病の精神哲学 補論1 魂はどこにあるのか

高橋一行

 
 魂(Seele)はどこにあるのか。すでに本稿第2回において、カントが心(Gemüt)の病に対して、異常なまでに固執していることを指摘したが(注1)、そもそもその魂はどこにあり、どのようにして存在しているとカントは考えているのか。物質の一部として現象界にあるのでないことだけは確実である。カントは「魂の器官について」(1796)で次のように言う。この論文は、生理学者ゼンメリングへの応答として書かれたものである。
 「そこにはまた、感覚的受容性という面も、運動能力という面も含めての、魂の座の問題も含まれている」(第13巻p.227)。
 「魂の座という概念は、専ら内的感官の対象であるので、単に時間の制約に従ってのみ規定される事物に、空間的関係を付け加える場所的現前を要求するのですが、そのために自己矛盾を犯すのです。これに対しては、専ら悟性にのみ属し、従って場所的でない、潜勢的現前(virtuelle Gegenwart)という概念こそが、この問題を扱うことを可能にする」(同p.228)。
 「もし私が、一定の形態を形成するための諸部分の並置に基づく機械的な有機化ではなく、・・・動力学的な有機化を提案するとすれば、どうでしょうか」(同p.230)。
 「単なる動力学的現前(dynamische Gegenwart)を、できる限り直接的なものにまで追跡したことで満足している生理学者(ゼンメリングのこと)が、なお欠けているものを補足することを形而上学者(カントのこと)に要求したということは、悪いことではありません」(同p.232)。
 ポイントは、魂は空間的な場所を持たず、潜勢的に現前し、そのあり方は動力学的だということ。
 実際のところ、この短い論文では説明は十分ではないだろう。さらに「形而上学講義」(1770s —)では次のように言っている。この講義録は(注2)、カントが40年間に亘って、講義をして来た、その記録である。先の「魂の器官について」で主張された二点が、より詳細に展開される。以下、その論点を抜き出してみる。
 まず魂は物質ではないし、物体としての身体に固有な力として存在するのでもない。魂は非物質的なものであり、魂と身体は根本的に別のものである。しかし両者は密接な関係にある。カントはこの辺りのことについて、まず「相互作用とは交互的な規定である」と言った上で、「魂と身体の間の相互作用は交互的な規定の依存性である」と言う(第19巻p.128)。
 またこの魂は「私の身体があるところに存在する」と言い、「魂はその感覚の座を感覚のすべての条件がある場所としての脳に置いている」と言う(同p.130f.)。そして「魂は空間の内に存在するのではなく、ただ空間において作用するだけなのである」と言い、「身体は魂の形式に過ぎない」と言う(同p.132f.)。
 この魂と身体の相互作用が重要な観点で、これを先には、「動力学的」と言い、またそのあり方を「潜勢的現前」と言ったのである。
 魂はこのように存在し、現象界にある身体とは完全に区別され、しかしそれと相互作用をし、そして本稿第2回で取り挙げた「頭の病」や『人間学』での議論と繋げるなら、その魂は現象界に病という形態を取ってして現れる。これで以前の拙論と今回の「魂の器官について」が繋がる。そして魂論は、カントの余技ではなく、本質的なものであったということをあらためて示したいというのが、この「補遺1」の目的である。
 ここで動力学という概念は、魂と身体の関係を表すものであるのだが、魂は叡智界にあり、身体は現象世界にある。つまり物自体と現象という、まったく異なるふたつの世界にあるものを相互作用させるのである。
 『脳の病』において、身体に属する頭または脳と魂の関係について明確に議論されていない。単にそこでは魂の病について言及されるだけだ。その身体と魂の関係については「魂の器官について」で議論される。そしてその議論は、カントが長く講じて来た「形而上学」を簡潔にまとめたものだ。
 
 さて菊地健三は、この動力学という概念に着目して、これこそがカントの全哲学に横たわっていると考えた。すなわち、この魂の原理がカントのすべての形而上学の原理になっているのである。そしてその際に重要なのは、カントが生涯、形而上学者であり続けたこと、若き日にライプニッツの影響を受け、独断のまどろみから、ヒュームによって覚醒させられた時(1757頃)に、形而上学を捨ててしまったのではなく、むしろ一層深くそれを問い直したのだということである。
 菊池の言うように、この概念がカント哲学の全領域に横たわっているかどうかは俄かに判断できない。しかし、以上、引用した限りでは、その通りのことが書いてあるのであって、つまり少なくともカントの一面は説明できる。本稿の議論にとって、必要なのはそれだけなのだが、しかし以下に菊池の言うところを追ってみたい。興味深いカント像がそこから得られる。
 まず「純粋理性」こそが魂そのものである。この純粋理性が身体に潜勢することで、思弁理性と実践理性のふたつに分離して、作動する。思弁理性はカテゴリーを使用して自然を認識する。これが第一批判の課題である。一方実践理性は理性の事実としての道徳に自由な意思を従わせようとする。これが第二批判の課題である。この両方に動力学が働く。
 第一批判において、叡智界にいる魂が身体に僭勢することによって、魂に刻印されたアプリオリな認識諸能力が作動する(第2章)。第二批判において、道徳とは魂そのものの声である。ここでも叡智界の魂が自由のカテゴリーを通じて道徳に我々を従わせる。どちらも動力学の法則に従うと菊池は考える(第4章)。
 さらに第三批判、すなわち『判断力批判』において、上述の自然と自由の関わるふたつの形而上学が結び付き、そこにも動力学的な思考が深く介在しているというのである(第5章)。
 また前批判期はデカルトの数学、ニュートンの力学、ライプニッツの力動論から影響を受けて、カント独自の力動学を形作っている。具体的には、デカルトの数学的立場と、ライプニッツの形而上学的立場を調停する『活力測定考』(1747)、ライプニッツの力動論を批判し、ニュートンの力学を導入しようとし、しかしそのニュートンを、ライプニッツの形而上学的に解釈する『天界論』(1755)、ライプニッツのモナド論を批判し、デカルト的空間論を参照しつつ、ニュートンの引力概念を解釈する『モナド論』(1756)を経て、これらから動力学の概念を得たのである。
 さらに『自然科学の形而上学的原理』(1786)においては、その第二章は、ずばり「動力学の形而上学的原理」である。その最後の部分を引用する。
 「物質という経験的概念の説明根拠の根底に存するものの背後に向かう形而上学的探究が有益であるのは、自然哲学をできる限り動力学的な説明根拠の探求へと導くという意図にとってのみである。というのも、私たちはただ、動力学的な説明根拠によってのみ、定まった法則を手に入れ、従って、真に理性的に関連付けられた諸説明を手に入れる望みを持つことができる」(第12巻p.114)。
 また、第一批判『純粋理性批判』において、カテゴリーは、以下の4つに分類される。
1 分量(単一性、数多性、総体性)
2 性質(実在性、否定性、制限性)
3 関係(自存性と付属性、原因性と依存性、相互性)
4 様態(可能と不可能、現実的存在と非存在、必然性と偶然性)
 私たちは、このカテゴリーを経験可能な認識対象に適用して、総合的判断を行う。さてその時、最初のふたつは「数学的原則」と言われ、あとのふたつは「動力学的(dynamisch)原則」と言われる。この表現は何回か使われる(例えば、A162=B201)。前者は、物理的な運動を数学的に処理するニュートン力学を念頭に置き、後者は、ライプニッツ力動論をカント的にアレンジした動力学論で基礎付けようとしている。そしてさらに後者によって、前者を基礎付けるのである。
 この思考形式、および認識構造が、先の「魂の潜勢による、動力学的活動」の構造であるとするのが、菊地の論である。
 もうひとつの問題は構想力についてである。今、思考活動とは、魂と身体との動力学的な共同作業であると言った。カントにおいては、思考は能動的な活動で、一方、受動的な身体の活動があり、このふたつの活動を結び付けるものが、身体の側に属する脳である。そしてこの脳に該当する思考の側の能力は何かと言えば、これが構想力である。すべての総合作用は構想力の働きであると考えられている。構想力こそが、脳理論における脳の役割を果たしていると菊池は結論付ける(第1章)。
 この構想力は、本稿第3回で詳述したので、ここでカントの引用をしつつ説明するということは省く。物自体、または叡智界と、現象界という異質なものを結び付けるのが構想力の仕事であった。ここでも、魂と身体を結び付ける働きが構想力であるとされている。そのことを指摘しておく。
 さらに菊池は、カント晩年の『オプス・ポストゥムム』にも言及する。動力学は、カントの初期のころからのモチーフであり、それは上述の魂論に明確に表れているように、カントがその長い生涯に亘って関心を持ち続けたものである。そしてそれはさらに晩年において、つまりカントの最後の思想に、より本質的なものとして関わって来る。
 エーテルはまず宇宙全体に偏在しているものと見なされる。それは無機的自然から有機的自然への移行を可能にするものである。エーテルの与える振動によって、有機体はその生命を維持する。またこれは同時に、ガルヴァーニ電気としても働き、これが人間の脳に影響を与え、人間の活動すべてに働き掛ける。ガルヴァーニ電気は空中電気以外の何物でもないと言い、人がガルヴァーニ電気と称しているものは、正確に言えば、超越論的哲学であるというカントの引用をする。人が思考する際に、脳は振動する。その振動がエーテルに帰せられている。そのエーテルがガルヴァーニ電気として魂を作動させる。
 そして注目すべきは、これが病と関連付けられて考察されていることである。そこでは、エーテルが魂に与える影響が論じられるのだが、カント自身が蒙った痙攣性の発作が、その理論の背景にあるのではないかと菊池は言う。エーテルは魂の病に直接関わる(菊池第6章)。そして魂は常に病に纏わり憑かれている。私が言いたいのはそれだけである。
 
 例えば犬竹正幸は、この本の書評において、著者の解釈にはテキストの正確かつ周到な読解が伴っていないと言い、とりわけこの動力学の概念と、『純粋理性批判』の弁証論との対質が必要だと言う。また「形而上学講義」の動力学と『自然科学の形而上学的原理』のそれとの理論的検討も必要だと言う。また『オプス・ポストゥムム』の書かれた年代、つまりカントの老衰問題とこの草稿の取り扱いにも注意が要ると言う。そういう問題は確かにあると私も思う。しかし、なお、菊池の説は、カントの全容を示すものではないかもしれないが、その一面を示すことは間違いなく、そこに着目したいと思う。
 
 この動力学的関係という概念は、カントにおいて、物自体と現象の関係をどう考えるかという問いに対して、際立って有効な解を与える。魂は叡智界、つまり物自体の世界に属し、脳や感覚器官を含む身体は現象界にある。それらがどう関係するのか。このふたつはまったく別の世界にそれぞれ存在するが、動力学的に繋がっていると考えるのである。
 ここで先の無限判断論と繋げて行きたい(本シリーズ第10回)。そこで強調したのは、「分かつカント」であった。物自体は、現象ではないという言い方でしか説明ができないものであった。つまり物自体は現象とはまったく別のものなのである。まったく別の世界と見なすしかない。ただ現象世界が成り立ち、その中で感覚が徹底的に受容的であるならば、それを生じさせる何かが必要で、それは物自体の過程である。そして繰り返すが、魂は物自体の世界に属し、身体は現象の世界に属し、両者は相互作用をするのである。そこがカントにとって根本的なところなのである。
 魂と身体の関係を考えることが、カントにおける難問である物自体と現象の関係を考える際に際立って示唆的なのである。それを動力学という概念でまとめたのが菊池の論であり、それはその限りでは評価できると私は思う。
 また本シリーズ第4回では、物自体は他者であるという説を紹介し、第2回では私自身は、物自体とは私のことであると考えていると書いた。そういう不思議な役割を担わせられた物自体を設定したことがカントの面白さなのだと考えると、菊池の説は、確かにカント哲学全体を説明するものだとは言い切れなくても、カントの本質的なところに位置するものだということはできる(注3)。
 学説史的に見れば、カント解釈としては二世界論という考え方があり、つまり物自体と現象は全く別のふたつの世界にそれぞれ属しているが、物自体から現象界に対して「触発」があり、それによって感覚器官に感覚が生じると考えられている(注4)。詳細は注に譲るが、ここでも物自体と現象、魂と身体はまったく別の世界にあり、しかし相互に繋がりがあるのである。
 
 さらにまた、ここから20世紀に、心と身体の関係を考える際にカントを参照しようという動きが出て来る。これは以下に検討する。
 英米のカント解釈は一般には次のようになる。まずカントはヒュームの影響を受け、ヒュームに感化されることで批判期以降の哲学ができ上がったと考える。それでまず物自体の概念は捨てるべきである。ヒュームに抗って、こんなものを残したが、ヒュームの方法を徹底すれば、本来要らないものだ。それから次に、アプリオリな総合判断だとか、悟性の能力であるカテゴリー(純粋形式)を否定する。つまりカント哲学の最も根本的なところを、彼らはあっさりと拒否する。しかしこのふたつは関係している。触発という形で、現象世界に対して物自体からの圧力があるからこそ、認識の必然性が保証されるのである。英米のカント解釈は、そのどちらをも、つまり物自体も認識の必然性をも無視する。そしてカントを感覚論として扱う。あるいは心の問題のみを議論する。
 例えばA. Brookは、Kant and the Mindの中で次のように言っている。「知識の問題についての多くの洞察は、カントの死後再び失われて、今日に至るまで、見直されることはない。少なくとも英語圏ではそうである。カントにおいて何が生きているものであり、何が死んでいるものなのかということについて言えば、心の問題についてという彼の余技が現在でも有効であり、それに対して、知識についての大部分は役に立たないし、とりわけ知識の基礎付けはそうである」(p.11)。
 以下にまず4人の近年の研究者の著書を紹介する(注5)。
 この分野の先駆けとも言うべき本はStrawsonの仕事である。『純粋理性批判』の、「総合」という操作を無視し、以下に説明する、カント分析論の演繹論と弁証論の誤謬推理に着目する。そして経験の際に、人格の同一性は保証されないとし、カントの自己意識論を、代名詞としての「私」の意味論にしてしまう(Strawson)。
 またこのStrawsonが着目した個所と、「形而上学講義」の魂論から、心の非物質性を強調し、非唯物論的カント像を提出するものもある(Ameriks)。
 さらに総合の心の因果性を重視し、超越論的心理学を確立するものもある。統覚の超越論的意味を、現象としての自我に還元し、唯物論的にカントを自然化する論を紹介する(Kitcher)。
 そして言語分析的考察をして、自己意識の特異性を解明する説を挙げる。その自己意識こそが、カントの言う統覚である。そして心的状態と物的状態の統一として、この統覚が超越論的に成り立ち、それこそがカントの言う心の「自発性」である。つまりそれは、内在的な心の志向性を意味する(Brook)。
 彼らが共通して着目する、カント『純粋理性批判』の個所は二か所である。どちらも、心身の相互作用を論じている。しかし、この心身の相互作用という観点は、『純粋理性批判』の中では、極めてマイナーな論点であり、この二か所でしか論じられていない。
 すなわちひとつは、原則論の「経験の類推(analogy)」で、1. 実体、2. 因果、3. 相互作用から成る。先の4つのカテゴリー(純粋経験)、すなわち分量、性質、関係、様態の中の、関係のカテゴリーの中の3つの図式である。これは本来は、対象認識の時間的な規則で、多様な知覚からその繋がりの必然性を把握するためのものである。もうひとつは、弁証的推理の(アンチノミーの前)、「誤謬推理(paralogism)」で、ここでは、1. 心は実体である、2. 心は単純性である、3. 心は単一性である、4. 心身は相互関係している、ということが論じられる。なお、これは、B(第二版)の記述であり、A(第一版)では、叙述も異なり、また相当の分量がある。つまり第二版で、この個所は大幅に書き換えられたのである。岩波文庫訳では、A(第一版)の方が、巻末に付録として訳されており、本文にあるのがB(第二版)である。そのA(第一版)は次の通り。1. 思惟する心として私は実体である。2. 心すなわち私は単純である。3. 心は人格である。4. 外感の現実的存在は疑わしく、不確実であることを外的現象の観念性と言い、この観念性に関する学説が観念論である。また外感の確実性を主張するものが二元論である。
 またさらにふたりの研究者を挙げたい。
 Nuzzoは、カントが伝統的な心身問題に、最終的な決着を付けたと考える。彼は感覚のアプリオリな次元を考える。それは、純粋な精神活動に還元できず、必ず形を与えられる(embodied)。身体は、新しい次元、すなわち、超越論的な、純粋な形式的な側面を与えられる。それは超越論的なアプリオリな原則の場である。身体は単なる経験の対象に過ぎないものではなく、経験のアプリオリな条件である(Nuzzo)。
 ここでembodimentを、disembodied(離存)の反対と考える。離存とは、身体を離れて精神が存在するということである。その反対とは、つまり、精神は身体を離れては存在し得ないとする立場である。
 embodyは、精神に形を与えるとか、精神の霊性を奪うという意味であるが、これは精神がどう身体を動かすかとか、精神は身体からどのように経験を得るのかという問題である。カントが言うように、精神と身体は相互作用し、そのことによって存在し得る。つまり、どちらも実体ではない。精神は、身体の中に、潜在的に現前する。またその精神と身体のあり方が、動力学的である。このカントの観点から、その相互作用の面を取り出したのが、embodiment論である。
 またShellはカントの第一批判は、ヒュームへの応答として書かれている。それはデカルトの二元論とも、経験論とも、またバークリの観念論とも異なって、「実在論にフレンドリーな観念論」である(Shell)。
 その上で、analogyとparalogismusが分析される。そこからカントの心身論の原理を抽出し、あとは幅広く、カントの全体系に、その心身論の原理を探って行く。
 
 カント心身論の論点を、まずは拙論に繋げ、次いでそれをカント哲学の全体に横たわっていると考えて、カント哲学をすべて読み換えるという作業を紹介し、最後に、この部分でだけカントを評価する試みを紹介した。
 

1 Seeleを魂と訳し、Gemütを心と訳すが、両者は同じものである。
 
2 講義録にはKとLがあり、英訳は両方あるが、邦訳(岩波の全集)には、Lしかない。ここではこれを使った。
 
3 菊地健三には、『カントと動力学の問題』(2015)のほかに、『カントと二つの視点』(2005)という本がある。菊池2005は坂部1976の示唆の下で書かれ、その問題意識を具体的に記述したものだ。坂部は、観察の視点で行われた「人間学講義」が第三批判『判断力』の前半、美感論につながり、「自然地理学」が後半の目的論の議論につながると指摘している。
菊池はそれを受けて、カントの著作を、哲学者の視点で書かれたものと、観察者の視点で書かれたものとに分けて行く。そしてこのふたつの視点が、『判断力批判』と『オプス・ポストゥムム』において、総合されるとしている。
さらに菊池は、その具体例として、性差の問題を取り挙げる。若きカントが、『美と崇高』において、美は女性の、崇高は男性の特性であるとしたものが、後期の著作、例えば、『人間の歴史の憶測的始元』や『人間論』においては、男性、女性とそれぞれの特質が、夫婦という一組の人格の中に融合されて行く。つまり、夫婦ふたりでひとりの人格を持つことが主張される。またその際に、とりわけ社交性や趣味を持つ能力という女性的な特質が、夫婦というひとりの人格の中で重要視される。ここまでが観察者としての記述である。
さてこの観点が、さらに第三批判では、市民社会において、その根本ルールを道徳に求め、その単位を夫婦に求めていくことと重ねられる。観察者の視点で、ひとつの人格となった夫婦が、哲学者の視点でさらに捉えられて、人類の行く末を担う役割が与えられる。
私はこの指摘をヒントに、「脳病試論」と『人間学』の心の病が、これも観察者の視点で書かれたものだが、最終的には、これも第三批判の目的論の水準で議論すべきであるということを確認したい。また、第三批判からさらに『オプス・ポストゥムム』において、動力学の概念がますます強く展開されているという、菊池の説を確証することができる。
あとは菊池が言うように、『人間学』までは、哲学の中に観察結果が入り切れず、はみ出してしまい、カントはそれをそのまま残したというところだが、第三批判において、目的は最初から哲学を超えているものだから、むしろ逆に、哲学を、それをはみ出すものの方に広げて行こうという志向性が出て来る。精神の病を、最終的にはその方向で位置付けたい。
つまり人間が進化論的に発展するものと考え、その進化の途中で必然的に出て来るものとして精神の病を位置付ける。それはまずは観察の結果として、市民社会に見られる現象として捉えられ、それをカントはそのまま記述したのだが、だから最初の意図としては、哲学からはみ出るものとして位置付けられるのだが、最終的にはそのようになる。
 参考までに、D.A.Sistiの論文は、カントの『人間論』で展開される「心の病論」は、naturalistの基準で書かれていて、哲学的な説明ではないが、しかしこの議論は、目的論の水準で理解すべきであるというものである。短い論文だが、カントの「心の病」について書かれた唯一まともな論文だ。
 
4 物自体をどう考えるかということはカント哲学の根本に属する問題である。以下、千葉清史を頼りに、この問題の学説史的に概観する。最初は千葉の2014年の論文を取り挙げる。
 すなわち現象と物自体を、ひとつの同じものについてのふたつの側面であると理解するものは二側面解釈と呼ばれる。またこのふたつを二種類の異なる存在者を表しているとする見方は、二世界解釈と言われる。
カントを常識的な実在論に近い立場として考えるならば、まずは私たちの認識から独立して存在する物自体があって、これが私たちに時空的に現象して来るあり方は、私たちの感性形式に依存すると考える。すると物自体と現象は、認識から独立に存在するひとつの物に関する、それ自体において持つ側面と、表象の総合として、認識を通じて構成する側面と、ふたつの側面として考えることができる。
一方で、より観念論的な解釈は、まずは私たちの内なる表象とその集積があり、そこから論理的に構成されるものとして空間的対象を考えるというものである。経験の対象は認識依存的に存在するが、物自体は、この経験の対象と同一のものとみなされることはできない。つまり物自体は現象とは全く別の世界を構成していると考えるのである。
そしてカントの文言に即して考えるならば、二側面解釈の方に分があるが、つまりカントはそのように解釈するほかはないと思われる記述をたくさん残しているのだが、しかしカントのアンチノミー論に典型的に現れるように、実質的な議論において、実在論的な解釈は成り立たず、二世界解釈しかあり得ないということが示唆されるのである。
学説史的に言えば、このふたつの解釈のそれぞれにヴァリエーションがあり、またその解釈オプションは、しばしば交錯し、つまり二側面解釈が極端な観念論になり、一方二世界解釈が実在論的になるということが生じてしまう。というのも、二側面解釈をする場合に、物自体の存在を否定し、つまりその実在を否定し、観念論に行き着く場合もあるし、また二世界解釈をする際に、物自体を現象とは別の実在する存在として設定することもあるからである。またこの二世界解釈と二側面解釈以外の代案も提出されているのだが、しかし本質的なものとしてはこのふたつの解釈に議論が収斂する。
ここで取り挙げるもうひとつの論文は、千葉の2015年のものである。それは物自体と現象の関係を問うもので、両者はどのように繋がっているかということである。その際に、先の二側面解釈では、物自体と現象は同じもののふたつの側面に過ぎないから、両者が繋がっているということは自明である。そのため問題となるのは、二世界解釈の場合のみで、つまりふたつが別々の存在であるとするならば、その際に両者はどう繋がっているか、あるいはそもそも物自体は存在するのかということがあらためて問われるのである。
その繋がり方の説明として使われるのは、及びその繋がりの前提としてそもそも物自体が存在するということの証明として使われるのは、「触発」の議論である。触発とは私たちの内に受容的に、感覚を生じせしめる過程である。それは私たちの感覚の自発性によるものではなく、というのは、感覚は徹底して受動的なものだとカントは考えているから、そうすると認識主観とは別の何かが存在して、それが私たちを触発する、つまり何かしらの影響を与えるとみなすしかなくなる。
 しかしカント理論によれば、それは空間対象ではあり得ない。認識から独立なものは空間対象ではないというのが、カントの超越論的観念論の示すものだからだ。とすると次のような結論が得られる。まず触発の過程は、私たちの認識の側に求められるのではない。というのも感覚は自発的なものではなく、受容的なものであって、つまり触発によって与えられるものなのであって、従ってそれは物自体の側で生じている過程である。そして実際に私たちには感覚が与えられているから、それを生じせしめる物自体の過程は現実的なものであって、つまり物自体は存在する。
 カントの文言を追って行くと、互いに矛盾する記述に逢着する。しかし物自体という古典的な難問に対して、上述の様な解釈は十分可能なのである。
 
5 以上の4人に対するコメントは、近堂秀の論文を参照した。私は2017年にイギリスのケンブリッジに滞在して、これら4人を含む英米のカント研究を読み耽り、メモを取っていたが、近堂が手際良くまとめているので、ここではそれをそのまま使わせてもらった。
 
参考文献
・カントについて、『純粋理性批判』は慣例に倣って、A版とB版のページ数を記した。他の著作は、すべて岩波書店の全集の、まず巻数を表記し、次いでページ数を書いた。
 
Ameriks, K. Kant’s Theory of Mind – An Analysis of the Paralogismus of Pure Reason –, Clarendon Press, 1982
Brook, A. Kant and the Mind, Cambridge University Press, 1994
千葉清史「二世界解釈と二側面解釈 : そもそも何が問題だったのか?」『近世哲学研究』No.18, pp.1-35, 2014
千葉清史「『物自体は存在するか』という伝統的な問題の解決によせて」『山形大学大学院社会文化システム研究科紀要』No.12, pp.15-26, 2015
犬竹正幸「書評 菊地健三著『カントと動力学の問題』」『日本カント研究』No.17, 2016
菊地健三『カントと二つの視点』専修大学出版, 2005
菊池健三『カントと動力学の問題』晶文社, 2015
Kitcher, P. Kant’s Transcendental Psychology, Oxford University Press, 1990
近堂秀 「カントの『心の哲学』」Hosei University Repository
Nuzzo, A. Ideal Embodiment, Indiana University Press, 2008
坂部恵『理性の不安』勁草書房1976
Shell, S.M. Embodiment of Reason, The University of Chicago Press, 1996
Sisti, D.A. ‘Was Kant a Normativist or Naturalist for Mental Illness?’ Journal of Ethics in Mental Health,2012-7, 2012
Strawson, P.F. The Bounds of Sense – An Essay on Kant’s Critique of Pure Reason –, Routledge, 1975

(たかはしかずゆき 哲学者)

(pubspace-x5611,2018.12.16)