真の自己は身体を離れない―王陽明『伝習録』を拾い読む

石塚正英

 
はじめに
  
   中国明代の儒学者王陽明(1472-1529、陽明は号で、本名は守仁)は単なる官僚士大夫ではなく、むしろ民衆世界を哲学する人だった。浙江省出身の彼は、明の官学である朱子学を修め科挙に合格後、官界に入った。しかし、彼の主義主張は「事上磨錬」、つまり上意下達でなく熟慮断行にあった。結果として当時の宦官勢力と対立し、左遷の憂き目にあって貴州の龍場という辺境の地に追いやられた。逆境でこその報本反始なのだろう、陽明は抜本塞源の挙に出でて、自己本来の学問を確立した(☆01)。知行合一、静坐、致良知などの提唱――のちに謂われる「陽明学」である。彼は生涯において著作をものさなかったが、門弟・門人たちによって師の原稿や講話、対話は記録してあった。師没後、それをまとめたものが全3巻からなる『伝習録』である。私は、連日連夜ひっきりなしに猛暑の続く2025年7月、それらを読んでは摘要し、摘要しては咀嚼した。陽明読書の開始は、2012年の秋にやすいゆたかとの対談「日本的霊性からネオヒューマニズムへ」を行った際だが、その時はつまみ食いでしかなかった。本稿は『伝習録』丸ごとの読書ノートをもとに、ゆるく課題を設定したかたちの小論である。
   論述目的である「真の自己は身体を離れない」とは、自然と文化の相関における原初性の探究、といったイメージでもある。「自己」という術語に類するものに「自身」がある。外国語で比べると、「自己」は“ego”で「自身」は“self”となろうか。後者の類語に「わがまま」“selfish”があるものの、前者は後者よりも自我性が強い。本稿では、どちらかというと前者の意味を意識している。
   なお、『伝習録』上巻の解説(近藤康信)によると、上巻には陽明40歳前後の記録が含まれ、中下巻には50歳以後晩年までのものが含まれている。今回の拾い読みは上巻よりも中下巻に偏っている。その理由は、長年にわたる私の研究課題である〔文明を支える原初性〕に絡む記述は中・下巻に多いからである(☆02)
 
1.万物一体の原初性―『伝習録』上巻
 
   『伝習録』上巻解説の「王陽明略伝」によると、陽明が独自の思想的境地を確立したのは宦官勢力に敗北して左遷された龍場においてである。万物は本質たる「理」と現象たる「気」によって存在する、とする朱子の理気二元論を批判的に摂取して、陽明は「心即理」の理一元論を提唱したのだった。その自己革命を形容して「龍場の大悟」と称する。その大きな悟りの特徴を私なりに一言のキーワードで示せば、「万物一体」となる。森羅万象と生きとし生けるもののすべてを包含するものである。『伝習録』上巻に前置きされた「学説概観」(用語説明)には、「良知」「致知格物」「心即理」「知行合一」「事上磨錬」「天理人欲」「万物一体観」が読まれる。そのすべてが陽明学のキーワードであるはずなのだが、私にとってそれらはみな、「万物一体観」にぶら下がるものである。
   人によっては「王陽明も良知を一切万物の根源としている」と説明してはいる(☆03)。そのような説明のいずれも、わがキーワードの序列と矛盾しあう訳ではない。だが私は、陽明の〔自然⇄人間〕思想に注目し、人間よりも自然のほうにいっそうの重みをもたせるものである。その際、ここに記した自然とは一種の存在者であって、人間の原初性に等しい。なるほど、漢字の語源からみると、「良」は天然(生まれつき)、原初(おおもと)に関連する。したがって、「良」もむろん「万物一体観」に相即するが、私の学問的好みでいくと、越後の頸城野に流罪となった愚禿親鸞が説くことになる「自然法爾」にしっくり寄り添う「万物一体観」を選びたいのである。「万物一体観」はまた、中国の古い共同体思想である「社稷」にも関連すると、私は考える。農本主義者といわれる権藤成卿の主著『自治民範』(1927年)に、次の文章が読まれる。「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない」(☆04)。この発想は権藤のオリジナルではあるけれども、その土台をなしている「社稷」は万物を一体化させる沃土にちがいない。
   さて、最初に上巻から幾つか引用する。まずは「格物致知」に関する引用である。なお、引用文には、引用順に〔引用01〕等々と付番してある。また、原書の各記事には上・中・下各巻ごとに通し番号が付されている。例えば〔上8〕とは、上巻の記事第8を示す。
 

〔引用01〕上8 先生はまた言われた。「知は心の本体であって、心は自然に知覚することができる。父を見れば自然に孝行する気持を起し、兄を見れば自然に悌の行ないをすることを覚り、幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、自然に側隠の情を覚える、というように、本心に立てば自然にそうした気特にならざるを得ないのである。この自然の知のはたらきこそ良知であって、人が生まれながらに持ち、外部に求める必要のないものである。もしこの良知が発動して、そこに私意の妨げがないなら、それこそ孟子のいう、『惻隠の心を拡充して行けば、仁は用い切れないほど広大なものになる。』のである。しかし普通の人間にあっては、私意の妨げがないわけにはいかないから、致知格物の修行によって、私意に打ち勝ち、天理の自然の状態に復(かえ)ることが必要なのである」(☆05)

 
   「格物」を朱子は「物にいたる」と読んだのに対して王陽明は「物をただす」と読んだ。物をただすということは、とりもなおさず心をただすことである。上記の「学説概観」には、「良知とは、人間に固有する自然の本能で、是非善悪を知るもの」とある(☆06)。中国哲学者の荒木見悟は、編集本『朱子・王陽明』(中央公論社、1992)の解説文「近世儒学の発展―朱子学から陽明学へ」で、「致知格物」を「格物致知」とした上で、以下のように記している。なお、( )は原文ではルビとして付されている。
 

陽明は『大学』の「格物致知」を「物に格(いた)って知識を致(きわ)める」と訓読する朱子の説に異議をとなえ、「物を格(ただ)して良知を致す」と訓じた。「物」とは何か。わが心の発動している場そのものである。朱子のいうような客観的に対象化された「物」ではない。そのように天下の物のいちいちに至る力量は、とても自分にはないと陽明はいう(☆07)

 
   「物」は「わが心の発動している場そのもの」である、とは言い得て妙である。ここに記されている「物」は感官を供える身体と読み換えることができる。その意味するところを19世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハの表現で敷衍すると、以下のようになるだろう。「願望はたしかに宗教の根原、神々の根拠であり、そして、願望そのものは人間に由来する。しかし願望の対象は外的自然に由来し、感官に由来する」(☆08)。願望(わが心)の生じる場が外的自然であり、その願望は神々の根拠となる。その時、外的自然は内的自然として存在する。身体は食物摂取と新陳代謝を通じて外的自然と内的自然のマトリックスを構成しているのである。
   それから、哲学者の西平直は、「格物」に関わって西田幾多郎を引き合いに出している。たいへん興味深い。その個所を西平の論稿「西田哲学と「東洋的世界観の「論理」―『日本文化』の再考」から引用する。なお、下線は原文では傍点が付されている。
 

この「物来って我を照らす」という表現は何に由来するのか。確かに西田が好んで引用した道元の言葉「万法に証せらるる」が思い出される。しかしなぜ「万法来たって我を証しする」と言わずに、「来って」としたのか。儒学の歴史では、「物来たる」という用語法は、「格物(格物致知)」を巡る議論で有名である。「格物」を朱子は「物ニイタル」と読み、王陽明や中江藤樹は「物ヲタダス」と読んだのに対し、荻生徂徠は、格物を「物キタル」と読んだ。物に至るのでもなく、物を正すのでもない。この出来事の主語は、人間(主体)ではなく、物(環境)である。物が、我に、来る。徂徠はそう読んだ。人間が「理」を極めて「物に格る(いたる)」のではない。むしろ、「物」が向こうからやって来て、「我を照らす」。その出来事を徂徠は「自得」と呼んだ(☆09)

 
   「純粋経験」は「純粋」という形容詞がついているものの超自然的(メタフィジカル)でなく自然的(フィジカル)な「経験」や「事象」である。あるいは土台をフィジカルに有するメタフィジカル、すなわち半自然的・半超越的(メソフィジカル)な「経験」や「事象」である(☆10)。したがって、その立ち位置から出てくる「物」は、たとえカオスのごとき主客未分化の不確定状態であれ、フィジカルな印象を有する(☆11)。その意識でもって私は、西田が強調する「物来(きた)って我を照らす」というフレーズを、ビデオ評論シリーズ〔学問と情熱〕第23巻『西田幾多郎-物来って我を照らす』(紀伊國屋書店、2006年)で40数分間、ゆっくり味わった(☆12)。このシリーズの編集方針は、日本の学術、文化、教育等の分野で活躍した主要人物を紹介する、というものであり、一般的な評伝の類ではある。しかし、第23巻のタイトルが「物来って我を照らす」である以上、私は多大な期待を寄せつつ視聴した。じつは、私自身、拙稿「環境の凝固結晶としての人間身体-内発的から外発的へのベクトル反転」(『理想』第691号、2013年)でもって(☆13)、物(自然・環境)が人間身体に凝固して自我を形成する、という論旨を討究していたのである。そのような議論をポジティブに組み立てる私は、自然を人間にとっての他我(alter-ego)すなわち「我と汝、もう一人の私」とみるフォイエルバッハの他我相関的唯物論をベースにしているのだが(☆14)、純粋経験論者の西田にも、そうした側面は認められると思っている。「物来って我を照らす」というフレーズはまさしくその側面を証言するものだろう。西田は、1938年に公開した「人間的存在」(『思想』第190号)にこう書きこんでいる。
 

我のない所には、直観といふものもない。直観といふことは、物の世界の自己否定として我が物の世界から生まれることである。物が我々の行為を惹起することである。故に私は動物の本能的生活の如きも、既に行為的直観的といふのである(☆15)

 
   本論文は『善の研究』(1911年)刊行から四半世紀を経ているが、私の言う外発的身体あるいは外発的自我に絡む点では2著間に変化はない。ただし、『善の研究』で西田は端緒における主客合一を説くが、私はそこに他我の交互的連合を説く。もろもろの神は存在してかまわないが、それらは主客合一でなく他我である。そうした事柄を、私は拙稿「未然形の純粋経験と連用形の歴史知―西田幾多郎小論」(『理想』第704号、2020年)で考察してある。(☆16)
   さらに私は、その側面を王陽明の思想にも見出すのである。『伝習録』上巻から、いま一つ引用する。「真の自己」と「身体的な自己」の関係である。
 

〔引用02〕上123-I蕭恵問う、「自己に打ち克ちたいと思いますが、容易に克てません。どうしたらよいでしょうか」。先生曰く、「君の自己なるものを持って来なさい。君に代って私が打ち克ってやろう」。「・・・・・」。先生曰く、「人は必ず自己のためにする心があって、始めて自己に克つことができるのである。また自己に克つことができてこそ、始めて自己を完成することができるのである」。蕭恵曰く、「私にも相当に自己のためにする心はあるのですが、それだのに何故自己に克つことができないのでしょうか」。先生曰く、「では試みに君が自己のためにする心があるというのは、どんなことか話して見なさい」。恵は暫く考えてから曰く、「私も一心によい人間になりたいと思っていました。それで自分では相当に自己のためにする心があると考えたのですが、今思って見ますと、これは身体的な自己のためにしたのであって、決して真の自己のためにしたのではありませんでした」。先生曰く、「真の自己はどうして身体を離れることがあろう。多分君はその身体的自己のためにすら何もしなかったに違いない。君が言う身体的自己とは、多分耳目口鼻四肢のことではないか、試しに言って見給え」(☆17)

 
   「真の自己はどうして身体を離れることがあろう」というときの真の自己とは、単なる精神でなく、肉体から分離できない精神、身体なくして存在できない精神のことだろう。考えようによっては西田の主客合一にも関係するが、私にすれば、肉体から分離できない精神は、一方で浮遊しても永久に分離することなどできないアニマ(霊魂)であるか、他方で肉体の一部かそれと混然一体なフェティシュ(物神)である。また、「真の自己」の「自己」を「自我」と言い換えるとして、それは、身体が環境を取り込んで外部へと拡張する内発的自我でなく、環境が身体に入り込んで凝固する外発的自我においてこそ実現される。「真の自己」はアプリオリに存在するものではない。それは、身体の変化に即応してアポステリオリに形成される。自我とはデカルト的にでなくロック的に形成されるのである。
   ところで、理論体育学の下津屋俊夫は、論稿「東洋哲学の特色よりみた身体観について」において、以下の議論を提起している。
 

身体を基体としない人間はあり得ない、生命即身体は宇宙の大生命体即霊性の顕現であり,天地自然の法則に支配されている。体育は身体を通じての身心の教育である。以上の点から身体観を「身体とは物体–肉体–霊体=三位一体のものであって宇宙霊性の顕現たる主体の実践的様相による倫理的人間形成体であり、精神物理的統一体としての存在である」と見るのである(☆18)

 
   引用文中に「身体とは物体–肉体–霊体=三位一体のもの」とあるが、この「三位一体」という表現は悩ましい。軸がはっきりしないからである。私が言い換えるとすれば、身体とは肉体を軸とする物体–肉体–霊体=三位一体のもの、となろう。王陽明の言う「身体的自己」もそのように見て大過はない。しかし、私の判断によるならば、身体は霊体(アニマ)である以上に物体(フェティシュ)である。また、「生命即身体は宇宙の大生命体即霊性の顕現であり、天地自然の法則に支配されている」とある。それは王陽明の立ち位置でもあるが、古事記に記されたいわゆる天地開闢を指している(☆19)
 
2.心即理の歴史貫通性―『伝習録』中巻
 
   次に『伝習録』中巻から数箇所を拾い読みしてみたい。まずは、「心と理とを合わせて一つとする」に関してである。
 

〔引用03〕中6 私が致知格物と呼んでいるのは、わが心の良知を事物の一つ一つに至らせることである。わが心の良知は天理に外ならないから、わが心の良知の天理を一つ一つの事物に至らせるなら、どの事物も皆それぞれの理を得ることになるのである。この心の良知を至らせることが致知であって、すべての事物がそれぞれの理を得ることが格物である。これは心と理とを合わせて一つとすることである。心と理とを合わせて一つにすることができれば、ご質問の私が以前に言ったことや、朱子の晩年の論のことなどは、言わないでも皆自然に理解できるはずである(☆20)

 
   ここに記された「わが心の良知を事物の一つ一つに至らせる」、「心と理とを合わせて一つにする」は、私の解釈によれば〔以心⇄伝理〕である。物を介在させるので心と心の直結ではなく「以心伝心」とは違うが、一種のテレパシーであることに変わりはない。のちの20世紀初に至って、人類学者ジェームズ・フレイザーが『金枝篇』に収集した世界各地の民俗儀礼中にたくさん確認できる「共感呪術(sympathetic magic)」である。その定義的説明を同書から以下に引用する。
 

呪術の基本的な思考原理を分析すると、二つに分けられるであろう。第一は類似は類似を生む、すなわち結果は原因に似るということである。第二は以前互いに接触していたものは、物理的接触が終わって遠く離れてしまってからもなお、お互いに働きかけるということである。前者の原理は〈類似の法則〉、後者は〈接触または感染の法則〉といってもよいだろう。第一の原理、すなわち〈類似の法則〉から、呪術師はただ真似ることだけで自分の望み通りの結果を生み出すことができると判断する。第二の原理からは、彼が物体に働きかけた行為はすべて、それが相手の身体の一部であるか否かに拘らず、その物体と一度接触した相手に同じ効果を及ぼすと判断する。〈類似の法則〉の上に立つ呪力は〈類感呪術〉または〈模倣呪術〉と言ってもよいだろう。〈接触または感染の法則〉の上に立つ呪力は〈感染呪術〉と言ってもよいだろう(☆21)

 
   王陽明の主張する「わが心の良知を事物の一つ一つに至らせること」は、フレイザー的呪術世界における共感呪術の生じる領域と、類型的には同列である。私はここで類型が同じだと言っているのであって、内容のことではない。ともに、事象の生じる領域は〔フィジカル・バース〕においてだが、その動きや効果は〔フィジカル・バース〕と〔メタフィジカル・バース〕の中間にあたる〔メソフィジカル・バース〕だということである。
   次の引用は、今日の日本でも人口に膾炙している熟語「温故知新」に絡む箇所である。
 

〔引用04〕中11-Ⅱ 温故知新の語については、朱子も、温故を徳性を尊ぶ意味に解しているように、徳性は決して外に求めるべきものではない。一体、学問によって新知識を得るのは、必ず故きを温め徳性を尊ぶことによって得られ、また故きを温め徳性を尊ぶには、必ず学問して新知識を得ることによってなされなければならないから、ここにおいても、知と行とは別のものでないことが証明できる。孟子の「博く学んで詳細に解説する。」というのは、その下句にある「まさに根本に返って要点を説こうとする。」ために外ならない(☆22)

 
   ここに記された「温故知新」は、「故きを温ねて新しきを知れば、以て師たるべし」という孔子の教えに由来する。その意味は新知識を得るために「故きを温ね」ることとされているが、「まさに根本に返って要点を説こうとする」との但し書きが記されているので、私は別様の解釈を含ませている。すなわち、故き事蹟、制度などを探究することで新しい価値や意味を発見する、というだけではない。その新しい価値の中に故き(原初からの価値や意味)を継続させる、ということである。故き事蹟、制度などは新たなそれらによって廃棄されるのでなく、根本として尊重され続ける、ということなのである。この文章は孟子からの引用に過ぎないが、王陽明の立ち位置であることに違いはない。私の常用するフレーズで言い換えると、〔文明を支える原初性〕である。原初的精神は先史から文明を貫いて、物的媒体を通じ未来まで人類社会を支える。人類が蓄積してきた知識・技術は、すべからく過去から未来へと取捨選択の篩に掛けられつつ継承される。建築技術のアーチ構造はその一例である。哲学者のジョン・デューイは自著『経験としての芸術』にこう記している。
 

色彩なくして絵画はなく、音なくして音楽はなく、石や木材なくして建築はなく、大理石や青銅なくして彫刻はなく、言葉なくして文学はなく、生ける肉体なくして舞踊はないということを、何故ことさら書き立てる必要があろうか(☆23)

 
   物質はその時々に居合わせた人々の知識技術を支えつつ、ゆく川の流れのごとく、マントル対流のごとく、人類文化そのものを新地平へ、新知平へと送っていく。また、精神構造に特化して具体例を挙げるならば、物質それ自体を崇拝するフェティシズム(物神崇拝)、あるいは物質に育まれる霊魂を崇拝するアニミズム(霊魂崇拝)にその事実を確認できる。三大世界宗教のすべてが、自然であれ人工であれ、物在を神々に模しているが、実はその物在に包まれる霊魂こそを神と見なしている。内容でなく類型で比べて同類と思われるものを挙げると、経済世界では、マルクスが見通し命名した商品が物神(『資本論』に読まれる「商品の物神的性格」)であり、科学技術の世界では、私が提起しているように人工知能や量子力学における先端技術が、あたかも打出小槌のごとき物神である(☆24)
   さて、『伝習録』中巻からいま一つ、「天地万物」に絡む箇所を引用する。
 

〔引用05〕中12-Vこのように各自がそれぞれ自己の本分を尽くして、他人の才能を自分のものの如く見ることができたのは、要するに、彼らの心も学問も純粋無雑であり、万物を一体と見る仁の心を完全に発現し、すべてのものと精神の交流、意気の流通が行なわれ、人と我、自己と物との差別がなかったからである。これを一人の身体に譬えて見ると、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は歩く、というように、それぞれ一身の役目を果たすが、目は声の聴けないのを恥じとしないばかりか、耳の向かうところは必ず注意を怠らないし、足は物を持てないことを恥じとしないばかりか、手の探そうとするところへは必ず進んで行くようなふうで、全く一身同体の関係であった。いわば、一身に気力が充実周流し、血液がよく循環して、そのため痒さ痛さも、呼吸も、すべて打てば響いて感応すると同様に、口に出して言わなくても、直ちに悟る微妙密接な関係にあったのである。これが聖人の学問の、至って簡単で、知り易く従い易く、学問は上達し易く、才能は完成し易かった理由であり、その根本は、何びとにも共通な心の本体にかえることを目的とし、知識技能は問題にすることがなかったからである(☆25)

 
   万物一体の「万物」には、文字通りに万物が含まれるのだろうか。似ている熟語に一身同体がある。一心同体ではなく一身同体である。身体であるから、なるほど万物一体の一例に適している。引用文に従えば「すべてのものと精神の交流、意気の流通が行なわれ、人と我、自己と物との差別がなかった」ことを指している。私はおおいに共感する。実は、そのような状態や価値意識をもとに、私は、「百学連環」と称する熟語を駆使して新たな知の概念の創出に奮闘してきたのである。「百学連環」とは、明六社同人だった西周がつくった“Encyclopedia”の翻訳語で、現在では「百科事典」などと訳されている。けれども私は「連環」に意味を持たせたい。すなわち、自然と人間、世界と地域、先史と文明、それらは相互に連環し、諸学は相互に連環している。①前近代に起因する知(経験知・感性知)と②近現代に特徴的な知(科学知・理性知)は時間軸上で連環(in-cycle)する。両者を両極にして相互に往復運動をする。両者あいまって新たに成立する知的パラダイム、これこそが人類史の21世紀的未来を切り拓く知平であって、私なりの用語で括ると、「歴史知(historiosophy)」となる。その知平においては、アニミズムの霊魂(anima)と量子力学の量子(quantum)は同一類型として〔メソフィジカル・バース〕に置かれる(☆26)
 
3.共同幻想としての心即理―『伝習録』下巻
 
   王陽明は1529年に57歳で死去するが、『伝習録』下巻はその晩年に関係する。陽明没後28年を経た1556年、門人の銭徳洪(せんとくこう)が、上中2巻に収録されなかった部分を事後編集したものである。一見すると落穂拾いの如くに思えるが、とんでもない。陽明の、深く耕された〔自然⇄人間〕思想を垣間見るものである。「身と心は一つ」というテーマについての問答を以下に引く。
 

〔引用06〕下1-Ⅱ 私(陳九川)は疑問に思ったのでお尋ねした。「物は外にあります。どうして身や心や意や知と同じでしょうか」。先生曰く、「耳や目や口・鼻・四肢は、身体であるが、心によらなければ、視聴言動することは全くできない。それとは逆に、心が視聴言動しょうとしても、耳・目・口・鼻・四肢がなければ、また不可能なことである。心がなければ身はなく、身がなければ心はない。だから身と心とは一つの物である。ただ物質的に充実しているものを指して身といい、全体を支配しているものを指して心といい、心の活動するものを指して意といい、意の霊明なものを指して知といい、意が関係するものを指して物と言うに過ぎない。だから、これらは結局一つのものなのだ。ただ意は他と無関係に宙に浮いて存在する場合はなく、必ず他の事物に付着しているから、意を誠にしょうとするなら、事物に関係し存在している意についてこれを格し、その人欲を除去して天理に帰すことが必要である。そうすれば、この事に存在している良知は蔽われないで、完全に発揮されるのである。これが意を誠にする修行である。」と。私はこれを聞いて、数年間の疑問が釈然として解けた(☆27)
〔引用07〕下75 先生が南鎮へ遊びに行かれた時、同行の一友が岩間に咲いている花の木を指ざして質問した。曰く、「天下に心外のものはないと申しますが、この花は深山の中で、自然に咲き自然に散って行くだけです。して見れば、われわれの心と何の関係がありましょうか。」先生曰く、「君がまだこの花を見ない間は、この花は君の心と共に静寂に帰していた。それを今君がここへ来てこの花を見たとき、花の色は一時に明るくなって来たのだ。これでこの花が君の心の外にあるものでないことが分るだろう」(☆28)
〔引用08〕下122 「心とは一かたまりの血肉である心臓の意味ではない。そうした形のことではなく、およそ知覚するものが心なのである。耳と目が視聴することができたり、手足が痛み痒ささを感じるような、この知覚することが心である」(☆29)

 
   上記3点の引用文は、すべて身体感覚に関係している。〔引用07〕などは、〔引用03〕〔引用05〕と相まって、メソフィジカルな「心即理」を的確に言い表している。王陽明は「心」を最大重視する思想家であるが、それは単なる肉体の一部(肉塊)ではない。けれども「心」は、「耳や目や口・鼻・四肢」との相互連携を前提とする意味では肉体的である。陽明は、そこに微妙な関係を指し挟む。人に見られないままの花々は静寂に佇むが、見られたなら明るくなる。その際、「これでこの花が君の心の外にあるものでないこと」は、その当人にとっては紛れもない事実である。「心即理」は、アニミズムの霊魂、量子力学の量子ともども同一類型として〔メソフィジカル・バース〕に関連する構えである。
   村外れや峠道の路傍に佇む石仏とて、同じ類型である。違いは個人幻想か共同幻想か、ということである。陽明は当事者が単数か複数かは問題にしないようだが、私はその区別をも考察の条件に組み込んでいる。たとえば、「意は他と無関係に宙に浮いて存在する場合はなく、必ず他の事物に付着している」との説明文は、明らかに当事者を複数に見立ててこそ説得力を増す。なぜならば、付着するべき「他の事物」が他者ないしは〔他我〕として、相互的に存在するからである。〔自然⇄人間〕思想では、当然そういう理解になる。複数となると、共同認識、共同主観、それに〔他我〕が「心」に絡んでくる。人物Aの心と人物Bの身が共感する。村人Cの心と村人Dの身が共感する。
   ここに、私の個人的な体験を記す。1997年8月下旬、私は富士五湖の一つ精進湖北岸の女坂峠に出かけ、幾つかの石仏たちと初対面のあいさつを交わした。江戸時代、中でも寛政年間には各地の農民が盛んに石仏盗みを行なったが、その原因は直前の天明の大飢饉である。当時の下層生活者たちは、飢饉となれば災難除けに石仏を拝み、願いかなって生き残る者、かなわず死ぬ者にわかれ、洪水ともなれば石仏もろとも濁流に溺れ死ぬ者が続出した。疱瘡など流行り病におそわれると、石仏の前で手を合わせながら息絶える者が後を断たなかった。そのような農民・庶民のせつなくやるせない思いを一身に背負っているのが野や峠の仏、崩れ石仏である。私は、崩れ果てても遺り続ける石仏たちに出会うことで、実はかつてその同じ石仏に辛い思いや感謝の思いを語り尽くしたであろう無数の農民たちに出会っているのである。そんな私の心が、私のからだを女坂峠へと向かわせたのだった。
   女坂峠に向かうに際し、まずは精進湖畔の食堂で地元の婦人数人に今石仏はどうなっているか尋ねてみた。いまどき女坂峠は地元の者でも滅多に越えたりしないから定かではないが、との前置きのあと、石仏は確かに今でも幾つか並んでいるはず、との明快な返事を戴いた。それとともに、私のことを若いのにお地蔵さん巡りだなんて立派だね、と誉めてくださった。私のように女坂峠とか石仏とかを尋ねてくる旅行者は最近全然いないのだそうだ。「これから行って、皆さんの分もお地蔵さんによろしく頼んできますから」と言い残して、一気に峠へと向かった。
   登り口に「中道往還」と題する案内板があって、こう書かれていた。「中道往還は、古代から開かれたといわれ、甲斐の国と駿河の国を結ぶ最短距離の街道です」。これを読んで、はやくも私は峠やそこへの途中に佇む石仏たちに話しかけずにおられなかった。梯・古関から峠を越えて精進へと抜けるこの一帯におわす石仏・石塔たちは、たぶん江戸の昔から信徒に崇敬されてきたのだ。私にはこの女坂峠の石仏たちはいとおしい。今では何の意味も価値も喪失してはいるのだけれど、この石仏たちの前で、いったいどれだけの困窮者が生命をつなぎとめ、あるいは落としていっただろうか。そのようなことを連想しては、路傍の片隅にコンクリートで足止めされた石仏たちのかたわらにしばらく腰をおろしてみたのだった(☆30)。陽明ならば門人にこう答えるだろう――これでこの石仏が君の心の外にあるものでないことが分るだろう、と。
   陽明が重視した「心」を、私は「共同幻想」と呼びたい。人間関係が家族や村単位であれば共同幻想、共同体幻想で、夫婦や思い人同士であれば対幻想である。だが、個人幻想というものはない。「他と無関係に宙に浮いて」存在する幻想はありえないからである。また、あり得るとしても個人幻想は近代的観念であり、共同(体)幻想は前近代的観念である。陽明が重視した「心」は、むろん後者の観念に括られるだろう。それはただし、21世紀の現代社会に消え去ることなく、歴史貫通的観念として存在している。王陽明は言った。「心性はまさしく生き生きとしており、また、かの川の流れと同じ姿になるが、もし少しでも中断するようなことがあると、天地の自然の姿とは全く似もつかないものになってしまうであろう。これこそ学問の最も重要なところで、聖人とは、このようなものであったのである」(☆31)。鴨長明『方丈記』と関係あるのかないのか、それはわからない。論語(子罕第九16)にはこうある。「子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜」。子(し)川の上(ほとり)に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず、と読み下す。そのとおりである。川の流れは時空をまたぐのである。
 
むすびに
 
   江戸時代中期の儒学者で、古代に無知だと朱子を批判し陽明学を志向した荻生徂徠は、亡くなる2年前の1726年頃に政策提言書とされる『政談』をまとめた。そこに収められている「学問のこと」、「儒者のこと」の中で、当時の儒者たちの堕落ぶりをこう記している。「学問はなくても、ただ家柄と知行高とだけで役人になれると、今の武士たちは考えているため、面倒な学問などはしようとしないが、それは道理である」。「幕府に仕えている儒者たちは、考え方が間違っているために、みな学問を怠っていて、役に立たないものが多い」。その当時の儒学者は、学問する人と言っても訓詁学あるいは実学ばかりであって、新たな世界観を立てようものならば、異端者呼ばわりされるのが落ちだっただろう。徂徠は幕府に対してこう警告する。「今の幕府の法の立て方が未熟で、世の中に締りがなく、風習はどんどん変わってゆき、今では法は法として立てたまで、下々の実情は別になって、法が役に立たなくなってしまっている」と(☆32)。私は、学問とは徂徠の考えるような実学的なものである前に、陽明の考える文明論的なものであることを望む。政治の場では、緯武経文(いぶけいぶん、文武両道の政治)であるよりも偃武修文(えんぶしゅうぶん、文化文徳の政治)であることを望む。「精神の交流、意気の流通が行なわれ、人と我、自己と物との差別が」感じられない共同精神の発露たる換骨奪胎を構想する学問を求めるものである(☆33)
   さて、学問が真理・真実を目指す場合、発見に至る①方法(どのようにして)と②根拠(なぜそうなるのか)の探究が前提とされる。その際、学問がかつて哲学や神学として存在し、未分化であった時代はいざ知らず、①が複数・多様に存在すれば、それに合わせて②もまた複数・多様に存在している。そこで是非とも肝に銘じておきたいポイントがある。それは本稿の冒頭に書きおいた「抜本塞源」である。本来の意味は「根本を引き抜き水源を塞ぐ改革」(「春秋左氏伝」昭公九年、前533年)であるが、王陽明の文脈では、物事の根本に遡って対処する、となる。そこで問われる「根本」とは、単に時系列に関わるのでなく、自然と文化の相関における原初性だろう。本稿の執筆目的はそのことの解明に定められたのだが、はたして出来栄えはどうだったか。そこは、読者の判断にゆだねられる。
 
【付録】孟子とフォイエルバッハ
 
   2023年2月23日のフォイエルバッハの会(オンライン報告会)で私は、フォイエルバッハと『孟子』とに絡めて、食べ物における人間と牛馬の差はない、といった話をした。それを①「孟子」からの引用、②フォイエルバッハ『唯物論と唯心論』からの引用で示す。なお、②冒頭の「中国の哲学者」とは孟子のことである。
 
①孟子の逸話、問答を集めた『孟子』の「告知章句上」七、から
口之於味、有同耆也、易牙先得我口之所耆者也、如使口之於味也、其性與人殊、若犬馬之與我不同類也、則天下何耆、皆從易牙之於味也、至於味、天下期於易牙、是天下之口相似也、
〔現代語訳〕口と味の関係も同様で、人は大体同じようにおいしいものを好むものである。昔の名料理人として有名な易牙は、人よりも先に我々の口がうまいとして好む味を心得た者である。もし口の味わい方が、易牙の好みとほかの人の好みが違っていること、犬馬と人間とのように類を異にするほどであったら、天下の人の好みは、易牙の料理をおいしいとは思わないだろう。ところが、天下の人は、易牙ほどのうまい料理人はいないという。それは、天下の人の味の好みが大体似ているからである。
 
②フォイエルバッハ、舩山信一訳『唯物論と唯心論』(岩波文庫、114頁)から
中国の哲学者は正しい。犬共や馬共――一般に人間たちとは区別された諸存在者――に比較または対立しては、人間の諸個体相互間の諸区別は消滅する。そしてそれはちょうどまたわれわれにとっては、或る種または或る類にぞくする動物的諸個体――とくに動物界のいっそう低い諸段階における諸個体――相互間の諸区別が消滅して無になるのと同じことである。
 

01 王陽明は、龍場に建てて暮らした家屋を「何陋軒(かろうけん)」と名づけた。「龍場は貴州でも西北の荒涼たる山間部楽で、気候は悪く、先住民はもとより言語も通じない。多くは穴居してほとんど野獣に近いものであった。(中略)その中に先住民もだんだん彼に教えられて、住居というものを作るようになった。そこで先住民の協力を得て、寅賓堂(賓陽堂)、何陋軒、君子亭、玩具窩などを造り、龍岡書院と名づけた」。宇野哲人・安岡正篤監修/荒木見悟・岡田武彦・山下龍二・山井湧編集『陽明学入門』(陽明学大系第1巻)明徳出版社、1971年、51頁。ただし、現在の倫理的な観点から見て、引用文中に記されている差別語については、私の責任において書き換えた。
02 〔文明を支える原初性〕という括りで、私は2021年から以下の著作群を公刊してきた。①『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年/②『フレイザー金枝篇のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2022年/③『歴史知の百学連環―文明を支える原初性』社会評論社、2022年/④『歴史知のアネクドータ―武士神道・正倉院籍帳など』社会評論社、2022年/⑤『バロック的叛逆の社会思想―ニーチェ・フロイト・ブルクハルト批判』社会評論社、2023年/⑥『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年/⑦『原初性漂うハビトゥスの水脈―量子世界・地中海・ゲルマン・クルド』社会評論社、2024年/⑧『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年/⑨『人類の内なる原初性―アリスティッポスからシュペングラーへ』柘植書房新社、2025年。
03 山室三良「陽明學と現代」、宇野哲人・安岡正篤監修/荒木見悟・岡田武彦・山下龍二・山井湧編集『陽明学入門』(陽明学大系第1巻)明徳出版社、1971年、507-508頁。なお、中山八郎「王陽明と明代の政治軍事」によると、「王陽明はその学問を発明するまでの前半生において、任侠・騎射・辞章・神仙・仏教の五溺を経過したといわれている。しかもそれら五溺の経験は彼の後半生の陽明学において決して雲散霧消したのではなく、陽明学の中に深くからみ合って残存していることは無視できない」とされる。同上『陽明学入門』165頁。
04 権藤成卿『自治民範』平凡社、1927年、278頁。
05 王陽明著、近藤康信編『伝習録』明治書院、2002年(初1961年)、49-50頁。
06 同上、8頁。
07 荒木見悟「近世儒学の発展―朱子学から陽明学へ」、荒木見悟編集『朱子・王陽明』中央公論社、1992(初1978)年、68頁。
08 Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Akademie-Verlag, Berlin, Bd.7, 1969, S.180.
09 西平 直「西田哲学と「東洋的世界観の「論理」―『日本文化』の再考」、『西田哲学会年報』第19巻、2022年、8-9頁。なお、引用文中に「荻生徂徠は、格物を「物キタル」と読んだ」とあるが、その議論については以下の文献を参照。平石直昭「西周と徂徠学」、『北東アジア研究』第29号、2018年3月、96頁。
10 「メソフィジカル」という術語は私のオリジナルである。正式には「メソフィジカル・バース(mesophysical verse)」という。以下の拙稿を参照。「自然と超自然の緩衝域を考える―メソバース(時空中間域)の想定―」、石塚正英『原初性漂うハビトゥスの水脈―量子世界・地中海・ゲルマン・クルド』社会評論社、2024年、第2章。
11 宗教哲学者の井上克人は、「純粋経験の論理―〈統一的或者〉が意味するもの」(『西田哲学会年報』第2巻、2005年、48頁)で以下のように記している。「したがって西田自身が強調するように、純粋経験の直接性は、ただ単に単一であるとか、分析できぬとか、瞬間的であるとかいうことにあるのではなく、却って『具体的意識の厳密なる統一』にあるのである」。私はこの文脈に、私なりに定義する「フィジカル」に根ざす議論を読み取っている。
12 ビデオ評論シリーズ〔学問と情熱〕第23巻『西田幾多郎―物来って我を照らす』(DVD刊)紀伊國屋書店、2006年。
13 石塚正英「環境の凝固結晶としての人間身体―内発的から外発的へのベクトル反転」。以下の拙著に再録。『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第9章。
14 石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020年、「結 フォイエルバッハ思想の統一的全体像を求めて」、参照。
15 西田幾多郎「人間的存在」、『西田幾多郎全集』第9巻、1965年、14頁。
16 石塚正英「未然形の純粋経験と連用形の歴史知―西田幾多郎小論」。以下の拙著に再録。『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第12章。
17 王陽明著『伝習録』、187-188頁。
18 下津屋俊夫「東洋哲学の特色よりみた身体観について」、『体育学研究』第11巻第5号、1966年、10頁。
19 『古事記』冒頭を読み下し文で記す。「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠したまひき。/次に国稚(くにわか)く、浮きし脂の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(もえあが)る物によりて成れる神の名は、 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)」。倉野憲司校注『古事記』岩波文庫、18頁。なお、引用文中に「海月なす漂える時」とあるが、この場所につき、本居宣長は天地の中間とみて、平田篤胤は地上とみる。参考:石塚正英「神話の三類型―天地開闢・国産み・天地創造(成る・産む・創る)」、石塚正英『歴史知の百学連環―文明を支える原初性』社会評論社、2022年、第2章。
20 王陽明著『伝習録』、223頁。
21 James George Frazer, The Golden Bough, A Study in Magic and Religion, part1, The Magic Art, vol.1, p.52. フレイザー『金枝篇』第1巻、61頁。
22 同上、248頁。
23 John Dewey, Art as Experience. The Berkley Publishing Group, New York, 2005, p.204.
24 石塚正英「量子の呪術的性格―妖怪呪術・商品物神・不気味な量子」、同『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第3章、参照。
25 王陽明著『伝習録』、263頁。
26 石塚正英「クアンタム(量子)とプシュケー(魂魄)」、「量子力学は科学でなく技術である」。ともに拙著『人類の内なる原初性―アリスティッポスからシュペングラーへ』柘植書房新社、2025年、第1章、第2章、参照。〔メソフィジカル・バース〕については上記の〔注09〕参照。
27 王陽明著『伝習録』、406-407頁。
28 同上、484-485頁。
29 同上、548頁。
30 石塚正英「精進湖・女坂峠の石仏と信仰」、同『歴史知とフェティシズム―信仰・歴史・民俗』理想社、2000年、第5章、参照。
31 王陽明著『伝習録』、463頁。
32 荻生徂徠、尾藤正英抄訳『政談』講談社、2013年、239-240、244頁。
33 私なりの学問論を以下の拙著にまとめてある。「学問論の構築へ向けて」(上・中・下)、『立正大学学生新聞』1970年12月、71年1月、2月。『歴史知と学問論』社会評論社、1999年、『学問の使命と知の行動圏域』社会評論社、2019年。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x13684,2025.08.06)