ヘーゲルを読む 3-2 欲望と他者の原理(バトラー論2) 2014/05/28 by KIT One comment 高橋一行 3-1より続く 欲望を持つ主体と、他者の根源性という結論を3-1で得ていた。そのことを、さらに検討して行く。 バトラーとラクラウとジジェクの3人の共著を読む1 。これは興味深い本である。三者が、それぞれの問題意 Continue reading →
ヘーゲルを読む 3-1 隷属化という原理(バトラー論1) 2014/05/27 by KIT 2 comments 高橋一行 2-3より続く バトラーは、自らの哲学を確立する際に、ヘーゲル『精神現象学』の精密な分析から始めている。1987年の、Subjects of Desireの第1章において、彼女は、『精神現象学』の、最初の「意識 Continue reading →
「芸術」とはどれくらい大切なものだろうか 2014/05/25 by 西兼司 No comments 西兼司 一、「あすへの話題」への感興 二、「利休、織部の切腹」と「為政者の想い」 三、「美」と「公序良俗」 四、なぜ、芸術家は嘘をつくのか 一、「あすへの話題」への感興 平成26年5月20日の日本経済新聞夕刊の第1面に乗 Continue reading →
私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(5) 2014/05/23 by 蒲地きよ子 No comments 蒲地きよ子 (4)より続く こうして、作家プルーストと、作品中の≪私≫との間の、像の重なり工合と、ずれ工合とを一応不充分ながら見てきたと思うので、わたくしははじめの疑問に戻って、どうして作家がその話者に名を与えなかった Continue reading →
部落文化・再生文化 連載④(最終回)(第四章 部落の伝統芸能/門付芸の主体と論理) 2014/05/23 by 川元祥一 No comments 循環型社会の基軸/地域社会の再生 川元祥一 作家/評論家 連載③より続く 第四章 部落の伝統芸能/門付芸の主体と論理 農民が稲の豊作を願って行う儀礼に「 田遊[たあそび]」がある。地方によって呼び方が違い、 Continue reading →
なぜ「新しい公共空間」か 連載④ ―近代日本人の「考え方」を考える(続き)― 2014/05/13 by 相馬 千春 No comments 相馬千春 連載③より続く 五 近代日本人の「考え方」を考える ――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を踏まえて――(続き) 6.近代日本における〈朱子学的思惟〉以外の諸要素 小倉は「日本の近代化」を「社会を「再儒教化」する Continue reading →
私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(4) 2014/05/04 by 蒲地きよ子 No comments 蒲地きよ子 (3)より続く 「ただし、≪私≫とだけは決して言わないことですね。」とジッドに忠告したプルーストは、従来の小説に用いられた一人称の、≪複眼的≫でない、一般的に使用される意味の≪私≫を言っている Continue reading →
ヘーゲルを読む2-3 無限判断論を再述する 2014/05/03 by KIT No comments (『精神現象学』読解3) 高橋一行 2-2より続く 『精神現象学』の章立ては、ヘーゲル自身が途中で方針変更をしているために、錯綜としているが、ごく単純化すれば、まず、I「感覚的確信」、II「知覚」、III「 Continue reading →
部落文化・再生文化 連載 ③ (第三章 農村とキヨメ―関係性と分断と未来) 2014/05/02 by 川元祥一 No comments 循環型社会の基軸/地域社会の再生 川元祥一 作家/評論家 連載②より続く 第三章 農村とキヨメ―関係性と分断と未来 ■農業にみる再生文化と牛馬 江戸時代初期、 Continue reading →
私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(3) 2014/05/01 by 蒲地きよ子 No comments 蒲地きよ子 (2)より続く アンドレ・ジッドは1921年5月14日の日記に、プルーストについて次のように書いている。「――私が自分の『回想録』 Continue reading →