高橋一行
(1)より続く
前回の議論で見たように、19世紀のアメリカにおいて、信仰の自由があると言っても、それは、プロテスタントの中での話であった。そこにカトリックとユダヤ教が認められる。そのふたつがどのようにして、アメリカ社会の中に定着して行ったのかということを見るのは興味深い。
まずカトリックについて、簡単に言えば、1830年代以降、カトリックの移民が増大し、そして人口が増えると、それまで強くあった、プロテスタントとカトリックの対立は、緩和されて行く。また、近年は、とりわけイスパニック系の移民がカトリックで、文化的には、アメリカに溶け込んでいる。しかし、現在においても、多数派ではなく、歴代の大統領の中で、カトリックは、ケネディーひとりである。ただ、大統領選挙で、カトリック信者をどう考慮するかは、決定的な意義を持つ。例えば、ケネディーが選出された時は、ほぼすべてのカトリックを民主党がまとめ得たのに対し、2004年の選挙で、カトリックのケリー候補は、まとめきれず、それが敗因のひとつになっている。政策によって、カトリックは、民主党と共和党を行き来している。
また、ユダヤ教徒は、人口で言えば、現在500万人強に過ぎないが、良く知られているように、アメリカでは経済界、アカデミズム、ジャーナリズムに圧倒的な力を持っていて、しかし大統領候補者は、ユダヤ教に近過ぎると、国民の多くの反感を買うし、遠ざけて、彼らを敵に回せば、必ず落選すると言われ、微妙な判断をしなければならない。文化的には、アメリカとの融合を強調する改革派と、ユダヤ教の伝統に固執する保守派、正統派とに分かれる。
このふたつのどちらも、今や、アメリカ社会の中に定着しており、そのことを考えれば、同じ一神教のイスラム教徒が、アメリカ社会に定着しないとも限らない。1965年以降、イスラム教徒は、年に3万人ずつ増えており、すでに、地方レベルでは、議員を出しており、下院議員もひとりいる。そういう意味では、私は楽観的に考えている。しかし時間が掛かるし、その間、政治と宗教の原則を確認して行くことが必要で、議論がいろいろと出て来ることが望ましい。
私は、むしろ、ライシテにこだわるフランスの方が、イスラムとの共存が難しいと思う。しかしこちらも、難しいと言っていたのでは、何も進展せず、様々な議論が出て来なければならない。
今回は、ハーバーマスとC. テイラーの宗教論を扱う。このふたりは興味深い論点を提出している。
ハーバーマスの思想は、実は分かりやすいと私は思う。『公共性の構造転換』(1962)で言っていることは、専門用語を使えば、公共圏とは、個々人が、私的な公民として、共通善を巡って、討議する場であり、そこにおいて、参加者全員が、理性的熟議をし得るというものだ。簡単に言えば、誰もが話し合えば、相互理解が可能だから、とことん議論しようというものである。また、その後、『他者の受容』(1996)において、少し修正があり、先の本においては、熟議の結果が優れたものであれば、それは、参加者全員に強制力を持つものとなり得るとされていたが、しかし、それが少し緩やかになって、優れた議論は、強制力は持たないが、参加者に対して、それなりの拘束力を持つという話になる。しかしいずれにせよ、話せば分かるという基本的信念は変わらない。そしてごく簡単に、ハーバーマスの思想をまとめれば、これに尽きると思う(注1)。
さて、多くの論者が指摘するように、かつては、ハーバーマスは、宗教にはあまり関心を持っていなかった。宗教に囚われず、理性的な議論こそが必要だとされていたのである。しかし、近年、積極的に彼は宗教に言及するようになる。ここでは、2009年に、ニューヨークで行われた講演会と討論会の記録を使う。これは、この後で取り挙げる、C. テイラーとともに、宗教と公共生活を巡って、催されたものである(注2)。現在、民主主義と法の支配に対して、宗教的な基礎付けをしようという衝動があるという認識の下で、宗教団体が、市民社会と公共圏において、極めて重要な役割を果たしている以上、何らかの言及は必要であるという問題意識が、まずは述べられている。
ハーバーマスは、いつもそうなのだが、周到に論を展開していて、ヨーロッパの政治と宗教の歴史に言及し、ロールズやシュミットの理論を参照する。その上で、自説を持ち出す。
しかし、その結論は、簡単なものだ。つまり、宗教的公民が、非宗教的公民と同じように、理性を公共的に用いて熟議をすることが必要だというものである。そしてすべての公民が、公共圏で宗教的な発言をすることを認めるべきだというのである。ただし、その宗教的な発言は、他の宗教を信じている人や、非宗教的な人にも通じるように、分かりやすい言葉に翻訳しなければならないと言う。これか、ハーバーマスの主張である。
要するに、理性的な(良く考えるという意味)議論に、宗教に関わる人も参加してほしいが、宗教の言葉で語ったのでは、他の信条を持つ人に伝わらないから、理性的な(分かりやすいという意味)言葉で語ってほしいというのである。
実際、1980年代から、アメリカでは、原理主義が政治的に力を持ち、欧米諸国では、イスラム教徒の移民が、自己主張を始める。宗教が、大きな問題となって来たのである。そういう変化があって、万人が理性的な議論をするという主張を、具体的に進めるためには、宗教を無視できなくなったのである。
しかし、この主張は、前回展開したように、宗教的なものを、公の議論の場では徹底的に排除しようとするフランス的理念に対しても、また、宗教的であることが、政治的にも極めて重要な意味合いを持つアメリカにおいても、説得力を持たないように、私には思われる。つまり、宗教の信者に、理性的であれ(ドイツ語の、sei vernünftigという表現を分かりやすく翻訳すると、良い子になりなさいということだ)と言っているだけで、迫害されている人たちに、それを求めることが解決策になるとは、私には思えない。限られた範囲でしか、有効ではないと思う。
私には、これは特殊ドイツ的だと思える。宗教に関心を持ちつつも、なお、理性がすべてを解決し得ると考えている。それを、特殊ドイツ的と言って置く。
ドイツの歴史について、きちんと書きたいのだが(このシリーズの後の回で書く)、一言書いておけば、ここも独特の成立過程を持ち、つまり、近世において、神聖ローマ帝国=ハプスブルク=カトリックと言って良い時代に、帝国内には夥しい数の領邦国家があり、それらは、プロテスタントであったり、カトリックであったり、両派共存していたりして、そういう事情が、ドイツの統一を妨げていた。しかしその後、神聖ローマ帝国が滅亡し、ハプスブルクは小さくなると、プロテスタントのプロイセンが、宗教的な情熱を以って、ドイツを統一するが(注3)、次第に、他の欧州諸国がそうであるように、世俗化が進んで、現在に至っている。
C. テイラーは、そのハーバーマスを批判する。
ハーバーマスの主張において、なお、理性は非宗教的であり、それは特権的な地位を持ち、それに対して宗教は曖昧なものだと思われている。非宗教的な理性なら、誰をも納得させることはでき、政治的な問題を解決し得るが、宗教は、そのままでは、それを信じている人々の間でしか、納得させられない。だから、理性的な言葉に翻訳せよということになる。どうしたって、それは、啓蒙の神話に捉われていて、だからいつまで経っても、宗教を低く見ているのだ。
C. テイラーは、カナダにあって、しかしフランス語を公用語とするケベックで活躍し、また、2007年からは、ケベックにおけるイスラム教徒の問題に対して、積極的な政策提言を行っている。彼にとって、フランスとアメリカの状況は、常に、意識せざるを得ない反面教師である。とりわけフランスに対しては、ライシテに異常なほどにこだわり、そのために、不幸で有害な政策を打ち出していると、手厳しく批判している。
C. テイラーの提言は以下の通りである。フランス革命は、自由、平等、博愛を、理念として打ち出した。それを世俗主義の原則として使う。世俗主義とは、フランスにおいては、ライシテであり、アメリカにおいては、国家と特定の教会の分離であったが、ここでは、以下のように考える。宗教は強制されない。それは、信仰の自由として認められているもののほか、信仰を持たない自由も、そこに含める。また、異なる宗教や信条を持つ人々の間の平等を保証する。いかなる宗教も世界観(そこにはライシテや、熟議理性も含まれるだろう)も、特権的な地位を得ず、国家の公的見解として採用されない。そして最後に、すべての宗教団体に対して、政治的アイデンティティーや社会の目標を定めるためのプロセスに、参加できるよう、配慮されていることが必要だ。それは、異なる宗教や世界観を持つ人々の間で、調和と礼節が最大限保たれるよう、努めることである。
宗教が多様であるだけでなく、宗教的、非宗教的、無宗教的と分化し、その意味でも多様である。その多様性を尊重すること。
また、伝統に忠実であろうとするのではなく、基本的信条の間での、自由、平等、博愛を、最大限実現すること。よりはっきり言えば、マイノリティーである移民、または移民の子孫の、信仰の自由を、不必要に制限しないこと。
このように彼は主張する。そして私には、この考え以上に、フランスやアメリカやカナダで、必要とされている理論はないと思う。ただ、この短い講演録では、以上の論点しか示されておらず、C. テイラーの、さらなる論証や、具体的な政策提言を、見て行く必要がある。
注1
拙著『他者の所有』(御茶の水書房、2014)において、私は主として、ハーバーマスを念頭において、理性的熟議は限られた範囲内でしかできないし、他者はそれほど物分かりの良い存在ではない。同意してくれる他者は、自己の投影でしかないという批判をした。他者は暴力的にこちらに向かってくる存在である。しかし、その他者とどう向かい合い、社会を構築するのかということが、重要だという主張をした。従って、本稿は、前著の応用編という役割を持つ。
宗教が異なる場合、また、宗教的、非宗教的、無宗教的と、信条が異なる場合、理性的な対話はできず、相手は、自己に対して、剥き出しの暴力で迫って来る。しかし、そこで寛容をどう打ち出すかということが、ここで問われている。
ただし、ここで暴力的な他者というのは、テロのことではない。本稿はテロの分析を行おうというものではない。日常の隅々まで、常に宗教的であり続けるイスラム教徒の行動が、ライシテを掲げるフランスにとって、暴力的だし、また逆に、このライシテの原則が、祭政一致のイスラム教徒を抑圧しているということである。
なお、ハーバーマスの二冊の本は、訳が出ている。『公共性の構造転換 -市民社会の一カテゴリーについての探求-』(細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1994(第二版))、『他者の受容 -多文化社会の政治理論に関する研究-』(高野昌行訳、法政大学出版、2004)
注2
メンディエッタ・ヴァンアントワーペン編『公共圏に挑戦する宗教 - ポスト世俗化時代における共棲のために -』(岩波書店、2014)の中に、ハーバーマスとC. テイラーの二人の講演記録があり、両者の対談もある。また、編者による解説もあって、参考になった。他に、バトラーと、ウェストも、この講演及び討論に加わっている。このふたりの理論も見る必要がある。
また、本当は、ハーバーマスについては、2014年に訳が出た、『自然主義と宗教の間』(法政大学出版、原文は2005)を使わねばならず、また、近年の著書、Nachmetaphysisches Denken II (2012)の読解も要る。C. テイラーについても、A Secular Age (2007)の分析が必要だ。しかし、どれも大部のもので、取り急ぎ、今回は、短い講演録で、彼らの論点を指摘した。
さらに、ハーバーマスとC. テイラーの両方が、言及しているロールズも、その宗教観は、ハーバーマスと良く似ていると思われ、比較することが必要だろう。また、こういう文脈では必ずと言って良いほど、取り挙げられる、政治的な場面では、敵味方の峻別が必要だという主張のシュミットも、検討されるべきだろうと思われる。
注3
統一後のドイツで、ビスマルクが、南部ドイツで力を持っていたカトリックに対しての対策(文化闘争と呼ばれる)に手を焼いたことは良く知られている。つまりドイツ国内で、宗教対立は大きなものがあった。
(3)に続く
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1551,2015.02.06)