「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの 2017/01/15 by 相馬千春 No comments 相馬千春 一、 「日本的に考えたり感じたりする」〈私〉とは? 昨年、浦上玉堂の山水画を前にして、<「私」というものが画の中に溶け込んでしまう>経験をした(1)とき、<私はやはり東洋あるいは日 Continue reading →
浦上玉堂――「私」が溶解していくその世界 2016/12/27 by 相馬千春 No comments 相馬千春 浦上玉堂を久しぶりに想い出したのは、森忠明さんの新著『空谷跫音録――ともきたる』を拝見したときです。 「夫(か)の虚空(キョクウ)に逃(のが)るる者は……人の足音、跫然(キョウゼ Continue reading →
東西ドイツの統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識 ――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察(二) 2016/10/31 by 田村伊知朗 One comment 田村伊知朗 4.路面電車の延伸計画の挫折 このような公共性に対する市民意識に基づき、ハイデ北への路面電車の延伸計画がハレ市において議論された。統一直後のハレ市において、ハイデ北だけではなく、 Continue reading →
東西ドイツの統一過程における公共交通と公共性に対する市民意識 ――ハレ市・ハイデ北への路面電車の延伸計画とその挫折過程に関する考察(一) 2016/10/30 by 田村伊知朗 No comments 田村伊知朗 はじめに 1989年にベルリンの壁が崩壊し、分裂した二つの国家すなわちドイツ連邦共和国(以下、西独と略)とドイツ民主共和国(以下、東独と略)が統合された。公共交通網の再構築がそ Continue reading →
「福沢諭吉神話」解体の道のり・補遺2――『東日流外三郡誌』に関する記載の訂正 2016/10/27 by 安川寿之輔 No comments 安川寿之輔 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(以下、『戦争論・天皇論』)「終章」に次ぐ「補論」後半の366頁12行目から371頁の記述は、水澤壽郎からの「天は人の上に人を造らず・・・」の出典が『東日流外三郡 Continue reading →
サントームとは何か 『他者の所有』補遺(8) 2016/09/22 by 高橋一行 No comments 高橋一行 (7)より続く 「ジジェクのラカン像」を書き、「ラカンの鬱論」を書いた。今回、そのふたつのテーマが、「ラカンのサントーム論」で結び付く。 再度、内海健を引用しつつ、精神病型の鬱の Continue reading →
Paul Valéryとの出会い一Catherine Pozzi研究一 2016/09/08 by 永倉千夏子 No comments 永倉千夏子 1987年に日記、ついで1988年に評伝と詩作品集、自伝的小話Agnes (新版)が刊行された(1)のをきっかけに、一時期Paul Valéryの愛人であったCatherine Pozziなる Continue reading →
「現実」と「観念」の諸相―吉本隆明の宗教論から― 2016/07/14 by 伊藤述史 No comments 伊藤述史 Ⅰ 「現実」と「観念」の矛盾 人間はさまざまな手段と形態を取って、その思い、想念、あるいは「観念」を表出しながら生を営む生き物である。それらは哲学、思想、イデオロギーといったある種 Continue reading →
ラカンの鬱論 『他者の所有』補遺(7) 2016/06/30 by 高橋一行 No comments 高橋一行 (6)より続く 「アガンベン論(1) – (5)」で、鬱を論じている。所有論の帰結として、喪失の病である鬱に言及し、またアガンベンの論を、「所有しないということ」を主張しているものだ Continue reading →
「ラカンを通じてヘーゲルを読み、ヘーゲルを通じてラカンを読む」『他者の所有』補遺(6) 2016/06/13 by 高橋一行 One comment 高橋一行 (5)より続く ヘーゲル『法哲学』を読んで、ヘーゲルの所有論を探っている。するとその論理は、「論理学」の、肯定判断、否定判断、無限判断で言い表され、その最後の無限判断が最も所有の論理を言い当てて Continue reading →