賽(さい)のトリプルダンス―賽子・賽銭・賽の河原

石塚正英

 
はじめに
 
   本稿は、私がこの数年間継続してきたテーマ〔賽と葬の文化誌〕について、その前半部〔賽の文化誌〕についてまとめたものである。本稿に続いて、近々、後半部〔葬の文化誌〕をも本誌上で公開する予定である。
   たとえ話から始める。一生という限られた時間、寿命という砂時計の上にあって、人はときに一か八かの賭けに出る。お御籤ならば、無欲無心にすべてを神仏に託して満願成就を夢見るだけなのだが、そうはいかない。一攫千金を狙って賽子を振る。費用対効果を祈って賽銭を投じる。切羽詰まっていれば期待値(☆01)も考えず、「賽は投げられた!」と喝破して退路を断つ。「神は賽子を振らない!」という忠告を意に介さず人生の賭けに出る。一回で叶わなければ何度でも、まるで賽の河原だ。さりとて、砂時計のおかげで、いつまでも賽の河原にいなくて済むのはせめてもの慰めだろう。
   私は子どもの頃、近所の神社や寺院の境内でひねもす、ビー玉とかメンコとかで遊びほうけたものである。なるべくたくさんの相手と勝負するのが好きだった。けっこう強かった。じつは、両肩と背筋の交わるあたり、頸筋に〔遊びの神様〕がいた。いわゆる守護霊である。遊びだすと、きまって背後に陣取って球筋をアドバイスしてくれた。日が暮れて家路につく頃には、ポケットがビー玉やメンコで膨れていたものだ。なぜ連戦連勝できたのか。けっして無欲無心だからではなかった。守護霊がわが闘魂となって加勢してくれたからである。
   人生はいわばギャンブルだ、という話を時おり耳にするが、言い得て妙ではある。現代っ子は、ジャン・コクトーの作品「アンファンテリブル(恐るべき子どもたち、1929年)」を連想するほどではないにせよ、かつての無邪気で残忍ですらある存在ではなくなった。子どものころから将来を設計してリスクやアクシデントを軽減したがる。だが、それでは経験としてのスリルとハプニングが削がれてしまう。波乱万丈とまでは言わないが、まずは道なきところに進み出てハプニング(偶発)に対峙してみる。ふと歩みを止めてしばし佇む。振り返っては、足下の轍に来し方と行く先を見通す。あるいは、そこであらためて無心の賽子や賽銭を投げてみる。幸せ(happiness)は偶発(happening)なのだ。
   「賽子」の「賽」は、もとは「采」とも書いた。どちらも「さい」と読み、勝負ごとに関係する(☆02)。それはともあれ、「賽」には神仏へのお礼詣りや感謝の念という意味がある。その漢字がつく熟語として、本稿では「賽子」のほか「賽銭」と「賽の河原」を取り上げる。当然ながら、相互に何らかの意味的関連がある。賭場で投げられた賽子は周囲の運気を集めてダンスする。寺社で投じられた賽銭は神仏を喜ばせ、棺桶に投じられた賽銭つまり焼香銭は三途の川で面目を施す。そのように、賽は不思議な力をもっている。この世とは思われぬメタ現象の効果を引き起こす賽子を、英語で“die, dice”(ダイ、ダイス)、フランス語で“dé”(デ)と称する。心理学や量子力学で扱われるメタ現象はギリシア語“ψ”(サイ)で表されるが、偶然であれ、音だけ聞くとみな「サイ、ダイ」とも響く。外国語は措くとして、漢字の「賽」を眺めていると、興味深い話題がこちらに引き寄せられてくる。本稿では、その概要を「賽のトリプルダンス」と題して解説することにする。
 
1.賽子
 
   賽子をラテン語で“alea”(アレア)と称する。アレアは機能自体を追求した遊び道具であって、競技者を含めて関係者の意志が反映することはありえない。運命を司る神霊(fortuna)といった存在を認めてはいるものの、それはあくまでも勝敗を争う相手として存在するだけである。ロジェ・カイヨワは、『遊びと人間』の中でこう記している。
 

ここでは、相手に勝つよりも運命に勝つことの方がはるかに重要なのだ。言いかえれば、運命こそ勝利を作り出す唯一の存在であり、相手のある場合には、勝者は敗者より運に恵まれていたというだけのことだ。この範疇の遊びの典型的な例はさいころ、ルーレット、裏か表か、バカラ、富くじなどである。ここでは、人は偶然の不公平を除去しようとしない。それどころか、偶然の気紛れそのものが、遊びの唯一の原動力となっているのだ(☆03)

 
   占いの原点にあるのは、運命をめぐる神との駆け引きだったのではなかろうか。人間が神霊と争う。その構図は先史の文化に特徴的である。神と人間の地位転倒・価値転倒、いわゆるフェティシズムである(☆04)。文明期に至ってからは、その時々の理由や背景に起因する物語が文明のロゴスとして補足され粉飾されていったが、それは後知恵(afterthoughts)である。古代ローマでは、ネプチューンと争うアウグストゥスの物語が先史のミュトスに近い。ここで私は、物語(神話)におけるロゴスとミュトスとを明確に区別している。まず、あるがままの現象を語るのがミュトスである。例えば、ハトを見たらハトと意識しそのように語り記す。ミュトスの世界では、ハトを神とする人はハトそれ自体が端的に神である。それに対して、あるがままの現象に対してその意味や概念を語るのがロゴスである。例えば、ハトを見たら平和を意識しそのように語り記す。ロゴスの世界では、ハトを神とする人はその動物の背後か深部に真善美、正義や平和の本質を見抜く。ハトはそうした本質の眷属(使い・代理)である。ロゴスは明らかに反ミュトスなのである。確立したギリシア・ローマ神話の世界では、ミュトスは存在しないか、極度に衰退している(☆05)
   ところで、紀元2世紀前後ローマの歴史家・政治家スエトニウスは、自著『ローマ皇帝伝』の中でロゴス的神話(Mythos als Logos)に転化する一歩手前であるミュトス的神話(Mythos als Mythos)に言及している。海神ネプチューンに逆らうアウグストゥスである。彼に敵対する勢力が彼を非難する場面である。
 

他の人はアウグストゥスが艦隊を嵐で失ったとき、「たとい海神ネプトゥヌスが欲しなくても、勝利をわがものにしてみせるぞ」と叫び、その翌日、大競走場での開会式の行列に、ネプトゥヌスの神像を取り除いたと言って、その言動を槍玉にあげている。/アウグストゥスは確かにこのシキリア沖海戦で他のどの戦いよりも、たくさんのそして大きな危険にあった。シキリア島へ軍隊を渡していたとき、まだ残していた軍をとりにイタリア本土へ戻る途中、思いがけずポンペイユス軍の艦長デモカレスとアポロパネスに奇襲され、最後にかろうじて一隻の小船で逃げ帰った(☆06)

 
   神々と敵対するという、こうした逸話と類似するものにゲルマン地方における聖ボニファティウスの行動がある。同地方のヘッセン近郊でキリスト布教にあたる彼は、ガイスマルで先住ケルト人やゲルマン人の神樹である特定のオークを伐採した事例がある(☆07)。キリスト教徒にとっては聖なる存在でない樹木を伐採することは戦いとは感じられなかろうが、その自然神を崇拝してきた先住民とは当然にも敵対関係に入ることになった。ただし、ゲルマン先住民がオークに対して命名した“Kirk”やそのラテン名“Quercus”は、中世以後の“Kirche”や“church”に残存し、崇拝の対象になっていった。その場合、教義においては文明宗教が勝利しつつも、祈りの場としては先史儀礼が継続していったのである。その際、諸民族への託宣の場は、むろん後者においてであった。考え方によっては、振られた賽子の目は民衆の勝利を決定したものであった。
   賽子で有名な歴史的場面に、ルビコン河を渡るカエサルの言葉「賽は投げられた(ālea iacta est)」がある。共和制末期のローマでは、ルビコン河は他国との境界線であり、だれであれ武装を解除せずに渡河することは禁じられていた。それを決行するとなれば、カエサルは元老院側に宣戦布告して内戦を挑発したことになる。ルビコン河畔での出来事に関するスエトニウスの描写を読んでみよう。
 

こう遅疑遽巡していたとき、じつに奇蹟的な現象が起った。体格がすばぬけて大きく容貌のきわだって美しい男が、忽然として近くに現われ、坐ったまま葦笛を吹いている。これを聞こうと大勢の牧人ばかりでなく、兵士らも部署から離れて駆け寄った。兵士の中にラッパ吹きもいた。その一人からラッパをとりあげると、その大男は川の方へ飛び出し、胸一杯息を吸い、ラッパを吹き始めた。そしてそのまま川の向う岸へ渡った。/このときカエサルは言った。/「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と(☆08)

 
   賽子に賭けた事柄はルビコン河を渡るか渡らないかでない。渡れば勝つ、でなく、渡った後に待ち受ける戦いに勝つかどうか、である。ラッパを吹く大男がいわば進軍したのに刺激され、勝機を見いだし、「賽は投げられた」と断じたのである。意を決する目的で賽を投げたのでなく、意を決して賽子を投げること自体が重要なのであって、丁(偶数)と出るか半(奇数)と出るか、という目の出方が重要なのではない。「賽は投げられた」という名言の真意は、渡河の意思決定を賽子に託したことではない。ルビコン渡河はカエサル本人の断固たる決心を意味しているのである。ある意味で、カエサル自身が賽なのである。
   ルビコン渡河の報に接したローマの元老院メンバーはどう出たか。それについてはカエサルの副司令官ヒルティウスが記録していた。渡河、すなわち前49年年初の内乱勃発から前48年9月ポンペイウスの死までを綴った『内乱記』である。その中に、カエサルのルビコン渡河直後の推移を綴った以下の記述が読まれる。
 

その知らせが1月17日にローマにもたらされると、ポンペイウスはその日に、閥族派元老院議員もその翌日に、ローマから逃げ出した。当初からポンペイウスは、戦争になればイタリアを戦場とすることを避け、強い支持基盤がある東方での決戦を意図していたと見られる。とはいえ、非常時に備えた予備金庫から軍資金を持ち出さなかったこと一つにも閥族派の混乱が表れていた。そのあいだにもカエサルは進軍を続け、アッレーティウム、ピサウルム、ファーヌム、アンコーナといった町々を占領した(☆09)

 
   こうした事態の推移を追認識すればなおのこと、カエサルの言葉「賽は投げられた」は勝敗を占ったのでなく、いわんやルビコン渡河を占ったのではなく、進軍の采配として機能していたのだった。本稿の冒頭で私は、「賽」は、もとは「采」とも書いた、と記しておいた。そのことを兼ね合わせると、「賽は投げられた」の裏読みは「熟慮断行」、「采配は振られた」だったのである。「裏」とは内奥、心根を意味する。「うらぶれる」というのは心がぶれることを指す(☆10)
   さて、賽子にまつわる解説として、次に17世紀の数学者ブレーズ・パスカルの確率論に言及してみたい。1654年、パスカルはギャンブラーのシュヴァリエ・ド・メレから、技量の等しい対戦相手同士によるゲームの勝敗に係わる問いを投げかけられた。質問それ自体は、当時の賭博師たちにはよく知られていたが、パスカルは、この機に従来の計算を改良して確率論を研究した。パスカルにとって数学とは、現代のように再現可能性が重要なのではなく、期待される数値を限りなく一定に近づける道具として価値があった。まさしく、賽の目の偶然を身近にひきつける科学技術である。パスカルは、晩年まで綴り続けた『パンセ』で、あるギャンブラーに次のように忠告している。
 

それではこの点を検討して、「神は存在するかしないか」ということにしよう。だが我々はどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、我々を隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭けが行われ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちのどちらを退けることもできない(☆11)

 
   パスカルにとって確率とは一獲千金を狙う打算である以上に、人生の岐路を占う真剣勝負の采配だったのである。なお、ここでパスカルは神の存在を賭け事に持ち込んだ。そのテーマは、20世紀に至ってアルベルト・アインシュタインが話題にしたことで知られる。「神は賽子を振らない」である。1926年12月4日付のマックス・ボルン宛書簡に、アインシュタインはこう書き記した。
 

親愛なるボルン!(・・・・)量子力学の成果はたしかに刮目に価します。ただ、私の内なる声に従えば、やはりどうしても本物ではありません(Aber eine innere Stimme sagt mir, daß das noch nicht der wahre Jakob ist.)。量子論のもたらすところは大なのですが、我々を神の秘密に一歩とて近づけてくれないのです。いずれにしろ、神は賽子を振らない(der Alte nicht würfelt.)、と確信しています。速度がポテンシャル・エネルギー(他跡えばゴムバンド)に規制される3n次元空間における波が・・・・/私はなんとかして物質の粒子を特異点とみなしてその運動方程式を、一般相対性理論の微分方程式から導き出そうと苦心しています。お元気で。/アインシュタイン(☆12)

 
   アインシュタインは、晩年の1949年にこう記している。「今日の量子論のもつ本質的に統計的な性質は、この理論が物理系について不完全な記述をしているせいで生じていると固く信じています」(☆13)。そもそも、量子力学特有のエンタングルした状態、いわゆる〔量子もつれ〕とは実在の世界でなく統計と確率に根拠をおいた量子力学の世界での議論である。自然界では不可視である。ただし、アインシュタインは不可視であることを指して「不完全な記述」としているのではなく、〔瞬時〕∩〔非局所〕(∩は数学記号の「かつ」)で特徴づけられる量子の動きに関する原因が説明できていない研究段階を指してそう記したのである。量子もつれの状態にある一対の粒子間では、一方に変化が起きれば他方にも、たとえそれが宇宙の果てにあって非局所的に存在していようとも、相互に連動した変化が瞬時に起きる。その〔瞬時〕∩〔非局所〕という現象・事態が、アインシュタインには受け入れがたく、不気味に思われたのである。確率と統計に基礎を置く量子力学を指して「神は賽子を振らない」と形容したのは、じつに言い得て妙ではなかろうか(☆14)
 
2.賽銭
 
   賽に絡む熟語に「賽神」がある。神に報いること、神仏祈願成就の返礼、返礼として祀ること(儀礼)、といった内容である。そのような返礼の一つに「賽銭」がある。現在はお金で報いるのだが、もとは食物を供えた。「銭」の文字も金偏でなく食偏の「餞」だったが、いっそう古くは「饌」と記した(☆15)。神に食物、とりわけ米を饌(そな)える、それが「賽餞」ないし「賽饌」だった。因みに、旅立つ人への贈り物も元来は「餞別」と表記したが、現在は「銭別」と表記するようになっている。理由や背景は「賽餞」と同様であろう。
   銭でなく米を奉納するとなれば、知る人ぞ知る「御饌米(ごせんまい、おせんまい)」奉納の儀礼が思い浮かぶ。もともとは、神前に米(神饌米、賽餞米)を奉納し、それを下げるまでの儀礼を指した。下げたときには米に神霊が宿っているとされ、それが小袋に分けられて氏子宅に配られる。頸城野(新潟県上越地方)に生まれ育った私は、日枝神社(上越市寺町3)の氏子である我が家の神棚で、榊の脇に置かれた小袋「御神饌」を見かけたものである。また、日枝神社の祭礼に合わせて赤飯を炊いた。それを親類縁者に配って回るのが、子ども時代の私の役目だった。民俗研究者の斎藤たまは、著作『賽銭の民俗学』において次のように記している。
 

賽銭ではなく、米をまいたり、供えたりするというところは全国で聞けるようです。/静岡市口仙俣(現・葵区)でサクさんもいいます。/「氏神ざまに参るに、米紙に包んで行き、ばらばらっと振って拝む」/同市井川の荒尾英太郎さんによると、神まいりに米洗って紙に包んで持って行き、まいて拝む。正月など拝殿が真っ白なるほどだったという。正月、年神の棚にもオセンマイにして、つまみ盛って上げる(☆16)

 
   神前に米を供える行為を、かつては「賽饌」と書いたが、神社に奉納される「御饌米」だけは「饌」の字を書いている。頸城野では、八坂神社(上越市西本町4)の祇園祭で御饌米奉納の儀礼が挙行される。例年7月23日、直江津地区の八坂神社にて発輿祭(はつよさい)が行われ、神輿が御旅所のある高田陀羅尼八幡宮(上越市北本町2)へ陸路で向かう。高田地区の各町内をまわる渡御の後、稲田橋上流右岸河川敷から関川を下って26日夜に直江津で迎えられ、今度は直江津の各町内を渡御、八坂神社には28日夜に還御し、神輿御本殿還御祭を挙行する。29日は御饌米の俵を積んだ各町内の屋台19台が神社前に集まり、前以って籤引きで決めておいた順に若者たちが俵を担いで神社の参道を走り拝殿内に納める。1年の無病息災や五穀豊穣を祈願する(☆17)
   さて、御饌米は、古代にあっては神人共食儀礼の一つで、天皇の新嘗祭や大嘗祭で知られてきた。それについて、民俗学者の宮田登がある座談会で簡潔に言及しているので、以下に引用する。
 

大嘗祭の場合は、大行(たいこう)天皇――天皇が死ぬと、二カ月か三カ月、宮殿の奥深くに遺体が置かれていて、その間、天皇の霊魂は空中を浮遊している、その状態の天皇を大行天皇というわけですが、その霊を、大嘗祭の中で固定化するという儀礼があった。その間、天皇の遺体がおそらく腐敗したんだろうけれど、先に埋めてしまうと霊魂が消滅するというので、夏だと永詰めで保存していた。大行天皇の段階で、遺体から分離した霊魂を次の天皇に移し替えるという儀礼が大嘗祭にあたる。(中略)それが毎年繰り返されているのが新嘗祭の儀礼のわけで、稲魂(いなだま)を殺して、それを再生させるという儀礼になっている。それを司祭者としての天皇が繰り返し行なっているというのが、古代王権の機能の一つのモデルなんだと考える(☆18)

 
   この引用文中に読まれる「稲魂」の新旧授受こそ、御饌米における神人共食の源流である。現在は、各々の神社で祭礼の御饌御酒(みけみき)を神職と氏子で酒食する直会(なおらい)にその余韻が残されている。また、「天皇の霊魂は空中を浮遊している」期間を「殯(もがり)」と称して、死にゆく天皇の肉体から霊が離れ、後継の天皇に移される期間にあたる。その間、皇位は宙に浮いた状態だった。そこに介在するが稲魂であるから、御饌米の儀礼は皇位継承におけるハイライトである。だが、時代が下ると米は銭(貨幣)に席を譲ることになったので、貨幣は特殊な形をした米、稲と見なされた。稲穂をデザインした現行貨幣も存在する(写真参照)。よって、米と貨幣とは互換性を有する。それはケガレを吸い寄せる。吸い寄せた本体は殺される。かつて、王もケガレを吸い寄せ、殺されたものだ。これぞ、フレイザー『金枝篇』の世界だ。賽銭はなぜぞんざいに投げられてしまうのか。理由の一つは、賽銭が持ち主のケガレを一身に吸い込んでくれるからである。
   それはそれとして、初詣や冠婚葬祭において賽銭箱に投ずる金銭は、通常は小銭(コイン)であって少額である。それは信仰の証であって、神への返礼儀礼におけるお供え物である。賽銭を賽餞と記していた時代を思い浮かべるならば、至極当然である。返礼である以上、神仏からの施しが先行している。となると、賽銭行為のベクトルは信仰における双方向を含意している。まずは神仏から信徒へ、ついで信徒から神仏へ、となる。そのような事情を背景にして、現在、賽銭は宗教法人の収入だが信仰的行為とみなされ非課税扱いとなっている(☆19)。それを利用して法の目をかいくぐり、陰に陽にさまざまな営為活動を展開する宗教法人が問題になっている。そのような現状を前にすると、現在の賽銭はやはり「餞」や「饌」でなくなってしまったと思わざるを得ない。
 
3.賽の河原
 
   〔賽のトリプルダンス〕考の第三、「賽の河原」に進もう。まずは名立たる民俗学者の議論を引用する。第一は柳田国男「賽の河原の話」(1922年)である。
 

私の考へるには支那で道祖と云つたのは、単純に道の神であつたのかも知れぬが、此漢字を宛てた日本のサヘノカミは、同時に境を護る神であつた。サヘと云ふは塞障のことで、障る遮るといふと同じ語源から出て居る。であるから之を祭るには村の境や、山の峠、又は橋の袂の様な人間が防衛するにしても好都合な、通路の一地点を擇んだのである。/中国などでは、道祖神は石でも瓦でも多い方を悦ばれると云って、矢張り其前を通る人達は、其類の物を携へて往つて積み重ねる。或は初めは、神様の防御工事の手伝ての意味であつたかも知れぬが、若しさうでなくとも、仏教とは少しも関係のなかつたものの様である(☆20)

 
   ここであらたに「サヘノカミ」および道祖神に絡めて「塞」の文字が紹介されている。そのうえで、賽の河原は仏教伝来より以前、あるいは伝来後もそれと関係をもたずに続く民間信仰の一つとして読み込まれている。その柳田に魅了された人物、宮本常一は、事実上の柳田後継者として、賽の河原について以下のフィールド調査を報告している。
 

賽の河原(新潟県両津市願)   願(ねがい:地名)の東に岩が洞窟のようになっているところがあり、そのまえにささやかなお堂がたっているが、洞窟の中には地蔵様がいくつも並んでおり、小石をつみあげたものも見られる。賽の河原といっている。佐渡順礼たちはここまでやって来るのである。ここからさきは他界とも見たのであろうか。道らしい道もなく、石のみのごろごろしたところである。その石ころの中をあるいてゆく。海はあおい。船も人もいない。佐渡の人たちは、ここから死者の魂が海の彼方へゆくと思ったのであろうか。/もともとは、かならずしもそうではなかったようである。このあたりの村々には、村のはずれに石塔や地蔵様のたっているところがあって、そこを賽の河原といっている。願の賽の河原もはじめは願だけのものであったかもわからない。しかし、ここが佐渡全島の人たちの心をひくほどのイメージをもったところであったのだろう。そしてこの石ころの浜を賽積(さいづみ)といっている(☆21)

 
   この引用文に示されている風景は、おそらく仏教とか神道とかの、いわゆる文明化された教義によって潤色される以前の、賽の河原の原風景なのだろう。「石ころの浜」「賽積」は、殯の野辺でもあっただろう。当然、賽銭も投じられただろう。そのことを傍証するかのように、民俗研究者の斎藤たまは、1981年冬、フィールド調査先の対馬の印象として、以下の記述を公表している。
 

ここで私は、石を賽銭にする話を聞いたのです。/こんな次第です。神さま参る時は、潮で手を洗い、口に潮なめるという「しおぼれして」、波打際の小石を三つ拾い、それを神さまの社前に置いて拝む。/「氏神さままいる時はいつでもそうしおった」/というのはハツさん。/「石多いほど、神さんの財産なって喜ぶ」/は忠義さん。/私はさっそく村の外れ、浜の傍にある氏神さまを訪ねました。新しい社をこしらえてある、その右手土間に少し大きい石も混じって、丸いきれいな浜石が、大籠に一つぐらいの量が積み上げてあるのでした。/昔はほとんどが石の賽銭、石が「たいそうあった」とのこと、祠が新しくなって、石の置き場も遠慮勝ちになったというところでしょうか(☆22)

 
   この報告文を読んでいると、「石を賽銭にする」賽の河原の石積は賽銭を投げる所作と同類か、と思いたくなる。斎藤によると、賽銭は銭→米→石へと形態を遡ることができる。赤子が生まれると、百日祝いの「お喰いぞめ」儀式で河原の小石を膳に置き、一歳の誕生祝では子に一升餅を背負わせる。その儀礼は、賽銭儀礼の原初を偲ばせる。先史の石と農耕の米である。賽の河原で子どもが延々と小石を積み続けるのは苦行や不幸の象徴などでなく、賽銭儀礼の先史的表現だったのではなかろうか。浄土真宗系の文献を読んでいると、親鸞聖人の言葉、「某(それがし)閉眼(へいげん)せば鴨川にいる魚に与うべし」(私が死んでも、立派な葬式や墓はいらない。遺体は賀茂川にいる魚に与えよ)という一文に出会う(☆23)。それから、一説では同様の内容を小野小町もまた短歌に詠んでいる。「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ」(自分が死んだら、死体を野に晒して野犬の食べ物に供せよ)である。このような自然生活観は、小町の出身地や親鸞の流刑地にあたる北陸・東北の先住民文化にふさわしい。とりわけ親鸞の「悪人正機」は、のちに「裏日本」と称されることになる辺境の地で、流刑という裏読みの生きざまに刻まれ培われた。
   さて、その親鸞流刑地すなわち現在の新潟県上越市に生まれた私は、幼いころに〔賽の河原〕体験をしている。上越市のいわゆる裏寺町(寺町3)に曹洞宗長徳寺という寺院がある。私は幼い頃、母の実家がある浄興寺(寺町2)前からこの裏寺町を通って自宅(仲町6)に帰ることがよくあり、そのたびに長徳寺の前で足を止めた。最初は祖母に連れられてやってきた記憶がある。道路から寺内に向かって三途の川というか賽の河原というか、こわい風景がこしらえてあるのだった。河のこちら側には泣く子どもがいる。その先には鬼が金棒をもってデンと立っている。怖いもの見たさでこの場を通るのだった(写真参照)(☆24)
   親鸞との関係が深いその地は、当然ながら浄土真宗が盛んで、「焼香銭」の儀礼が今日に伝わっている。四十九日や三回忌などの法要で、僧侶による読経の最中に、正座して正信偈を唱和する会葬者の間を小さな香炉が回される。それを受け取った人は銘々の焼香とともに百円玉をお盆に置く。施主あるいは喪主がそれを集めて僧侶に渡す。さて、この①焼香銭は、たとえば棺に入れる小銭、②三途の川の渡り賃とどう違うのだろうか。①は蝋燭代だとか線香代だとかの理由づけをするので、この世の者たちの交流手段だろう。②はこの世とあの世の架け橋である可能性が大である。けれども私は、①もまたこの世とあの世の架け橋である可能性を見出している。銭は、生産物の交換という経済的役割以外に、いや、それ以前に、人の生死の交換をつかさどる儀礼的役割があったのである(☆25)
   葬送儀礼に続いて、次には誕生に係る儀礼における賽銭の意味を考えてみたい。先述の斎藤たま『賽銭の民俗学』に以下の記述が読まれる。「三重県熊野市神川町神上や育生町長井では、生れ子がはじめて橋を渡る時には、米・銭を紙に包んで橋のたもとに供えた」(☆26)。それと類似した事例を宮田登も記している。「橋のたもとに供え、舟に置く銭も、元はといえば川に放った針と同じで、多分は金物の資格で用いられたのかも知れません。静岡市小河内では、生れ子がはじめて橋を渡る時は塩をまくという、お祓いに今も最も利用される、その塩とも同格だったとも見られるのです」(☆27)。これらの事例はことさら寺社仏閣での賽銭ではなく、素朴なままの農耕儀礼や生活儀礼に起因するものと判断してかかるのが妥当だろうと思われる。そうであれば、本節の冒頭で引用した柳田の「サヘノカミ」および道祖神に係わってくる。
   その道祖神について宮本は、「『今昔物語』では「さいのかみ」とよませている」としている(☆28)。私もまた、そのあたりの考証にあたったことがある。その成果をもとにしつつ道祖神について私なりに解説しておく。道祖神は塞(さえ)ぎの神であり、古事記に記されている黄泉比良坂(よもつひらさか)の「千引の石」に関連する。黄泉の国とこの世とを遮断する「千引の石」は、道反之(ちがへしの)大神あるいは「塞(さや)ります黄泉戸(よみどの)大神」と称する。それは平安時代に至れば、「さえのかみ」あるいは「ふなどのかみ」と称するようになった。さらに後世、それは漢語で「道祖神」とも称されるようになったのである。道祖神は、何かもっと崇高な、もっと神聖な神の使いとか、別の神の代理のようなものではない。この点は他の石仏、例えば庚申塔とはちがう。庚申塔に刻まれる像の青面金剛は、それ自体が神として崇拝されるのでなく、あくまでも供養塔の添え物として崇拝されたのである。それに対して道祖神は、それのみ単独の神であった。その単独神を、信徒たちはぞんざいに扱う。ある時は罵り、引き倒し、またある時は溺死させ、焼き殺す。神に対するそのような所業について、信徒たちはいろいろ言い訳をしてきた(☆29)。さて、ぞんざいにあしらわれる道祖神、これこそはぞんざいに投じられる賽銭と共通する先史以来の民衆精神を体現しているのである。
   本節の最後に賽の河原と臨死体験の関係を瞥見しておきたい。直接には、賽の河原や三途の川という境界風景を知っている者の臨死体験とそれを知らない者の臨死体験の関係である。『臨死体験』と題する著作をもつ立花隆は、同書の中で、石原慎太郎『わが人生の時の時』(新潮社刊)に出てくる石原裕次郎の手術に関連させつつ、こう綴っている。
 

裕次郎は、九時間に及ぶ大手術のあと、一命は取りとめたが、それから一週間にわたって意識は朦朧としたままだった。意識を取り戻したあと、二人はこんなやりとりをした。/「『ひどく痛がっていたそうだが、自分が痛かったこともよく覚えていないよ。要するに手術の後長い間、俺は半分眠っていたみたいなものなんだな。痛かったことより、意識が戻ったなと自分でわかるまで、いろいろな夢ばかりを見ていた、ということだけは覚えているよ。(中略)『その中でもな、一つだけ、長い間にわたって何度も見た夢がある。今考えても妙な夢だった』/『どんな』/『どこかの川の夢なんだ。川というより川原だな。何か時代劇のロケーションで、最初は馬に乗って、そのうちいつの間にかスタッフの連中と一緒にジープに乗って広い川原を走っているんだ』(中略)/いつまでたってもつかぬ段取りに業を煮やして、ジープを運転している誰かに命じて車で川を向こう岸へ突っ切らせようとするのだが、車がハンドルをきり返そうとする度、なぜか他の誰かがそれを止めて車はまた元のこちら岸へ戻ってきてしまう。/そんな夢をきりなく見つづけていたことだけはよく覚えているといった。/『あれが三途の川というやつだったんだろうな。(中略)しかし、川原の石も、水も、すすきの穂も、みんなまぶしいように白く光って何かとても透明な、とにかく俺が今までどこで見た川よりも綺麗な川だったよ』」(☆30)

 
   生死の境を彷徨うがごとき体験を為した人々ならば、このように述懐するのは理解できる。日常生活に突如として入りこむ既視体験(デジャブ)もそうだ。初めて経験することなのに親しみや懐かしさを感じ、過去の再現と誤認する。とっさに意識が集中して過去の体験をリサイクルし、まったく新たな体験に編集しなおすのである。「既視」を「臨死」にリサイクルしているのである。だが問題なのは、既視でない素材、本人には未知の情報が臨死の素材に使われるケースである。立花はその事例をやや興奮気味に紹介している。量子力学に関する情報や基礎知識が皆無のアメリカ人トム・ソーヤー(マーク・トゥエインの小説とは無関係)の事例である。以下に引用する。下線部は引用者の挿入。
 

トムは、一九七八年、三十三歳のときに、自宅でトラックの下にもぐりこんで修理をしているときに、ジャッキが倒れて、車の下敷きになるという事故にあった。胸部がつぶれて意識不明の重体になった。そのときトンネル体験をし、まばゆい光を見、超越的存在とことばを交わすなどの臨死体験をした。/それからしばらくして、ある朝突然、ベッドの中で、「量子(quantum)、量子」とつぶやいた。「あなた、いったい何をいってるの」と妻にきかれたが、自分でも何のことかわからなかった。トムも妻も、量子ということばが何を意味するのか、全く知らなかった。それからまた二週間ばかりしたころ、トムは再び突然、「マックス・プランク」とつぶやいた。またしても、それが何を意味しているのか、トムも妻も知らなかった。マックス・プランク(一八五八~一九四七)といえば、量子論の基礎をきずいた現代物理学の父ともいうべき人だが、高卒の運転手であるトム・ソーヤーは、その名前を聞いたこともなかった。それからしばらくして、トムの頭の中にときどき訳のわからない数学の記号や、方程式の断片が浮かんでくるようになった。見たこともないψ(「プサイ」とカナ表記:石塚)という記号も頭に浮かんできた。訳がわからずそれを紙に写し取り、頭がいい友人に見せると、それはギリシア文字でサイと読むと教えてくれたが、なぜそんな字が頭に浮かんできたのか、トムには全くわからなかった。/それにつづいて、今度は短い文章がいろいろ頭に浮かんでくるようになった。/そのころトムは、ケネス・リング教授と連絡を取るようになっていたので、その頭に浮かんでくる文章を書き取って教授に見せると、それはマックス・ブランクの「科学的自叙伝」の一節だということがわかった。しかしトムは、そんな本は読んだこともなければ、見たこともなかった。/(中略)こういう不思議な例もあるのである。臨死体験で超能力が身についたなどという話を聞くと、はなからマユにツパをつけて聞いてしまう人も、こういう例は否定するわけにいかないだろう。臨死体験がその人の人生観や世界観を変えたというだけなら、異常な体験は何であれ体験者のものの見方を変えるものだといった一般論で片をつけることができる。しかし、トム・ソーヤーのような例は、そういう一般論では説明できない。トム・ソーヤーの知的能力と知的方向づけを変えるような何らかの変化を臨死体験がもたらしたのである(☆31)

 
   量子とかプランクとかの知識をまったくもたない者の臨死体験を、いったいどのように評価したらいいのだろうか。そのことを考えるのに参考となる事例がある。それは量子力学そのものである。私の評価基準に合わせると、ニュートン力学を科学であるとするならば、それに従わずそれを突破して、自然科学のパラダイムを破壊してきた量子力学は非科学である。そして第3に、科学的因果関係に即していない偽薬(プラセボ効果)などの成果は擬似科学である。これは嘘八百の似非科学と違って、それなりの効果をもたらす。そのことを、私は「科学・非科学・擬似科学―パスカル確率論を事例に」で縷々説明した(☆32)。 
   デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアが著した『量子力学の誕生』には、社会哲学専攻の私には信じがたい考えが綴られている。関連する箇所を引用する。
 

(ボーアは)そもそも原子的現象では、たとえば電子が「いつ、どこで、どのように」輻射を放出するのか、というような古典論では通常設定される設問自体が成りたたないのではないのか、つまり量子的な現象は本質的に確率的であって、その背後に個々の現象の生起を確定的に支配しているメカニズムを探し求めることは意味がないのではないか、と考えるようになっていった(☆33)

 
   確率的に発生するとなれば、量子的な現象は因果律に即したフィジカルな自然現象でなく、神の投げる賽子に起因するがごときメタフィジカルな超自然現象と揶揄されることになりかねない。確率と統計に基礎を置く量子力学を指して私は非科学とした理由が、上記のボーア発言にはっきりと示されている。だいたい「科学(的)」という概念の定義自体、あいまいなのだ。科学という語は学問領域を細分化し「〇〇科学」としたことから生まれただけのことだ。科学と非科学と擬似科学は、前近代に起因する経験知や生活知と、近代の特徴である理論知や理性知との連合の圏域に対等の信頼性を得て、未来の人類にも存在感を示してくれることだろう。私にすれば、自然現象や生命現象には、なぜ生じるか、それを説明できる特定の原因は存在しない。あるいは原因は特定できない。存在するものは現象とその流れだけである。生態系の食物連鎖に似ている。分かるのは、総じてエネルギーの流れだけである。科学者は自然現象の一部を切り取り、有効数字の手法で切れのいい状態をこしらえ、その意味で加工した自然を相手にしているだけなのである。
 
むすびに
 
   本稿の準備にかかる折、私は、普段わが民俗フィールド調査に協力して下さっている方々に、SNSを通じて依頼文を送った。「さて、今回は賽銭です。賽銭と聞いて思い出すこと、思いつくこと、何でもいいです。私にコメントをお願いします。なるべく全国にわたって事例を戴きたいです。どうぞよろしくお願いいたします」。主なレスポンスは以下のようだった。「なぜ銭形平次は寛永通宝を投げるのか、というテーマも合わせて考えたいですね」(中谷光宏)。「わたしが所属する整体協会(野口整体)の指導料は前金制なのは、お賽銭と同じ心理が働くからと聞いています」(山田修)。「これは、心霊スポット巡りをしていた友人から聞いた話です。お賽銭の話です。複数で心霊スポット巡りをしていたとき、新潟県内の自宅近所にあったあるお寺に立ち寄りました。その際、お賽銭箱のちかくに、木箱がお供えしてあったそうです。なんだかしらないけど、その木箱を急に持ち帰りたくなり、一度もちかえったそうです。お寺から少し離れた近くのコンビニで、その箱をかえると、中から大量の髪の毛が・・・。びっくりした友人は、直ぐに寺に戻り、その箱を元の場所にもどしたそうです。翌日、その寺に戻って、再び賽銭箱の近くを確かめたそうですが、その木箱はなかったそうです」(Yasutaka Yumoto)。「マルコによる福音書12章41~44節に、賽銭の話が出てきます。地域にまつわる話ではありませんが、このことが思い起こされました」(川島祐一)。「今から5〜6年程前のことです。母の実家(飯田)の兄嫁(八十代)が亡くなり、五智の上越斎場で納棺を焼却炉に収納する直前の事でした。同じ飯田に住む、近しい親戚の伯母さんが、黙って納棺の隙間からそっと、お札を数枚忍ばせて中に入れた様子を目撃しましました」(栗間啓志)。
   神田明神に碑文の建つ銭形平次が投げる寛永通宝は、さながら破魔矢のようだ。指導料の前金は、神へのお礼に対する返礼(恩恵)を確実にしたい心理ともいえる。神霊スポットの毛髪箱は、漁船の守り神である船霊様の神体の多くが女性の毛髪であるのと関係しているかもしれない。そのほかいずれのケースも、賽銭が経済的利得でなく神仏と人間(信徒)との相互関係を繋ぐ役割を有している点が判読できる。賽子・賽銭・賽の河原を〔賽の文化〕と一括りにし、あるいは〔三賽〕と呼ぶとして、それは科学の領域にはないが擬似科学でもなく、量子力学と同様、非科学の領域における人間活動、思考様式であると結論したい。この結論に記された〔非科学の領域〕を、私は別稿で〔メソフィジカル・バース〕と命名している(☆34)。キリスト教のように超自然に起因するものは〔メタフィジカル・バース〕だが、〔賽の文化〕は自然界に根をもっている。量子力学もそうである。それらは超自然(メタフィジカル)と自然(フィジカル)の中間にあって、いわば半自然(メソフィジカル)である。最近目にする「メタマテリアル」は、名称だけみると超自然だが、内容はせいぜい〔メソ〕である(☆35)。賽の河原と量子力学とを並べて議論する私の研究視座を、どうか理解されることを切に願っている。
 

01 あるサイコロゲームを想定し、期待値を計算してみる。例えばメダル100枚をもとにサイコロを1回投げ、出た目に応じて次のメダルが配当としてもらえるとする。1なら30メダル、2なら60メダル、3か4なら120メダル、5か6なら180メダル。当該の目が出る確率はそれぞれ6分の1なのでそれぞれに掛け算して期待値を計算する。5+10+20+20+30+30=115メダル。回数を重ねるほどその値に近づく。期待値が100メダルを割り込む場合、回数を重ねるほどに手持ちのメダルが減っていくことになる。
02 『旺文社漢和辞典』旺文社、1968年、939頁、991頁。なお、藤堂明保『漢字語源辞典』学燈社、1975年、111頁の項目「采」によると、「将取(つかみとる)なり」、「採とも書く」とある。とある。
03 ロジェ・カイヨワ、多田道太郎/塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社文庫、1990年、50頁。
04 価値転倒としてのフェティシズムについて、私は長く討究してきた。とりあえず、以下の拙著を参照。『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年。
05 石塚正英『母権・神話・儀礼―ドローメノン(神態的所作)』社会評論社、2015年、第4章「歴史における神話のアクチュアリティ」参照。
06 スエトニウス、国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)』岩波文庫、1986年、107-108頁。
07 石塚正英『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、79-80頁、参照。
08 スエトニウス、前掲書、41頁。
09 カエサル、高橋宏幸訳『カエサル戦記集 内乱記』岩波書店、2015年、237-238頁。
10 宮田登「妖怪のトポロジー」にこう記している。

占いは、「裏を見る」という意味である。表ではなくて心の「ウラ」を判断するというのが占であって、見えない心の内部を判断する、その技術を占いと称している。占いの場所は、境の場所でなければいけない。そこは見える場所であると同時に、見えない世界を交錯させているからだということになる。

   小松和彦編『怪界の民俗学⑧境界』河出書房新社、2001年、52頁。
11 PENSÉES de BLAISE PASCAL, par Léon Brunschvicg, Paris 1897, p.56-57.
12 Albert Einstein, Hedwig und Max Born: Briefwechsel 1916–1955. Rowohlt Taschenbuchverlag, Reinbek bei Hamburg, 1972, S. 97f. 西義之/井上修一/横谷文孝訳『アインシュタイン・ボルン往復書簡集』三修社、1976年、160頁。
13 マンジット・クマール、青木薫訳『量子革命―アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』新潮社、2013年、462頁。
14 アインシュタインと量子力学の関係については、以下の拙著を参照。「量子力学に対する文明論的疑義―アインシュタインとシモーヌ・ヴェーユ」、石塚正英『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年、第1章。
15 藤堂明保『漢字語源辞典』、572頁の項目「餞」によると「去るものを送りて食するなり」とあり、575頁の項目「饌」によると、「とりそろえたごちそうのこと」とある。とある。
16 斎藤たま『賽銭の民俗学』論創社、2010年、60-61頁。
17 瀧田 寧「直江津祇園祭」、NPO法人頸城野郷土資料室編『くびき野文化事典』社会評論社、2010年、210-211頁。
18 網野義彦/上野千鶴子/宮田登『日本王権論』春秋社、1988年、46-47頁。
19 参考:令和7年度版『宗教法人の税務』国税庁。
https://www.nta.go.jp/publication/pamph/gensen/r07_shukyo.pdf
20 柳田国男「賽の河原の話」、『中央佛教』第6巻第4号、1922年4月、『定本柳田國男集』第27巻、1975年、筑摩書房、280-281頁。
21 宮本常一「賽の河原」、『私の日本地図7』未来社、1970年。宮本常一『日本の葬儀と墓―最期の人生行事』八坂書房、2017年、170-172頁、再録。
22 斎藤たま『賽銭の民俗学』論創社、2010年、156-157頁。
23 親鸞聖人の曽孫、覚如上人『改邪鈔(がいじゃしょう)』に伝えられる。親鸞「改邪鈔」一六、石田瑞麿訳『歎異抄・執持鈔』平凡社、1994年、204頁には、以下のように記述されている。

ところが浄土に生れるための信心について論議もしないで、没後の葬礼という、ただの死者の冥福を祈る儀礼を、わが宗の肝要とするかのごとく話し合うものだから、祖師聖人の内心のご領解(りょうげ)も現われないし、僧俗・男女がともに差別なく浄土に生れる道をも知らないで、ただ世間に行われるあの卑俗な無常講とかいうものと同じもののように、多くの人が見傲〔している〕 ことは、注意しなければならないことである。一つには、本師聖人の仰せに「わたし<親鸞>が眼を閉じたならば、賀茂川に投げいれて魚に与えてよい」と言われているが、これはとりもなおさずこの肉体を軽んじて、仏法に対する信心を本としなければならないよしを表わしておられるからである。これによって考えるに、ますます葬送を一大事としてはならない。もっともかたく停止しなければならない。

24 写真は、曹洞宗長徳寺境内(上越市寺町3)に大正時代から設えてある「賽の河原」。
25 詳しくは、以下の拙稿を参照。「上越地方の葬送儀礼〔焼香銭〕」、石塚正英『歴史知の百学連環』社会評論社、2022年、第13章第10節。 
26 斎藤たま、前掲書、17頁。
27 宮田登「妖怪のトポロジー」、小松和彦編、前掲書、19頁。
28 宮本常一、前掲書、170-171頁。
29 石塚正英「虐待される道祖神」、『歴史知とフェティシズム―信仰・歴史・民俗』理想社、2000年、第3章、参照。
30 立花隆『臨死体験(上)』文藝春秋、1994年、49-50頁。
31 同上、269-271頁。
32 詳しくは以下の拙稿を参照。「科学と非科学と擬似科学―パスカルの確率論を事例に」、webジャーナル「公共空間X」2025.05.15. http://pubspace-x.net/pubspace/archives/13200
   なお、本稿執筆中の2025年6月2日付『毎日新聞』朝刊19面(13版、社会面)に、「大学院で「擬似科学」」という記事が掲載された。「波動」、「ゲーム脳」、「EM菌」など、「教育現場に入り込む擬似科学は過去に度々問題になってきた。だが専門家は、大学で肯定的に教えるケースは極めてまれだと指摘する」と解説されている。「推進者が講義する場合、科学的批判に答えることはできない」との専門家のコメントを添えている。この記事に接してなお、私は、似非科学と異なる擬似科学の意味と意義を考察せねばならないと再確認している。
33 ニールス・ボーア、山本義隆訳『量子力学の誕生』岩波文庫、2000年、469頁。
34 〔メソフィジカル・バース〕詳しくは以下の別稿を参照。「量子力学という科学の非科学性―〔メソフィジカル・バース〕の提唱」、webジャーナル「公共空間X」2024.10.05.
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12056
35 堀越智編著『図解 メタメテリアル―常識を超えた次世代材料』日刊工業新聞社、2013年、18-19頁には以下の記述が読まれる(下線部引用者)。「それでは比透磁率が負の値をとる物質はどのようなものでしょうか。マイクロ波領域(表1.1―省略)では磁性体が負の透磁率を持ちます。しかしノーベル物理学賞受賞者であるL.D.ランダウが書いた有名な物理学の教科書にも光の領域では透磁率は1と考えなさいと書かれている通り、天然に存在する物質は磁気応答をほとんど示さないことが常識でした。ところが20世紀末にJ.B.ペンドリー(英国)が、図1.9の第3象限内に描いた図のような波長よりも小さな分割リング共振器(Split-Ring Resonator:SRR)を提案しました。 磁場がSRRのリング面を貫くとマクスウェル方程式にしたがってリングに誘導起電力が生じ、リングを周回する電流が流れることによって磁気的な応答が生じます。これを利用することで透磁率を負の値にも変えられることを理論的に示したのです。また、比誘電率もSRRとは別の電磁波の波長よりも小さな人工構造を用いて制御することができます。/このような計算された形状をもつ物質は「物質を超える物質」という意味でメタマテリアルと名づけられました。メタ(meta)はギリシャ語で「超える(beyond)」というような意味を持ちます」。〔メタマテリアル〕は理論的に示した計算上の物質なので、自然ではないが、さりとて、自然現象から出発しているので、超自然でもない。その領域を私は、〔フィジカル・バース〕と〔メタフィジカル・バース〕の中間を示す〔メソフィジカル・バース〕と呼んでいる。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x13382,2025.06.11)