出版されていることだ。本屋や街の図書館に行くと、そ Continue reading →
老いの解釈学 第8回 永井荷風は理想の老いを迎えたのか 2025/01/25 by Ω No comments 高橋一行 永井荷風を読んでいる(注1)。 弘兼憲史は、荷風の晩年の生活を理想だとしている(注2)。荷風は、市川市八幡に終の棲家を構え、ひとりの生活を楽しみ Continue reading →
老いの解釈学 第7回 小説の中の認知症(1) 2025/01/16 by Ω No comments 高橋一行 永井みみ『ミシンと金魚』を読む(注1)。これは認知症の老婆が一人称で語る物語である。壮絶な人生を送った女性が、自分の人生を振り返り、やがて死が近付いてきたことを悟って、穏 Continue reading →
老いの解釈学 第6回 フーコーとドゥルーズ 2025/01/03 by Ω No comments 高橋一行 M. フーコーとG. ドゥルーズにJ. デリダを加えて、この3人は20世紀の後半を代表する思想家である。彼らはいずれもフランスの思想家として出発して、英語圏に受容され Continue reading →
老いの解釈学 第5回 プラトンとアリストテレス 2024/12/28 by Ω No comments 高橋一行 プラトンとアリストテレス間に、老いを巡って意見の対立がある。そのことを岡本裕一朗が紹介している。今回はその話から始める。 岡本は、プラトンが国 Continue reading →
老いの解釈学 第4回 映画の中の認知症 2024/12/23 by Ω No comments 高橋一行 短い間奏を挟む。 先だって、「大いなる不在」という映画を見る機会があった。近浦啓監督のもと、森山未來と藤竜也が親子役で共演している。2024年 Continue reading →
老いの解釈学 第3回 マラブーの破壊的可塑性について 2024/12/18 by Ω No comments 高橋一行 老いと病は異なるカテゴリーのものとして分けて考えたいと前回書いた。しかしC. マラブーは、基本的に両者は同じものではないかと言う。老いはゆっくりと来るもので、病は急激に来 Continue reading →
老いの解釈学 第2回 ヘーゲルにおける病と老い 2024/12/10 by Ω No comments 高橋一行 老いと病を分けて考えたい。両者はもちろん重なる。老いとは、いくつもの病が発症して、それらが治癒されることなく、日々進行し、やがて死に至るものだと考えれば、老いとは病そのも Continue reading →
老いの解釈学 第1回 リヨンでレヴィナスを読む 2024/11/16 by Ω No comments 高橋一行 リヨンに滞在して、E.レヴィナスを読んでいる。老いという単語が度々出てくる。身体と他者というふたつのキーワードを通じてレヴィナスを読み直そうと思っていたのだが、身体は必然 Continue reading →
路面電車の語ること – 田村伊知朗『ドイツ路面電車ルネサンス 思想史と交通政策』に触れつつ – (政治学講義番外編) 2024/07/28 by Ω No comments 高橋一行 田村伊知朗『ドイツ路面電車ルネサンス 思想史と交通政策』(論創社、2024年7月)を読む。題名の通り、ドイツの路面電車の復活を論じたものである。触発されることがあり、この Continue reading →