身体を巡る省察2   身体の戦略

高橋一行

 
   身体について考えようと思い、参考にすべき資料を探すと、実に夥しく存在することが分かる。20世紀は言語の哲学の時代だったから、その反動として、20世紀後半には身体に関心が集まっている。
   このシリーズの方針として、第4回以降に様々な身体論を扱うが、今回と次回までは、心の病と身体の関係、及びその際の身体の役割に焦点を当てて書きたい。
   また次回で、フロイトとラカンの身体論を扱う予定である。ここでは先に彼らとは異なった身体の議論を扱う。
 
   野間俊一の『身体の哲学 精神医学からのアプローチ』を読む(注1)。
   まずその方法論から見て行く。野間はエスという概念に着目する。それはフロイトの言うところのものではなく、フロイトに先駆けてエスの概念を提唱したグロデックによる。グロデックは心身の根底にひとつの原理があると考え、それをエスと呼んでいる(注2)。身体現象も精神現象も同じエスが異なる表現を取ったものだと考えるのである。心身の関係を考えるには、これに基づくのが良いと野間は言う(p.40f.)。
   また構造論を唱えるラカンではなく、人間学的精神病理学の方法論に基づくと、そこは明快だ。これは精神疾患を人間固有の事態と考えることを可能にし、そのため既存の理論から自由に発想することが可能になり、また患者の精神症状を正常からの逸脱として暴き立てないという特徴がある(p.64ff.)。この方法論の是非については問わない。というより私に問う能力はない。しかし私が次回に展開するのは、まさしくこのフロイトとラカンの理論なので、ここでは発想がまったく異なるのだということに気を付けたい。
   次は扱う対象である。野間の記述をそのまま引用する。
   「これまで精神病理学が研究の中心的対象として来た、統合失調症や躁うつ病などのいわゆる精神病圏の患者ではなく、摂食障害や解離性障害や境界性人格障害といった、いわゆる神経症圏あるいは人格障害圏の患者を取り上げることにする」(p.67f.)。また野間は自閉症についても、これはコミュニケーションや社会性に問題であって、ここで考察される身体論が当てはまらないと、これを考察の対象から外している(p.227)。そして摂食障害や解離性障害や境界性人格障害を扱うのは、野間自身の表現を使えば、この三つは、身体を考察するのに好都合(p.192)だからである。
   実は私の関心はとりわけ内因性の鬱と自閉症にあるのだが、しかし以下に述べる理由で、これら野間の取り挙げる症例もまた重要な対象だと思う。
   つまり今回のテーマには、私にとって実践的な意義がある。以前私は自分の子どもが登校拒否であったことがきっかけで、登校拒否の親の会を主宰していたことがあり、そこで引きこもりや拒食症の子たちを見て来た。彼らにどう接するかということは重要な課題である。そして鬱や自閉症と並んで、今や多くの人がここで取り挙げられる症例に苦しんでいるし、野間も「精神科を訪れる若い患者の何割かがこのいずれかの症状を呈している」(p.193)と言っている。
   まず摂食障害から見て行く。これは心身症のひとつであり、精神の問題が身体に現れるのが心身症であるが、この摂食障害において心身の関連が最も明白である。
   野間は摂食障害を説明するのに、被投性というハイデガーの言葉を使う。それは私たちがこの世界に生きているという事実を意味し、有限性と受動性を伴って生きているという事態を指す。その言葉を使うと、まず私たちは身体を持っており、その事実が被投性の根源にある。そして拒食症の場合は、痩せることで自由を獲得したかのように感じるのだが、それは被投性から逃れたように思い、また拒食から過食に転じる時には、自己制御が壊れて、過食衝動という内的感覚に襲われ、それに自己が圧倒された事態に陥るのである。それは他者と自己との関係が身体に現れたものなのである(2章)。
   次に扱う解離性障害とは、しばしば多重人格と言われる現象で、人格の連続性が分断される現象である。これも身体性と関わる。つまり私たちが経験する知覚世界はすべて身体を媒介して成立しているのだが、この経験の自然性が喪失するのが解離性障害である。そこにおいて、解離症者は、周りの雰囲気に過剰に適合しようとする。それは身体の過剰と言うべきもので、主体性を喪失して、周囲の雰囲気に自己の身体を合わせてしまうのである。それは自己と身体の乖離である。
   さらに野間は、ここで故郷を意味するハイマートというドイツ語を使い、解離症はこの他者との情緒的な交流を拒否するものだとまとめる(3章)。
   最後に境界性人格障害とは、感情の起伏が激しく、対人関係で問題を生じさせる障害だが、それは自らの内にある言葉にしがたい感覚を何とか目の前の人に訴えかけようとし、聞き手の感性に直接訴えようとするのである。ここでも身体の過剰というべき事態が発生している。それはまた境界例者のハイマートが、場所や状況ではなく、他者の中に強く求められているために生じるのであると言うこともできる(4章)。
   これら三つの病態は、あるひとつの病理から別々の症状を呈する形で現れたものだと野間は言う。そしてそれぞれの苦悩が身体において表現されているという点で共通しているのである(p.193)。
   さらに野間は、今度はメルロ・ポンティの言葉を使う。それはキアスム(交叉配列)という概念で、一方が他方によって裏打ちされる関係において成立するものである。それは私とあなた、私と物、つまり自己と対象との関係に他ならず、それが身体において現れるのである。
   そもそも私は他者と同じように身体を持つがゆえに他者に対して開かれている(p.219f.)。そして言葉で語られるのではなく、身体を通じて、他者との関係が表される。拒食の場合は、身体は他人に見られているという感覚が強く、その視線から身体を制御しようとする。過食の場合は、制御できない食欲に圧倒されている。拒食/過食は裏表の関係で、身体を制御しようという姿勢が、今度は身体の氾濫を招く。
   解離症者では、周囲の変化に対する過敏さがあり、つまり身体が過剰であり、私はそこから引き離されている。境界例者では、激しい感情が他者の身体にも自己と同様の感覚を引き起こす。それが他者との融合感覚をもたらすが、そのために却って、主体性が脅かされ、他者からも結局は離れて行く(p.191ff.)。
   結論として、私たちが心の病と考えているものは、いずれも身体の問題なのである(p.223)。そしてその身体を通じて他者との関わりに何かしらの困難を抱えるのである。
   さらにいくつかの対処法もここから導き出される。引き籠りやリストカットにおいても、このキアスム構造が見られ、そこにおいては、まずは彼らのハイマートを尊重し、穏やかに彼らの身体性に働き掛け、自分自身が生きているという実感を得られるよう努めることが重要だとされる(p.243)。常に身体に語り掛け、身体の声を聴き、身体とともに生きていることを実感すること(p.247)。これが結論となる。
   この結論は、心の病が身体との関わりにおいて生じ、そこに症状が出て、またその解決方法も身体への配慮に行き着くという点で興味深い。
   もっとも先に述べたように、「身体を考察するのに好都合」な事例だけを集めて、そこに身体性が根本にあるということを指摘するのは如何なものかという気もする。そもそも結論が最初から分かっているだろうと思われるからである。
   しかし野間の分析は緻密で分かり易い。また身体と他者というここでの主題について、考えられる限り様々な論点を出していると思う。例えば、「私たちは自分の身体を携えて、他の人々とともにあることの「かなしみ」を生きている」(p.221)など、様々な場面で使えるフレーズは、本書にはいくつもある。
   さしあたって、身体は他者に働き掛ける主体であると言うことができる。そして心の病とは、身体を通じて他者に訴えるものだという気がする。もちろんここで扱った事例の限りで、そう思うに過ぎない訳で、今後さらに検討しないとならないのだが。
   また身体はすでに精神であり、精神よりも精神的で、精神よりも早く精神の病に対応すると言えないか。
   暫定的な結論をここから導くことができる。
   生物が、つまり身体が進化して精神を生じさせたのだけれども、その際に、脳だけが高度に進化して心を産み出したのではなく、身体全体の進化が精神の出現に関わっているだろうと思う。その結果として、今度は精神が身体のそれぞれの局部に影響を与えている。身体のすべての部位が脳を通じて精神と密接に繋がっていて、それが全体としての身体を作っている。身体全体が精神化する。
   第二に、そのようにして生み出された精神が主体となって、客体としての身体に働き掛けると通常は考えられる。つまり精神が主体で、身体が客体である。同時にしかし、身体の方が主体であり、それが心の作用を制御したり、調節したりする。その面も重要である。
   また身体は他者と繋がる。自己意識は他者からの働き掛けがあって、相互作用があって生じるのだが、そもそもその前提として、身体による他者への働き掛けがある。この意味でも身体が主体である。
   もっともこの本は、言葉について、極力考察の対象から排除しようという感じがある。しかし心の活動は言葉と身体と両者の作用である。20世紀は言語の哲学の時代だったから、その反動として、できるだけここでは言語の考察を排除しようとしている。それは至極当然の反応なのだが、しかし、ここであらためて言語と身体と他者の三つの関係が考察されねばならない。
   最後に、第一回目の考察と併せて考える。
   鬱は確かにその症状から言えば引き籠っている訳で、それは成年にしばしば見られる引き籠りと、その症状は変わらないように見える。それは野間が引き籠りを扱う、その扱い方が活用できるかのようでもある。しかし鬱は躁と併せて考察をする必要があり、躁は明らかに言語の病である。その反動として鬱がある。それが前回示唆されていたことである。つまり他者との関係において、言語と身体は密接に繋がっている。
   また進化論的に言っても、例えばダンバーは猿の毛繕いを言語の起源だと考えていて、身体による他者との交流を重視している(注3)。それも他者に何かしらの意味を伝達しようというのではなく、ただ単に他者と触れ合い、そこに快楽を得ようとか、他者に苦痛を訴えようというところから言語が始まったのではないかと、そういうことをも示唆する。
   つまり言語の発生が、伝達にあるのではなく、身体の感じる快楽や苦痛の、他者との共感や共鳴にあるのだとするならば、ここで扱った問題と言語の発生は直接的な関係を持つだろう。それらが次回の課題である。
 

1 野間俊一『身体の哲学 - 精神医学からのアプローチ -』講談社2006
2 グロデックについては、互盛央『エスの系譜 - 沈黙の西洋思想 史 -』(講談社2010)に詳しい。
3 ダンバー, R., 『ことばの起源 - 猿の毛づくろい、人のゴシップ -』松浦俊輔他訳、青土社2016
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x6355,2019.02.09)