身体を巡る省察(1)  心の暴走を抑える身体

高橋一行

 
 今までカントやヘーゲルに即して論じて来た問題を、今度は精神の病の現状に即して、数回論じたい。分量は短いが、「病の精神哲学」の本論となる。
 第1回目は、与那覇潤『知性は死なない - 平成の鬱を超えて -』を参照し、問題全体の素描を行う。著者は30歳になる前に大学の専任教員になり、また一時期論壇でも活躍したが、そののちに鬱を患い、大学を辞めている。その体験からいくつかの考察を導いている。
 まず与那覇は鬱について興味深い観点を出している。それはひとつは「エネルギーの前借り論」と呼ぶべきもので、またもうひとつは、「心の暴走を抑える身体論」とまとめることができるものである。それはこの数年私が展開して来た鬱論に接続して議論ができるだけでなく、20世紀の後半から思想史上で賑やかな論議を呼んでいる身体論に有益な示唆を与えるものである。
 さらに与那覇はここから現代政治の分析をし、それに対してひとつの処方箋を与えていている。それも具体的に検討したい。
 さて鬱にはそれに先行する躁状態がある。それを「エネルギーの前借り論」で説明する。つまり鬱の解明には、その前の段階で、それとは正反対の躁状態の分析をする必要がある。その状態において、本人の主観では全く疲れを知らないで、活動的になる時期がある。それは本人に十分なエネルギーがあって、それを活用するというのではなく、本人が持っている以上のエネルギーを無理やり前借りして、それを使うのである。
 またその際に、どのような点で活動的なのかと言えば、私の観察では他者とコミュニケーションが盛んになったり、また与那覇の挙げる例では、猛烈に文筆活動をしたりする。どちらも言語を使って、社会に働き掛けるものであると言うことができる。そしてこの活動は暴走する。過剰なくらい他者に関わり、または膨大な量の文書を書き続けたりするのである。
 さてそこで突如として、今度は鬱になる。つまり過激な言語活動が突然破綻する。それを与那覇は、言語で動いている自分の意識に対する身体の自己主張であると言う。ある日いきなり起き上がろうとしても身体が鉛のように重くなって、布団から出られない。無理に起き挙がっても、今度は歩けない。鬱が始まったのである。これが「心の暴走を抑える身体論」である。
 ここではまず感情的な言語が暴走して、身体を引きずって行く姿が描かれる。次いでその言語の暴走を身体が抑制する段階が来る。躁状態とは、言語の方にバランスが偏って行くことであり、そこではエネルギーの前借りがなされるのだが、それに対して、鬱は言語で動いている自分の意識に対する身体の自己主張なのである。
 言語によって他者と了解し合い、理性的な結論に向かうと考えられるものが、しばしば非理性的になり、暴走するということ。それを身体が押さえ付けるということ。身体は受動的なものと考えられるかもしれないが、言語の横暴を、強制力を以って押さえ付ける。その力は相当に大きなものであると考えるべきである。そしてその際に重要なのは、言語よりも身体の方が、個人を超えて他者と繋がるという面である。他者とのバランスを取って、差し当っては引き籠りという形で、他者との関係を調整する。これは他者との繋がりを模索する行動である。
 また躁状態において、自分が持っていた以上にエネルギーを前借りし、それを使い果たしていたのだが、その状態から鬱になることで、一旦は自己破産するのだが、しかしそこから今度は少しずつエネルギーを補充する。その時期が鬱である。数か月とか、数年して、その間に十分エネルギーを補充したら、また社会生活を営むようになる。この障害の特徴は、その程度や持続する時間は様々だし、躁と鬱とどちらが重いのかという問題もあるけれども、またこれは医学的に正確に言えば、完全な躁を伴う双極性I型と軽躁状態を持つII型とあるのだが(ここでは単極性鬱を考察の対象から外しておく)、共通しているのは周期があることと、反復することである。言語を媒介した人間関係の過剰さを身体が抑制するということ。それは自己を保存するための懸命な処置だ。
 この与那覇の言う「エネルギーの前借り論」と「心の暴走を抑える身体論」は、私が以前打ち出した「鬱の喪失論」に繋がる。これで鬱の機構が説明できる。
 拙論は以下のようなものである。鬱を所有の喪失の問題だと考える。内海健を引用して、典型的な鬱の話を挙げる(高橋2014 第8章、内海2005)。夫とアパート暮らしをしている主婦が、夫の出世があり、郊外に家を購入して引っ越しをすることになる。その時にその主婦が鬱を発症する。引っ越しが原因の鬱である。
 その主婦は社交的で、気前が良く、近所と良好な関係を作っている。自分の作った料理を配ったりもする。それも意識のレヴェルでは見返りを求めることなく、無償の愛を周りに振りまいている。それは快適なものだ。しかしその人間関係は引っ越しにより一気に失われる。世間の基準から見れば、夫の給料が上がり、皆が羨む一戸建てを建てることができ、人生は喜びに満ち溢れている筈なのに、それまで作った人間関係がなくなることが鬱を誘発するのである。私が鬱において喪失体験を重視するのは、こういうことがあるからだ。
 一般的には、親しい人との死別があったり、結婚して娘が家を出るというような離別があったり、または誰かと口喧嘩をしたり、あるいは悪口を言われたりということがきっかけになる。それは傍から見ても大きな喪失である場合もあり、周りから見れば何でもないような些細なものであることもあり、本人さえもその喪失感が具体的に何に由来するのか気付かない場合もある。しかし本人の無意識に取って、その喪失感は大きなものだ。
 もうひとつ、私が喪失体験と呼ぶのは、鬱を発症すると、多くの場合、自分が貧乏であるとか、将来が不安だということを訴えるからである。先の主婦の場合も、客観的には、夫の収入は十分あり、将来に何の不安がなくても、しかしお金がないという感じを強く持つ。またそれまで気前が良いのに、途端に吝嗇になる。社交的であったものが、引き籠って、お金がないという訴えを繰り返す。
 そこに加えて、「エネルギーの前借り論」を重視する。それは自分が持っている以上のエネルギーを前借りして使い込む。そもそも借金というのは、信用があればいくらでもできるのだが、信用がなくなった時点で、返済を迫られ、返済できなければ自己破産する。ここでも無意識という他者が信用している限りで、いくらでもエネルギーの前借りができるのだが、ひとたびその信用が失われれば、それは喪失体験に他ならないのだが、つまりもう無意識の信用に基づいて、これ以上エネルギーの前借りが不可能になり、一気に自己破産するのである。この喪失体験と、エネルギーの前借りと、言語の横暴を身体が抑えるという観点で、鬱の機構が説明できる。
 もう少し書いておく。喪失ということが鬱の本質であるというのが、拙論の主旨である。それはあるときに何かを喪失するというのではなく、実は最初から何も持っていなかったということに、あるときに気付くのである。本源的に喪失しているということに人は気付く。躁状態を支えるエネルギーも、実はあらかじめ持っているのではなく、借金として借りて来ており、そしてそのことに意識は気付かず、身体が気付くのである。そのようにまとめておく。
 また第二に言うべきは、この与那覇の論は、単に身体の優位を訴えるだけでなく、具体的に身体の役割を明確にしている。ここで鬱の問題を超えて、言語と身体の関係を考えたい。つまり、身体の復権だとか、身体性の称揚に留まらず、身体の重要な能力を再確認することができるだろう。
 言葉は人を裏切るけれど、身体は裏切らないと言えば、それは男女の駆け引きの話である。しかしそれはかなりの程度真実であって、言葉よりも、身体に素直に従った方が、うまく行くというのは経験が教えることではないか。しかもこの話は一般的に敷衍できる。言葉を使って思考することが、しばしばいかに非理性的な結末を迎えるか。身体が常に正しいと言いたい訳ではない。しかし言語の逸脱、その暴力性を幾分かは押さえる役目を持っているのではないか。言語による理性が能動的で、身体による感情が受動的であるというのは、基本的には正しいが、しかししばしばそう単純に割り切れる話ではなくなる。
 与那覇の言わんとするところをもっと分かりやすく説明するために、ここで1970年代に画期的な身体論を提出した市川浩を援用する(市川1993(初出は1984))。市川はこの間の話を、「身分け」という言葉で説明する。これはまず、身体によって、世界を分節化することと、同時に世界によって、身体自身が分節化されることを指す。
 それは私たちが自己組織化の能力を持つことに由来する。また私たちは世界を見る能力を持っていて、それによって、見える世界を分節化する。それはまた無意識のレヴェルで分節化される世界をも対象化する。
 これが身体の能力である。身体には、世界に関わり、世界に働き掛け、世界を変化させる作用があるのだが、それと同時に、世界との関わりの中で、自己自身を調整するという作用もある。前者は、世界を変えることで世界と関わるもので、それに対して後者は、自己自身を変化させることで、世界との関わりを調整する。
 一般的には前者の能力が身体の能力として知られているもので、ロックはそれを労働と呼ぶ(ロック2010)。個人は身体を持ち、その身体が自然に働き掛けて、生産物を作るという論理である。それに対して、ここで問題にしたいのが、後者の能力である。身体が自己と世界との関わりを調整する。今、言語活動や他者との関係において、過剰な、つまり前借りしたエネルギーで暴発していた関係を、身体が調整するのである。身体の能力として、これは積極的に評価したい。
 これを市川は身体感覚と呼び、それは気分と言うべきもので、世界から生起する感覚だと言う。私たちはまさしく鬱を気分障害と言うのだが、しかしこれは障害ではなく、調整なのである。鬱をそのように捉えるべきであろう。
 この労働の機構について、ロックにおいては、人格は精神で、その精神が自己の身体を所有し、その所有された身体が自然に働き掛けて、農作物の生産を行うという順で考えられている。しかし身体と精神の関係について、私は進化論を前提に考えているので、身体が進化して、脳を発達させ、その結果として精神が生み出されたのに、その息子の精神が親の身体を所有すると考えるのは如何なものか。そうではなく、労働とは、親子の、つまり身体と精神の共同作業であると言うべきだろう。これがこの市川の言う前者の話である。
 さて後者はというと、精神が暴走して、それは著述であったり、人間関係であったりするのだが、あまりに過激になると、親としての身体が精神という子をたしなめる。親が自ら引き籠ることによって、子の横暴を叱るのである。私はそのように考える。それが親の務めである。この機構が鬱を説明する。
 
 その上で与那覇は、戦後日本の思想を、言語と身体を軸に考察する。戦後日本はある時期まで左派がリードしていた。それは言語派と言うべきもので、資本主義を分析し、それを批判する。普遍的な歴史法則を解明し、理念を明確に提示する。しかしそれに対しては、右派が、言語よりは身体に依拠して、大衆の情念を汲み取って行く。理想や正義をかざすのではなく、人々の欲望を肯定する。
 しかしさらにその後、左派においても、身体重視の一群の人々が出て来ており、21世紀になると、右派も左派も思想において身体を重視するようになる。先ずそういうまとめをする。
 ここで与那覇は言及していないが、この流れはもっと広い文脈で捉えることが可能である。つまり近世近代の哲学がずっと理性を重視し、さらに20世紀になると、言語の解明が哲学の課題であったのだが、そこに言語に対しては身体を、理性に対しては感情を重視しようという動きがある。上述の傾向はそういう思潮を反映している。
 そしてその際に注意すべきは、理性に対して、非理性を称揚しようというのではないということだ。それは理性の横暴を押さえようとするのである。そしてその際に身体の積極的な役割を見るのである。こういう理解をしておくと、このあとの理解が速くなる。
  
 さて政治において現在世界的なレヴェルで、反知性主義と言われ、ポピュリズムと言われる勢力が台頭している。それはリベラリズムが衰退していると言い換えても良い。正義や理念を求めるのではなく、人々の即自的な欲望を肯定し、むしろそれを煽り、支持を得て行く。そういう手法がまかり通る。さらに合理的に考えれば、必ずしも利益を得る訳でもないのに、恨みや羨望など、どろどろした情念が政治の世界を支配する。こういう状況がある。
 与那覇は、これは身体が理性や言語に反発しているのだと説明する。この与那覇の現状認識は正しいと思う。そしてそれをまさしく反知性だとか、非理性だと言って、切り捨ててしまってはならない。それは政治の身体化が進んでいるのであって、そこを見極めねばならない。つまり新たな政治と身体の関係を考えねばならない。
 身体性を失ったリベラリズムへの反発として、政治の身体性が称揚され、世界的に様々な潮流が出て来る。その出現の必然性は押さえておく。さてその上でどうするのか。与那覇はここでしかしリベラリズムは重要であり、それを身体化しなければならないということを提案する。身体性を失ったリベラリズムを蘇生しなければならない。
 彼の具体的な主張は、象徴天皇制の肯定である。つまり象徴天皇は国家のような複雑な機構に、その目に見える具体性を与える。それは実に良くできた制度であり、そこにおいて私たちは民族の身体を見ることができるのである。それが独裁者が現れて完全なポピュリズムを実現しようという動きを抑えると言うのである。
 この考えに私は反対しない。つまり、国民主権、民主主義という理性的判断を徹底すれば、天皇という、職業選択の自由も政治参加の自由も持たない国民を作ってはならず、天皇制を廃止して、共和政を確立することこそが唯一の選択肢になるだろうが、しかしそれこそまさしく理性の横暴にほかならず、そこは日本の伝統を尊重して、緩やかなリベラリズムでやって行くのだと考えるのなら、それはそれで悪い話ではないと思う。しかしそれだけのことだ。それ以外に、リベラリズムの身体性ということで何を考えたら良いのか。
 するとそもそもリベラリズムとは何なのかという、その分析が要るだろう。ジジェクは何箇所にも亘って、次のようなことを言っている(例えばジジェク2012 p.66ff., p.225ff.)。
 まずアメリカのリベラリズムの状況を見ておく。ここではリベラリズムはふたつある。ひとつは経済的リベラリズムで、自由市場を尊重し、保守的な家族中心主義や伝統重視の右派の価値観と結び付く。もうひとつは、人権や平等や連帯といった政治的リベラリズムであり、これが左派の理念になる。前者は、市場経済が生み出すリベラルな価値観を拒絶する。後者は経済的リベラリズムを拒否して、弱者を救おうとする。
 さて問題は、リベラリズムはリベラリズムだけでは成り立たないということである。右派において、このことは明らかで、それは保守的な価値観と結び付かなければ、それだけではやって行かれないものだ。左派も左派で、明確に経済的弱者を救うという左派の理念があって、はじめて政治的リベラリズムが支持される。ここに問題がある。
 ジジェクは言う。左派のリベラリズムを念頭において、リベラリズムはその原理である平等や自由といった価値観を自らの力だけでは守り切れず、リベラリズムは必然的に原理主義を招来すると言う。原理主義はリベラリズムから出て来るのである。リベラリズムは自らその価値の基礎を掘り崩してしまうのである。
 だからジジェクの言いたいことは、リベラリズムには左派の原理が必要だということである。ラディカルな左派の手助けがないと、成り立たない。原理主義に対抗できず、そうするとリベラリズムは否定されてしまう。
 この辺りの機微は日本においても基本的には同じことが言えると思う。日本において、左派はマルクス主義であって、これは元々は経済の原理を持っていて、それを強く主張していた。とりわけ一般的には、革命の理念というより、労働者の賃金を保証するというところに力点があり、そこが評価されていた。しかしいつの間にかそれが衰退して、リベラリズムだけが残る。つまり左派は左派の原理を失って、単に政治的リベラリズムだけを、つまり抽象的な平等だの平和だのということを唱えるようになる。そしてリベラリズムが政治的エリートの主張に過ぎないとみなされ、経済的弱者の支持を得られなくなる。彼らは、移民(日本においては外国人労働者と呼ばれる)などの自分たちよりもいっそう弱者を差別する民族主義的な原理主義に包摂されて行く。
 さてそうなると、ここはジジェクが言うように、左派の原理を打ち立てて、リベラリズムを助けないとならない。またはもうひとつの方法としては、リベラリズムが右派とくっ付くということが考えられなければならない。
 上述の身体との関連で言えば、右派の保守主義も、また民族主義的な原理主義も、極めて意識的に身体的なものを打ち出すのだが、それに対抗できるのは、身体性を持たないリベラリズムではなく、ひとつには経済を強く訴える左派の原理であり、それは意識的に身体性を含むものでないとならない。リベラリズムそのものが身体性を含むのではなく、身体性を含む左派の原理とくっ付くことこそが必要なのではないか。またはもうひとつの可能性は、右派とリベラルがくっ付いて、原理主義を穏やかな保守に変えて行くという方法もある。そのどちらかしかない。
 そうまとめた上で、先の与那覇の提言を見直すと、それはリベラリズムを保守と接続しようということに他ならないと思う。そして現在、そういう方向で、リベラル保守を唱える向きは随分と増えていると思う。その意義は確認し、しかしリベラルを左派と繋げることも可能で、そういう可能性も検討してみたいと思う。以上問題提起をし、このあと少しく連載を試みる。
  
参考文献(取り挙げた順)
与那覇潤『知性は死なない - 平成の鬱を超えて -』新広社2018
高橋一行『他者の所有』御茶の水書房2014
内海健「存在の堪えがたき空虚 - ポスト・メランコリー型の精神病理 -」広瀬徹・内海健編『うつ病論の現在 - 精緻な臨床を目指して -』星和書店2005
市川浩『<身>の構造 - 身体論を超えて -』講談社1993(初出は1984)
ロック、J., 『統治二論』加藤節訳、岩波書店2010
ジジェク、S., 『終焉の時代に生きる』山本耕一訳、国文社2012
  
(たかはしかずゆき 哲学者)
  
(pubspace-x5818,2019.01.01)