トリアージの思想を受け入れる

高橋一行

                         
 
1. 木村・関沢・藤井論文を紹介する
  木村もりよ、関沢洋一、藤井聡3者による論文「高齢者と非高齢者の2トラック型の新型コロナウイルス対策について」が昨日(2020.4.23)に発表された(注1)。この論文を多くの人に知らせ、それを具体的に分かりやすく説明し、その思想的な背景を詳述するという3つの仕事が、この論稿で私の目指すことである。
  具体的には、私たちは今、8割の外出の自粛を求められている。期間はあと12日間、すなわち5月6日までである。とりあえず、その12日間は何とか凌げるとしよう。しかしその後どうするのか。このまま社会的経済的行動の自粛を続けるのは困難である。しかし多くの人が漠然と、5月7日になったからと言って、すぐに元の社会に戻るとは思っていない。ではどうするのか。そのための議論を今、この数日の間にしなければならない。
  上述の論文の主張は以下の通りである。まず人々の活動をある程度再開すべきである。コロナウイルスの感染者は今後増やしてはならないが、しかし現実的になかなか減ることがない。人々が動き回れば、今後も感染者は出て来て、その中に一定程度の重症者が出るだろう。そうすると、現在の医療の収容能力を上回り、医療が崩壊するかもしれない。そこでもし、そうなった場合は、若い人、重い病を持っていない人の治療を優先する。これが実際に医療の現場で行うトリアージである。その考え方を認めないと、医療が崩壊し、大惨事になる。
  話をもう少し整理しよう。まず現状では、この感染症についての医療と経済のバランスを図らねばならないのに、その際の中長期的な見通しがない。多分今のままだと日本政府は、5月7日からある程度自粛を緩め、人々は社会的経済的活動を始めることになるが、しかしそうなると再び感染者が増え、また数か月後に強力な自粛要請をすることになる。これを多くの人が免疫を獲得するまで、または有効なワクチンが開発されるまで、つまり今多くの専門家が言うところでは、あと2年くらい繰り返すだろう。政府の今までの対策の取り方の遅さ、感度の鈍さ、その不手際を考えると、なし崩し的にそうなるだろうと思う。これが著者たちの言うプランAである。しかしこの場合、つまり一時的に国民の自由な行動を認め、そののちに再び強力な自粛要請を行った場合、その際には国民は一律に10万円がもらえるということもなく、それはもう無理だというのが多くの人の気持ちだろうと思われる。暴動が起きるかもしれない。一方で、今のような強い自粛要請を今後も続けるという選択肢もある。これがプランBであるが、これも無理である。私たちはもう限界まで来ているのである。これ以上、社会活動と経済の衰退、心身の健康悪化、教育水準の低下に苦しむ訳には行かない。あと12日間というのが、我慢できるぎりぎりのところである。
  そこでプランCが出て来る。それは高齢者は隔離、保護するが、高齢者以外は社会的経済的活動をある程度認めるというものである。どの程度認めるかということについては、後述する。それは現在スウェーデンが行っている。このことも後に詳しく述べるが、そこでは社会的経済的活動の制約が少ないというメリットはあるが、感染者はプランAやBに比べて多くなる。そしてそこで一番の問題は、重症感染者が医療の収容能力を上回るリスクが出て来るということなのである。そこでスウェーデンでは、集中治療室(ICU)に、①80歳以上と、②60歳から80歳の間で、深刻な臓器不全がある人は入れないという方針が打ち出されているのである。
  考えるべきは以下のことである。つまり高齢者は集中治療をしても延命の可能性が少ない、または延命しても、その後にすぐ亡くなる可能性が高い。だからそういう人は、医療の収容能力が逼迫した状況の場合は、最初から遠慮してもらって、延命治療を行わないということである。これがトリアージである。ただし重要なこととして、その際に、高齢者の側にもメリットがあり、それは重症になった場合、人工呼吸器を使って延命するよりも、それらの処置をしないで、安らかに死を迎えた方が苦痛が少ないということがあるということである。
  また高齢者を見殺しにするというのではなく、ウイルスに感染しないよう、最大限配慮するということ、さらにワクチンが開発されれば、優先的に高齢者に接種できるようにするということにも著者たちは言及している。
  さて日本でもこういうトリアージを行うべきだというのが、この論文の主張である。医療に余裕があるときは、高齢者を受け入れるが、医療崩壊の恐れが出て来たら、年齢が高い順に、及びすでに持っている病気の症状が重い順に、救急病棟やICUに行くことは遠慮してもらう。
  この選択肢を取る根拠は、現時点で、コロナウイルスによる致死率は、若い人の場合相当に低く、つまり他の病気や交通事故で死亡する場合よりも、確率が低いということが、またこれはとりわけ日本ではそうだということがある。だからある程度の社会的経済的活動は許容すべきだということになるのである。またさらにトリアージをして行けば、医療崩壊に至らないという程度に、医療の収容能力があり、またその程度の感染者数しか出さないという計算があっての話ではある。専門家がそのためのシミュレーションをし、計算をして、十分に医療と経済のバランスを取れるという前提に立っての話ではである。
  そういう政策を採ることで、私たちはコロナウイルス以外の病で死ぬ人、自殺者、さらには飢え死にする人を増やさないということが可能になるのである。
 
2. タイミングが重要だ
  昨日(4月23日)、私自身もファンであった岡江久美子が亡くなり、ショックを受けている。40年余り親しんできた彼女の顔がアップされたテレビ番組を見ながら、この論稿を書いている。今の気持ちとしては、私たちの活動を完全に自粛して、このコロナウイルスを撲滅したいというところだ。感覚的に言って、今、日本全体でその機運は高まっているように思える。
  ただし多くの人にとって、それはあと12日間、つまり5月6日までの話なのである。しかしそれでいて、誰もが、5月7日から、また元のような生活に戻れるとは考えていない。不安を感じつつ、しかしとにかくあとしばらくは自粛しようということなのである。
  注意すべきは、この数か月の私たちの周りの状況の変化の速さと、それに対する政策の遅さのアンバランスである。コロナウイルス騒ぎは外国の出来事だと思っていたものが、私たちの周りに感染者が出て、そうなると一気に、職場には行くな、自粛せよという話になり、仕事が滞り、苛立ち、一気に将来の不安が出て来て、まるで悪夢を見ているのではないかという、この月並みの文句が最も今の私の気持ちを良く表していて、せめて散歩くらいはしたいと思っても、今やそれすら自粛せよと言われ、絶望的になり、そしてもはや何が起きても驚かなくなっている。
  諦めつつ、しかしあともう少しの辛抱だと思い、同時にこれがもしかしたらずっと続くのではないかという不安の中にいるのである。そこにこういう選択肢が突如として出て来る。言われてみれば、当然出るべくして出て来た考え方だとは思う。しかしすぐに受け入れる訳には行かない。こんな極端な考えがついに出て来たのかという気もする。
  一番の問題は、まだこういうことを議論するには早いかということなのである。これは4月24日現在の感覚である。しかし連休の終わる5月6日を間もなく迎え、さてその翌日から元の経済活動ができるとは到底思えず、しかしさらに自粛を続ける訳にも行かないとすると、この選択肢を真面目に検討する必要がある。
  つまり5月6日までに議論をして、方向性を出さねばならないことなのである。まだしばらく自粛を求めつつ、しかし一方では、次の対策を取るための準備をしなければならないのである。
 
3. トリアージの思想を受け入れる
  重要なのは、医療崩壊を防ぐべく、決断をする医療従事者の考えを最大限尊重することである。高齢者や病の想い人を治療の現場から外すと、あとになって訴訟を起こされてしまうのではないかという恐れが出て来る。そうなると判断が適切にできなくなる。しかし助かる命は助けなければならない。医療従事者の苦渋の決断を、私たちが共有することができるかということが問われている。
  人の命よりも経済を優先するのかとまず言われるだろう。完全に社会的経済的活動を控えれば、感染は止むはずだからである。しかしこのまま活動の自粛が続けば、コロナウイルス以外の病や自殺で死ぬ人が、さらには飢え死にする人が出てしまう。
  また政府が本気になれば、ほかに対策はあると考える人も多いだろう。しかし現実的にそういう政策があり得るのか。
  老人にも等しく生きる権利はあるとか、お前が80歳を過ぎて、あるいはお前の親が該当するときに、それでもこの主張ができるのかとか、お前は人殺しを認めるのかとか、それは非人間的な判断だとか、様々な非難が来るだろう。
  しかしすべての人を助けられないときに、では誰を助けるかということが問われるのである。トリアージというのはそういうことだ。しかしそういう議論はそもそもしてはいけない。すべての人を助けるべく、全力を尽くせという根性論が展開される。結果はどうあれ、すべての人を救おうという努力が尊いのであるという動機の純粋さが評価されたりする。
  また今まで一所懸命社会に尽くして来て、最後は捨てられるのかということにもなる。ものすごい批判に晒されることは覚悟しなければならない。
  しかしその人が社会的に地位があるのかとか、経済力をどのくらい持っているかということで人を判断してはならないので、原則をはっきりさせることが必要なのである。つまり全員を助ける訳には行かないときに、第一に年齢で、第二に治療の見込みのない病を患っているかどうかという、これは医者の判断で、優先順位を決める。原理はこのふたつだけにしないとならない。原理原則をはっきりさせないと、社会の中で力を持った人が優先されてしまう。
  これは功利主義の原則である。功利主義は、最大多数の最大幸福を求める考え方だが、ここではそれを少し修正して、最小の不幸を求める原理だと言っておこう。どういう政策が望ましいのかということではなく、どういう政策ならば、不幸になる人が少ないかということなのである。繰り返すが、社会的経済的活動を制限して、コロナウイルス以外の病による死者、または自殺者、さらには飢え死にする者を出すよりは、厳密に計算して、医療崩壊をさせない程度に社会的経済的活動を認めて、高齢者と病を持った人に治療を断念してもらうという話なのである。
  この功利主義の考え方は、しばしば支配の原理だと言われる。要するに、人に冷たいということだ。社会全体の利益のために、等しく生きる権利を認めないと言われる。テクノクラートの思想だとも言われる。正義に悖るとも言われる。
  功利主義を批判するために、正議論に基づいて、次のような例え話がなされる。つまり単純に、人命に関わる話を功利的原則で判断して良いのかという批判がなされる。
  例えばこんな話がしばしば語られる。難破した船に、人数に限りのある救命ボートがあった場合、誰をそこに乗せるかとか、ブレーキの壊れたトロッコが、どちらのルートに進めば被害が少ないか選択を迫られるという話だ。そういう話は、ナンセンスだと私は思って来た。つまりそういう事態になったら、とっさの判断をするしかない。どちらの判断をしても、判断者を責めることはできない。それだけの話だと思っていた。そういうあり得ない話を持ち出して、功利主義だけで判断をしてはいけないとするのは、感心しない。私はそう思って来たのである。しかし今、そういった通常ではあり得ない判断をしなければならない事態が生じている。
  こういう判断が、私が経験する限りでは今初めてと言って良いのだが、それを現実に私たちは迫られているのである。重要なのは、とっさに判断するのではなく、なし崩し的にどちらかの道に進むのではなく、意識的に議論をして、判断をしなければならないということなのである。そこが、上述の例え話と、今回の話の異なる点である。熟慮し、議論を尽くして決めないとならない。
  じっくりと考えることが重要だ。じっくりと言っても、あと12日しかないのだが。
  もちろん、そういう重大な選択を国民にさせるのかという批判もあり得よう。難しい判断をさせて、国民に苦痛を負わせないようにするために、選ばれた政治家がいるはずだという考え方もある。つまり一方で、専門家でも何でもない国民に過剰な負担はなるべく避けるべきだという保守からの批判がある。他方で、経済がうまく行かなくとも、誰もが平等に生きて行く方が幸せだという左派からの批判もありそうだ。
 
4. 5割程度の活動を認め、あとは効率化を図る
  さてトリアージを認め、多少感染者が増えることは覚悟して、社会的経済的活動を5割程度認めるとしよう。この5割という数字に根拠はない。私の勘である。数字については、具体的に専門家が様々なシミュレーションをして決めるしかない。議論の便宜上、仮に5割と言っておく。これも5月7日からの具体的な行動を決めるための議論を、その数日前までには十分時間を取ってしなければならない。その政策の根拠を示す数字を出すべく、あと数日のタイムリミットで、急いで専門家にシミュレーションをしてもらう。今まさにその時期なのである。
  つまり、どの程度社会的経済的な活動を認めると、どの程度感染者が増え、どの程度の医療が必要なのかということだ。先の①高齢者と、②すでに重病を患っている人に、集中治療室に遠慮頂いて、なお医療が崩壊してはならないから、もちろん無制限に社会的経済的活動を認めるということではない。
  またそのシミュレーションをするためには、PCR検査を広く行って、感染者数の実態を計算することと、血液検査をして、抗体を持っている人がどの程度いるのかの推測も併せて必要だ。ここで言うべきは、その計算をする時間は、もうあまりないということだ。その計算の上で、5月7日から、私たちがどのような行動を取るのか、決めなければならないのである。
  仮に上述の様に私たちが認められる活動は従来の5割程度だとすると、通勤時の混雑も、まずは可能な限り、時間差通勤をすることと、そもそもの労働時間を短縮すること、それにすでに行われているオンライン化をさらに進めることが必要で、その上でしかし仕事に出掛けなければならない人には、それを認めて行かねばならない。レストランや飲み屋も、隣席との間隔を空けて、換気を良くして、アクリルの対面パーテーションを設置して、営業を再開する。その目安が5割程度ということである。
  私たちは、もうあまりに政治的決定が遅いことにうんざりしている。軽症者及び無症状者に、自宅またはホテルなどの施設に入れるべきだという議論が具体的に出て来たのは、4月に入ってから。東京がホテルを押さえて、そこに収容し始めたのが、7日である。軽症であっても悪化するかもしれず、また家族に感染させてしまうから、自宅ではまずく、専用の宿泊施設を利用すべきだと厚労省が方針を示したのが、23日である。あまりに遅すぎる。
  また首相がテレビでPCR検査について「ドライブスルーも含めて検討していきたい」と述べたのが7日。実際にPCR検査センターが、江戸川区で都内初となるドライブスルー方式を採用したのが、22日。
  そういった施設をさらに充実させ、さらに集中治療室に入れない高齢者に残りの人生を安らかに過ごしてもらう施設も充実させて行かねばならない。上述の話はそれらを用意してからのことだ。それまでは社会的政治的な行動の緩和は認められない。なし崩し的に認めて、それで感染者が増えて、慌てるという失態はまずい。
  まずは専門家が準備を始める。私の楽観では、時期が熟せば、多くの人がこうするしかないと思うかもしれないと思う。それは先に苦渋の選択と書いたが、ある意味、諦めではある。しかしそうやって、私たちはウイルスと共存しなければならない。ウイルスを撲滅するのは困難である。むしろ何もしなければ、人類の方が滅びるのではないか。そうならないための準備を、つまりその対策の議論をするために、専門家は具体的なシミュレーションを急げ、準備はしておけというのが、今回の結論である。
 
5. スウェーデンの実態
  最後にふたつの記事をその内容を要約して紹介する。スウェーデンの現状について、批判的なものと好意的なものだ。
  まずは批判的な記事から挙げる。2日前のものだ。「スウェーデンの新型コロナウイルスの死亡者数は、なぜ他の北欧諸国に比べて10倍近く多いのか?」という記事である(注2)。
  新型コロナウイルスの感染が拡大する中、いまだロックダウン(都市封鎖)に踏み切っていないスウェーデンでは、4月20日現在、感染者数が1万4000人を超え、1580人が死亡している。人口1023万人のスウェーデンの死亡者数は、他の北欧諸国の10倍近い。隣国のノルウェーでは、7100人以上が感染、181人が死亡。フィンランドでは、3800人以上が感染、94人が死亡している。最近のデータでは、ノルウェーの感染拡大カーブが下がって来ている一方、スウェーデンのカーブはまだ平坦化していないことを示している。
  新型コロナウイルスの感染が拡大する中、AFP通信によると、スウェーデンはいまだロックダウンに踏み切っていない。政府は50人以上の集会を禁止し、市民に自主隔離を求めているが、学校、レストラン、ジムは開いたままで、生活はほとんど変化していないように見える。
  スウェーデンのこうした対応はヨーロッパの他の国々とは一線を画すもので、感染者数はまだ減っていない。隣国ノルウェーとフィンランドはウイルスに対し、スウェーデンとは異なるアプローチを取っていて、それが死亡者数の差につながっている可能性がある。
  ノルウェーは3月半ばにロックダウンに踏み切り、学校やレストラン、文化イベント、ジム、観光地を閉鎖した。外国人旅行者の入国も禁止した。冷戦期以降、医療用品を備蓄してきたフィンランドは、新型コロナウイルス対策の一環として、国境の往来を制限し、10人以上の集会を禁止し、学校を休校にした。
  国の緩やかな新型コロナウイルス対応計画によって、その死亡率はウイルスの感染拡大が頭打ちになり始めていることを示しているという報告もあるが、ノルウェーの感染者数はすでに減り始めているのに対し、スウェーデンの感染者数は増え続けているという報告もある。
  変化を起こすことが必要だと語る研究者もいる。当局及び政府は愚かにも、この疫病がスウェーデンまでやって来るとは全く考えていなかったと批判する人もいる。Fox Newsによると、約2300人の学者たちは3月、スウェーデンに対し、ウイルスへのアプローチを考え直すよう呼びかける公開書簡に署名している。この書簡に署名したひとりは、「私たちは状況をコントロールしなければならないし、全くのカオスに向かう訳には行かない。誰もこのルートを試していないのに、どうしてスウェーデンでインフォームド・コンセントなしに、私たちが初めて試さなければならないのか? 」とFox Newsに語った。
  もっとも、スウェーデンではフィンランドやノルウェーよりも多くの人が新型コロナウイルスで命を落としているものの、スウェーデンの新型コロナウイルス対策は他の国に比べて、経済をより早く回復させるのに役立つかもしれないという人もいる。企業が営業を続けていられたからだという。「ロックダウンはしないというスウェーデンの戦略が結果的に無謀だったと判断されるかもしれないが、感染カーブがすぐに平坦化すれば、その経済は(他国に比べて)より回復しやすいかもしれない」というのである。
  もうひとつは、比較的好意的なものである。今日、つまり2020.4.24の日付の「封鎖せず、独自路線 自主性尊重、「集団免疫」目指す―スウェーデン・新型コロナ」というニュースである(注3)。
  新型コロナウイルスの感染が深刻化し、多くの国がロックダウン(都市封鎖)状態にある欧州で、封鎖をしない北欧スウェーデンの「独自路線」が注目を浴びている。ソフト対策の背景には、強制より個人の自主性を尊重する伝統が根強いほか、医療制度が充実し医療崩壊の懸念が少ないことなどがある。さらに多数が自然感染して免疫を持つことでウイルスを抑制する「集団免疫」の形成も念頭にあるとされる。
  スウェーデンの新型コロナウイルス対策をめぐっては、経済的打撃が少ないとして期待が寄せられる一方、高い致死率など感染拡大のリスクに懸念も出ている。
  スウェーデンでは感染が広がる中でも小中学校は開校し、飲食店やジムも通常通りの営業を続けている。集会も50人以下なら可能。学校閉鎖や外出禁止といった厳しい規制を敷く国が多い欧州で異色の対応だ。首都ストックホルムのカフェやレストランは今も、食事や会話を楽しむ人々でにぎわいを見せる。
  政府は、封鎖の代わりに国民に「責任ある行動」(ロベーン首相)を求め、他者と距離を保つ「社会的距離」の実行を呼び掛けている。これに対して大方の市民は、政府方針を許容しているようだ。
  ストックホルム在住約40年の85歳の女性は電話取材に「スーパーや農園に1人で出掛けたりしている。混んでいれば地下鉄に乗らないなど、自分の判断で行動できるのがありがたい」と語る。緩い規制に不安を訴える人もいるが、「スウェーデン人は自分で決めることに慣れている」のでパニックにはならないという。
  しかし、スウェーデンでは23日時点、感染者が約1万6000人なのに対し、死者は2000人近くに上る。厳格な外出規制を実施している隣国フィンランドやデンマークなどと比べ高い致死率で、封鎖しないことによるリスク増に対する懸念も強い。報道によれば、スウェーデンの研究者らは地元紙への寄稿文で「(事態悪化を防ぐ)迅速かつ抜本的な措置」が必要とし、政府に政策見直しを迫った。
  一方、「首都人口の多くが免疫を獲得し、感染抑止に効力を発揮し始めた。数理モデルは5月中(の集団免疫達成)を示している」と解説する研究者もいる。「独自路線」が功を奏するかどうか、世界が展開を注視している。
  ニュースは以上である。私たちとしては、これらの結果が出る前に新たな選択をしなければならないのである。
 
注1 RIETI https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0584.html 。なお、この論文を私は鳴海遊氏から教えてもらった。
 
注2 著者はKelly McLaughlin、日付は 2020.4.22。Business Insider https://www.businessinsider.jp/post-211598 。
 
注3  JIJI.com https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042300702&g=int 。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x7777,2020.04.24)