ジジェクのパンデミック論を読む

高橋一行

 
                                  
    新型コロナウイルスの蔓延による世界的な危機に関して、ジジェクは矢継ぎ早に、次の3つの短い論稿を発表している(注1)。私はここでこの第二のものを中心に扱う。第一と第三のものは、第二の論稿を補っている。
   
1 “Coronavirus is ‘Kill Bill’-esque blow to capitalism and could lead to reinvention of communism”,
https://www.rt.com/op-ed/481831-coronavirus-kill-bill-capitalism-communism/ (2020年2月27日)
2 “Monitor and Punish? Yes, Please!”,
https://thephilosophicalsalon.com/monitor-and-punish-yes-please/ (2020年3月16日) = 「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす! 」松本潤一郎訳『現代思想』2020年5月号
3 “Is Barbarism with a Human Face Our Fate?”,
https://critinq.wordpress.com/2020/03/18/is-barbarism-with-a-human-face-our-fate/ (2020年3月18日) = 「人間の顔をした野蛮が私たちの宿命なのか」片岡大右訳『世界』2020年6月号
   
    ここでジジェクは、アガンベンを批判し、フーコーを揶揄し、ヘーゲルの身体の規律論を挙げ、今回のパンデミック被害の対策としてはコミュニズムしかあり得ないと言い、さらに私たちはウイルスを受け入れるべきだとして、ウイルスとの共生を提唱する。私の結論を言えば、ほぼこれに同意するし、この論稿の目的は、ジジェクの主張の裏にはヘーゲル理解があるので、それを明確にすることである。
    私はコロナウイルス対策について、すでに2本の論稿を書いていて、今回は、その第3弾となるし、また同時にジジェク論を3回連載して来て、その第4回分として、この文章を書きたいと思う。つまりふたつのシリーズをここで重ねたい(注2)。
    さてジジェクをヘーゲルと付き合わせて論じようというと、世の多くの人にとって、ヘーゲルは全体主義者か、せいぜい良く言って、近代的主体を確立した、今なら新自由主義者というところかと、そうなるだろうと思う。そうするとジジェクをヘーゲルに引き付けて論じるということは、せっかくのジジェクのラディカルさを減じてしまうということになる。そのような誤解を受けるだろう。
    そこで私は以下のように書くべきであろう。つまり、この論文はジジェクのヘーゲル理解が正しいということを論証しようとしている。ただし、そのヘーゲルは破綻した体系を構築しており、その主体概念は徹底的に解体されている。それはまさしくジジェクの言う通りで、綻びだらけで、それを無理矢理繕っている体系の中にジジェクを入れ込むことで、多分ジジェク以外誰も指摘し得なかったヘーゲルの面白さを明らかにし、かつジジェクの主張の妥当であることを示すことができると思う。とにかくジジェクは滅茶苦茶なことを言っているのだが、その滅茶苦茶なことの根拠はヘーゲルにあるのだ。そう指摘する。
   
    まず本論文の要約をする。
    コロナウイルスの蔓延が口実となって、西洋民主主義国家において、人々への統制や規制措置の正当化と合法化が進められている。G. アガンベンは、国家が人々の移動制限と社会的経済的活動の停止といった措置によって、例外状態を引き起こそうとしていると、批判する。例外状態を統治規範として使用としていると言うのである。つまりウイルスからの脅威を理由にして、国民の行動を大きく制限している。
    アガンベンは、コロナウイルスをインフルエンザと大して変わらないものと見ている(アガンベン p.10)。今やそれはテロに代わって、例外化措置を拡大する口実となっている。当の政府が、安全への欲望を駆り立てているのではないか。
    しかしそれはどうか。現代国家はこのような混乱を促進させて、何か得るところがあるのか。わざわざグローバルな経済危機を引き起こして、それが国家権力の利益になるのか。国家もまた混乱に陥っているのではないか。実際、アガンベンのような左派の取る反応では、脅威を消滅させない。このようにジジェクは言う。
    私はこのジジェクに完全に同意する。アガンベンの言い分は、コロナウイルスなど大したことではない。これは左派か中国の陰謀であるという、どこかのポピュリスト政権と同じレベルの話ではないか。
    さらにここからジジェクはフーコー批判に向かう。ウイルスの蔓延によって必要とされる措置をフーコーの監視と制御という馴染みの範例に切り詰めてはならないとジジェクは言う。つまり、国家がウイルスの蔓延に対する対策として監視と制御を強めているのだと非難することが、何か有益な結果をもたらすとは思えない。
    ジジェクのフーコー批判は、わずか数行に過ぎないが、このしかしこのジジェクの論稿の表題がまさしく、フーコーの著作を揶揄していることを示している(注3)。
    さてでは、ジジェクはどうしたいのだろうか。ジジェクはそこで、コロナウイルスの蔓延によって、コミュニズムに新たな息吹が吹き込まれていると言う。もちろんジジェクの言う共産主義とは中国のことではない。中国に対して、ジジェクはもっと情報公開をすべきだと指摘する。そして西洋諸国は、中国よりもずっと透明かつ民主主義的な方法で問題解決ができるのではないかと言う。
    ではジジェクの言うコミュニズムとは何か。それは国際協調である。医療機器を確保するために、他国と連携して情報の共有をすることが必要だ。コロナウイルスは、私たちの市場グローバリズムが限界を持ち、国家主権にこだわるポピュリズムの欠陥を示している。しかも私たちはそこで、中国の独裁が素晴らしいと思う必要はない。情報隠蔽が事態を悪化させているのだから。またユートピアを目指すのでもない。そのような理想を問うのではなく、今まさにグローバルな連携が生存に必要だということなのである。
    ここでジジェクは案外まともという気がする。もっと過激なことを言う人なのだと思っていたが、極めて現実的なことを言っていると思う。
    さらにジジェクは、身体の規律に言及する。身体を謳歌してはならないとジジェクは言う。やたらに汚れた物に触れず、公衆トイレのベンチに座ってはならず、人との抱擁や握手を避け、鼻に触れたり、目を擦ったりはしてはいけない。国家が個人を統御し、規律化することを批判するのではなく、自らが身体を統御し、規律化することを学ばないとならないと言うのである。
    そしてこの短い論稿の最終的な結論は、ウイルスとの共生である。ウイルスを受容すること。私たちは深刻な脅威を被っており、私たちが生活様式を全面的に変えるしかない。混乱も錯覚もせずに、私たちは集団で連帯するしかない。つまりこれもコミュニズムだ。ウイルス感染は、私たちの生命が根本的偶発性と無意味であるということを思い起こさせる。私たちはそこで、このウイルスを徹底的に排除して、自律した倫理的主体となることを目指すのではなく、それを受け入れるしかないのではないか。受容こそが相手との共生の秘訣である。
   
    さて以上のジジェクの理論の背後にヘーゲルが控えている。それは次の3点に現れている。
    まずジジェクは随所で、フーコーを揶揄する。ただここで、そのフーコーへの揶揄を拾い出して来たところで、あまり生産的な話ではないだろう。その最もまとまったものは、『厄介なる主体』にある。ここでジジェクはフーコーの批判に際して、ヘーゲルの身体論に依拠する。
    ジジェクによれば、ヘーゲルもフーコーも、規律と主体形成とを密接に結び付けている。主体がどのようにして、自ら進んで権力に具体的な形態を付与する規律へ自分自身を従属させるのか。そのことが問われる。
    ここでジジェクは、「規律がどのような形で実践されるのかを記述するヘーゲルの説明が、フーコーのそれよりも優れている」(p.184)と言うのである。それは、規律がどこから来るのか、その超越論的な由来を説明しているからだとジジェクは言う。
    それは死の恐怖から来るとジジェクは言う。私は死の恐怖から、つまり私は死から逃れられないために、身体によって否定を具体化する。身体は老いて行く。その身体から私は抜け出すことはできない。そこで私は身体を鍛える。つまり身体を否定し、その否定を具体化するのである。私は規律によって身体を形成する生を生きる。それが陶冶である。私の中の過剰な生の実体を本来あるべき状態まで戻す。ここで欲望を受け流す努力が必要である。身体を否定することが否定を具体化することになる。
    これはヘーゲルが『精神哲学』で展開する、習慣論に依拠している。ヘーゲルは、「習慣とは、身体性を陶冶し、鋳造することである」と言う(410節の本文とその注)。それは機械的な反復によって、身に付くものである。ここで身体は、主観的目的によって、服従させられる。
    注意すべきは、精神によって、身体を支配せよということではないということだ。ここで問われているのは、「精神錯乱から習慣へ至る弁証法的進行の必然性」(410節補遺)である。精神は、この段階における精神錯乱を含め、様々なその進展の段階で病に陥る。いやむしろ、精神とは病そのものだというのがヘーゲルの言いたいことだ。そもそも最初から、精神は病んでいる。病に陥り、死を自覚することが、精神の始まりであった。そのことは、自然の展開を論じた『自然哲学』の最後のところで、如何に動物の身体から精神の萌芽を論じるかというところで語られる。またそうやって発生した精神の展開を論じる『精神哲学』の最初の箇所で、何度も精神は病に陥ることが繰り返される。弁証法とは、事態が決して解決などしないで、何回でも同じことを繰り返すということを示す技法である。
    そして以下に述べる無限判断論的に、強引に精神と身体は結び付けられる。ここで身体が精神を受け入れる。しかし精神が身体を支配し切ると言うのではない。それは最初から無理な話で、だから精神は次の段階に進んでも、身体に制約されて、また病に陥るのである。
    ここで寛解という言葉を私は使う。つまり病は習慣によって、一応は克服される。しかしそれは寛解と言うべき状態である。とりあえず、社会的生活ができる程度には、病を克服する。つまり身体を支配しなければならない。しかし支配し切ることなどできず、またそのことを目指すべきでもない。うまく身体と付き合うこと。共存が必要だ。それは病気を、それは身体的なものであれ、精神的なものであれ、根治するという性格のものではない(高橋2017 3-2)。
    とりあえず、精神と身体の折り合いを付けるしかない。その折り合いの付け方が習慣論であり、それがヘーゲルの規律論である。
    次に無限判断論を書く。ウイルスは生命であり、かつ生命ではない。これはヘーゲルの無限判断論である。第二論文の訳者は、この無限判断論をカントのものだとしているが、それは間違いである。私が何度も今まで書いているように、カントの無限判断は、生物と非生物というように、ふたつの異次元に属するものを峻別する判断である。つまり生物は非生物ではないというのが、カントの強調するところのものだ。それに対して、ヘーゲルにおいて、その論理は、まったく異なるふたつのものを強引に結び付けるものだ。生物と非生物はまったく別の次元に属するはずなのに、それがウイルスにおいて、結び付いている。つまりウイルスは生物であり、生物でない。ここは私のジジェク論の第二回で詳述した通りである。またそこで強調したのだが、ジジェクの無限判断論こそ、ジジェクのヘーゲル理解の要である。この論文でも、この理論が使われているのである。判断論の形式に沿って言えば、生物だと思われているウイルスは、非生物であるということになる。そしてこれこそが、ウイルスの特徴である。まずこれを確認する。
    このことを生物学の用語を使って言い換えると次のようになる。
    生物はまず、自己を持ち、つまり自己の境界を決定する。次に、代謝を行う。そして三番目の特徴として、自己複製を行う。この3つの特徴がある(田中博 p.198ff.)。しかしウイルスは、自己増殖するためのDNAやRNAを持ち、それを保護するための蛋白質のカプセルを持っているが、代謝はしない。そのため他の生物の細胞に寄生し、そこで自己複製をする。すると自己複製をする能力があるという点で、生物の特徴を持っているが、代謝をせず、自分だけで個体を維持することができない。その点で生物ではない。ここで生物という高次のものと、非生物という低次のものが、ウイルスという存在において結び付いているということになる。
    次に人間も、人間が自認する限りでは、生物を超越して、精神性を持っているということになる。つまり生物の一員でありながら、それを超える存在でもある。人間もまた生物であり、生物でない。するとそこから、ジジェクは、精神はウイルスであるという無限判断を主張する。生物を超えていて、しかし生物としての特徴を持つ高次の精神と、生物の特徴を持っていながら、生物になり得ない最も低次のウイルスを、ここでジジェクは強引に結び付ける。そしてここから精神を持った人間と、ウイルスの共存のための理論的基盤を作るのである。
    最後にコミュニズム論の理論を、これもヘーゲルを使って説明する。ジジェクは『ポストモダンの共産主義』の中で、コモン論を主張する(p.154ff.)。それは私的所有と共有を同時に成立させる論理である。これは情報化社会において実現される。今、コロナウイルスに効くワクチンや治療薬が開発され、安く提供できるようになったとしよう。個人はそれを個人の財産で購入し、服用する。つまりそれを個人の身体に中に入れる。それは私的所有するということである。しかしそのワクチンや薬を作るためには、人類が今までの知的財産として共有して来た知を活用するしかない。するとワクチンや薬を服用するというのは、私的所有をすることでもあり、共有財産を使用するということでもある。これは例えば、夫婦で共有していた財産を、離婚したら、半分ずつそれぞれが私的所有するというのとは違って、人類全体でその成果を共有しつつ、それぞれその成果のすべてを個人が享受する。そういう仕方で、私的所有と共有が同時に成立している。これがコモンである。そしてここでも、この私的所有と共有というカテゴリーを異にする概念が、無限判断論的に結び付けられて、そのことにより、コモンにおいては、所有の概念を超克しているのである(高橋2013 第1章)。
    この3つの理論がまさにヘーゲル理論そのものなのである。ここでジジェクのヘーゲル理解は的確であるということもできるし、ジジェクの理論は、ヘーゲルの受容の上に成り立っていると言うこともできる。それは独自の仕方ではあるが、しかしまさにその独自の解釈により、ヘーゲルが生き生きと活用されている。それは体系性も主体性もことごとく破壊して、なおそのことによって、その概念を生かすというやり方において成立している。
   
    さて、ここでジジェクの言いたいところを参考にして、拙論の補足をする。
    まず私はウイルスが進化に関わっているということを指摘したい。ウイルスに生物が感染し、それが進化の原動力になっている。生物の特徴を持ちつつ、しかし生物でないために、生物の中に入り込み、そこで自己複製をする。それが進化を促す。もっとはっきりと言えば、進化とはウイルスによる伝染病なのである(中原・佐川)。
    ここで私は、ジジェク以上にジジェク的なことを言っているつもりだ。ウイルスが生物の集団の中で、水平移動し、感染を広げる。また親から子へと垂直の移動もする。宿主の細胞の遺伝子に、自己の遺伝子を潜り込ませる。そしてそのウイルスが組み込まれた遺伝子が増殖し、世代を超えて子孫に遺伝する。進化はこのようにして起きる。生物はウイルスをこのように自己の中に取り込んでいるのである。少なくとも確実に言えるのは、人間が人間になったのは、ウイルスのお陰であり、人間は自らの出現の時からウイルスと共にいたのである。
   
    私のコロナ危機論の第一回目に、トリアージについて書き、第二回目の中において、3月中旬に、ヨーロッパにいて、高齢者を守るべきだと書いたジジェクと、5月上旬の日本で、社会的経済的活動ができないことで、かつ長期的な見通しが必要なのに、短期的な行動自粛要請をいつまでも解除しないために、苦しんでいる人たちを救いたいと考える点で、同じ立場にいるのだと書いた。
    実際私は、功利主義的な発想(ただし最大幸福ではなく、最小不幸という主張)が必要だと書き、それこそが弱者を救う正義のための議論の基盤であると、正義論者を苛立たせるようなことを言い、あるいはそのために生物学的人種主義だと批判される。しかし他者の犠牲の上に、私が生かされていると考えることが、他者との共生の原理であると私は考えている。それは効率性を求めるものでも、競争を正当化するものでもなく、その反対のものである。社会的経済的弱者が如何にして生きて行くのかということが、今問われているからである。
    さらには首相はもう少し強権を発しても良かったのではないかとも書くと(ただし、客観性を示す、責任を取る、補償をする、国民に語り掛けるという4点を伴った上での話だが)、いつからお前は権力の側に回ったのだと言われる。しかしそういう批判をする人たちが、相変わらず、自粛要請こそが規律的な介入だとか、感染予防を促すために、巧みに人々の行動を誘導する思考が最も危険だとか、従順な身体を作ろうとしているとか、それこそ生権力だと言われると、ジジェクに倣って、フーコー的言説への嫌味を言いたくなる。抵抗と権力を第一に考えるべきだという論調に、ジジェクではないが、揶揄したい気になって来る。つまりやたらと国家権力を批判すれば、あるいは人々の中に発生する権力性を指摘すれば、それで良いということではない。
   
    第一論文において、ジジェクはコミュニズムの必要性を書き、第三論文では、今コミュニズムの必要性からもうすでにその試みが始まっていると書かれている。日本でも一律に10万円が支給されることが決まったが、これは必要性に促された、最低限の、コミュニズムの実践であるからだ。その主張は第二論文を補強する。
   

1 ジジェクは、5月の早い内に、Pandemic!: COVID-19 Shakes the Worldという本を出すそうである。私はその予約注文をしているが、しかし5月11日現在、まだ入手していない。
   
2 本サイトで、私が展開したジジェク論は以下の3つである。
「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1) 闇と鬱」 2020/03/07
「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(2) 無限判断論」 2020/03/22
「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(3) 具体的普遍」 2020/04/10
 また、コロナ危機論は次のふたつである。
「トリアージの思想を受け入れる」 2020/04/24
「誰が決めるのか」 2020/05/04
   
3 もちろん、監視と処罰はフーコーの著作の表題(Surveiller et punir, Naissance de la prison)である。
   
参考文献
アガンベン, G., 「エピデミックの発明」高桑和巳訳、『現代思想』2020年5月号
フーコー『監獄の誕生 – 監視と処罰 -』田村俶訳、新潮社、1977
ヘーゲル, G.W.F., 『精神哲学』(上)(下) 船山信一訳、岩波書店、1965
—-       『自然哲学』(上)(下) 加藤尚武訳、岩波書店、1998
中原英臣・佐川峻『生命進化の鍵はウイルスが握っていた』河出書房新社、1997
高橋一行『知的所有論』御茶の水書房2013
高橋一行『所有しないということ』御茶の水書房2017
田中博『生命進化のシステムバイオロジー - 進化システム生物学入門 -』日本評論社、2015
ジジェク, S., 『厄介なる主体』(1)(2)、鈴木俊弘他訳、青土社、2005
—-     『ポストモダンの共産主義』栗原百代訳、筑摩書房、2010
   
(たかはしかずゆき 哲学者)
   
(pubspace-X7807,2020.05.11)