高橋一行
ペギーダ(Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes 「西洋のイスラム化に反対する愛国主義的なヨーロッパ人」 : 通称PEGIDA)という集団がドイツで注目されている。旧東ドイツのドレースデンに発し、今やドイツの各地で、デモを繰り広げている。私は、実際に、そのデモを見る経験があり、また資料も集めて、ここにその分析をしてみようと思う。
まず、A. von Luckeによれば、それは、名前の通り、反イスラムの動機に基づくのではなく、政治とメディアに対する不信から来るものだという。政治とメディアは複合体を作って、大衆を支配しているが、それらエリート支配に対する、大衆の側の反発に他ならないということである。私の言葉に直せば、それは典型的なポピュリズム運動であり、直接民主主義を志向する、反知性主義の、大衆の情念の発露である(注1)。
また、O. Nachtweyによれば、それは、最初は、東ドイツに発したものだが、今や、全ドイツ的な精神風土の表現であり、また、新しい権威主義的な動向である。それは極右の運動ではなく、神経質なドイツ社会の産物である。急進的な中道とも言うべき運動で、市場経済に埋め込まれた民主主義に対する退行的な欲求の表現であると言う。つまり、経済至上主義に対してアンチを表明する、怒れる市民の集団である。それは権威主義的な徴候であって、ポスト民主主義的な抵抗運動である(注2)。
さて、私は、ペギーダに対しては、考えが二転三転している。
まずは、フランスで、2015年1月7日にテロがあり、それに対して、言論の自由を守れというデモがあり、それが事実上、反イスラムのデモになっているという情報もあって、いわばそのドイツ版として、ペギーダがあるという風に、最初の情報としては、私のところに入ってきた。しかし、フランスは、このシリーズの第一回で分析したように、ライシテの原則に基づいてのデモであり、徒らに反イスラムを煽るものではなかった。一方、ペギーダの方は、明確に、反イスラムのデモであるが、しかし、この集団が発足したのは、2014年の秋であり、年末にすでに、その大規模なデモが行われていて、フランスのテロに呼応したものではない。事実の問題として、まずこのことを指摘しておく。
それから、ドイツ各地にその運動が広がり、その主張するところを見ると、なるほど、先の二人の論者が論じるように、私もまた考える。つまり、その運動は、大掛かりで、派手で、騒がしく、しかし、ストレートに情念に訴え、大衆の直接行動を要求する。そのことによって、右翼でもなく、左翼でもない、広い幅の支持を得ている。年齢層も多岐に亘る。
基本的には、外国人排斥運動なのだけれども、それにとどまらず、様々な主張をし、大衆の不満のはけ口として、機能している。そう考えたのである。
しかし少し違うのではないかと、段々と思うようになって来る。彼らペギーダの要綱を読んでみる。まず彼らは、移民の受け入れに反対しているのではない。ドイツでは、ナチスに対する反省から、戦争難民や、政治的、宗教的な難民は受け入れるべきという伝統が確立しているから、それを尊重するという姿勢を、ペギーダは打ち出す。単なる排外的な運動ではない。ネオナチや極右とは違う。そういうことを明確にしている。
確かにそれは、「ユダヤ – キリスト教に基づく西洋文化を支持する」と謳っているのだが、同時に、「ペギーダは、いかなる宗教に属しているヘイトにも反対する」し、「宗教的、政治的な急進主義に反対する」と謳っているのである。
しかしさらに良くその綱領を読んで行くと、移民がヨーロッパの文化を受けて入れて、それを尊重する限りで、その受容を認めるけれども、移民が、頑なに、イスラムの文化に固執するのなら、ドイツにいることはない。そういうこともまた、はっきりしている。「移民の同化の権利と義務」という言い方をする。そして実際にデモに参加している人たちの考えとしては、イスラム諸国の人々は、封建的な文化に固執し、また、実際、イスラム諸国に民主的な国家などひとつもないというようなことを言って、ヨーロッパ文化と相容れないイスラム教徒を締め出すのである。すると結局は、それは、排外的な運動ではないかと私は思う。
言い分としては、自分たちは寛容で、移民は極力受け入れる。しかし、その移民が、寛容でなく、つまり、彼らの方が、ヨーロッパ文化を受け入れないのならば、その寛容でない集団に対しては、こちらもまた、寛容でなくなる。そういうことである。つまり、本当は、反知性主義の、情念に基づく運動なのだけれども、装いとしては、こちら側は寛容なのに、先方が、野蛮な、反知性ならば、それには対抗するという、反・反知性主義なのである(注3)。
ここで、フランスのデモとの類似性に気が付く。もちろん、両者は、全然異なる。フランスは、オランド大統領を始め、各国の首脳が参加したデモであって、一方、ペギーダについては、メルケル首相は、激しい批判を展開している。もちろん、私は、前者の方が正当性があるということが言いたい訳ではないし、また後者の反体制的なところに、可能性を見出すということでもない。そういうことではなくて、片や、フランスのライシテという知性主義を掲げるデモと、片や、ドイツの情念に基づく、反知性主義の運動が、どちらも、イスラム教を反知性的なものと見なして、それに対抗するという図式を取っており、いわば、そのことによって、フランスのデモの、反知性主義的な側面があぶり出されていると考えられるのである。
ドイツは、しかし、(彼らの言い分では)「野蛮で」、決して、西洋文化に同化しようとしない、イスラム教徒を抱えているだけはない。むしろ、その他の問題の方が、はるかに深刻である。東西格差はまだ是正されていない。それどころか、逆に、格差は増えるばかりである。折しも、ここドイツでも、ピケティーの『21世紀の資本論』の独訳が本屋に並んでいた。まさしく、Das Kapitalとあり、そのあとに小さく、im 21 Jahrhundertと続く。そして、日本ほどではないと思われたが、雑誌で、格差問題が取り挙げられたりしている。
また、ウクライナ問題に象徴されるように、ロシアとの関わりは大きな問題だし、その前提として、東欧とロシアからの移民が急増していて、その問題が大きいと思われる。さらには、ギリシア債務問題に発するEU危機、EU懐疑主義の台頭という問題もあり、このままでは、数年で、ギリシアやイタリアからの出稼ぎ者が、ドイツに溢れるだろう。とりわけギリシア人は、ドイツ人を嫌っていて、しかしその大嫌いなドイツに稼ぎに出かけなくてはならないという、その理不尽さが、新たな問題を引き起こすに違いない。
そういう問題があって、イスラム移民問題だけが突出している訳ではなく、デモもまた、たくさんのデモがあって、反イスラムのデモだけが突出しているのでもない。そう、デモは実に夥しく、ドイツではなされている。雇用の確保や、各種マイノリティー団体の権利を求めて、デモは行われる。
同時にそのことはまた、ペギーダが広がったのは、それが反イスラムの主張だけをする集団ではなかったからだということを意味している。彼らはまず、ロシアを支持する。そして、コミュニティーのために、連帯とヒューマニティーを求める。Wir sind das Volk「我々が国民だ」は、デモの中で、連呼される。これはかつて、東西ドイツが統合されようというときのスローガンである。つまり、彼らは、巧みに、ドイツの伝統に自らが合致するかのように装う。そして、実際、様々な領域に関わっている。様々な要求を吸収する。
ペギーダは、しかし、多くのドイツ人に支持されているのではない。ペギーダの発祥地で、かつ、今でも、ペギーダの最大規模のデモが毎週月曜に行われているドレースデンでも、住民の9割近くが、ペギーダに参加することを拒否すると言い、7割以上が、それを大きな問題だと言っている(注4)。多くの人が嫌悪感を持っていることが、アンケート調査で出ている。しかし、デモは、地元住民ではなく、むしろ広範囲から人を集めている。デモが間もなく始まるという時刻になると、ドレースデン中央駅まで列車で来て、そこから、続々と、デモ会場の広場まで、人が歩いて行く。また、月曜のデモの後は、多くの人が、駅前のホテルに泊まっていて、翌朝帰っている。
せいぜい国民の1割の支持しかないが、しかし広範囲に、その要求を満たす。過激だが、包括的。情動的で、しかし知性の装い。寛容を主張しつつ、非寛容。人の興味を引き付けるが、しかし、底の浅さも露呈している。
注1 Blätter für deutsche und international Politikの2015年2月号所収の論文 ”Terror und Pegida, Gebt un sein Feinbild”。著者の、A. von Luckeは、政治学者、雑誌編集者。
注2 同3月号所収の論文 “Rechte Wutbürger, Pegida oder das autoritäre Syndrome”。著者の、O. Nachtweyは、政治学者、社会学者。
注3 『現代思想』2015年2月号は、「反知性主義」の特集を組んでいる。興味深い論考が並んでいる。その中で、今回特に、酒井隆史の論考を参照した。
注4 http://www.newsdigest.de/newsde/news/top-nachrichten/6743-2015-2-12.html (2015年3月14日)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(6)へ続く
(pubspace-x1734,2015.03.14)