身体を巡る省察3 言葉と身体 2019/03/09 by Ω No comments 高橋一行 フロイトの取り挙げる神経症においては、精神の何かしらの困難が身体に現れる。例をふたつ挙げる。『ヒステリー研究』(1895)において、良く知られている症例、ルーシーとエリザ Continue reading →
「戦前回帰」を考える(十)――「新政反対一揆」 2019/02/23 by Ω One comment 相馬千春 (九)より続く。 十一、日本近代成立期の「民衆運動」(続き) 3.「新政反対一揆」 今回は「新政反対一揆」――1871年から73 Continue reading →
身体を巡る省察2 身体の戦略 2019/02/09 by Ω No comments 高橋一行 身体について考えようと思い、参考にすべき資料を探すと、実に夥しく存在することが分かる。20世紀は言語の哲学の時代だったから、その反動として、20世紀後半には身体に関心が集 Continue reading →
「戦前回帰」を考える(九)――「困民党」などの自由民権期の民衆運動 2019/01/10 by Ω One comment 相馬千春 (八)より続く。 十一、日本近代成立期の「民衆運動」(続き) 私たちは、日本近代成立期の「民衆運動」として、すくなくとも三つの運動――明治維新 Continue reading →
身体を巡る省察(1) 心の暴走を抑える身体 2019/01/01 by Ω No comments 高橋一行 今までカントやヘーゲルに即して論じて来た問題を、今度は精神の病の現状に即して、数回論じたい。分量は短いが、「病の精神哲学」の本論となる。 第1回目は、与那覇潤『知性は死なない - 平成の鬱を超 Continue reading →
病の精神哲学 補論1 魂はどこにあるのか 2018/12/16 by 高橋一行 No comments 高橋一行 魂(Seele)はどこにあるのか。すでに本稿第2回において、カントが心(Gemüt)の病に対して、異常なまでに固執していることを指摘したが(注1)、そもそもその魂はどこにあり、どのようにして存在 Continue reading →
「戦前回帰」を考える(八)――明治維新期の「世直し一揆」 2018/12/10 by 相馬千春 No comments 相馬千春 (七)より続く。 十一、日本近代成立期の「民衆運動」 この連載の(六)で、<民衆が政治上に於て一つの勢力として動くという傾向が1905年の日比谷焼き打ち事件により始ま Continue reading →
「戦前回帰」を考える(七)――なぜ昭和の「超国家主義」の起源を民間・民衆のもとに探るのか 2018/11/18 by 相馬千春 One comment 相馬千春 (六)より続く。 十、(補論)昭和の「超国家主義」の起源を探るための論点整理 連載の(5)と(6)では、島薗進の所説を検討したのですが、ここでは、島薗が「昭和の超国家 Continue reading →
カトリーヌ・ポッジ――ポール・ヴァレリーの非対称な鏡像 2018/10/15 by 永倉千夏子 No comments 永倉千夏子 <位置づけ> 思想と生涯とは、本来切りはなして考えるべきものかもしれない。たとえば、およそ個人史というものを否定したヴァレリーなら、そう考えるか、むしろ後者を削 Continue reading →
病の精神哲学11 精神の出現の偶然性とその絶滅の必然性について 2018/09/13 by 高橋一行 One comment 高橋一行 10より続く 思弁的実在論または新実在論が提起した問題は、カントの物自体をどう解釈するかという問題である。それに対して、まずヘーゲルの解釈があり、そしてさらに近年の研究では、カント Continue reading →