身体を巡る省察3 言葉と身体

高橋一行

 
   フロイトの取り挙げる神経症においては、精神の何かしらの困難が身体に現れる。例をふたつ挙げる。『ヒステリー研究』(1895)において、良く知られている症例、ルーシーとエリザベートである。フロイトはそこで神経症の研究の基礎を形作ったのである。
   ひとつはルーシーという30歳の女性の話である。彼女は、妻を亡くした工場主の家に、ふたりの子どもの家庭教師として住み込んでいる。彼女は化膿性鼻炎のために嗅覚を失っていたのだが、どういう訳か、葉巻の匂いに悩ませられている。工場主は葉巻を吸う。フロイトの解釈は、ルーシーはその工場主を愛していて、子どもたちの母になりたいと考えているのだが、ある時子どもたちの接触の仕方を巡って、工場主からひどく怒鳴られたことがあった。それまでその工場主への愛が抑圧されて連想作用から締め出され、それが原因で葉巻の匂いに苦しんでいたのだが、しかし同時に工場主から怒鳴られたことで、単に片思いをしていたに過ぎなかったことに気付く。やがてそこまで分析がなされると症状は消えて行く。
   もうひとつはエリザベートの例である。彼女は両足の疼痛に悩み、歩行困難になっている。彼女には姉がいて、エリザベートは姉の夫に好意を寄せている。自分もこの義兄のような男と一緒になりたいと考えている。そこへ姉の急死があり、彼女はこれで義兄と結婚ができると考える。するとそこで足が痛み出し、ヒステリーの症状が出たのである。フロイトは、彼女の義兄への愛情とその道徳性の抵抗がヒステリーの原因であると考える。この場合も分析治療によって、意識化がなされ、症状は軽くなる。
   どちらも意識のレベルではしてはいけないと押さえ付けられたものが、身体に出る。抑圧された感情は心の次元から追放されるのだが、今度はそれが身体に出て来る。ここでは意識と身体を無意識が結んでいる。あるいはこのように言うことができる。神経症とは精神の葛藤が身体に象徴的に表現される疾患である。人は精神的な存在で、その限りで主体であり、客体である身体を制御していると考えられるが、実際にはその身体によって拘束されている。身体は思うがままに精神が支配できるものではなく、意識的に処理できないものが身体に症状として現れるのである。精神はそこで身体を通じてやっと自らを認識し始める。
   そしてここで明らかになるのは、自我には意識される層と意識されない層があり、意識されない層が原因で神経症になり、またそれが意識化されると神経症が治癒されるということである。
   市野川容孝はさらに次の指摘をする(市野川2007)。先ず親密性という感情があり、それが身体と関わる。エリザベートの場合は、それが両足の疼痛という形で出て来る。エリザベート自身の言葉で言えば、それはひとりで立っていることができないということで、そのことに痛みを感じる。つまり義兄に支えてほしいのである。またルーシーの場合は、それは、工場経営者が示した親愛のまなざしとそれと逆のきつい言葉である。そこには相手の感情も関わって来る。つまり親密性は身体と他者とを要求する。特定の人に対する感情が身体を包み込んでいる。ここまで、市野川の主張から指摘できる。
   さて私はここで、市野川は身体の役割を戦略的に強調していると思う。しかしフロイトは症状が身体に現れるということを重視しつつ、それが言語によって意識化されることで解消、または軽減できると考えていた。つまりフロイトにとって、これらの事例は、身体の重要性を示すだけでなく、言語化することの重要性もあり、本当はそのことを指摘すべきである。
   私のフロイト論を展開する前に、市野川の戦略について少し書いておく。彼はフーコーを引用しつつ、次のように論じる(市野川2000 p.80ff.)。まず、西洋では長くデカルト的な心身二元論が支配していたかのように言われるが、それほど事態は単純なものではない。それは19世紀以前の精神疾患の理論に何の影響も与えていない。フーコーは『狂気の歴史』において、17世紀と18世紀において狂気は精神の病ではなく、「身体と精神がともに問題とされるある何事か」(フーコーp.238)であるとした。つまり身体から切り離された精神疾患という考え方はなかったのである。しかしその後ふたつの正反対の向きのベクトルが出て来る。ひとつは、精神から身体へと下降して行くもので、精神疾患が身体のどこに由来するのかを探るものである。もうひとつは、精神疾患を身体から分離させる傾向であり、カントもまたその中に位置付けられる。カントにおいて、狂気は言語の誤りである。精神の疾患は身体と明確に分離された領域に配属され直すのである(注1)。このように市野川は思想史的整理をする。
   しかし私はそれに対して、カント哲学は基本的にフーコーや市野川の言う通りで、そこでは理性と非理性が問題であり、狂気は精神の問題であると考えられていたのだが、しかし同時にカントにはそれをはみ出す側面があり、そこを指摘することが重要だと考えて来た。つまりひとつには、カントは心の病を論じつつ、結構そこに身体性を見出している。具体的には、魂(Seele)、心(Gemüt)という言葉を使うだけでなく、その同義として、頭(Kopf)や心臓(Herz)を意味するドイツ語を使う。第二にここが重要なのだが、そうは言っても、カントにおいて、心は身体に宿っているとは考えられず、心はあくまでも「潜勢的」にしか存在しないのだが、しかし心と身体は「動力学的」に相互作用するものだと考えられている。それはずっと私が論じて来たことだ(注2)。
   つまり市野川のカント論に対しては、カントは身体の重要性を相当に意識していたと指摘し、市野川のフロイト論に対しては、逆に、フロイトにとっては言語の問題こそが重要なのだということを指摘したい。
   次のように言うことができるだろう。身体は他者に開かれているが、身体-親密性-他者という輪の中で閉じられているのではない。それは必然的に言語を招来する。身体は他者を要求するが、同時に言語をも必要とする。人は言語と身体の両方で他者と関わるのである。
   以下、精神の病における身体と言語の問題を考えて行く。まず先の鬱の機構を振り返ってみる。鬱の場合は確かに引き籠りという身体的な症状だけが目に付くかもしれない。そして一見する限りでは、そこに他者はいない。自己愛しかない。しかしその異常性は、鬱と反対の症状、つまり過剰に言語を通じて他者と関わることの反動として捉えるべきである。つまりこの場合は、身体を通じて他者と関わるのではなく、言語を通じて他者と関わり、その反動が身体に出て来る。身体と言語はセットにして考えないとならない。そしてむしろここでは躁の方が問題なのである。
   さてラカン派の立場から自閉症を考察した論文の中で河野一紀は次のように言っている。精神分析は何よりもまず言葉に基づいた実践である。フロイトにおいてすら、というのもラカンにおいてはなおさらで、そのことはのちに書くが、患者から言葉を聞くという作業に始まり、その言葉をどう解釈するかということが問題になる。具体的には次のようになる。まずヒステリーの身体症状には象徴的な意味があり、それは読解できるとされたのである。またパラノイアは妄想を特徴とするが、それは言語の作用である。さらにスキゾフレニーにおいては言語が解体する。それは言語の病なのである(河野2017 p.163ff.)。
   前回、身体に症状が現れる心の病を扱ったが、それはむしろ例外的に身体ばかり強調した結果だと言える。あるいは身体に症状の現れる病と言語の病とふたつあるというのではなく、すべての場合において、身体と言語の両方を考えるべきではないか。
   以下、フロイトの身体観と言語観を見たい。すでに何度も参照している「死の欲動論」をここでも使う(フロイト1996)。ここでフロイトは生物学に準拠して議論をしているように見える。しかしフロイトの目指すところは、身体からどのように言語を導くかということで、つまり出発は生物学でも、結論はそこから徹底して離れるのである。つまり人は言語を操ることによって、徹底して生物から離れた存在となるというのが結論になる。「病の精神哲学 第6回」で論じたのだが、ここでフロイトの眼目は、死の欲動から精神を導くことである。フロイトは快原則を超えたもの、つまり死の欲動を、個人のレベルを超えて、生物種として人は持っていると考える。このことを中山元の解説を参考にしながら読み解く(注3)。まず快原則と現実原則の説明から始める。次いでそれを超える欲動へと話を展開する。
   快原則とは、不快を低減させることである。生体の外部から来た刺激に対しては、この原則によって、それが不快ならば、逃げれば良いのだが、生体内部からの刺激では逃れることができない。それを欲動と言う。幼児はその不快な刺激に対しては、泣いたり、手足をバタバタさせたりすることで、親に要求を汲み取ってもらって生存して行くのだが、その際に親が現実に何をしてくれたのか、また自分がどういう状況に置かれたのか、認識しないとならない。これが現実原則である。
   言葉使いをこのように整理しておいて、まずは快原則と現実原則の均衡の中で、言語と思考が誕生すると考えることができるだろう。乳幼児は、身体の欲動に突き動かされて行動するのだが、やがて親との関わりを通じて現実原則に従い、記憶や判断が出現し、つまり精神的な活動ができるようになる。
   しかしフロイトは「快原則の彼岸」において、このふたつの原則の対立ではうまく説明が付かなくなり、そこで新たに死の欲動という概念を導入する。
   すでに、欲動は身体的なものと精神的なものとの境界と考えられていたが、さらにその奥に反復衝動があり、「反復衝動は快原則を凌ぎ、快原則よりも根源的で、基本的で、欲動に満ちたもの」(同p.140)だとされる。精神はこの欲動から出現するのである。
   精神すなわち、言語がここから出て来るということと、先の言語化することで神経症が治癒されると考えたこととは繋がっている。言語が自らの出自を自覚することが重要だからだ。
   また繰り返すが、生物学的な議論をしているようで、言語の導出に話を持って行く。そのことによって、生物学から遠く離れる。
   
   ラカンはそのことに気付いている。『セミネールII 自我』において、ラカンはフロイトを次のように読んで行く。
   フロイトは一見すると生物学的な発想で考察を進めているように思える。フロイトはホメオスタシスという言葉を使わないけれども、事実上その概念を使っている。ラカンは次のように言う。「ホメオスタシスの原則のせいで、フロイトは演繹するすべてのものを、異なったシステム間の備給、荷電、放出、エネルギー論的関係といった言葉で書き表さねばならなくなりました。ところで彼は、そうしながらもそこにうまく行かない何かがあることに気付きました。「快原則の彼岸」というのはそういうことです」(同p.100)。
   その結果、「フロイトの生物学はいわゆる生物学とは何の関係もありません」(同p.126)ということになる。いや、正確に言えば、フロイトがやったことは当時の水準の生物学ではないのだけれども、今日の生物学の概念では、まさしく生物学が解明したことである。エントロピーという、秩序が崩壊する方向に進む熱力学の法則からまさしく生物の秩序が出現する仕組みを現代生物学は解明しているのだが、フロイトはそれを「死の欲動」という言葉で表した。それはまさしく、すべてが死の方向に向かう法則の中で、逆説的に精神が出現するということを表している。
   エントロピーと「死の欲動」は単なるアナロジーで繋がっているのではなく、本質的に同じものである。ジジェクならば、これをless than nothingと言う。無よりさらに無に向かう傾向、死よりさらに死に向かう傾向の中に、まさしくそこに秩序が生成する。つまり生物、精神が出現する(「病の精神哲学 第6回」)。
   「このエントロピーですが、フロイトはこれに出会っています。『狼男』の最後の部分ですでにこれに出会っています。彼はそれが死の欲動と何らかの関係を持っているということは感じていました。しかしその時点ではその根拠をどこに求めるべきか分かりませんでした」(同p.137)。
   狼男とはフロイトの提出した有名な症例のひとつで、数匹の白い狼が木の上からこちらを見ているという不安を語る男の話である。狼は明らかに父親を意味している。彼は幼児期に、父母の後背位性交を目撃している。男はその父親から逃げたいと思う。彼の向かうのは乳母であり、乳母の臀部であるのだが、問題はその恐怖が反復されるということである。ラカンは随所で、このフロイトの『狼男』に言及する。「主体はひとつの経験を無限に再現できます。・・・そのことは何年か前に『狼男』に関してすでに説明しました。再現しようという主体のこの執拗さは何でしょうか」(同p.100)。この反復こそが問題である。これこそが「快原則の彼岸」にある。
 
    しかしその上で私は以下にラカンの身体論を論じたいと思うのである。フロイトは身体にこだわり、そこから言語を導出した。ラカンはそこに着目し、そのフロイトの言語観を高く評価する。ラカンは彼の精神分析学をその言語の分析から始める。しかし私はさらにそこからラカンの身体論を見たいのである。つまり生物学的発想から出発したフロイトが言語の発生を論じ得たのと同じく、言語に始まったラカン理論が、そこから必然的に身体に出会う過程を追う必要がある。
    最初にJ=D. ナシオを参照したい。そこにラカンの身体論がまとめられている(注4)。
    まず精神分析を規定するふたつの基本因子は、言葉と性であり、それに対応して、身体は語る身体と性的身体というふたつの規定を持つ。語る身体は、言語活動の担い手であるだけでなく、例えば私たちは顔を持ち、そこに表情があり、他者とコミュニケーションをする。語るシニフィアンとしての身体がそこにある。また性的身体とは、享楽を甘受する身体である。ナシオは、「身体がすっかり享楽そのものとなっており、しかもその享楽は性的なものである」(ナシオ1995 p.180)とまとめる。そしてその前提として、身体にはイメージとしての身体があり、これが第3の視点である。これは身体の外部に知覚されるイメージで、外部から自分の元に立ち戻って、享楽を得る身体にまとまりを与える。語る身体、性的身体、イメージとしての身体は、ラカンの三界、つまり象徴界、現実界、想像界に対応する。このことはのちにあらためて確認される。
 
   さらに向井雅明を使う。ラカン理論の進展について、次のようなことが言える(向井2016 p.391ff.)。
   ラカンは1960年代に入って、次第に現実界の役割を重視するようになる。対象aは当初は想像界の次元を説明するために考案されたが、次第にそれが現実界の次元を担っていると考える。しかしさらに次の段階では、それは単に現実界の見せかけに過ぎないものだと見做される。そこでフロイトの死の欲動理論を自らの理論に引き込む。それはフロイトにおいては、多分に生物学的に考えられていたが、ラカンはそこで言語の根本的な役割を確認する。人間が最初に遭遇するのは言語であり、人間が言語的存在に成ったときに、その言語との遭遇のあとに、現実界と遭遇するという順番になる。そしてその現実界との遭遇が残したものが一者である。一者は人間が言語と遭遇した時に残された痕跡である。それがトラウマとして残り、反復する。これが1964年の『セミネールXI 精神分析の四基本概念』のラカンである。反復強迫は死の欲動に繋がる。それは一者の反復である。一者の反復をラカンは享楽と呼ぶ。
   人間の欲望は他者の欲望であるというのがラカンの基本的な考えであった。これをこの一者から説明すると、まず存在するのは一者の享楽であり、そこから他者が構築されて、他者の欲望が成立し、その欲望を追求しながら人は生きて行く。
   また身体については以下のように説明する(同pp.408ff.)。人間は身体をイメージとして獲得する。その意味で身体は想像界にある。しかしシニフィアンが書き込まれるのも身体で、その意味で身体は象徴界にある。つまり言語を語る存在である。そして先に述べた享楽との関係で言えば、身体は享楽の場所であり、その意味で身体は現実界にある。身体をイメージとして保持し、言語を語り、享楽する身体。症状とは身体の出来事だとラカンは考えている。
 
   暫定的なまとめを書いておく。
   人間は言語を持った瞬間に動物から断絶した次元に住み、従って、進化論が適用できない存在である。このことを進化論が明らかにする。精神を産み出すのは進化の過程だが、しかし一旦精神が生み出されたら、それは生物の論理を超えている。このことを明らかにした時点で、進化論の役目は終わるのである。
   一方で私たちは言語の産物である。身体と言語の関係について言えば、まず進化論的には、生物の身体が言語を産み出したということ、しかし現実的には、つまり実際の人間にとっては、先に存在するのは言語であり、言語の網の目の中に、身体が存在する。身体は言語が作り出す。私たちは言語の産み出したものである。私たちは言語の中に生まれて来る。身体のイメージはあとから作られる。
   言語は伝達の手段としてではなく、享楽として子どもに受け入れられる。向井はそのことを強調する(向井2012 p.75)。
   主体は他者から働き掛けられることによって成立する。主体は主体的に成立するのではなく、他者から働き掛けられることによって、強制的に生じさせられるものである。
   他者との出会いは、ひとつは身体を通じて、もうひとつは言語を通じてなされる。このふたつは関係している。人間の身体は言語によって構造化されているからだ。フロイトは身体に生じた症状を言語化することで解消しようとした。それは病理がそもそも身体と言語の両方に関わっていると考えるからである。
   ラカンは言語による精神分析を徹底し、フロイトの言う無意識とは、人間が言語の中に住むことによって作り上げる知であるとした。
 
   原和之も援用しよう。ラカンの立場において、享楽は身体的である。その際に欲望は無限であるのだが、身体は有限で、つまり身体が欲望のブレーキとなる。それはこの連載の第一回目で見た通りである。もうひとつ指摘できるのは、口唇や肛門において明らかなように、刺激がそこから排出されるのだが、それと同時に、その排出自体が新たな刺激となる。つまり欲望が再生産される(原2002 p.203)。
   このように身体の重要性を確認するのだが、しかしここで原はラカンの言語に拘っている。フロイトが生物に準拠し、ラカンが言語学に依拠していたと一応は言うことができる(同p.52)。一応は、と言ったのは、そんな単純ではないけれどという含みがある。このように言うことでラカンは物理学、生物学に還元されない心的なものの固有性を主張し得た(同p.64)。
   まずはそういう言い方をしておく。フロイトの神経症は心身の問題だけれども、ラカンの精神病は言葉の病である。そういう整理もできる。
   その上で、原はラカンの身体論を論じるのである。「言語を介して向き合う他者は、主体をひとつの無限過程に巻き込むが、主体はその中で辛うじて自らを繋留することのできる点を身体に見出す」(同p.101)と書く。つまり言語、他者、身体の順に進むのである。
   フロイトは身体から言語が発生し、そこには無意識があり、そこの葛藤が身体に症状として現れ、その解消には言語化が必要だと考えた。ラカンは言語から出発し、しかし言語化されたものとしての身体を発見する。
   身体から言語への流れと、その逆に、言語が先にあり、そこから身体を見出す、また身体が言語化されているという指摘へ。またさらに現実界としての身体へ。
 
   鬱論をもう一度、内海健を参照して、ラカンの言葉で整理する(内海2013)。躁病者は周りに無償の愛を降り注ぐ。主体は意識していないが、つまり人から見返りを期待しているだろうと言われれば、そんなことはないと本気で怒るだろうが、しかしだからこそそれは自己愛なのだということができる。そしてそのループがある日突然切断され、鬱を発症する。
   それをラカン理論で説明すると、鬱病者は幻想を介さずに直接的に大他者に向かい、そこで承認という庇護を受けるということになる。しかしそれが満たされなくなった時に、大他者を告発する。それは怨みでもある。
   ではなぜ彼らは幻想を構築しないのか。大他者は彼らに働けという命令を行い、彼らはそれに素直に従う。そしてある日突然、今まで大他者に奉仕して来たのに、見捨てられてしまったと、大他者を告発する。内海はこのように説明する。
   河野一紀も鬱についても言及している。彼はラカンの考えだとして、次のように言う。「享楽を扱う術をあまり心得ていない事態が鬱をもたらす」(河野2013 p.94)というのである。これは良く分かる。
   この議論を前々回の与那覇理論と接続させる。それはエネルギーの借金理論と言語の暴走を身体がなだめるという論から成り立っていた。大他者に奉仕し過ぎている状態を身体がバランスを取るために止めると言い換えられる。それはむしろ生き残るために、身体が取る方策である。
   また象徴界がヒトの精神を支えきれずに、そこに現実界が顕われてしまうという問題もあるのだが、それもうまく象徴的なものに支えてもらって、現実界と折り合いをつけるということが重要だ。
   言語が中心的な生活から身体に比重を置くようになるというのではなく、象徴界の身体から現実界の身体へ移行するというのが正確だろう。そう理解すると、与那覇理論とラカン理論は整合的に繋がっていると言うことはできる。
   鬱だけでなく、躁をその視野に入れないとならないという問題も次のように考えることができる。つまり躁状態において、象徴界と折り合いがついているかのように見えるのだけれども、実はあまりに過剰な象徴界に曝されているのである。過剰な言語活動、過剰な他者への働き掛けがまずあり、しかしそれが、そこであんなに頑張ったのに、大他者は見返りを与えてくれなかったという恨みに転じるのである。他者に働き掛けるのも身体であるし、引き籠るのも身体だ。そう言い直せば正確な表現になる。
   さてここから何が分かるか。身体は言語の向こうに存在するのではない。まず身体は言語化されている。そして私たちにとっては、言語がまず先にあり、身体はその言語によってあとから見出される。そういう正確な理解をしておく。
 
   「病の精神哲学 第6回」で私はジジェクを引用して、次のように論じた。すなわち客観的事実から出発してそこから主体の生成を問う唯物論と、先に絶対的主体を考え、そこから主体の措定する客観を展開しようとする観念論と、両者は相補的である。つまり物質が進化して、精神を産み出したのだと考える実在論と、言語の分析から始め、その中で客観的世界と呼ばれるものを構成して行く相関主義と、実は相補的なのである。生物学的に考えて、言語の生成を問うフロイトと、言語の分析から始めて身体に辿り着くラカンと、実は相補的だと考えても良い。
 

1 このことは、「病の精神哲学」の第2回で、フーコーの『カントの人間学』を引用して論じている。
2 このことも「病の精神哲学」の第2回、及び補遺1で論じている。付言すれば、カントののち、ヘーゲル理論が、性と死という身体的なものから精神性を導き出すことにあらためて注意すべきである。
3 フロイト1996に、訳者解説がある。
4 5つのレッスンの最後のものが「身体」である。
 
参考文献
フーコー, M.,『狂気の歴史 - 古典主義時代における -』田村淑訳、新潮社1975

『カントの人間学』王寺賢太訳、新潮社2010

フロイト, S., 『ヒステリー研究』『フロイト著作集7』懸田克躬他訳、人文書院1974

「快原則の彼岸」『自我論集』中山元訳、筑摩書房1996

原和之           『ラカン - 哲学空間のエクソダス – 』講談社2002
市野川容孝    『身体 / 生命』岩波書店2000

「序論 交錯する身体」『身体を巡るレッスン 交錯する身体』鷲田清一他編岩波書店2007

河野一紀       『ことばと知に基づいた臨床実践 - ラカン派精神分析の展望 -』創元社2014

「言語に棲まうものと知 デビリテから発達障害へ」『発達障害の時代とラカン派精神分析 <開かれ>としての自閉をめぐって』2017

ラカン, J.,     『セミネールII フロイト理論と精神分析技法における自我(上)』J=A, ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店1998

『セミネールXI 精神分析の四基本概念』J=A, ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店1998

向井雅明       『考える足 - 「脳の時代」の精神分析 – 』岩波書店2012

『ラカン入門』筑摩書房2016

ナシオ, J=D.,『ラカン理論 5つのレッスン』三元社1995
内海健           「ラカン理論から「うつ病」を考える」『I.R.S. ジャック・ラカン研究 No.11』2013
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x6420,2019.03.09)