高橋一行
次の5点について書く。
① ヘーゲルの初期、つまり、『大論理学』初版を書く前に、「否定の否定」は肯定であるという文言があり、『大論理学』初版の後では、これは、何か所も、この文言がある以上、これがヘーゲルの考えであると考えるしかない。
しかも、世間で、ヘーゲル哲学は、「否定の否定」は肯定であると見ていることには、根拠があり、間違いではない。
② しかし、そのことに対して、私はずっと違和感があり、単にヘーゲル哲学を、そのように見てしまったのでは、面白くないということから、私の研究を始めている。その結論として得られたのが、「否定の否定」は、実は否定の徹底であるということである。
ただ、「否定の否定」は肯定であるという面もあり、「否定の否定」は肯定ではないということには問題がある。私は、「否定の否定」は、半分、肯定であり、半分、否定の徹底であると言ったが、それは、量的な問題ではなく、ある面から見れば、という意味であり、もっとはっきり言えば、否定の徹底を肯定と言うことだ。
③ 「否定の否定」は否定の徹底であり、同時に「否定の否定」は肯定であるということと、悪無限と真無限が同じだということは、同じ論理である。
④ 無限判断と所有の関係については、ここでも、「肯定」の意味が問われる。つまり、所有論の場合、交換・譲渡・売買(これが否定の徹底)が重要で、そこで所有が肯定されているのは、交換・譲渡・売買が可能だからで、所有しているということが重要なのではなく、所有しているために、交換・譲渡・売買できるということが重要なのだということである。私が「所有論」三部作で言いたかったのは、所有の否定の徹底である。
⑤ マルクスはヘーゲルが展開し得なかった価値論を展開した。それは反照の論理に基づく。そしてそれはマルクスの功績だが、しかし、ここでも、単に関係主義であってはだめで、関係を超える論理を問うことが必要である。
① 「否定の否定」は、肯定である
『大論理学』初版で、確かに「否定の否定」は肯定だとは言われていない。それはその通りである。なぜ言わなかったのかということについては、『他者の所有』の中で書いた。それはヘーゲルが慎重だったからである。安易に肯定とは言わない。安易に体系を成立させない。それでは動的な性格が失われる。ぎりぎりまで粘る。それが『大論理学』の魅力だと思う。
しかし他のところでは、つまり、初期ヘーゲルにおいても、また、『大論理学』第二版においても、「小論理学」においても、「否定の否定」は肯定である。それはヘーゲルの思想の根本に関わる。しかしそのことを説明する前に、そしてこのことは、②で明確に書くが、まず、私は、この「否定の否定」が肯定であるということに、強烈な違和感を持っていたということを書いて置く。つまり、それは肯定ではないと、私は、本当は言いたい。私はそこから出発している。
私自身は、「小論理学」からヘーゲルに入っている。これを暗記するくらい読み込んでいる。『大論理学』は、「存在論」第二版を使っている。ここでは、「否定の否定」は肯定と言われている。特に、弟子の筆記録である補遺において、明確にそう言っている。
ここで感じる違和感をどうするか。しかしそのことを解決する前に、やはり、ヘーゲル哲学の根本は、「否定の否定」は肯定であるということを確認する必要がある。
まず、ここで、肯定の意味を問う前に、否定の意味を問う必要がある。実は、それは対立する他者との関わりである。ある命題Aがあり、それを否定する、非Aが立てられるのだが、それは、対立するものへの関わりである。
この対立が否定だと言うのは、ヘーゲル研究者の間では、だからヘーゲルの否定概念はおかしいという意見もあるのだが、しかし、自己が自己と対立するものへと移行すれば、それが否定であるというのは、私には、もう馴染んでしまっているせいか、そのこと自体に違和感はない。
『大論理学』初版においても、まず、定在が定在するものになる際に、「否定の否定」の論理は使われている。第二版と違って、初版では、非定在という単語が出て来るが、それは、定在の否定的関係として定立されたものであり、それ自身もまた定在であると言われる。そこにさらに他在という言葉が出て来て、と言うのも、非定在は、それ自身定在だから、つまり定在はふたつあることになり、その事態を持って、定在は他在であると言われる。他在は自己の否定に関係する定在である。『他者の所有』において、私は、この他在は他者のことであると書いた。そして、ここで、「否定の否定」は肯定であるとは言われていないが、否定的関係である他在がさらに否定されて、自己関係が成立し、定在は、否定的統一を獲得すると言われている。私はこの事態を持って、「否定の否定」の結果、統一という名の肯定的関係が生じたと見ている。かくして、他在の否定、つまり「否定の否定」が、定在するものという肯定的なものを生む。そして、この論理が、今度は、向自存在の成立においても、繰り返されている。第二版の方が、議論が簡略化され、かつ分かりやすい表現に替えられているけれども、議論の大筋は変わらないと私は見ている。
また、『精神現象学』に「否定の否定」は肯定という文言は出て来ないが、この考え方は、縦横に使われている。自己が他者と関わることが否定で、その自他関係が、実は自己関係であるとなった時に、「否定の否定」が起き、思考の主体も対象も、一段、進展する。そうやって、思考も対象も、螺旋的に高まって行く。
文言がないからというのはおかしくて、ヘーゲルの場合、『精神現象学』以前の初期から、否定概念が重要で、また、二重否定という言い方もしている。「否定の否定」は肯定といわなくても、事実上、似たような表現で言っている。ちなみに、私が拙著で引用した、黒崎剛氏の、『精神現象学』論は、この本を、推理論的連結という言葉で、進展の原理を説明している。しかし、この言葉は、「論理学」の言葉で、『精神現象学』の言葉ではない。しかし尚、『精神現象学』を良く説明している。さらに脱線すれば、私は、『精神現象学』を、無限判断論でまとめようとしている。黒崎氏に全面的に寄りかかって、その説明を拝借し、しかし、最後のところで、推理論的連結でなく、無限判断だと持って行っている。
さて、違和感を持ちつつも、なぜ、この原理が重要かと言えば、ここから、ヘーゲル哲学の根本である、自由が得られるからである。つまり、自己と対立する他者の下にあって、なお、自己であるというのが、ヘーゲルの自由概念である。自己が他者になり、または他者と関わり、今度は、その他者が自己になり、または自己に迫って来て、自己が回復することで、自由になる。
これは自己関係の論理でもある。ヘーゲルにおいて、自己が自己と出会うことによって、次の段階へと高まる。段階を上げて行き、より自由になって行く。「否定の否定」と言うときの、最初の否定は、まだ自己が、抽象的で、自己という規定がなく、それを否定して、他者と関係を結ぶ。他者に移行すると言うときもあり、一般的は、他者になる場合も含めて、他者との関係と言って置く。この他者との関係が、否定なのである。そして、この他者との関係を否定するのが、「否定の否定」で、そのことによって、自己を確立する。自己に還帰する。自己を回復する。それを、自己が成立するとも言い、自己関係によって、「肯定」が得られる。
しかも、これは、③で述べるが、ヘーゲルの無限概念でもある。自己と他者が対立している段階を超えて、「否定の否定」によって、つまり自己関係が成立して、無限が得られる。
これはまた、直接性(存在することの哲学的表現)の生成という問題でもある。最初に無規定の直接性があり、それは直ちに媒介される。そして、その媒介性が止揚されて、新たな直接性が生じ、規定された存在となる。無規定の直接性、媒介性、生成した新しい直接性、というトリアーデを作る。
これは、しばしばヘーゲル哲学を説明する、正反合という図式でもある。これが問題なのは、あまりにも、安易にそう言ってしまうと、図式的で、「強いヘーゲリアン」と私が警戒すべきものになってしまうが、しかし、図式そのものは正しいのである。
ひとつ相馬氏の発想が分かったと思ったことがある。相馬論文の三.の最後のところで、あるものが否定され、さらにそれが他のあるものになり、さらにそれが否定されても、他の他のあるものになり、それは悪無限ということになる。そこでなにも、回復されてもいないし、肯定されてもいないと書かれている。
しかしここは私もそう思っている。ただ、私はこういう事態を以って、これを肯定と呼んでいる。それはまさしく、悪無限である。つまり相馬氏の言うところと、私の言うところと、あまり変わらないのではないか。悪無限と真無限の関係については、この後、書く。
② 「否定の否定」は、否定の徹底
マルクス主義者は、ヘーゲルでは、すべてが最後には、肯定に至るが、マルクスは、それに対して、否定的側面を重視したと考えている。それはそれで正しいと思う。確かに、力点の置き方の問題として、ヘーゲルが体系を完成させて、肯定に重きを置き、マルクスは、他の体系を常に揺さぶろうとして、否定的な面が強い。両者に、そういう違いはある。しかし、私の指摘は、ヘーゲルも、結構、否定的側面を重視していたということだ。
つまり、「否定の否定」は、実は、肯定ではなく、もっと、否定概念が徹底されているのではないかという問題意識が、出て来る。しかし、「否定の否定」を肯定と言わないで、どう説明するのか。これが私の論文の核心部分になる。ここで、私は、ジジェクに倣って、これを否定の徹底と言いたい。それが拙論の最初の結論だ。
しかし、ジジェクは、「否定の否定」は、100%否定の徹底だと考えていて、それが、世間のヘーゲル理解では「否定の否定」は、100%肯定だ。それを私は、半分肯定、半分、否定の徹底と書いた。これは不正確な書き方である。否定の徹底が、すなわち肯定であると書くべきだった。両者は同じだと書くべきだった。つまり、肯定というのは、否定の徹底という意味だと書くべきだった。
つまり、本当は肯定には至らない。しかし、この否定の徹底を肯定と言って良いのではないか。そう言わねば、ヘーゲルの欠点でもあり、また良さでもある。自由概念が救われないのではないか(このあたりについて、ジジェクは分かっているようでもあり、分かっていないようでもある。)
単純に言って、「否定の否定」が肯定になってしまうのが、「強いヘーゲリアン」である。私はこれに対して、強烈な違和感がある。それで、「否定の否定」は否定の徹底であると言いたい。しかし、今度は、ジジェクに対して、世間の通常のヘーゲル理解にも、良い点はあって、そこは認めても良いのではないかと言いたい。
ジジェクのように、「否定の否定」は、否定の徹底であると言って、肯定的側面をヘーゲルから切り離して、ヘーゲルを解釈しようという傾向もある。あるいは、ヘーゲルの「否定の否定」は肯定になってしまうので、その側面を切って、マルクスの強調する否定概念だけを評価する考えもある。これらはしかし、両方とも、批判されねばならない。
こういう考え方を関係主義と言って置く。しかしヘーゲルの意義は、関係性を重視しつつ、その中に、関係を超え得る存在が宿っているという考え方にある。この指摘は重要だ。
例えば、それを物象化的錯視だと言って、切り捨ててはいけない。自由や無限という概念に、ヘーゲルの面白さがある。
③ 悪無限と真無限の関係
自己が他者になり、他者は別の他者になる。こういう関係がずっと続くことを、悪無限と言う。自己が他者になるのが、否定だから、他者が別の他者になり、それが続くのが、否定の連続ということになる。しかし、この否定の連続にあって、自己関係が成り立つと、真無限になる。これは否定の連続、つまり「否定の否定」が、肯定となったということである。これが真無限である。つまり、否定が連続している限りでは、悪無限で、しかし、その否定が徹底して、自己関係が成立すると真無限になる。
実は、かねてから、この悪無限と真無限の違いが分からなかった。自己関係があるか、ないかが違いなのだが、しかし、これは見方の違いでしかない。ここで、これもジジェクにヒントを得たのだが、悪無限を徹底すると真無限になるのではないかと考えた。悪無限の中に、すでに真無限が宿っていると考えても良い。
そしてそこから、同じ論理で、否定を徹底すると、それを肯定と言うのだと考えるに至ったのである。
悪無限と真無限について、相馬氏は、三.の終わりと、六.で、悪無限を因果関係とし、生物の論理を真無限としている。これは正しいし、ヘーゲルは随所で、このことに言及している。しかし、私が、悪無限と真無限の関係で考えているのは、動物の死と精神の発生だ。つまり、動物は、その個体は次々に死ぬ。それは悪無限である。人間もまた、次々に死ぬ。しかしそこに、個と類の自己関係が成り立って、精神が発生する。それが真無限だというのである。
つまりこういうことだ。ヘーゲルは、生物を真無限と考えれば、生物以前の論理を悪無限として、それ以前の論理からの発展が論じられる。しかし精神が真無限なら、生物は、それ以前の論理として、悪無限になる。
さて話はここからだ。因果関係と生物の論理なら、そこに進展があるのは分かり、悪無限と真無限の進展が理解できると思う。しかし、生物と精神はどうなのか。実はそこが良く分からないというところから、私は出発している。
自己関係がポイントになる。悪無限と真無限の違いは、この自己関係にあります。ただ、この自己関係とは何か。動物は、ある個体から次の個体が生まれて、元の個体はやがて死ぬ。これが次々と繰り返される。しかし、人間は、動物と同じことをしているが、しかしそこに、個が類を自覚し、そこに自己関係が成立するから、とヘーゲルは言う。しかし、それは一体どういうことなのかと思う。
実は、動物の死=悪無限も、人間の死=真無限も、変わらないのではないかという結論に至る。自己関係というのは、成り立っていると思えば成り立っているし、成り立っていないと思えば、成り立っていない。ジジェクは、そこのところで、「見方を変えれば」と言っている。その程度のものに過ぎない。しかし、自己関係が発展の論理であると言うのは、ヘーゲルのポイントだ。つまり、悪無限から真無限を区別して理解するのが、ヘーゲル理解の根源に関わることだ。その根源のところで、しかし、実は、大したことをヘーゲルは言っていないと私は考えている。しかし、それがまた重要でもある。つまり、ヘーゲルが一番大事だというところを、私はあえて、大したことはないと言い、しかし、その大したことがないところを、重要だと力説するヘーゲルを、面白いと思う。
さらに話は進む。私は、「否定の否定」は否定の徹底であると言い、それは悪無限であると言い、しかしそこに自己関係が成り立てば、それは真無限になり、しかしさらに、自己関係というのは、潜在的には、常に成り立っているので、それはもう、すでに真無限であり、このことを肯定と呼ぶ。つまり、否定の徹底が肯定である。その否定的プロセスを肯定と呼ぶ。
悟性、否定的理性、肯定的理性の三段階で考える。このことが、「悪無限」と「真無限」の関係に繋がる。
「小論理学」の79節から引用する。論理的なものはみっつの形式を持っている。i抽象的、悟性的な側面、ii弁証法的、否定的理性的な側面、iii思弁的、肯定的(positiv)理性の側面である。
ここで、i、ii、iiiを正、反、合としても良い。何度も書くように、ヘーゲルは、決して、そういう安易なまとめ方はしないけれども、そうまとめてしまっても、構わない。しかし、ヘーゲルは自在に、これらを使っていく。i=iiとして、iiiと対立させたり、また、iとii=iiiを対立させたりもしている。
こういう風にヘーゲルを読んで行く。
以下の表を作る。
i悟性 ii弁証法 iii思弁
肯定 否定 肯定
有限 悪無限 真無限
直接制 媒介性 直接性
存在 (他者への)関係 自己関係
ここで、iiとiiiの関係が問われる。iiとiiiが対立しているのではない。前者の運動を止揚して、後者になるとヘーゲルは考えているけれども、問題は、その止揚の意味である。実は、これは、前者の運動の中に、すでに後者が見えている。そういうあり方でしか、後者が成立しないということである。それがヘーゲルの真意で、そのことを言うために、私は、少々乱暴に、前者と後者は変わらないと言った。変わらない訳がない。しかし、何か新しいものがあるのか。あるとヘーゲルは言うけれども、しかし、そこがヘーゲルのレトリックである。前者を徹底すれば、後者なのである。
本当は、i機械論、ii生物、iii精神と考えるべきである。しかし、相馬氏が指摘しているように、機械論をii悪無限とし、生物をiii真無限としている箇所もある(i=ii vs. iii)。さらに、思弁がヘーゲルにとって、大事なのに、弁証法が、自分の方法であると言っているところもある(i vs. ii=iii)。
「否定の否定」が肯定であることと、悪無限が、自己関係が成り立って、真無限になることとは、同じ論理である。どちらも、自己が他者になり、それが最初の否定で、しかしその他者の中に自己を見出して、自己関係が成立する。かくして存在論において、存在は、定在になり、定在は向自存在になる。ここで自己が確立する。
しかし相馬氏は、前者を認めないで、後者だけ認める。それどころか、私が後者を認めていないとして、「ヘーゲルの問題意識を素通りしている」と言う。しかし繰り返すが、前者と後者は同じであり、かつ私は、両者を同じものとして認めている。もう少し正確に言えば、自己が他者になり、この他者がさらに別の他者になり、かくして否定が無限に続く。これが悪無限であり、私の言葉で言えば、否定の徹底である。しかしその中に自己関係が成立すれば、真無限=肯定になる。以上がヘーゲルに即した言い方で、私はさらにそこから、実は否定の徹底=悪無限の中に、すでに、肯定=真無限が宿っているとしたのである。
さて、それでは、なぜ、相馬氏が前者と後者を切り離して、後者のみ、ヘーゲルの文言に即して(私から言わせれば、この論理をそのままで認めてしまえば、それこそ「強いヘーゲリアン」になってしまうのだが)認めるのかと言えば、八.で、使用価値の悪無限性から、真無限=価値を導き出すからである。
しかしこれは存在論の論理ではない。これは後に(⑤で)書くが、本質論の反照の論理である。存在論の意義は、「否定の否定」の論理によって、向自存在を導くことにある。相馬氏は、八.で、反照の論理である包摂の論理を出して、そこで価値を導き、その限りでは、正確な認識をしているのに、その論理を定在の論理にまで押し広げてしまったのである。
④ 交換・譲渡・売買が、否定の徹底である
さて、ここから所有論に入る。所有の論理が、「論理学」の判断論の論理であるとしたのは、ヘーゲル自身である。『法哲学』の53節で、そう言っている。取得、使用、交換・譲渡・売買の三段階が、判断の、肯定判断、否定判断、無限判断に相当すると言っている。
ここで、否定判断については、「バラは赤くない」ということで、しかし、何かしら、バラが色を持っているということは肯定されている。その特殊性が否定されて、一般性が肯定されている。所有においても、私は、物件を使用することで、物件をおのれの意思に従わせる。ここにおいて、物件は否定される。これが使用である。しかし、意志と物件の間には、私が物件を使用したいとする限りで、肯定的な関係がある。ところが、再度、この関係は否定されて、しかし物件の否定がまだ、十分ではないので、意志は自己実現できないと、ヘーゲルは持って行く。否定が中途半端で、意志が肯定されていない。ここですでに、物件の否定を徹底的にすることで、意志が、肯定されるという観点が暗示されている。
次に、交換・譲渡・売買において、物件は、他者へと移り、そこにおいて、意志との関係は、徹底的に否定される。物件と意志との間には、何ら関係がなくなる。この否定の徹底が、無限判断である。しかしこのことによって、意志が発展している。ここから、意志は、不法を経て道徳へ、そして人倫という社会関係へ入って行き、意志が完成=肯定される。これが『法哲学』の体系である。
このことからさらに、この判断論の論理が、『法哲学』の体系を作っているということができる。これが、私が、『所有論』と『知的判断論』で問うて来たことである。これを「強いヘーゲリアン」だと言うのなら、その通りだと思う。しかし、そのことの意義はあると私は考える。
私の所有論について、相馬氏は、「無理な解釈」だと言っている。しかし、私の解釈は、さしあたって、ヘーゲルが、『法哲学』で言っていることを、そのままなぞっているので、「無理」と言われても、それはヘーゲルに言ってくれという話になる。すると相馬氏は、『法哲学』から、判断論を解釈するのは、「強いヘーゲリアン」だという。それはそうだと思う。ここで私は意図的に、ヘーゲルに寄り掛かっている。ヘーゲルに即して展開し、その上で、あまり知られていないヘーゲルの観点をあぶりだしたいと思っている。
相馬氏が批判するのは、私の所有論で、判断論に即しつつ、そこで、所有を肯定していることに問題があるとしているのだろうと思う。確かにヘーゲルは、『法哲学』で、所有を肯定する。しかし、私の所有論では、実は、所有に力点はない。交換・譲渡・売買に力点があり、所有は肯定されるが、実は、所有はどうでも良い。社会が作られるという観点が大事だし、さらに、私が、『他者の所有』で書きたかったのは、人は、他者を所有したいと思うが、他者は所有できず、却って、所有の危うさや、所有では決して人は満足することができないのだということに気付かされる。そこが書きたいことであった。だから、所有は、繰り返すが、肯定されるが、しかし、その場合の肯定と言うのは、先にも書いたように、本当は肯定ではない。いや、むしろ、この所有の面から、私の解釈、つまり、「否定の否定」は肯定だが、しかしその肯定というのは、否定の徹底のことなのであるというテーゼが、具体的になっている。そのことが分かってもらえればと思う。
また前著『知的所有論』においても、さらには、最初の『所有論』においても、そのことは、書いておいた。つまり、『所有論』の帰結は、知的所有であったし、『知的所有論』はそのことを受けて、その具体的な面を指摘したもので、知的所有において、たくさんの所有をする人は、決して、それだけで評価されるのではなく、その持っている所有物を、人にどのくらいあげられるか、社会で活用できるか、交換・譲渡・売買できるかが重要なのである。所有していること自体が重要なのではない。
そしてさらに、そこから、所有の意味が問われる。そこまでヘーゲルが考えていたかどうかは分からないが、しかし、無限判断の意義を考えると、ヘーゲルが考えていなかったことまで、見えて来ないか。これが、『他者の所有』で言いたかったことで、人は物を所有すると言うが、本当に所有しているのか。また所有したいのか。本当は、人が所有したいのは、物などではなく、他者なのではないか。そして、その他者は、絶対に所有などできないのである。つまり、ここにおいて、所有は、徹底的に否定されている。
⑤ マルクスの所有論が、『資本論』である
「存在論」の定在から、向自存在に至るところで、無限が扱われ、これが事実上、「概念論」の論理が使われていると、『他者の所有』で書いた。「論理学」は、それから、量に入り、これが、「存在論」における「本質論」的要素で、それから、度を経て、いよいよ、「本質論」に入り、その長い過程を経て、「概念論」に至る。
以上のように考えると、所有論も、そのような過程を経ていると考えて良いと思う。それが、『法哲学』の展開であると思う。
さて、ヘーゲルの体系はすべて、トリアーデなのに、概念論の中の、この判断論だけは、4つの分類になっている。これはカントをそのまま使ったので、仕方ないことだ。すなわち、1.質的判断、2.反照の判断、3.必然性の判断、4.概念の判断の、4つである。
これは、ヘーゲルの「論理学」に対応させると、1.定在、2.反照、3.現実性、4.概念、に相当する。2.と3.が、「本質論」の論理になっていて、「存在論」、「本質論」、「概念論」というトリアーデに対応する。
さて、そういうことから考えると、定在の論理の中に、無限判断があり、それが、すでに、真の無限に至っているかどうかということが、先の議論だったが、ここでは、反照の判断が、「本質論」の判断で、そこでは、関係性がポイントとなると思う。マルクスは、意識的に、この価値論で、反照の論理、つまり、「本質論」の論理を多用していて、価値論は、そこから出て来る。従って、相馬氏の意見は、マルクスに沿ったものだと、私は考える。
前ページに書いたことで、まさに、「反照の判断」に対応する所有論があり得ると思う。それが、ヘーゲルがあまり意識しなかった、そしてマルクスが意識的に、『資本論』で、ヘーゲルを下敷きにして書いた価値論が、それに当たると思う。
しかし、相馬氏は、八.において、無限判断から、価値を展開する。私の考えでは、これは、無理である。マルクスは、意図的に、ヘーゲル「論理学」の本質論の論理を使って、価値論を、『資本論』で展開した。それは、本質論の論理だから、判断論で言えば、相馬氏が、的確に理解しているように、反照の判断、包摂の判断から出て来るものだ。反照の判断とは、判断の述語が反照規定であり、つまり、その述語を通じて、他のものとの関係が問われるものである。だから、述語が何かしらの使用価値であり、そしてそれは他の使用価値と関係し、そこから価値が現れるのである。
だから、この関係性の論理を、定在の判断から導くのは無理だと思う。つまり、使用価値の悪無限性の止揚の結果として、真無限=価値とするのも、無理だと思う。それは、先にも書いたように、「否定の否定」の論理であって、反照の論理(本質論の論理)とは異なるからである。
ここで、無限の理解が問われている。それは価値ではない。それは自由と同義である。他者という否定性の中で、自己を肯定することだ。しかし私の理解では、それは、徹底して他者の否定性に自己を晒すことなのである。
ヘーゲルの「論理学」の流れは、存在論で、存在が、「否定の否定」の論理によって、無限性を獲得して、向自存在になり、それが、本質論では、関係性の論理となる。そして、概念論で、再び、存在論的判断、本質論的判断、概念論的判断と経て、推理論に至り、関係の中に、無限が宿っていることが確認され、それこそが、概念の論理であり、理論としては、これで完成する。
そして私は、それをそのまま受け止めて、しかし、「否定の否定」は実は否定の徹底に過ぎないのではないかと言い、無限性を獲得する際に、実は、その無限とは、悪無限と変わらないではないかと言い、推理論が成り立つ際に、それは無限判断と同じ論理であろうと言う。そのように私はヘーゲルを読んでいる。
注
拙著が刊行され(2014.7)、相馬氏からの批判が出て(2015.3)、その間に、『ヘーゲル論理学研究』No.20が出て(2014.11)、久保陽一、黒崎剛の論文があり、これを参考にした。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1810,2015.04.05)