「戦前回帰」を考える(七)――なぜ昭和の「超国家主義」の起源を民間・民衆のもとに探るのか

相馬千春

 
(六)より続く。
 
十、(補論)昭和の「超国家主義」の起源を探るための論点整理
 
 連載の(5)と(6)では、島薗進の所説を検討したのですが、ここでは、島薗が「昭和の超国家主義」――島薗自身は「全体主義」という言葉を使っていますが――の成立をどのように認識しているのか、その認識に私たちがなぜ同意できないのか、という点を、まず再確認しておきます。
 
 島薗は昭和の「全体主義」の成立を「一九二〇年代あたりから、「顕教」[民衆むけの顕教]……が強くなり、「密教」[国家エリートだけが占有する思想]の作動を困難にしてしまった」ことで説明します。ここで言われている「顕教」とは<明治国家が設定した民衆むけの顕教>のことですから、島薗の説は、<昭和の「超国家主義」の起源は「明治国家体制」にある>という歴史認識の一バリエーションということになる。
 しかし昭和の「超国家主義」の起源を、「明治国家体制」の側に求めることには――(5)・(6)で見たように――そもそも無理があります。だからこそ島薗も「顕教」・「密教」論を提示したのでしょうが、島薗の論理では、昭和の「超国家主義」の起源はけっきょく「明治国家体制」に回収されてしまいます。
 
 一般論として言えば、この考え――<昭和の「超国家主義」の起源は「明治国家体制」にある>――は、戦後日本人の歴史認識上の『神話』とでもいうべきものです。この『神話』においては、「教育勅語」のような明治国家体制のイデオロギーが昭和の「超国家主義」、「軍国主義」の起源であり、民衆はそうしたイデオロギーに洗脳されたことになっているわけです。
 
 しかし実際には、「超国家主義」は、その時代の日本人にとっては、魅力的な存在だったのではないでしょうか。ただ敗戦によって日本人はその「超国家主義」を捨てるしかなくなった。敗戦後の日本人には「超国家主義」を総括するゆとりなどなく、「超国家主義」の起源を自己の外部に――具体的には国家権力に――押しやることで、「超国家主義」を『処理』したと言ってよいでしょう。じっさいそのように『処理』することで、人々は容易に民主主義者に「変身」することができました。
 もちろんそういう『処理』では、「超国家主義」の本当の「総括」にはなりません。それを本当に「総括」しようとするなら、まず「超国家主義」の起源についての『神話』を解体しなければならない。
 この「超国家主義」の『神話』解体は、今日ふたたび「超国家主義」に魅力を感じる人たちにも、上で述べたような意味での『民主主義者』にも、受け入れてもらうことはなかなか難しい。しかし私たちも徒手空拳というわけではありません。私たちは、幾人かの研究者の仕事の中に、この作業のための手掛かりを見出すことができます。
 
 そのようなものとして、この連載では未だに紹介していなかった安丸良夫の考えを――少し脱線になりますが――ここで紹介しておきましょう。
 安丸は「現代日本における「宗教」と「暴力」」で次のように言います(注1)。 
 すなわち、近代日本においては「国体論的ナショナリズムを受容すれば、その前提のもとでの「政教分離」と「信教の自由」が存在し、むしろ国家はそうした「自由」を媒介環とすることで広範な人びとの能動性を調達していた」、「すくなくとも憲法体制が確立した一八九〇年ごろから一九二〇年代はじめまでは、社会の全体がなんとか相対的に安定していた」、しかし「国体論的ナショナリズムを正統性原理に掲げて社会編成を進めてきた」ことから、「社会的矛盾に向きあう意識が、国体論的ナショナリズムの読み替えによる原理主義的な急進化という方向に向かいやすかった」と。
 つまり安丸の把握にしたがえば、近代日本(=明治国家体制)の正統性原理たる「国体論的ナショナリズム」がそのまま「昭和の超国家主義」になったわけではない。そこには「社会的矛盾に向きあう意識」を主体とする「国体論的ナショナリズムの読み替え」があった。したがって、この「読み替え」を見落とすならば、「近代日本史」の最重要点をも見落とすことになるわけです。
 もっとも明治国家体制のイデオロギーを「国体論的ナショナリズム」と言うことには、疑問がある(注2)のですが、この点は後で(次回以降に)問題にすることにしましょう。
 
 さて、本題にもどりますが、これまでの考察から次のような問いが生じることになります。すなわち「昭和の超国家主義」の起源が「明治国家体制」にはないとすれば、それは一体どこに求められるのか、という問いが。(この問いを安丸の言葉を使って言い換えるのなら、<「国体論的ナショナリズムの読み替え」の主体は何なのか>ということになります。)
 このばあい、私たちは何処に「超国家主義」の起源を探すべきでしょうか?その起源が「明治国家体制」そのものにはないとすれば、体制の周縁部を含む民間・民衆にその起源を探るという作業が必要となることは、明らかでしょう。
 
 私たちは、連載の(6)で、一九〇五(明治三十八)年の対ロシア講和に反対する「日比谷焼き打ち事件」の時点で、近代日本の大衆運動は「対外強硬政策を主張するナショナリズム」と「天皇崇敬」、そして「官僚に対する反撥」という性格を備えていたことを指摘し、<民衆運動のこのような性格はどのように形成されたのか?>を探求することを課題として設定しておきました。
 いま設定した<「昭和の超国家主義」の起源を民間・民衆のもとに探る>という課題は――この探求が少なくとも明治維新期にまで遡る限り――(6)で設定した課題と一体をなすものとなることは、説明を要しないでしょう。
 
 この課題のために、私たちが次に取り組むべきことは、まずは「明治国家体制」成立までの――すなわち日本近代成立期の――「民衆運動」を捉えることです。
 しかし、<日本近代成立期の民衆運動を捉える>というのは、難しい課題であり、民衆運動に関する私たちの叙述にお付き合い戴くだけでも、忍耐の許容限度を超えるのではないかと懼れざるを得ません。
 そこで、(次回から)日本近代成立期の民衆運動の叙述を始める前に、少しでも事がらの見通しを良くするために、白川部達夫の言葉を最後に引用しておきます。もちろん日本近代成立期の民衆運動の探求を通して、私たちがこの白川部の見解にたどり着くのか否かは、判らないのですが、いまはこの見解を仮の目的地として設定することにしましょう。
 

「近世後期になり、……農民層分解が進展するなかで、没落の危機にさらされた小百姓は村役人層を介して、勤勉・正直・親孝行などの通俗道徳の実践によりこれを克服しようとし、禁欲的な労働主体として自己を形成し、これが広汎な近代化の人間的基礎となった。またそのなかで、村役人層を中心とする中間層が私欲を抑制した「公共」意識をもって成長しており、近代化の指導的役割をはたしうる条件にめぐまれた。明治国家はこうした中間層にたいし、私欲を公認して立身出世を奨めることで、国家に吸収統合して近代化をはかった。こうした階層からやがて知識人階級が生まれて、ヨーロッパ型の民主主義が形成された。」(白川部達夫『近世質地請戻し慣行の研究』p.484)
 「いっぽう民衆のなかの近代化から取り残された部分には、近代化の恩恵を享受する支配層のあり方を私欲として批判する潮流が根強く生きつづけた。それはしばしば集団主義的平等意識を媒介として、一君万民を体現した天皇制のもとで皇民民主主義的な意識を形成し、ファシズムの基盤となった。こうした二つの民主主義の系譜は、百姓的世界の達成と解体のなかからあらわれたものであった。」(同上、p.484-5)

 

1「現代日本における「宗教」と「暴力」」は『安丸良夫集3』所収。引用はp.338-339。 
2 中島三千男は――以下で引用するように――「明治国家体制」の構築に実権を持っていた人々(例えば井上毅)を、「ナショナリスト」とは呼ばず、「エタティスト(étatist=国家主義者)」と呼んでいる。

「このように明治13~15年は明治国家のイデオロギー政策の一つの画期をなすものであったが,それは自由民権運動の高揚によって死地に陥入れられた明治国家の支配層が,とりわけ実権を握っていた”エタティスト”が国家統治におけるイデオロギー政策の重要性を認識させられた結果であり……」(中島三千男「明治国家と宗教-井上毅の宗教観・宗教政策の分析-」http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/8082/1/%E4%B8%AD%E5%B3%B625.pdf)。

 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(著者に求めにより、以下の訂正を行いました。「このばあい、私たちが何処に「超国家主義」の起源を探すべきでしょうか?」→「このばあい、私たちは何処に「超国家主義」の起源を探すべきでしょうか?」――編集部、2018.11.19)
 
(pubspace-5481,2018.11.18)