「戦前回帰」を考える(十)――「新政反対一揆」

相馬千春

 
(九)より続く。
 
十一、日本近代成立期の「民衆運動」(続き)
 
3.「新政反対一揆」
 
   今回は「新政反対一揆」――1871年から73年(明治4から6年)にかけて西日本で群発した大規模な一揆――を見ていきます。しかし「新政反対一揆」は多様な側面を持っていますから、その概要を要領よくまとめることは難しい。したがって、ここで述べることも事実経過の一部にとどまりますし、また論点の整理や疑問点の検討などは次回以降に回すことになりますので、その点は予めお許しを乞うておきます。
 
   まずはじめに「新政反対一揆」がどう扱われてきたかについての関曠野の言を引用しておきましょう。
 

「なぜ新政反対一揆は、ことさらに近代日本人の記憶から抹殺されてきたのか。その理由は明らかである。明治維新を”建国の偉業”としたい体制側にしてみれば、維新がこれほど広範で激烈な民衆の反撃に遭ったということは知られてほしくないことである。だが体制を批判する側が線香花火のような秩父事件は大いに持ち上げながら、それより遥かに大規模な新政反対一揆には事実上口を噤んできたことには、少し複雑な事情がありそうだ。実をいえばこの一揆は、地租改正や学制や徴兵令だけでなく穢多非人の賎称を廃した1871年の太政官布告に対しても抗議するもので、各地の民衆は学校や役所と並んで被差別部落を襲撃したのである。薩長藩閥政府が四民平等を打ち出す一方で民衆の方は身分差別や偏見に固執しているのでは、民主主義的反体制派にとっては何とも具合が悪い。そこで左翼系の学者が多い歴史学会などでは新政反対一揆を民衆運動としては評価しないことになったように思われる。(1)

 
   関の推量が当たっているのか否かはともかく、「新政反対一揆」が――民衆が歴史の進歩の側にあることを前提にしている歴史観からは――扱いにくいことは確かでしょう。しかしこのことは――裏返して言えば――この一揆の検討が歴史認識の変革に寄与する可能性の大きさを示してもいます。
 
   さて、前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
   1871(明治4)年7月廃藩置県の詔が出されて、旧藩主の帰京が命ぜられますが、8月から12月にかけて旧藩主の帰京引留めに端を発する「一揆」が、西日本各県で続発します。
   谷山正道「廃藩置県と民衆(2)」(以下〈谷山1〉と表記、p.146、p.136)によれば、24県(当時の県)でこうした一揆が起こっており、広島の「武一騒動」には10万人近くが、<大洲での一揆には4万人が参加した>などと言われていますから、これらの一揆の総体では、相当数の民衆が参加したことは確かでしょう。
   またこれらの一揆では、竹槍や武器が使用され、焼討ちや官員の殺害も行われていますから、これらの一揆はその作法においても、「百姓一揆(3)」とは全く異なって、きわめて暴力(ゲヴァルト)的なものとなっています(同上p.146-149)。
   以下では、まず〈谷山1〉に拠って、明治4年の「新政反対一揆」の概要を見ていくことにします (4)
 
a.流言が意味するもの
   これらの一揆には、ひとつの特徴があって、それは、一揆にさまざまな「流言」が伴っていたということです。
 

「太政官ハ異人カ政事ヲ取扱処ニシテ,異人ハ女ノ血ヲ絞リテ飲ミ牛ノ肉ヲ食トシ……数人ノ毛唐来リ現ニ血ヲ飲ミツヽアリシ処ヲ見タルモノモアリ」(〈谷山1〉p.160)
「女子十五歳ヨリニ十歳迄ノ者幷ニ飼牛等異人へ売渡ニ相成内密割庄屋共へ申渡出来居ル趣」,(同上)
「今ノ御后ハ昔シ咄シノ玉藻前ト云フ人ニ類シ,毎日数升ノ生血ヲ吸ヒ……」(同上p.162)

 
   今日からすれば、これらの「流言」を無知蒙昧のなせる業と嗤うこともできるでしょうが、「文明開化」とそれを推進する「新政」への「恐怖心」・「異和感」の計り知れなさを表わすのものとしては、これらの「流言」は必ずしも突飛なものとは言えないでしょう。深谷克己は、次のように言います。
 

「[文明開化による―引用者]生活習俗の強制的な変更は、徴税方式の変化におとらない抵抗感を生みだした。……民衆社会も、身体の姿形や魂の平安のレベルへの新規強制にたいしては、確とした抵抗の論理を獲得していなかった。異様なものの押し付けに抵抗しようとするなかで、民衆社会のなかには、それらの根元を、もっとも悪しき、外来の圧力的な存在にみる心情が強まっていった。「耶蘇」と「異人」の二つがそれである。ただそれらが、さまざまな新政に結びつけられて解釈されるようになるのは、明治四年頃からである。」(深谷克己「世直し一揆と新政反対一揆(5)」(以下〈深谷〉)p.425)

 
   <「新政」の名による「生活習俗の強制的な変更」が、民衆にとってもっとも悪しきなものである「耶蘇」・「異人」に結びつけられて解釈されるようになる>。そういう事情を踏まえなければ、「新政反対一揆」で民衆が見せた激越な行動は理解できないでしょう。
 
b.一揆が目指したもの
   さて、これらの一揆が目指したものは何だったのでしょうか。じつはこれらの一揆は「維新政権そのものへの不信・非妥協性を強く帯びており,多くの場合,要求書は簡単には提出されなかった」(〈谷山1〉p.142)といわれる。それで、その「要求」あるいは「願望」の全体像は必ずしも明らかではないのですが、谷山は――「旧藩主の引留めあるいは再任」以外の――「要求項目」を次のようにまとめています。
 

「全体をまとめてみれば,要求項目は,異人を退治せよ,近づけるな,差し返せといった異人に関する事柄をはじめ,蘭方医の追放,県官人事,土地・租税関係,戸籍調査関係,寺社宗教関係,解放令反対,士族帰農反対,散髪廃止,等々,多方面にわたっていることが判明する。……また,真宗地帯であった浜田県下で神教反対・一向宗擁護の声があがっている」(〈谷山1〉p.142)

 
   このように「要求」は多方面にわたっているわけですが、これらを総括すると明治維新以来の「新政」が全否定されているわけで、これらの一揆は「新政反対という形で総括することが可能である」(〈谷山1〉p.142)といってよいでしょう。
   第二に谷山が注目するのは、「幕藩制的身分意識にもとづく要求」すなわち「解放令反対」の問題です。じっさいこれらの一揆での反「解放令」の動きは、被差別民の虐殺という事態にまで到っていますが、この点は後ほど取り上げることにします。
   さらに谷山は「租税」にかんする要求――「貢租の十分一化」(岡山)、「貢租の三割引」(生野)、「10年以前の政治に戻るまでは貢租等の納入拒否」(高知)など――にも注目していますが、こうした要求は、「新政反対一揆」が、単純に守旧的な性格のものではなく、「世直し」の願望と結びついたものであることを示しています。津山・広島県下での「均田・徳政の流言」もそれを裏付るものでしょう(〈谷山1〉p.144)。
 
c.担い手の階層差と路線の違い
   1871(明治4)年の西日本諸「一揆」の多様な要求が「新政反対」と総括されることは、先に述べた通りですが、これらの「一揆」には内的な対立もあった。
   谷山は「二つの運動路線」が存在していた、と言います。その二つとは、「Ⓐ村(町)役人層を主体とする訴願運動」と「Ⓑ小前層(小農・半プロ層と都市平民層)を主体とする暴動」であって、Ⓑは村(町)役人層も攻撃対象とするものであり、「ⒶをとびこえⒷが前面に出るという形で「一揆」が展開するケースが多い」(〈谷山1〉p.145)のだと言う。
   じっさい、Ⓐにあたるものとしては、広島・姫路・岡山・松山の各県で村役人層が旧藩主=旧知事の留任(再任)を願って、嘆願書(6)を提出していることが知られていますが、他方では、広島へ歎願に向っていた割庄屋が,その背後から居宅の焼打に遭っている(同上p.146)。この事例などは、「新政反対一揆」の複雑さを如実に示しています。
 
d.攻撃の対象と暴力性
   一揆が下層民衆を主体とする暴動へと発展したとき、「標的となったのは,県庁をはじめとする公機関,官員,村(町)役人,蘭方医」などです。「公機関,官員」は当然ながら「新政」を象徴する存在ですが、「村(町)役人」なども「新政に加担する者」と見なされた(〈谷山1〉p.147)。
   またこれらの一揆では、被差別民が襲撃され、多数が虐殺されたのですが、この点については後で検討します。
   先にも述べた通り、これらの一揆は、その作法においても「百姓一揆」と異質のものでした。すなわち、これらの一揆では、竹槍を中心に、鉄砲・刀剣なども使用され、官員が殺害され、焼討ちが各所で実行されている(7)。民部省の地方巡察使が「或ハ発砲シ或ハ放火シ又ハ抜刀槍ヲ以テ跋扈ノ所業ヲ為スニ至ル,……今日ノ一揆ハ昔日ノ一揆ニ非[ズ]」(〈谷山1〉p.149)と言うのも、むべなるかな、です。
 
e.土佐「膏取り一揆」について
   土佐「膏取り一揆」は、1871(明治4)年12月から翌年1月にかけて起こった一揆で、「新政反対一揆」の一つですが、そこで掲げられた「思想」には興味深いものがありますので、簡単に紹介しておきます。まず今西一「土佐「脂取り一揆」考(8)」(以下〈今西〉と表記)と橘弘文「膏取り一揆と託宣(9)」(以下〈橘〉と表記)に拠って、この一揆の経過を見てみましょう。
 
   1869(明治2)年、高知の吸江(ぎゅうこう)に西洋式の病院が建てられますが、ここから流言が生まれます。
 

「病院幹部の医師は皆直参の西洋人であつた。……鉄製の寝台の上に患者が臥し居るを見て,此処が異人の来て脂を取る所で,鉄製の寝台を鉄灸(てつきゆ)と誤認し,患者は鉄灸の上で知らず知らず脂を抜かれて笑ひ笑ひ死ぬる抔と言ひ触らしたもので,当時の漢学の先生もそう云ふことを唱へて居た,高知市中でさへも斯る有様であつたから,況んや田舎に於てをや,忽ち名野川,池川両郷の女共は之を聞いて何れも号泣したとのことである。」(〈谷山1〉p.167)

 
   さらに、この流言は「戸籍法の発布と徴兵令の準備のためにおこなわれていた男子の調査と結びつけられ……徴兵令は政府が異人に日本人を差し出す制度にちがいない」(〈橘〉p.67)という噂となります。こうした異人と新政府にたいする恐怖を背景にして、1871(明治4)年12月に「膏取り一揆」が始まるのですが、この一揆――規模は千人とも、千八百人とも言われる――は、指導者の山中陣馬(森郷中切村の郷士)が翌年1月6日深夜に「数日来行動の非なるを覚り」、その後割腹自殺をして果てた(〈今西〉p.180)ことにより、あっけなく鎮圧されてしまいます。
   「膏取り一揆」の「思想」には興味深い点があります。すなわち、この一揆では、民衆の結集を図るために横倉神社の神託(10)――山伏・陰陽師の隅田教覚(教学)による――が持ち出されて、その中で「日本人」・「神国」という言葉が使われている(〈橘〉p.68)。また竹本長十郎――中流以上の百姓で、郷校明誠館に学ぶ――が発した檄文(11)中にも「日本人民」という言葉があります。つまり<神国>や<日本人>という観念が、民衆の側から天皇の政府に対抗する文脈で使われている。
   「膏取り一揆」のこうした思想上の特徴は、この一揆が――他の「新政反対一揆」とは異なり――「一貫して旧郷士層の主導のもとに展開され」(〈谷山〉p.156)たことに因るのかもしれません。たしかに「日本人」などの言葉を使ったことが確認できるのは、一揆を指導した層についてでしょう。しかし文書の性質から見て、<神国>や<日本人>という――ある種の「ナショナリズム(12)」とでもいうべき――観念が、民衆にも訴える力を持つと思念されていたのではないか? そういう想像も生じるでしょう。
   他方では、この一揆の要求には「穢多」解放反対が入っています。「名ノ川大崎惣百姓」から提出された願いには、「百姓穢多ナサレテ……(13)」とありますから、これは「百姓」という「身分」意識にもとづいて「穢多」解放に反対していると見るべきでしょう。そうすると、ここでは「日本人」意識と「身分」意識・「差別」意識が並存あるいは重層しているということになりますが、このことからは、この時代の「日本人」意識と現代の「日本人」意識との違い――後者では多くの場合「日本人としての平等性」が含蓄されているでしょう――を見て取ることもできるでしょう。しかし当時の「日本人」意識、「身分」意識・「差別」意識、そして「神国」観念などについては、次回に検討することとします。
 
f.明治6年、西日本の一揆
   徴兵問題を引き金にして、1873(明治6)年の3月から8月にかけても中国・四国・九州地方で一揆が多発していますが、これらの一揆については――谷山正道「「解放令反対一揆」と新政反対一揆(14)」(以下〈谷山2〉と表記)に拠れば――次の諸点を特徴として挙げることができます。
   すなわち、流言を伴ったこと、多様な「要求」・「願望」があったが、総体としては「新政反対一揆」として把握できること、標的となったのが「県庁をはじめとする公機関や官員,新政を象徴する存在や新政に加担する者と認識された者」(〈谷山2〉p.6)であったこと、一揆が大規模であり、かつ暴力的であったことなどが、その特徴なのですが、これらは、いずれも1871(明治4)年の一揆と共通しているものと言ってよいでしょう。 
   なお、規模については「30万人にものぼったとされる福岡県一揆を筆頭に,北条・鳥取・名東各県の一揆についても,それぞれ数万人規模の参加者があった」(同上)と言われますから、その大規模性は日本の民衆運動史においても特筆すべきものでしょう。
   また「五ヶ年ノ間貢米差除ノ事」(北条県一揆)や年貢の半減(福岡県一揆)など租税面での要求が掲げられている(〈谷山2〉p.5)点も1871(明治4)年の一揆と共通している。
   さらに諸県で「解放令」反対が課題とされ、部落民の虐殺も起こった点も1871(明治4)年の場合と共通していますが、その規模、残虐性においては、1871(明治4)年のそれをしのぐ事件が発生しています。
 
g.「解放令(賤民廃止令)反対」――「穢多」襲撃・殺戮について
   1871(明治4)年8月に解放令が施行されますが、桐村彰郎は「部落民衆はこれ[解放令]を歓喜してむかえ、平民としての行動を開始した」(「部落解放反対一揆にみる民衆意識の諸相(15)」(以下〈桐村〉と表記)p.2)と言います。そしてさらに次のように言う。
 

「部落民衆は、死牛馬処理をはじめとする掃除役を「賤業」として拒否した。かれらは、道路で一般民衆に会したとき道を譲り土下座をし、一般民衆の家宅にはいるときは裸足で、土間にて用件をたし、特別の器で飲食することなどを余儀なくされていたが、こうしたことを拒みはじめた。また一般民と同所で同等の入浴・髪結い・酒食を要求しはじめた。さらには祭礼参加や氏子加入、分村も追求されはじめた。」(〈桐村〉p.2)

 
   こうした被差別民の行動に対して、一般民衆はまず「入浴や髪結いの拒否、商品販売の拒絶、日雇いや小作雇いの中止、入会い山の利用拒否などをもって応えた」(同上p.2)が、1871(明治4)年10月頃からは、解放令反対を掲げる過激な騒擾が西日本各県で発生していきます。
   上杉聰「「解放令」反対一揆研究の前進のために」(以下では〈上杉〉と表記)は、「解放令反対騒擾」として18件の騒擾を挙げていますが(16)、18件のなかには、一カ村単位の小規模な騒擾から大規模な一揆まで含まれています。 
   また、「解放令反対」は一揆における多様な要求・願望の一つである場合が多いので、そのばあい一揆は「新政反対一揆」と把握されるべきでしょうが、もっぱら解放令に反対したとみられる騒擾も起こっています。さらに「解放令反対」といっても、県などにそれを要求するだけではない。直接に被差別民に「是迄通り」を強要したり、さらに『傲慢』と見做した被差別民を殺傷したりする場合もあった。
   北条県の事例――最大規模の殺傷(18名死亡・13名負傷)が行われた――について、〈上杉〉は次のように言います。
 

「岡山県北部の美作(みまさか)地方なんですが、人的な被害では最大のものとなっていて、西々条郡に発した一揆は、戸長・部落・学校等を放火・破壊しつつ各地に伝播し、……各地に分散して一揆への参加を強制しつつ暴動を拡大、部落から詫状を強要し、拒否した村は放火・殺りくし、一部の村々が「徴兵反対」「穢多是迄通り」等の要求を提出した、という内容です。」(〈上杉〉p.146)
「夜を徹して、家を焼かれて逃げまどう被差別部落の人々をわざわざ捜して、ほら穴の中にいるその人たちを殺したということです。それだけではありません。その辺り一帯に捜索の手がのびて、あちらこちらからつかまえてきて、河原につれ出して、平素温順で、エタの慣習を守っている者については、頭に紙をまきつけて、これは、いいエタだということで、それは釈放する。日頃から、傲慢だとされた人は、その場ですべて虐殺されています。」(同上p.149)

 
   どんな感情が民衆を駆り立てたのでしょうか。〈桐村〉は、つぎのように言います。
 

「ここにみられる一般民衆の意識は、もちろん、徳川幕藩体制以来の身分差別制に深く規定されていた。従来、部落民衆は、死牛馬処理などの掃除役と、盗賊・乞食の取締りや刑吏役など、汚穢・異物と観念されるものを伝統的共同体から排除する不可欠の役割をになってきた。共同体は、その「清浄化」を部落民衆に依拠してきた……。一般民衆は、共同体の「清浄化」機能をはたす部落民衆を、その穢れ意識によって「社会外」・「人間外」の存在として自らの外(共同体と異世界との境界)に位置づけ、また「奈落」の存在として自らの下に位置づけることによって差別してきた。この依存と排除という、きり離すことのできないアンビバレントな関係は、一八七一(明治四)年三月の太政官布告(死牛馬勝手処理令)、八月の部落解放令、それにもとづく賤民の一般戸籍への編入……等々によって崩壊の危機に瀕したのである。」(〈桐村〉p.2)

 
   引用の冒頭にある「ここにみられる一般民衆の意識は、もちろん、徳川幕藩体制以来の身分差別制に深く規定されていた」という把握は、通念に沿ったものと言ってよいでしょう。この点は、これまで引用してきた谷山正道ともおおよそ共通した認識(17)と思われる。
   しかしこうした認識を受け入れると、次のような疑問も生じてきます。すなわち<幕藩体制に由来する「差別」意識が、近世後期さらには近代になって「一層強化(18)」されたのは、なぜなのか?>という疑問が。
   この他<一般民衆の共同体にとって、被差別民はそれに依存するとともに、それを排除しなければならない存在だった>という桐山の指摘も興味深いのですが、これらの点を問題にするためには、近世の差別の構造を検討しなければならないでしょう。しかしこの作業は後に回して、次回はまず近世の「日本人」・「神国」の観念を――主に差別意識との関係で――検討することにします。
 

1「百姓一揆と出世主義革命」http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0307.htmlによる。
2 谷山正道「廃藩置県と民衆」はhttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48387/1/71_135.pdfによる。
同論文(p.136‐138)によれば、1871(明治4)年に「新政反対一揆」が発生した24県は次の通り。8月中に発生したのは、広島、大洲、福岡、津山、松山、真嶋、小松、今治、母里。9月には、高松、豊浦、久美浜、福山、倉敷。10月には、浜田、鳥取、姫路、生野、山崎、清末。11月には宇和島、岡山。12月には高知、豊岡である。
3 百姓一揆については、この連載の(八)をご覧いただきたい。
4 1871(明治4)年以前の「新政」に反対する一揆については、〈深谷〉を参照願いたい。
5 岩波書店『日本近代思想体系21民衆思想』所収。
6 提出された歎願書には,「旧恩を難去,赤子の母を如慕」(広島)「前知事様ヲ奉慕,下民一同如父母奉仰居申候」(岡山)などと書かれているが、谷山は「旧調達金返却の問題や身分格式保持の問題も当然絡んでいたように思われる」(〈谷山1〉p.145)と推量している。
7 焼討ちに関して谷山は次のように言う。
「百姓一揆に際しても,打ちこわしを行うことはあっても,意識的に焼打を行うようなことはなかった。しかし,慶応4年2月の上州騒動においてはじめて「意識的に焼きうち」が行われ,以後焼打行為は新政反対「一揆」を特色づける重要な特徴の一つになった。」(〈谷山1〉p.149)
また官員の殺害に関しては、安丸良夫が次のように指摘している。
「明治初年の一揆に竹槍が用いられるのは,民衆が新政府の役人などに端的に(敵〉をみているからであって、洋服を着た官吏などは、『官員ト見咎メ」ただけで残忍に殺害されたりした。手足を四方からひっぱって八つ裂きにする私刑などの事例さえあった」(『安丸良夫著作集2』所収、「「世直し状況」下の民衆意識」p.189)
8 今西一「土佐「脂取り一揆」考」は、https://ci.nii.ac.jp/els/contents110006555810.pdf?id=ART0008536872による。
9 橘弘文「膏取り一揆と託宣」は、http://library.tourism.ac.jp/no.3HirofumiTachibana.pdfによる。 
10 「横倉神社神託要領」は次の通りである。
「一,庄屋年寄を廃し,戸長用係を置きしは姦吏の同類にて,異人贔屓のものなり 一,毛唐人へ,日本人を奴隷又は妾に売る事,其の時は戸籍番号の順によること,而して姦吏間金を取ること 一,以上の事を為すには,旧国主の在藩にては邪魔になる故,帰京を命じたること 一,尤も怖るべきは,醜夷の中には残忍なる国在て,人躰を烈火に掛けて其の膏を燃し取りて,之を飲む事 一,速に兵を起し,姦吏を誅し醜夷を追払ひ,旧藩主を帰国せしめよ,然らざれば日本は神国なり,六十余州神明何ぞ擁護せん,軍の勝利疑ふべからず」(〈谷山1〉p.166-167)
なおこの神託の作成者と言われる隅田教覚(教学)については、次回紹介する。
11 竹本長十郎が発した檄文は(〈谷山1〉p.166)に掲載されている。檄文中での「日本人民」の使われ方は次の通り。
「此度政府藩主を追出し,夷人贔屓の姦吏を県庁に据え,我が日本人民を外国人に売渡し,膏を取り,彼の滋養に供出せしむる趣,甚だ以て容易ならざる事に有之,一日も早く藩侯を取り返し,姦吏を誅し,夷狄を追い不申候ては日本人民は五年間に皆無と可相成に付(三字不明)押出しの用意可致事」
12 近世・近代日本の「ナショナリズム」については、次回以降で検討する。
13 〈今西〉p.181に掲載されている史料による。
14 谷山正道「「解放令反対一揆」と新政反対一揆(13)」は、https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3742/JNK001501.pdfによる。
15 〈桐村〉は、https://naragakuen.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1182&item_no=1&page_id=13&block_id=21による。
16上杉聰「「解放令」反対一揆研究の前進のために」はhttp://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0041-12.pdfによる。
〈上杉〉(p.142-144)に掲載されている「解放令反対騒擾」は次のものである。
1871(明治4)年に発生したもの、①姫路・生野・兵庫・竜野・鳥取(五~六千)、②広島〔沼田〕(不明)、③真島〔真島〕(数カ村)、④松山〔温泉〕(一町)、⑤高知〔吾川・高岡・土佐〕(千八百)。
1872(明治5)年に発生したもの、⑥深津〔上房・阿賀〕(千余)、⑦岡山〔津高〕(五三カ村・四千余)、⑧石鉄〔久米〕(一カ村)、⑨美々津〔児湯・那珂〕(二万二千名)、⑩大分〔海部・大分・大野・直入〕(二万八千名処罰)。
1873(明治6)年に発生したもの、⑪北条(二万二六千七百名処罰)、⑫福岡(六万四千名処罰)、⑬名東(一万七千名処罰)、⑭広島〔御調・豊田〕(数百名)、⑮京都〔何鹿〕(二千名)、⑯広島〔奴可〕(三百名)、⑰広島〔三上・恵蘇・三次・高田〕(不明)。
1877(明治10)年に発生したもの、⑱熊本〔阿蘇〕(八千九百名処分)。
上杉の解説によれば、このうち②、③、④、⑥、⑦、⑧、⑯、⑰は、もっぱら解放令反対に反対する騒擾である。(注15)
17 この点にかんして谷山は次のように言っている。
「注目されるのは,幕藩制的身分意識にもとづく要求の存在である。その一つは,解放令(賤民廃止令)に対する反対であり……」(〈谷山1〉p.144)。
なお、深谷克己は、「幕藩制的」と言う修飾句をぬきにして、単に「身分差別意識」と言っている。
「襲撃は、この生活方法の外部的な力による否定への、身分差別意識に支えられた感情的な反発、不安から起こったのである」(〈深谷〉p.431)。
18 今西一は、「彼ら[小農]が回帰の目標としたのは,「現実には,身分制関係のもとでの百姓」[佐々木潤之介『世直し』191頁]でしかありえなかった」としつつ、「ただし私は,一揆・騒擾を経て回帰した百姓「身分」が,それ以前と同じものだとは考えていない」と注記し、「小農の土地回帰は,共同体秩序の再編を目指し,排外主義や差別意識を一層強化した」(〈今西〉p.170)としている。この認識は注目すべきものと思われる。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-5825,2019.02.23)