フランスとアメリカの宗教観 - 宗教とナショナリズム(1) –

高橋一行

 2015年1月7日のフランスの週刊新聞社の襲撃に始まる一連のテロ事件に対して、2001年の9.11との類似性を指摘する論者は多い。とりわけ、日本に伝えられる限りでは、言論の自由を守れというデモがフランス各地で行われ、それはイスラム教に寛容でなく、ヒステリックな状況があるかのように伝えられているけれども、そこは良く検討しなければならない。10数年前の、アメリカと、確かによく似ている面もあるのだが、しかし、その背景となるフランスとアメリカの宗教観が根本的に異なり、また、テロ後の対応もずいぶんと異なると私は思う。今回は、そのことを説明したい。テロがなぜ起きたのかということについての分析ではない。テロが起きた後の、両国の反応の違いを、歴史的な背景から見て、説明したいと思う。
 また、私は、この問題をシリーズで論じたく、次回は、ハーバーマスの宗教観の近年の変化なども、書きたいと思う。若き日の彼は、宗教には無関心だったのだが、近年は、積極的に宗教について発言している。その変化を見たい。
また、かねてから、私はナショナリズムと宗教の関係について、宗教改革以降の、各国の歴史を見て行きたいと考えていたので、今回は、その第一弾である。なぜ、マルクス主義者やリベラリストが、こういう関心を持たなかったのかということも考えたい。
  
 テロの経緯については、省く。シャルリー社が風刺画を出版し、それに反感を持つテロリストが襲撃事件を起こし、それに対して、370万人とも言われる人々が、テロに屈しないというデモを起こした。そうしてその反応に対して、テロは許されるべき行為では決してないし、言論の自由も、民主主義社会の大原則だということは皆が認めつつも、しかし、イスラム教を侮辱するような風刺画は如何なものか、もう少しイスラム教に寛容になれないのかという意見も出ている。私も結論から言えば、そういう考えを持っているのだが、しかし、注意すべきは、宗教を批判し、風刺もして良いというのは、フランスの共和制の大原則であるということだ。もっと言えば、フランス国民は、19世紀において、圧倒的な力を以って国民を圧迫していたカトリックに対し、宗教批判の自由と政教分離(ライシテ)を、すさまじい努力の末に勝ち取ったのである。しかし、その強者に対抗すべく勝ち取った原則を、今度は弱者であるイスラム教徒に押し付けている。イスラム教が、祭政一致を目指し、日常生活の隅々までに影響を及ぼしていることについて、ここでは詳述しない。書きたいのは、フランスのこの200年の歴史であり、そして今後、フランスはイスラム教徒にどう対応すべきかということであり、そのことを今回の論考の後半には、アメリカと比較して、論じたいのである。
 話はフランス革命から始まる。フランスはそこで共和制になる。しかし、すぐに共和制の原則が確立したのかと言えば、そうではなく、実際、帝政になったり、共和制に戻ったりということを、いわば振り子のように繰り返しつつ、次第に共和制の原理が確立されて行く。そういう大きな流れをまず押さえておく。
それから、19世紀初頭、カトリック教徒は、国民の98%を占めていて、しかし、フランスが、宗教から離れて行くひとつの要因として、残りの2%のプロテスタントとユダヤ教徒が、次第に経済的な力を付けて、宗教の自由を求めて行くということがある。革命前、出生、婚姻、死亡証明書は、カトリック教会の台帳に記されているから、彼ら2%の非カトリック教徒は、今日の私たちの言葉で言えば、戸籍さえ持っていなかったのである。それが、19世紀の100年を掛けて、彼らが自由を獲得し、さらに大きな要因としては、カトリック教徒の側に、ライシテと民主主義を掲げて、「現代的なフランス」を支持する層が出て来て、次第に勢いが出て来る。それが、共和制の原則の確立に、一番大きな要因となったと思われる。
 とり分け教育の分野で、脱宗教が起きる。これは簡単には書けないので、工藤庸子(2007)を読んでほしいのだが、それ以前、修道会を中心になされていた教育が、世俗化されて行く。1882年になって、ようやく宗教と教育が切り離され、宗教は学校教育では扱われなくなり、教師たちは、地元の司祭の口出しから解放される。
その頃、議会においても、保守派に対して、共和派が多数派となり、国家を統合し、強い国民国家に成長させるためには、宗教を批判し、反強権主義を確立することが必要だと認識される。(このシリーズの後の会に書く予定だが、)フランスでは、極めて特異なことに、ナショナリズムが反宗教的なのである。ただし、注意すべきは、この19世紀末、相変わらず、国民の98%はカトリック教徒であり、国民の多くが非宗教的になったのではない。ただ、政治や教育の場面では、宗教的なものを切り離すということが、確認されたのである。
 そうして1905年に、政教分離法が成立する。50回を超えると言われる、慎重な議会での審議を積み重ねて、ライシテが法的に確認される。そしてそれは、1946年の憲法において、「フランスは、不可分の非宗教的、民主的、かつ社会的な共和国である」と謳われることになる。
 単に表現の自由の問題と言うより、それは、フランス共和制の理念の問題である。宗教改革の後、しかしフランスではプロテスタントが広まらず、圧倒的にカトリックが多かったこと、そしてそのカトリックの力が、他国に増して、日常の隅々まで及んだこと、それが王政と結び付いていたこと、そうしてフランス革命が起きて、共和制の原理が出て来て、王政から離れようという動きが、カトリックからも離れようという運動に繋がったこと。かくして、ライシテは、フランスのアイデンティティの核心となり、フランスの統合の象徴となる。
 それが、1980年代末から、その理念が再度問われ始めたのである。これがスカーフ事件である。イスラム教のシンボルであるスカーフを身に付けて、教室に入ろうとする生徒が、校長から注意される。この事件がきっかけでライシテ論争が起きる。そして2004年には、公立校でのスカーフ着用が禁じられる法律ができる。
 フランスにおいて、公の場所で、宗教的であってはいけないという、19世紀の100年間を掛けて、さらには、20世紀まで200年掛けて作り上げた原則が、あっさり、イスラム教徒によって否定されたものだから、フランスは向きになって、こんなものを創るしかない。これは、アイデンティティの危機の問題である。私たちカトリック教徒だって、学校にキリスト教のシンボルを身に付けて来ないのだから、あなたたちもそうしてほしい。そういう建前を、フランスは、再度確認したのである。この原則がフランスを創って来たのだから、あなたたちもフランスにいる以上、その建前に従って欲しいと要求した。それが守られないと、フランスではなくなってしまう。
しかし、移民や移民の子孫は、そうでなくても、教育を受けられず、仕事にあり付けず、フランスで差別されていると思う。この情報化社会の中で、もはや単純労働は必要とされず、知的労働が要求されるのだが、それはますます移民や移民の子孫にとっては不利な条件となる。それに加えて、良く分からないライシテの原則を押し付けられ、一層差別されると思うしかない。
 そういう背景があって、今回のテロ事件が起きる。宗教批判をする権利は、ライシテの認めるものである。いや、上述の歴史的な経緯の中で、圧倒的な力で、日常生活を支配する宗教から離れるためには、フランスでは、タブーを嘲笑し、宗教を冒涜する権利さえ、認められている。しかしそれは、聖俗分離しておらず、ムハンマドに対する侮辱は犯罪であると考える、イスラム教の原理と、あまりにも異なる。
 ライシテは、フランスにとって、普遍的な原理である。それが今や、脅かされているものだから、一層、その原理を確固たるものにしようとする人たちがいる。しかし、片や、経済的に差別されているだけでなく、宗教的にも圧迫されていると感じる人たちが、フランスには、500万人もいる。
 事件の起きた先月(2015.1)上旬、フランスにいた、私の友人知人たちは、皆、日本のメディアに伝えられたのとは違って、フランス人たちが、静かに、しかし、明白な意思を示しつつ、デモに参加していたことを伝えている。しかし、私は、その理性的な態度こそが、事態を複雑にしていると思う。いや、理性的だからこそ、もっとイスラム教徒に寛容になれば良いのにという話では済まない。フランスにとって、ライシテを捨てることはできない。
 
 アメリカは、状況がまったく異なる。2001年、私はアメリカにいて、9月11日を境に、アメリカ人の間で起きた熱狂を嫌と言うほど、感じてきた。いや、その熱狂は、そもそもアメリカに最初に来た時に感じたものが、顕在化したものに過ぎない。観光旅行では分からないかもしれないが、アメリカで、観光地を離れて普通の街で過ごすと、すぐに感じることがある。それは、あまりにも宗教的だということだ。
 選挙が近づくと、宗教界の大物が、運動の先頭に出て来る。津波があれば、神はなぜ、この時期に津波を起こしたのかと、大真面目で、テレビで議論され、延々とそれが放映される。
 統計によれば、現代でも、神を信じている人の割合は、90%以上とも、95%以上とも言われる。
 しかし、政教分離はアメリカにもあり、いや、アメリカこそ、世界で最初に、憲法で国教制度を最初に否定した国家である。ただ、この政教分離は、Separation of Church and Stateであって、政府が特定の教会の便宜を図ってはいけないということに過ぎず、宗教が政治に関わる、または政治が宗教的であることは、政教分離に違反しない。違反しないどころか、むしろアメリカでは、政治が宗教的であることが認められているのではなく、宗教的でなければならないのである。そして、この宗教とは、もちろん、キリスト教である。
 アメリカでは、原理主義という言葉がしばしば聞かれるが、これは、聖書の言葉を文字通りに信じる福音主義者が、その宗教観を政治的に活かそうとすることである。その原理主義者が、アメリカ政治で中心的な役割を果たす。
 実際、共和党のブッシュが大統領の時に、アメリカ政治が宗教的であることに、日本人も気付いたのだが、しかし、その前の、民主党のクリントンでさえ、極めて宗教的で、彼が熱心なクリスチャンで、あることは、日本では伝わっていない。ところが、アメリカにおいては、彼が、教会に熱心に通い、賛美歌を歌う姿は放映されており、そのことが彼に対する信用を創っている。
 それは、歴史を振り返ることで、納得の行くものとなるだろう。17世紀に、ニューイングランドに入った人たちは、ピューリタン的信仰に基づいて、社会を創った人たちである。彼らカルヴァン派は、神政政治とも言うが、宗教と政治が一体化した社会を建設しようとしたのである。
 そしてそれが、19世紀を通じて、維持される。アメリカはキリスト教徒の国であるということは、常に変わらない。しかも、宗教の自由は、建国時からあるのだが、それは、様々な宗派のプロテスタントの中での信仰の自由である。つまり、どうせ皆、プロテスタントなのだから、宗教の違いと言っても、その中での話で、大差ないでしょうという議論が、この19世紀にある。カトリックとユダヤ教が認められるのは、この後である。因みに、プロテスタントは、ルター、カルヴァン以降、ヨーロッパでいくつもの宗派に分かれて、それがアメリカに伝わり、さらに分化して、現在では、数百の宗派があると言われている。
 その後の20世紀の100年間の、アメリカにおける宗教の保守化・政治化については、参考文献に挙げた、堀内2010が詳しい。紆余曲折あり、宗教が政治に組み込まれて行く。
 すると、しばしば言及されるのだが、宣誓において、聖書の上に手を置き、また、演説の中で、神に言及するという、大統領のスタイルも、それが単に許されているということではなく、実は、際立って宗教的なアメリカにおいては、必須の作業なのである。つまり、アメリカ大統領は、常にキリスト教的であらねばならない。アメリカは神に見守られている国である。
 そういうアメリカに、イスラム教徒が増えて行く。彼らがそこで何を感じるのか。また、テロ後のアメリカで、彼らは何を感じるのか。
少なくとも、2001年の秋、イスラム教徒に対する迫害は、すさまじいものがあった。私の住んでいた街には、リトルカブールと呼ばれる一角があって、そこでは、夜中に銃声すら聞こえたのである。ムハンマドを侮蔑する風刺画も、今回のフランスのもの以上にひどいと思われるものを、私は見たことがある。
 そしてアメリカは、アフガニスタンとイラクとの戦争に突入した。それは、国民の90数パーセントの支持を受け、かつ、ひとりを除いて、すべての国会議員の賛成を経て、極めて民主主義的に、戦争が準備されたのである。そしてその戦争は、宗教戦争ではないと、建前としては言われていたけれども、アメリカ国民の多くは、宗教的な対立だと思っていたし、ブッシュ大統領の演説は、敵国を悪魔と呼び、際立って宗教的であった。さらに付け加えれば、今日のイスラム圏の混乱は、その戦争に由来するのである。
 
 フランスもアメリカも、実は相当に特異な国家である。宗教とナショナリズムの問題を考える時に、対照的な事例を示している。そして私たちは、その両国をモデルにして、政治と宗教のことを考えることができるのか。あまりにも特殊な国なのに、なぜ、近代の普遍性を示していると考えられて来たのか。
 
 実際にテロを起こすのは、そして、そのテロを肯定する人は極めて一部の人に過ぎない。しかし、イスラム教徒の大部分は、それぞれの国で、別の仕方ではあるが、差別されていると感じている。それがテロを生む土壌になっているというだけでなく、テロの後の、両国の対応が、さらにイスラム教徒を圧迫している。その、テロとは無関係の、多くのイスラム教徒が、どう両国で生きて行くのか。いや、この狭い世界の中で、どう、様々な宗教が共存するのか。
 
参考文献
工藤庸子『宗教vs.国家 フランス<政教分離>と市民の誕生』講談社、2007
ルネ・レモン『政教分離を問い直す –EUとムスリムのはざまで-』工藤庸子他訳、青土社、2010
森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』講談社、1996
堀内一史『アメリカと宗教 -保守化と政治化のゆくえ-』中央公論新社、2010
(2)へ続く
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1549,2015.02.06)