ジジェクのヘーゲル理解は本物か(2) 無限判断論

高橋一行

 
  無限判断論は、ジジェクのヘーゲル理解の要(かなめ)と言っても良い概念である。これは二千年の昔から哲学史上議論されているのだが、それを活用したのはカントである。そのカントの無限判断について、石川求を参照に、かいつまんで解説すると「魂は可死的である」という肯定判断がまずあり、「魂は可死的でない」という否定判断を受けて、「魂は不可死的である」というのが無限判断で、ここで魂は決して可死的ではないというのがカントの言いたいことだ。つまり無限判断は否定判断の否定性をさらに強めたものである。それは石川の例として挙げる、「月は非スッポンである」という判断で考えたら分かり易く、「である」という肯定的な表現を取っているが、しかしそこで言われているのは、月はスッポンではない、月とスッポンはまったく別のものだということだ。無限判断とは主語と述語が懸け離れた別のものであると言うための戦略的な判断なのである(注1)。
  ヘーゲルの無限判断もこの否定の徹底という点をカントから受け継いでいる。そのことはのちに詳述する。しかし実際にヘーゲルが『精神現象学』で出している例文を考えると、事態はもう一歩先に進んでいる。
  それは具体的には、「精神は骨である」という判断として『精神現象学』の「観察する理性」の節で言われ、ついでそれは「啓蒙」の節では、主語と述語が逆転して、「物は自我である」と言われ、最後に「良心」の節では両者が合わさって、「自我は自我である」と言われる。この3つの判断が無限判断であるが、私はここで、この最初の「精神は骨である」いう判断を、ヘーゲルの無限判断論の典型であると言おうと思う(注2)。注意すべきは、これも単に肯定的なことを言っているのではないということである。精神と骨、自我と物は徹底的に懸け離れたものである。ここではそれが徹底的に離れたものであるがゆえに、結び付けられるのである。否定は徹底されるという点で、これはカントの判断と同じだが、カントは、魂と可死的な存在、月とスッポンと、ふたつのまったく重なることのないものを明確に分断するということに終始したが、ヘーゲルだと、精神と骨、自我と物と、ふたつのものがまったく別のものであるということが言いたいことなのではなく、まったく別のものだから、ふたつは結び付くのだと言いたいのである。この結び付きがヘーゲルの無限判断論の特徴である。結び付けるというのは、肯定することではない。徹底した否定ゆえに結び付けられるという否定性のダイナミズムがヘーゲルの論理である。
  実はヘーゲルは一見すると、この『精神現象学』の無限判断とは異なる形の無限判断を「論理学」で出している。ヘーゲルは「バラは赤い」という肯定判断、「バラは赤くない」という否定判断を受けて、次のふたつのタイプの判断を無限判断として挙げる。ひとつは「精神は精神である」という同一判断、ないしは肯定的無限判断で、もうひとつは「精神は象でないものである」という否定的無限判断である。この両者の関係については、ここで問わず(注3)、後者の否定的無限判断を「論理学」の無限判断だと考える。するとこの無限判断は、先の『精神現象学』と異なった形をしている。先の例では「精神は骨である」というものだったが、ここでは「精神は骨でないものである」ということになり、形の上では両者は異なっている。
  このことをどう考えるか。「論理学」の無限判断は、主語と述語がまったく懸け離れているということを表している。ヘーゲル自身、否定的無限判断では、「主語と述語の完全な不一致を表している」と言い、これはまた「馬鹿げた判断」である(『小論理学』173節及びその注)と言っている。そしてこれはカントの無限判断を受けたものであり、というより、これはカントの無限判断そのものである。
  しかしここまで、つまり「論理学」で判断を論じて、無限判断を提示するところまでは、ヘーゲルはカントと同じなのであるが、ここから違って来る。つまりヘーゲルの場合、判断論はそののちに推理論へと進む。推理というのは、主語と述語を媒介を通じて結び付けることである。ここでカントとは違って、主語と述語は結び付けられる。しかもそこで重要なのは、ヘーゲルの場合、推理論は無限判断論を経由しているということで、つまり主語と述語は一旦まったく懸け離れたものとして提出され、そののちにふたつは結び付けられるのである。
  すると最後に考えねばならないのは、「論理学」においては、判断論でふたつのものが対立させられ、それが推理論で一体化されるという仕組みなのだが、ではなぜ『精神現象学』ではいきなり、つまり媒介を経ずにふたつの異なったものが結び付けられるのかということであろう。
  いくつもの点に留意しなければならない。まずこれも前著で、私は小坂田英之を参照しつつ、次のように書いている(注4)。実はヘーゲルには、ふたつのものを結び付けるという、二極性の無限判断論的発想と、ふたつのものを、媒介を経て結び付けるという、三極性の推理論的発想と、両方がある。このふたつの発想が絡んでいる。そして若きヘーゲルは無限判断論的発想が強かったが、次第に成熟すると推理論的になって来る。このことをまず指摘しておく。
  しかし両者は全然別の発想という訳ではなく、つまり二極性の無限判断論の中に、媒介は隠れて存在しており、一方、推理論的に連結される際にも、無限判断の発想、つまり全く異なったものを結び付けるのだということは含まれている。前者について、私は黒崎剛を援用しつつ、『精神現象学』でも推理論の機構が働いていると論じている。つまりヘーゲルは無限判断を克服して、何とか推理に進もうとする。対立する主語と述語のふたつを無媒介に結び付ける無限判断は、「観察する理性」のなせる業だが、それが「行為する理性」に至ると、自らの行為によって、自己と対象を媒介し、自己を対象的な現実として生み出そうとするのである。これが推理論である。こういう構造が『精神現象学』の中にある(黒崎 第4章第3節「無限判断から推理への展開」)。
  また一方で、後者について今回特に考えたいと思う。つまり一般に何でも対立するものを統一して、自らの中に入れてしまうと考えられるヘーゲルの体系が、案外にもその統一は無理矢理成り立っているに過ぎないのではないかという感覚が、本稿のモチーフとして、根底にある。それは本稿全体で考えて行くことである。
 
  すると問題は、ふたつのタイプの無限判断があることではない。というのも『精神現象学』タイプは無限判断の典型であり、それは直ちにふたつのものを結び付ける技法で、それに対して「論理学」のそれは、ただ単にふたつのものを峻別するだけだが、しかしそれは推理論に進む手前の段階のもので、その分けられたふたつのものは推理論に至って結び付けられるのである。いずれもふたつの別のものを結び付けるということが重要で、問題は、無限判断か、推理かということなのである。
  ここで小坂田が準拠しているシュミッツを見て行こう。その論文はまさしく、「ヘーゲル弁証法の諸原理としての無限判断と推論」という題である。
  「論理学」では、ヘーゲルはカントに忠実に、否定判断に引き続いて無限判断を展開する(注5)。否定はさらに不適合性へと体系を駆り立てる。そして絶対的否定に進む。ここで小坂田やシュミッツは、若き日のヘーゲルをていねいに読み解いている。私はその結論だけをここに書く。そうするとまずカントを受けて、否定を徹底する無限判断があるということになる。そして次にこの不適合性を無理矢理まとめるという無限判断がここから出て来るのである。これが私が『精神現象学』のタイプと呼ぶ無限判断である。そうなると、こちらがヘーゲルの無限判断論として確立される。
  すると無限判断はまず分裂、対立を表すものとして、また『精神現象学』ではここからさらに進んで、対立するものが無媒介にまとめられるというものとして、理解できる。そしてこの後者のタイプをヘーゲルの無限判断と呼ぶ。かくしてヘーゲルはカントと異なる無限判断論を確立したのである。そしてこれは推理論よりもヘーゲルにおいては、初期のころからあるものなのである。ここに初期ヘーゲルの持っていた否定的な性格が良く表れている。無限判断に否定性が徹底されているのである。
  これは先の石川の説と矛盾しない。ヘーゲルはカントを正しく理解してそれを超えたのである。またジジェクなら、ヘーゲルはカントを超えたのではなく、よりラディカルにしたのだと言うだろう。
  問題はしかしそこからさらに、ヘーゲルは推理論に進むということにある。そこで媒介を経た統一がなされる。これは否定の否定と言って良い。否定判断がさらに否定されるからである。シュミッツは「この二重否定は肯定に還帰しないが、それでもやはり二重否定が肯定をもたらす」(シュミッツ2017 p.50)という言い方をしている。ここで否定の否定の肯定的性格が重要視される。それを「思考における宥和と持続性」とシュミッツは言う(同 p.59)。
  続いてシュミッツは、推理論を展開する。無媒介の無限判断と媒介を経た推理論的連結と、ふたつの発想がヘーゲルにある。しかもこのふたつは結合する。『精神現象学』において、すでに無限判断的発想と推理論的発想がうまく融合しているとシュミッツは考えている。またヘーゲルは最終的には無限判断論を推理論と合一し、推理論の内に吸収する。
  ここが重要だと思う。つまり無限判断論と推理論は結局は同じものになるのである。シュミッツはそう言う。
  さらに無限判断と推理で分業ができるとも主張される。まずは無限判断でふたつのものを強引に結び付けておいて、あとから推理論で、ふたつを媒介する項を仕上げて行くのである(シュミッツ2018 p.78ff.)。
 
  さてここで私は、無限判断論を推理論の中に吸収するということだけでなく、逆に推理論の中に残された無限判断的発想を生かしたいと思う。また「論理学」の無限判断を、推理論へと進展させるのと同時に、その中にすでに『精神現象学』の無限判断の発想が見られるということも主張したい。
  つまり「論理学」の無限判断では、ふたつの項が結び付けられていない。それは推理論で結び付けられる。しかし無限判断的結び付きと、推理論的結び付きと、基本的な発想は変わらないのだということであれば、すでに「論理学」の無限判断でも潜在的にはふたつの項は結び付けられている。このことは本稿の最後に、所有の論理を展開する際に重要になって来る。
 
  さて問題はジジェクである。
  ジジェクはほぼすべての著書で無限判断論に言及するが、その大分部は『精神現象学』の無限判断論、すなわちふたつのまったく異なるものを無理矢理結び付けるという意味でそれを使っている。それはヘーゲル理解として正しい。そして「論理学」の無限判断論に言及するとき、これをカントの無限判断論に繋げて論じている。そしてカントの理解についても極めて正しいと思う。
  例えば、『ヒステリー』には次の例が挙げられる。ヘーゲルは『精神現象学』の「教養」の節において、「富は自己である」という判断を提示している(下 p.824f.)。これは「精神は骨である」という判断を反復している。それは主体の対象としての相関物が、骨だとか、金だとかと言った動かない物であるということであり、「支配の社会的関係の媒体という意味で」考えると、主体の対象物として現れるのは、「社会的権力の物質化としての金である」ということになるからである(p.148)。
  白痴の君主も、これも『ヒステリー』にある無限判断の一例である(p.54ff.)。最も理性的である国家の頂点に立つ者は、無教養でも良いし、自然的出生という形式を満たせば、どんな能力の持ち主でも良いのである(『法哲学』280節、及び同補遺)。ジジェクは、合理的に組み立てられた国家と、思考の権力を体現している人物の非合理性との、還元不能な断絶がそこに見出されるという。これも典型的な無限判断である。
  さらに『イデオロギー』では、「富は自己である」という先の判断の他、「国家は君主である」、「神はキリストである」がその例として挙げられている(p.309)。
  また、このあと詳述する『為す』は、無限判断を主題として取り挙げている。ここでは先に、他の無限判断の例として、労働力=貨幣を挙げておこう。労働力と貨幣の交換は、労働力は貨幣であるという、そもそも不可能な等置を措定している。この両項は根源的に両立不可能である。マルクスの商品論は、この無限判断に基づいている(p.42ff.及びp.94)。
  さてジジェクがヘーゲルの無限判断に着目するのは、以下のように、ラカンを経由してヘーゲルを読解しているからである。『ヒステリー』において、無限判断は「主体の否定的運動と、堅固で固定した対象の完璧な無動性を結ぶ等式」である(p.142)。『イデオロギー』においては、主体は、その経験の豊かさをすべて抽出してしまえば、空っぽの場所しか残らない。これこそが主体であるとされている(p.265ff.)。言い換えれば、主体は意味作用によって、自らを表現しようとするが、それは失敗し、その失敗によって空けられた穴こそが主体である。この主体と空、欠如の関係こそ、無限判断に他ならない。
  さらにジジェクはカントの無限判断論にも触れている。とりわけ、それは『滞留』に詳しい。そこにおいては、カントの戦略として否定判断と異なる無限判断を提示することで、叡智的なものが指し示される。つまり「物自体は現象ではない」と言うのではなく、「物自体は非現象である」と言うことによって、現象の世界に限界を引き、物自体を「その限界の彼方の、まったく特定し得ない空虚のうちに位置付ける」ことができるとしている(p.215)。
  このことは『ラカン』においても言われていて、これをカントに拠る哲学革命だと明言する(p.86f.)。これはカント理解として正確で、有益な示唆を与えるものだと思う。
  なおジジェクにおいて、ヘーゲルの「論理学」の無限判断については参照は少ないし、その意義は掘り下げられていない。『滞留』において、ヘーゲルは「カントの裂け目を癒すのではなく、」むしろ「それをラディカルにする」(p.42)と、正確な理解をし、ヘーゲルにおいても、否定判断とは異なる無限判断を出したと説明しつつ、しかしすぐにその無限判断は『精神現象学』の方に移っている(p.47ff.)。
  『為す』において恐らく唯一、そのあたりの詳細な分析がある(第3章、とりわけp.194ff.)。つまり『精神現象学』の無限判断と「論理学」のそれとの関係が議論されている。今のところ、つまり私が気付いた限りでは、ジジェクがこの問題を議論しているのはここだけで、かつこれは極めて重要なものである。
  まずヘーゲル論理学において、判断は4つ取り挙げられている。『大論理学』の言葉で言えば、定在、反省、必然性、概念の判断である。ジジェクは、トリアーデが得意なヘーゲルがここでは4つの判断を出しているのは驚くべきことだとしているが、しかしこれはただ単に、ヘーゲルが忠実にカントに従っただけの話だ。カントが『純粋理性批判』の「概念の分析論」の中で提出した4つの判断、すなわち分量、性質、関係、様態を、しかしヘーゲルは順番を変え、結局は自らの「論理学」のトリアーデに持って行く。すなわち定在は存在論、反省と必然性は本質論で、概念は概念論に振り分けられるのである。従ってカントに従っているように見せかけて、しかしヘーゲルはヘーゲル独自の判断論に持って行っているのである。
  さらにジジェクは定在の3つの判断、すなわち、肯定、否定、無限判断を分析する。その最後のものは、ふたつあって、「バラは象ではない」と、「バラはバラである」のふたつが挙げられていて、つまりそれは、否定的無限判断と同一判断ないしは肯定的無限判断なのだが、このあと本当は3番目に「バラは象である」と言うべきなのに、なぜ言わないのかと問い掛けている。この問いは正当である。つまりこれこそが『精神現象学』の無限判断であるからだ(p.197f.)。そしてジジェクは、この判断だけが無限判断であると言っている。これは今まで議論して来たように、極めて正しい指摘である。
  つまりジジェクは『精神現象学』の無限判断だけを無限判断だと考え、「論理学」の無限判断は無限判断だと考えていないのである。それが無限判断としては不十分なものだからだ。私の言い方では、それはカント的なものであった。しかしヘーゲルはすぐそのあとに推理論を用意していて、結合はそこでなされる。これは今見て来た通りである。だからジジェクは極めて明瞭に「論理学」と『精神現象学』の違いに自覚的であると言うことができるが、しかしその根本において両者が同じものであるということを見逃している。
  さらに続けてジジェクは判断論全体の分析をする。定在の判断から反省、必然性の判断を取り挙げ、最終的に概念の判断に進む。そして定在の判断は最終的に無限判断になるから、そこでは不可能性が論じられていて、反省の判断は、主語と述語が次第に関係を深めるので、これは可能性の判断であり、必然性の判断はその名の通り必然性の判断であり、概念の判断において、その必然性が偶然性に依拠しているということが明らかになるので、これは偶然性の判断であるという指摘をする。ここで先に、判断が4つあるというのは、ジジェクのこの結論部で、ジジェク得意の4項図式に持って行くための伏線でもあったのである。つまり判断は、最終的に、次の4つの項に即して論じられる。すなわち不可能性、可能性、必然性と偶然性であるが、これはラカン理論に対応する。すなわち不可能性は現実界、可能性は想像界、必然性は象徴界で、偶然性はそれら三界を隣接させる症状である。ここでラカンは極めてカント的であると言うことができる(注6)。
  もうひとつ、ジジェクの分析で注目すべきは、概念の判断において、すでに推理論が含まれていることを指摘しているということである。「我々はすでに推理の内部にいる」(同 p.213)と明記されている。つまり推理論を主題としては論じないが、その重要性には気付いている。
 
  そこまで説明して、やっと私の主張する所有論の議論に入ることができる。私はヘーゲルの所有論をまとめる作業をする際に、無限判断論の重要性に気付いたのである。
  『法哲学』でヘーゲルは所有の定義を三つ挙げ、それが「論理学」の判断の三つに対応すると言う(53節)。すなわち「(労働して獲得し、標識付けをして社会的承認を得て)占有取得したものは所有物である」、「(その所有物を)使用してしまったので、すでに所有していない」、「(その所有物を、人に)譲渡したので所有していない」という判断は、肯定判断、否定判断、無限判断に対応するとヘーゲルは言う。
  しかし後ろのふたつの判断において、ヘーゲルが言いたいのは、使用し、譲渡したから、もはや所有していないということではなく、使用し、譲渡できるのは、それを正当に所有しているからであるということである。とりわけ私が注目するのは、その最後のもので、ここではこれは「所有は譲渡である」と言うべきものであると思う。するとこれは、「精神は象でないものである」という「論理学」の無限判断ではなく、「精神は骨である」という『精神現象学』のタイプの判断になる。
  つまり、所有とは人にその物件を譲渡してしまって、所有していないということこそ所有なのであるということだ。所有物は持っていてはいけないのである。まずはそれを使用し、さらにそれを譲渡して、社会的関係を作る。それが無限判断である。「所有は譲渡である」とは「所有とは物件を手元に所有していることではなくて、積極的に人に譲渡することであり、それこそが所有である」という意味である。
  だからヘーゲルの『法哲学』53節の言い方はミスリーディングで、この無限判断は「論理学」の否定的無限判断そのものではないということは確認すべきである。すでにそれは推理論的連結が前提となっていると考えるか、または『精神現象学』で展開されているものと同じだと考えるか。いずれにしても、所有と譲渡と、ふたつのまったく正反対のものを結び付けるという作用が働いている。
  さらに先のシュミッツの指摘に従えば、「所有は譲渡である」という判断は、まさしく所有することと所有しないことという正反対のものを、明確に分けるということを意図しているのではなく、それらをまずは無媒介的に、次いで以下に展開するように推理論的に結び付けることなのである。
  つまり、所有は本当は正当化されていないのである。無理に正当化されているのだと考えて良い。同時に、しかし無理矢理とは言え、正当化されているということも考えねばならない。資本主義社会はその正当化の上に成り立っている。
 
  以下、『法哲学』のその後の展開を見て行く。所有というカテゴリーの次に出て来る契約は推理論的連結である。つまり『法哲学』は所有の段階で、所有とその反対の譲渡とを結び付けるだけでなく、そのことを通じて、社会的諸関係を創り上げているのである。
  所有から契約への移行を見る。「所有することが必然的であるのと同じく、贈与、交換、取引などをすることも必然的である」(71節注)。その前に、「持つという媒介が契約の圏をなす」ともある(71節)。所有の最後の段階で私たちはもうすでに契約の段階に入っている。これは判断の最後の段階で推理に入っているのと同じである。
  72節では、所有者であることを止める限りで、所有者であり続けると、先の譲渡の節(65節)と同じことが言われている。
  そこからさらに不法というカテゴリーに入る。ここでもう一度、否定判断と無限判断が繰り返される。最初は民事訴訟の領域で、あるものが自分のものか、他人のものかが争われ、これが他人のものだとされたときに、ここに否定判断が働いているということになる。つまり所有物が自分のものでないということになるからである。その後に刑事訴訟の領域に入り、犯罪によって、自分のものが人の手に渡ったとき、これは単に自分のものが自分のものでなくなったというだけでなく、権利能力一般、つまり所有における普遍的なもの、無限なものも奪われていて、これは無限判断の領域であるということになる(95節)。
  ここでも無限判断が使われていることに注意すべきである(注7)。このことは「論理学」でも言われている。『小論理学』では、犯罪は、他人の権利一般を否定し、法そのもの、法一般を傷つけたから、単に盗んだものを返却すればそれで良いということではなく、刑罰を与えられなくてはならないとされている(173節補遺)。
  私はここで次のことに注目すべきだと思う。つまりここでもまずは所有が問われている。盗まれたり、詐欺に遭ったりすれば、これはもう所有していないということになってしまう。いくら自分のものだと言っても、取られてしまえば、それでおしまい。しかしこのことが所有として議論されるのである。「自分のものは(盗まれたので)自分のものではないものである」という判断がここで成り立っている。先に、使用し、譲渡し、自分のものでなくなったときに、それこそが所有なのだと言われ、その次は盗難に遭い、ここでもやはり所有が問われるのである。
  その上でここではさらに議論が進んでいる。つまり犯罪こそ無限判断だということになっている。単に法に照らして、所有が否定されるという民法上の問題ではなく、刑法においては法の概念そのものが侵されている。つまり否定は徹底している。そうなると刑罰を課して、法を取り戻さねばならない。
  そこで明らかになるのは、法は刑罰を通じてこそ、つまり無限判断を通じることによってのみ回復され、法として機能するということである。そして無限判断は必ず通過しなければならない里程である。
  『法哲学』のカテゴリーも、順に次のようになっている。所有の最後の段階で譲渡=無限判断こそが所有の概念を表すということが確認されて、契約に進み、その後に不法に進んで、不法=無限判断こそが法の概念を表す。そして法の章が終わって、道徳の圏に入る。
  ここで無限判断だとヘーゲルは言うけれども、本当はここにあるのは、とことん否定した上で回復を狙うという否定の否定であり、つまり実際には推理論的な連結がなされているのである。
  そしてそこから『法哲学』は道徳の圏に入る。それまでは、人格と物件の関係が問われたが、ここからは人格と人格の関係が問われる(104節)。そこからさらに人倫の領域に進み、議論は家族、市民社会、国家へと進展して行く。
  『法哲学』は所有に始まり、国家の章で終わる。所有とは譲渡であるという無限判断論に始まり、先に述べたように、国家の頂点は白痴王であるという、これも無限判断に終わる。
 
  以下、本章の結論である。ヘーゲルの論理に無限判断の発想は強くあり続けるが、しかしそのことを意識した上で、推理論的に媒介を経た結合が重要になって来る。『法哲学』は無限判断から始まって、無限判断で終わるのだが、しかしそれにもかかわらず、あの強大なシステムを打ち立てているのである。その強さは推理論が可能にしている。すべてヘーゲルの体系は無限判断の上に成り立っているし、その根拠は偶然的なものだというのは正しいことで、その指摘は意味がある。しかしそれだけでは体系はできない。体系構築には推理論が必要だ。
  ジジェクは結局、何でもかんでもすべて無限判断だとしてしまう傾向があるが、そしてそれは間違いではないと思うのだが、しかしそれらが推理論的に繋がっている、その機構をそれとして説明をしないと、ヘーゲルの意義が理解されないと思う。無限判断論だけで片付けてしまってはいけない。これがジジェクに対する私の批判である。このことは次回さらに考えて行きたい。
 

1 このことは石川求を参照して、「公共空間X」「病の精神哲学10 カントの無限判断を問う」(2018.8.9)で扱った。この発想がカント理論の根本にあり、そこから物自体と現象世界のふたつを峻別するということも言われるのである。
 
2 かつて私は「無限判断の原型」とか、小坂田に倣って「最初のモチーフ」という言い方をした。そのことは、『知的所有論』第1章と『他者の所有』第2章第3節に書いた。
 
3 岡崎秀二郎は、この「論理学」の否定的無限判断と同語反復的判断の関係について考察している。そして『大論理学』において、まずは否定的無限判断が成立し、そこから同語反復的判断を肯定的無限判断とする機構を説明する。そこから「判断の極限的な無意味さを通して、有意味な判断を成り立たせる背景的枠組み」(岡崎 p.173)を提示しているという結論を出している。
 
4 吉田達は、『精神現象学』の無限判断を、「論理学」の文脈で考えるのではなく、その無限性を意識しながら読むべきだという(吉田)。実際、推理論に至る前の段階の無限判断よりも、それ自体で完結している『精神現象学』の無限判断の方が、何と言ってもインパクトがあると言うべきである。吉田が、ジジェクと同じく『精神現象学』の無限判断論にこだわるのは当然だろう。しかし推理論を読み解き、そこに隠された無限判断的発想を生かすことにこそ、ヘーゲルを読む意義があるのではないかと私は考えている。
 
5 「論理学」で私は『大論理学』と『小論理学』の両方を含めるのだが、シュミッツは、さらに『ギムナジウム論理学』として知られている1809年前後のものも含めている。
 
6 前中期のラカンはカント的であるが、その後晩年はヘーゲル的になると、ジジェクは別の本で言っている。それは正しく、そのことについて私は未発表の論文で扱っている。
 
7 このあたりは小坂田1996が詳しく議論をしている。
 
参考文献
ヘーゲルとジジェクについて、前回参照したものはここで採録していない。新しいものだけを挙げる。
『法哲学』(1820) G.W.F.Hegel Werke 7(Suhrkamp) = 『世界の名著44 ヘーゲル』岩崎武雄編、1978
『小論理学』(1817,1828,1830) Werke 8 =『小論理学』(上)(下)松村一人訳、岩波書店、1951,1952
 
『イデオロギー』『イデオロギーの崇高な対象』1989=2000、鈴木晶訳、河出書房
『為す』『為すところを知らざればなり』1991=1996、鈴木一策訳、みすず書房
『滞留』『否定的なもののもとへの滞留』1993=2006、酒井隆史他訳、筑摩書房
『ラカン』『ラカンはこう読め』2006=2008、鈴木晶訳、紀伊国屋書店
 
その他
石川求『カントと無限判断の世界』法政大学出版部、2018
黒崎剛『ヘーゲル・未完の弁証法 -「意識の経験の学」としての『精神現象学』の批判的研究 -』早稲田大学出版部、2012
岡崎秀二郎「ヘーゲルの二つの無限判断という思想 – 判断の無意味さに関する一考察 -」『J-STAGE 』2019 巻70号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2019/70/2019_160/_pdf, 2019
小坂田英之「ヘーゲルの無限判断論」『ヘーゲル論理学研究』No.2, ヘーゲル<論理学>研究会、1996
—– 「ヘルマン・シュミッツの解釈から見た『ヘーゲルの無限判断論』」『ヘーゲル論理学研究』No.3, ヘーゲル<論理学>研究会、1997
Schmitz, H., Hegel Als Denker der Individualität, Verlag Anton Hain KG.1957 = 「ヘーゲル弁証法の諸原理としての無限判断と推論」(1)(2)、鈴木恒範訳『ヘーゲル論理学研究』No.23, No.24, ヘーゲル<論理学>研究会、2017, 2018
高橋一行 『知的所有論』御茶の水書房2013
—– 『他者の所有』御茶の水書房2014
吉田達「無限判断を、無限性を意識しながら読む – ヘーゲル『精神現象学』における「無限判断」素描 – 」『ヨーロッパ研究』東北大学大学院国際文化研究科ヨーロッパ文化論講座、No.10, 2015
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x7699,2020.03.22)