死にゆく人間釈尊―フレイザー『金枝篇』と親鸞「正信偈」を参考に

石塚正英

 
 
はじめに
 
   本稿は、前稿「空海〔即身成仏〕に関する〔身体知〕的考察」の姉妹編である(☆01)。この数年、私は研究活動において、人類の生活と思考の圏域を以下の3種に区分してきた。ⓐメタフィジカル・バース(超自然的存在圏)、 ⓑメソフィジカル・バース(半自然的存在圏)、 ⓒフィジカル・バース(自然的存在圏)である。3種すべては人間生活・思考との関係で想定してあり、ⓐはキリスト教の天国やプラトンのイデアなど、 ⓑはキリスト教の十字架や生き物の霊魂など、 ⓒは物質世界や生き物世界である。ⓑにはⓐとリンクする種類とⓒとリンクする種類が混在する。さて、仏教の開祖釈尊は、人間だった時代はⓒに存在していたが、解脱(悟りの境地)に至って即身成仏を達成しⓑに移動した。よって、私のオリジナルの区分法によれば、解脱の前後で存在圏域を区分する必要がある。解脱前の彼が生きた世界はフィジカル・バース(自然的存在圏)であるが、解脱後の彼が横たわっている存在圏は、自然と超自然の中間という意味での「メソ(meso)」を冠したメソフィジカル・バース(半自然的存在圏)である。ここに添付する〔存在圏(バース)の3類型〕参照のこと(☆02)
   ところで、後代の大乗仏教では釈尊を如来に位置づけてⓐに立ち上がらせたが、上座部仏教では釈尊はⓒにおかれたままである。本稿ではそうした歴史的展開に注目するのでなく、いわゆる原始仏教――私の場合は原初的仏教と呼ぶ――の時期における釈尊のⓒからⓑへの移行について、社会哲学的ないし比較文明論的に考察することを目的としている。その際、まるきりⓐに存在している阿弥陀如来を比較検討の対象とする。主な参考資料はジェームズ・フレイザーの『金枝篇―呪術と宗教の研究』および親鸞の「正信偈」(『教行信証』の一部)である。
 
1.死にゆく人神―フレイザー『金枝篇』の世界
 
   前稿「空海〔即身成仏〕に関する〔身体知〕的考察」において、私は空海について次のように記した。「大日如来や阿弥陀如来(無量寿如来)などの世界はメタフィジカルなのだが、密教曼荼羅の世界はメソフィジカルなのである。そこにフィジカル出自の空海が座しても不思議はない」(☆03)。空海は歴史的に実在した人物であるが、密教世界にあって835年に入定し弘法大師の諡号を得て即身成仏を達成した。つまり、釈尊も空海も物質界(フィジカル・バース)に生まれ土臭いままで成仏したのである。生物的には二人とも死にゆく人間であり、そのとおりに死去している。そのような聖人を、ときに「人神(mangod, Menschgott)」と称する。神となった人である。偉大な故人を祭神に祀った神社は日本にもけっこう見られる。それに対して人となった神を「神人(godman, Gottmensch)」と称する。キリスト教のイエスはその典型である。ナザレのイエスは受肉して人間に生まれたが、その受肉をラテン語で「インカルナチオ(incarnatio)」と称する。その語の中に「肉(caro)」が含まれている。
   本稿では「人神」が検討の対象となるが、その事例は19世紀20世紀交イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーの大著『金枝篇―呪術と宗教の研究』第4巻「死にゆく神(The Dying God)」に散見される。前近代や非欧米の自然諸民族のもとに残っている習俗である。以下にその一部を引用する。
 

〔引用1〕人間は事実自分に似せて神々を創り、しかも自分自身死すべき運命であるため、当然神々も同じような悲しい運命に会うものと想像した。
〔引用2〕エジプトの偉大なる神々もまた死の運命を免れることはできなかった。彼らもまた老いて死んだ。彼らは人間のように肉体と魂から成り、また人間のようにあらゆる肉体の情熱と衰弱に従わなければならなかった。彼らの身体は我々人間の身体よりはずっと霊妙に型取られ、かつ長く存続したことは事実であるが、しかし、時の流れに抗して永遠を約束された訳ではなかった。時の流れは神々の骨を銀に、肉を黄金に、淡青色の髪の房をラピス・ラズリに変えた。神々の死の時がやって来ると、彼らは生の愉楽の世界から死せる神々として死者達を統治するため、墓場の彼方の憂鬱の世界に去って行った。神々の霊魂でさえも、人間の霊魂同様、その死後は肉体と結び付いている間だけ留まるに過ぎなかった。
〔引用3〕たとえ、死にゆく神の霊魂がその唇や鼻孔から出ていく時に、それを捕まえて後継者に移すことができたとしても、自分達の目的を達することはできない。というのは、病気で死ぬと当然その霊魂は弱く衰え果てた最後の段階に肉体を離れることになり、こうして弱り果てた霊魂が移された人の身体の中で元気なく存在し続けるからである。
〔引用4〕南アメリカ先住民の一部族、ピルコマヨ川のチリグアノ人の間では、人が瀕死の状態となった時は、最近親者が脊椎を斧で一撃する慣習であった。なぜなら自然死は人間に降りかかる最大の不幸だと考えていたからである。
〔引用5〕ヴェンド人は年取った両親やその他の親族を殺すならわしがあって、殺してからその身体を煮て食べた。また老人達は衰弱と老齢のみじめな生活を送るよりはこのように死ぬことを欲した(☆04)

 
   以上の引用は、神となった人でなく、人間が造った神々は人間と同じように死すべき運命にある、というものである。けれども、それらの神々はみな、首長や神官、呪術師の身体を通して神通力を発揮するので、儀礼上は首長など人間が神になっているのである。前近代や非欧米の自然諸民族のもとで、そうした人神習俗や食人習俗は稀ではない。精霊との交信を特徴とするシャマニズムのように各地に存在した。チベットを含む古代インド一帯に、またヴェーダ世界にも散見された(☆05)。世界史上の四大文明発祥の地は、大なり小なりそうした先史文化の旧習を今日にまで引き摺っている。私は、古代インドについて、インダス文明に先行する原初的プレ・インダス文化を想定し、歴史知的に探ってきた(☆06)。前者は、インダス流域の先住民が紀元前3000年頃から築き上げた高度な都市文明だが、それに先行する後者は自然崇拝を習俗の基盤に置いていた。リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10巻129章)に「そのとき無(Nichtsein)もなかりき、有(Sein)もなかりき。空界(Luftraum)もなかりき、その上の天界(Himmel drüber)もなかりき」と記されているように(☆07)、プレ・インダス文化は天地開闢神話の素材である宇宙・森羅万象を崇拝の対象にしていたのだった。ヴェーダ思想からヒンドゥー文化への道すがら、自然崇拝ないしそれに起因する神々への崇拝は顕在しつつ、ユダヤ・キリスト教的な超越神・唯一神へと結実しない宗教として、インド文化は多様化と深まりを見せていった。その過程のどこかで、人神釈尊は誕生したのだった。
 
2.自然的存在としての釈尊
 
   紀元前に成立した経典の中で、釈尊はしだいに超人化され神に近い存在となる。しかし、この世の出自なので、解脱前の修行中における釈尊について描くに当たっては、どこかにフィジカルな土臭さを残していただろう。メソフィジカル・バースからメタフィジカル・バースへと超人化しきれるものではない。フィジカル・バースにあった釈迦を、大乗仏教(浄土教)はたしかにメソフィジカル・バースに移した。その際、極楽それ自体はメタフィジカル・バース(超自然)であるが、人間は決してそこに至ることはあり得ず、メタとフィジカルの交叉圏域であるメソに位することになる。
   ただし、あまり私独自の造語で議論を進めたくない。歴史的事象を追認識するべく、ここで仏教以前のヴェーダ思想にこだわってみたい。仏教学者の中村元は著作『ヴェーダの思想』の中で原始仏教に通じる諸問題を種々解説している。私は中村学説をかなりの程度で受け入れているので、多少冗長であるが必要な限りで6箇所から引用する。
 

〔引用1〕当時のアーリヤ人の宗教は多神教であった。それは主として、自然現象あるいはその背後に存在すると想定される力を神格化して崇拝することであった。そうした神々への讃歌が集成されて成立したのが『リグ・ヴェーダ』である(☆08)

 
   パキスタンとアフガニスタンの間にあって古来文明の回廊と称されているカイバル峠、そこを超えてインダス上流にやってきたばかりのアーリア人が観念した神々に注目したい。それは自然現象が擬人化されたのでなく擬神化された神々だということである。擬人化であれば自然的事物をいったん人間の姿態に模してから崇拝する。しかし、擬神化であれば、自然的事物をありのままの姿態で神と見なし崇拝する。河川は河川のままで、ワニはワニのままで神々なのである。
 

〔引用2〕当時はまだ寺院や霊場は存在せず、偶像崇拝もまだ行なわれていなかった。巡礼も行なわれていなかった(☆09)

 
   擬神化された自然神は存在するが、それの超自然的神霊化と人格神的偶像化は生じていなかったようだ。いわんや、神々を安置する寺院や神殿は出現せず、よって絶対的な偶像化はされていなかった。
 

〔引用3〕しかしこれらの神々に関して神話が発達するにつれて、元来自然現象にもとづいて想定された神々は、ますます擬人的に表象され、それぞれに独自の性格・性行が帰せられるとともに、それらはまたたがいに混淆し、自然現象との関連はますます稀薄となった(☆10)

 
   自然神からその擬人化が進む行程は以下のようである。①自然現象(自然そのものの崇拝・広義の自然神)→②擬神化(自然の中から霊的なものを抽象・狭義の自然神)→③擬人化(抽象霊をさらに擬人化して崇拝)。その際、自然神の物質それ自体を神化すればフェティシュ信仰(フェティシズム、物神崇拝)であり、自然神の霊魂を神化すればアニマ信仰(アニミズム、霊魂崇拝)である。双方とも21世紀の現代社会にも存在する(☆11)
 

〔引用4〕人間と獣とどこが違うのか? 本質的には変わらないではないか、という近代の反逆者たちのいいそうなことが、『リグ・ヴェーダ』の詩人にとっては当たり前のことであったのである(☆12)

 
   人間と動物は対等・同等という思想、現代的に表現すると人間と生き物たちの共生であるが、この認識には歴史的な段階を意識してかからねばならない。先史社会(プレ・インダス文化)と文明社会(インダス文明)の区別があり、さらには双方の入れ子状態が現出した。入れ子状態は、先史から文明へ、という時系列の逆転あるいは両者の混在に確認できる。インダス流域の先住民が紀元前3000年頃から築き上げた高度な都市文明は、アーリア系諸民族の移住時期に衰退した。その廃墟にアーリア系諸民族のヴェーダ文化が立ち上がるのである。この文化はインダス河流域に自生的に育ったわけではない。遊牧的であって都市文明ではない。その屈折した経緯が、私のいう入れ子状態の背景にある。ただし、入れ子状態は接点を欠いた断絶を意味しているわけではない。いずれにせよ、先住諸民族が築いたドラヴィダ系文化と流入諸民族のアーリア系文化の融合をきちんと分析できなければインド思想は解明できない。特に、前者を遅れたもの、乗り越えられたもの、況や消滅してしまったもの、と断じてはならない。
 

〔引用5〕古代人は現世の生活を楽しむことに夢中であったらしい。この時代の人々の人生観は概して非常に明るく、朗らかである。子どものように人生を楽しんでいる。(中略)『リグ・ヴェーダ』について見ると、初期のインド・アーリヤ人は、現世の生活に深い喜びを見出していた。かれらはどこまでも現世および来世における生に執着していて、いまだ厭世的な世界観をいだいてはいなかった(☆13)

 
   現世への執着を先史的とみる場合、自然への恐怖や畏怖は、その執着心にどのような影響を及ぼしていたのか、ヴェーダからそこを読み取りたい。その際、先史人には「現世」という大乗仏教的な意識は存在しなかった。いや、釈尊の初期仏教にもまずあり得なかった。ヴェーダに登場する天国は、まるで地上生活の延長のようだっただろう。旧約聖書「創世記」に出てくるエデンの楽園のごとくに。
 

〔引用6〕きわめてまれな例ではあるが、ある場合には、生まれ変わる、という思想も表明されている。(中略)ただし、ここには普通の輪廻思想が表明されているのではない。/ここでは神が他の神または詩仙に生まれ変わったのである。神でさえも生まれ変わると考えているところに、顕著にインド的な輪廻観の萌芽が認められる(☆14)

 
   神が生まれ変わるという発想に注目したい。それは、先史的な神が文明的な神になっていないことを証拠付けている。生まれ変わる前に、神は死ななければならないからである。神話には以下の3類型がある。①天地は自ずと生まれる〔天地開闢神話〕、②天地は神から生まれる〔産む神話・国産み神話〕、そして③天地は神が創造する〔天地創造神話〕である。以上のうち、神が生まれ変わるという構えをもつのは②である(☆15)。釈尊は紀元前565年ルンビニーで生まれ、紀元前531年ブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開き、紀元前486年クシナガラの沙羅双樹林で亡くなった(写真:埼玉県戸田市多福院の涅槃物、珍しくも左手を枕にしている、筆者撮影)。われ思うに、釈尊はインド史における先史時代から文明時代への過渡期に活動したのであり、その双方の文化を吸収して聖者となったのだろう。中村元によると「お釈迦さまも、ノン・アーリアンの可能性はあった」し「相当アーリアンの影響を受けています。だから両方が混じっていたと言えるのではないでしょうか」(☆16)。また、田上太秀は次のように説明している。「実はゴータマ・ブッダはアジタの地水火風の四要素説を受けている。この点ではゴータマ・ブッダは唯物論者と言える」(☆17)。さらには、仏教学者で僧侶の松長有慶は著作『空海・心の眼を開く―弘法大師の生涯と密教』の中でこう記している(下線は引用者)。
 

釈尊の身体をどのように考えるかという点も、意見が分かれました。上座部の系統では釈尊を八十年の生涯を終えた歴史上の偉人とみます。それに対して、大衆部系では釈尊そのものよりも、釈尊の悟りを成り立たせた真理に注目し、法はつねに永遠であって、如来の身体は不滅であると主張します(☆18)

 
   松長の説明文は、釈尊が先史時代(歴史上の偉人)から文明時代(永遠・不滅)への過渡期に活動した人物であることを如実に語っている。次節で検討する阿弥陀信仰と親鸞教説は、紛れもない「釈迦そのもの」から離れてしまった文明時代の産物である。それから、釈迦が慣れ親しんでいた言語はマガダ語(パーリ語)で、最初期の経典はパーリ語で書写されていた(☆19)。パーリ語(地方語)をサンスクリット語(標準語)に書き換えると、思わぬ価値変換が生じてしまうことがある。それは、あたかもフェニキア語(先史的)からギリシア語(文明的)への変換におけるがごとくである。また、ユダヤ・キリスト教における契約にあたる語をラテン語で“religio”と記すが、それは神との契約(reを考慮すると「再契約」)を意味する。したがって、神のいない原初的仏教に契約はありえない。釈迦時代の仏教は、アニミズムやフェティシズムなどの物質的自然的信仰とはむろん異なるものの、フィジカル・バースに足場を置きつつ、太陽などにメソフィジカルな聖性を見いだす象徴的自然的思想だった。それに対して大乗仏教の如来信仰はメタフィジカル・バースのみにかかわる観念的超自然的思想である。
 
3.超自然的存在としての阿弥陀
 
   私は常々、人類の文化を重層的に2種に区分している。〔文化の第一類型〕と〔文化の第二類型〕である。上層の第一は文明と等しく扱っており、基層の第二は先史や非文明に起因し、かつ現代までを貫通するものと位置づけている。ただし、歴史の不均等発展、地域多様化を考慮して、先ほど用いた表現、〔入れ子状態〕を当然のこととしている。例えば旧約聖書の申命記(モーセ五書)23章を例にとるならば、以下のような具合である。
 

23章-24節 あなたが隣人のぶどう畑にはいる時、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてもよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。
23章-25節 あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない(☆20)

 
   この内容は先史の精神(歓待の儀礼)に相応しい。共同で食事するのは問題ないが食物を個人的に取り分けることは禁じられている。共同の食事は先史に起因する慣わしで、世界各地に類例が見られる。それに対して、個人的な所有・占有はプトレマイオス朝アレクサンドリアのような文明都市にはあたりまえの観念であり、横取りすれば罰せられる。申命記(モーセ五書)23章は、消費についての入れ子状態をはっきりと明文化していることで知られる。旧約聖書には砂漠の民の共同体的伝統を引き摺っている箇所が散見される。新約聖書にも、「最後の晩餐」の箇所に神と人との共食が描かれている。その際、①神と一緒に食事するという意味と、もう一つ、②人々(信徒)が一緒に神の身体を食べるという意味がある。そのうち、②は明らかに先史に起因する食人習(カニバリズム)であるが、文明期に至っては「聖体拝領」と称するカトリックの儀礼に洗練・昇華されている(☆21)
   さて、事例をインド仏教に戻すとして、自然に身を任せて死んでいった人神釈迦に続き、永遠に超自然の圏域に存在する神となった阿弥陀如来の検討に進みたい。釈迦の場合は、まず自然的人間(フィジカル)から悟りを経て人神(メソフィジカル)となり、さらには大乗仏教に至って釈迦如来つまり超自然神(メタフィジカル)の位に昇華した。仏教を狭義に規定するならば、つまり神ならぬ釈尊の教えのみであって人格神信仰ではないとすれば、阿弥陀信仰や大日信仰は不可視の絶対神信仰であって、仏教ではない。それは原初的仏教の立場であって、その後は上座部仏教の基本的態度として後世に伝わった。対して仏教を広義に解釈し、阿弥陀や大日など人格神信仰をむしろ釈迦に先行させるならば、仏教はずいぶん気高き神霊を戴くことになる。こちらは大乗仏教の系譜に連なるものである。解脱以前における釈迦の求道はフィジカルな行いで、阿弥陀如来を介する救いの信仰はメタフィジカルな行いである。
   広狭の双方を総合すると、仏教は中間的なメソフィジカルな宗教と言える。伝承によると、釈迦は35歳で悟りを拓き、教えを説きつつ悟りの度を深め、80歳で入滅し涅槃を実現した。釈迦はそこまでで人生の目的を達成した。だが、死後における信徒たちの信仰はそこで終らなかった。フィジカルからメタフィジカルへの転生である。ただし、釈迦自身はフィジカルの出自を有するので、私にすれば、結局は真ん中のメソフィジカルに落ち着くことにする。だが、そこで議論を閉じてしまうと、私の設定になるメタフィジカル・バースに入っていけなくなる。死にゆく釈尊の解明を総合的に深めるのに、それでは八方塞がりとなってしまう。それを打開するために、次にはメタフィジカル・バースの主尊である阿弥陀如来に言及してみたい。そのための好例として親鸞の著述「正信偈」を引くことにする。
 
4.自然と超自然の交差―親鸞「正信偈」の世界
 
   阿弥陀如来には前身が存在する。世自在王仏という師仏のもとで修行した法蔵菩薩である。この一尊が修行して成仏し、阿弥陀仏となった。法蔵菩薩は歴史上に実在した人物ではない。釈迦が説いた経の一つ『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に阿弥陀の浄土を建設した菩薩として記されている。阿弥陀如来へと修行中にあって出世魚のごとき存在である。釈迦は修行者の魂を救うわけではない。釈迦は生者の悟り(解脱)を求めるが、死後における救済を願ってはいない。その役割を担う神こそ阿弥陀なのである。私自身はこれまで、人は死んだならどうなるか、などと死後の成り行きやその終着点を想像したことはない。その意味で私の心持ちは阿弥陀的でなく釈迦的である。けれどもここで私事を指し挟みつつ、「死んだらどうなるか?」の問いに返答を与えてみたい。
   戦中に検挙され1945年に獄中で亡くなった哲学者の三木清は、たしか50歳を過ぎた頃、「死んだらどうなるか」について概略次のように述べている。最近あまり死が怖くなくなった。というのも、自分の一番尊敬している人・最愛の人の多くが亡くなり、この世ではもう絶対に会えない。可能性はゼロだ。けれど万が一死後の世界があれば自分はその人たちに再会できる。この可能性はゼロと言い切れない。大切な亡き人に会う可能性がゼロのこの世よりはその可能性のゼロでないあの世を不安がることはいらない。そう考えると、自分は死が怖くなくなった(☆22)。三木は、死についてこのように自分を納得させている。だれかが、こう反論するかもしれない。死んだならすべて無になるだけで、恩師や最愛の人に会えやしない、と。この言い分は、三木には通用しない。なぜならば、もし最愛の師や友、両親や伴侶が既に無に帰しているのなら、自分だけそうならないよう願う人はいるだろうか。恩や愛が確かなものであれば、師や友、両親や伴侶と同じ運命にわれも身を任せてこそ心安まるのではなかろうか。三木の小話はそこまでにして、以下において親鸞の考えに思いを寄せることにしたい。
   親鸞『教行信証』の第二「行巻」の終わりに添えられている百二十句の「正信偈」に以下の句が読まれる。
 

如来所以興出世
唯説彌陀本願海

如来世に興出したまふゆへは、
たゞ彌陀の本願海をとかんとなり(☆23)

 
   ここに記されている「如来」とは、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来のほか釈迦如来をも含む。釈迦が如来となったのは悟りを得てからであるにせよ、釈迦がこの世に「興出」した目的は阿弥陀が浄土で説いている本願(教え)をこの世で説くためである。よって親鸞が理解する釈迦は阿弥陀なくして存在しえない。この2尊は密接不可分離だということになる。
 

天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顯眞實
光闡横超大誓願
廣由本願力廻向
為度群生彰一心

天親菩薩、論をつくりてとかく、
無礙光如来に帰命したてまつる。
修多羅によりて眞實をあらはして、
横超の大誓願を光闡す。
ひろく本願力の廻向によりて、
群生を度せんがために一心をあらはす(☆24)

 
   天親菩薩は紀元4世紀北インドに実在した人物で、浄土真宗では七高僧の第二祖「世親」と称されている。引用文の大意は以下のようである。無礙光如来(阿弥陀如来)に帰命し、修多羅(経文)によって真実を顕し、他力による横超の救いを受けるという大誓願を広く述べよう。広く本願力の廻向により衆生を救うために一筋に念仏の心をあらわすものである。このような言葉に接して、私は何か違和感を覚える。それは同じ親鸞の著『歎異抄』との印象の違いに起因している。「正信偈」と『歎異抄』とで、ベクトルの向きが違うのである。前者は阿弥陀から衆生へ、後者は衆生(門徒)から阿弥陀へ、という向きなのである。その際、私、つまり衆生にとっては後者の方が身に染みる。南無阿弥陀仏と唱えて人生を全うしよう、といった親鸞の態度こそ、彼の人生観である気がする。
   このベクトル議論は、実のところ、本稿の冒頭で説明した〔存在圏(バース)の3類型〕に絡む。「阿弥陀から衆生へ」は、ⓐメタフィジカル・バース(超自然的存在圏)→ ⓑメソフィジカル・バース(半自然的存在圏)→ ⓒフィジカル・バース(自然的存在圏)の向きである。それに対して「衆生(門徒)から阿弥陀へ」はその真逆である。むろん、親鸞にはこの2ベクトルが相互作用するように認識されているだろう。だが、衆生の私は断然後者に愛着を覚えるのである。『歎異抄』には次の会話が読まれる。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、(中略)なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり」。「娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり」(☆25)。ここに記された「娑婆」は、私の用語ではフィジカル・バースである。まこと親鸞には、生死流転の渦中にある娑婆がいとおしく尊いのである。その『歎異抄』は、親鸞没後30年ほどして弟子の唯円が筆記したものと伝えられている。唯円は原本を弟子の唯善に渡した。唯善は親鸞の孫にあたり、下総関宿(現千葉県野田市)に中戸山西光院を開いた。15世紀後半、蓮如の計らいで「常敬寺」と号し、16世紀後半信濃に移り、17世紀後半に越後高田(頸城野)に移った(現上越市、真宗大谷派)。その間、原本は蓮如の手に渡ったようである。1888年、上越市内の最賢寺(真宗大谷派)に生まれた金子大榮の校注で世に知られることになり、私は本稿でそれを参照している。
   「非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)」という『教行信証』、『歎異抄』で表明された立場、親鸞のそうした世俗的出発点は、遠流の地である頸城居多ケ浜での農耕生活においてこそ培われたはずである。日々の糧を獲得するのに汲々とし阿弥陀を顧みない民が暮らす頸城野、霊魂崇拝や呪物崇拝の凄まじい頸城野こそ、親鸞とその妻恵信尼にとっていとおしき穢土なのだった。喜怒哀楽の世を生きぬく頸城の民と共にあってこそ、それまで理論としてあった「悪人正機」は現実有効性を獲得した、と私は確信している。頸城野における自然と超自然の交差は、現在に残されている親鸞著作では、娑婆という自然を謳った『歎異抄』と阿弥陀という超自然を称えた「正信偈」に如実に刻印されているのである。どちらの要因をも併せ持つ親鸞は、けっして自己矛盾に陥ることなく、修行の生涯を全うした。親鸞にすれば、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠(でんばた)をつくりて、すぐるひと」(☆26)は、悪人だが悪魔ではない。
   英語でいうと「悪人(evil)」はいるが「悪魔(devil)」はいない。親鸞が見いだした頸城野の野人たちは、悪気(evil)はあっても悪徳(devil)ではない。漁民や農民が相手にしている多くは石ころ土くれの如き神々だが、それはアニマやフェティシュであって、如来の如き神(god)ではない。godがいない以上、そのメダルの裏に潜むdevilも存在しない。また、農民たちが手製の石仏などで追いやっているのは穢れでなく汚れである。文明宗教と決定的に違って、アニミズムやフェティシズムに汚れはあっても穢れという概念はない。
   頸城野に生まれ育ち、法事のたびに「正信偈」を唱えてきたわが身であるからこそ思いやるのだが、親鸞は、あたかも〔存在圏(バース)の3類型〕の中間圏域、すなわちメソフィジカル・バースに位するかのようである。
 
むすびに
 
   研究資料として最近読んだものの一つに『自死という生き方―覚悟して逝った哲学者』という反語的なタイトルの文献がある。著者は須原一秀(1940-2006)である。その中に以下の文章が織り込まれている。
 

端的に言えば、私には自然死も事故死も災害死も怖いのである。その点では人工的・意志的死の方がましなのである。/しかし、この膨大な生物界では自然死、事故死、災害死がまったく普通であることを考慮すれば、私の恐怖心は自然に反することのようにも思える(☆27)

 
   著者は自然死を恐れ、むしろ自死を望んでいるようである。自死の原因というか根拠には死に方のほか家族とか地域とかの人間関係や住環境もある。社会学研究者の加藤朋江は、論稿「ガン告知と家族」において以下のように記している。
 

「家族」という概念自体があまりにも「身近か」であるために、医療専門職が馴染み親しんだ自分の個人的な家族観を知らず知らずのうちに他の家族にも当てはめ、その結果家族は応えることのできない困難な課題を突きつけられることもあろう(☆28)

 
   要するに現代社会における「家族」の概念を、グラデーションをつけて整理する必要があるということだ。死に臨んで須原は個人を離れず、加藤は「身近か」を重視したという相違はある。そういった違いはベクトルの向きの問題だろう。須原は内から外を眺めやり内側に因を見つけ出し、加藤は外から内を覗きみて外側に因を探し求めているわけである。例えば連れ合いを亡くした人は、相手との思い出が日常的だったり生きがいだったりする間は、自死の壁は低くなる。その後、新たな思い出がつくられて行けば、自死の壁は取り払われるかも知れない。いずれにせよ当該者に個別の実存から発するもので、一般的な是非を問う性質のものではない。
   さて、「人工的・意志的死」とは、いわゆる安楽死(good death)・尊厳死(death with dignity)のことである。本稿執筆中の出来事だが、2025年6月、イギリス議会下院で、終末期の患者が死を選ぶ権利を認める「終末期患者支援(終生)法案」が可決され、安楽死・尊厳死の法制化に向けて大きな動きがあった。それは欧米諸国に共通する傾向のようである。それは死に方の選択であって死に至るまでの生き方の選択でもある。『自死という生き方』には、以下の文章も含まれている。
 

浄土真宗では、「七転八倒し、目も当てられないほどの悲惨な死に方をしても、それでも阿弥陀様は救って下さるから安心だ」と言っている。それを信じて、その目も当てられないほどの七転八倒に耐える覚悟ができているなら、それはそれですばらしいことである。しかし、ほとんどの現代人にそれを覚悟することができるだろうか(☆29)

 
   ここに記されている「覚悟」は苦痛・激痛に耐える覚悟であるとともに、阿弥陀如来を信じきる覚悟でもあろう。著者はどちらも抱かずに自死を選択して亡くなった(☆30)。けれども、著者の思想はこうして遺著のかたちで生きているではないか。かつて頭脳を含む身体から紡ぎ出された思想は、その後身体を失う。故人は著書の中に生き、そのエッセンスは継承であれ批判であれ、後の世代に影響を及ぼし、しばらくの後、一般知や世間知に投げ込まれていく。それはあたかも年忌法要の先に故人がホトケとなって先祖たちの園、浄土に往生するのと似ている。もっとも、昨今はAIが、故人の遺志をそっちのけにして既知を再編し、人々はそれをちゃっかり再利用している。その意味からすると、死んで名声を残すより死んで内実を保存活用する技術としてAIを称えるべきかもしれない。ただし、紙媒体もデジタル媒体もフィジカルな限界を有している。未来への伝達方法は思考し続ける人間身体にかかっている。過去から未来への汎身体的伝達法である。「汎身体」とは、森羅万象に遍く身体が行き渡っている、あるいは人類の所産が身体を介して累代に継続する、という概念を指している(☆31)。あたかもフレイザーが探った人神、呪術王が民族の神霊を累代に繋げていったように、である。
   私の学問的関心はメタフィジカルな釈迦如来でなく、死にゆく釈迦のフィジカルな思想の方である。それもまた、汎身体的に未来へと活かされていくのだろう。死後世界の実在を否定する人でも、死者たちの霊魂が娑婆世界に訪れてくる事態を表象することはしばしばである。自然世界に実在せずとも表象世界に存在しているということは、死後の世界が観念としては存在している、ということである。「表象」とは何か。我々が表象として認識できる世界は、①この世と③あの世の2種類である。私は、①をフィジカル・バース、③をメタフィジカル・バースと命名している。そのうえで、それらが「交差する場」を②メソフィジカル・バースと命名している。成仏できないでいる死者は②に留まるとしてもいいだろう。故人の追善供養として繰り返される年忌法要のうち、最後の機会を「弔い上げ」と称し、それ以降となれば、故人の霊魂は個々の区別を超えて②から③普遍的な極楽浄土に往生する。阿弥陀如来信仰の浄土系仏教は③を強く意識したものだった。大日如来(不動明王)信仰の密教や菩薩信仰は②における衆生救済を強く意識したものだった。対して、人間釈迦の林間における苦行と瞑想は①における修行である。
   私はそうした議論に学問的な新視座、新開地を設定するべく、メソフィジカル・バースを造語したのである。
 

01 前稿「空海〔即身成仏〕に関する〔身体知〕的考察」、webジャーナル「公共空間X」2025.06.24. http://pubspace-x.net/pubspace/archives/13441
02 〔存在圏(バース)の3類型〕に関する詳細については、以下の拙稿を参照。「量子世界は半自然世界(メソフィジカル・バース)である」、石塚正英『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第1章。
03 前稿、第2節。なお、本稿掲載誌はオンライン・ジャーナルなので、紙媒体のようなページ数はつかない。ただし、それのPDF版にはページ数がつく。それに従うと引用箇所は2頁である。
04 ジェームズ・フレイザー著/石塚正英監修/神成利男訳『金枝篇―呪術と宗教の研究』第4巻「死にゆく神」国書刊行会、2006年、20-26頁。
05 ヴェーダ文化から派生したヒンドゥー教文化などは、シャマニズムと切り離せないだろう。インドをフィールドとする宗教社会学者の宮崎智絵は著作『インド沼』(集英社インターナショナル、2024年、105頁)で以下のように記している。

実はヒンドゥー教は、定義するのが難しい宗教なのです。かなり簡単にまとめると、イスラーム教がインドに入ってきたときに、「あれ? 何だか自分たちとは違う宗教だな。あれはイスラーム教というのか。じゃあ自分たちのは何だろう?」という感じで、ヒンドゥー教と名付けられたのです。ですから、ヒンドゥー教とは、インドに存在する宗教のうち、イスラーム教、シク教、ジャイナ教、仏教といった、はっきり区別することのできる宗教以外の宗教のことといえるでしょう。

また、現代インドに流行るシャマニズムについて、さしずめ以下の文献を参照。中島小乃美「インド・ラダック地方に伝わるシャーマンの伝統的治療と看護」、『奈良県立医科大学医学部看護学科紀要』Vol.4 、2008年。河野亮仙「南インドのシャーマン」、『印度學佛教學研究』第33 巻第2号、1984-1985年。
06 拙稿「リグ・ヴェーダの歴史知的討究―プレ・インダスの提唱」(『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第3章)参照。
07 RIG-VEDA. Übersetzt von Hermann Grassmann, In Zwei Theilen, Zweiter Theil, Leipzig, 1877. S.406. このドイツ語資料に関しては、インターネット上の以下のURLで閲覧した。https://archive.org/details/rigvedabersetz02grasuoft/page/406/mode/2up
08 中村元選集〔決定版〕第8巻『ヴェーダの思想』春秋社、1989年、68頁。
09 同上、70頁。
10 同上、77頁。
11 フェティシュ信仰に関して、私は1990年代から研究を続行している。以下の拙著を参照されたい。『フェティシズムの思想圏』世界書院、1991年。『フェティシズムの信仰圏』世界書院、1993年。『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年。
12 中村元、前掲書、280頁。
13 同上、346頁。
14 同上、359頁。
15 神話の3類型を問題にする私は、おなじ3類型でも、いま一つの基準で考察している。それは、可視(地上世界)・見え隠れの半可視(天・地・冥界往復)・不可視(天空・冥界)によるものである。第1類型は地上における可視の物語。第2類型は地上と天空ないし地上と冥界を行き来する物語で、可視・不可視が混交している。そして第3類型は天空ないし冥界のみにおける不可視の物語である。第1の代表はフェニキア神話であり、第2の代表は日本神話やギリシア神話であり、第3の代表はユダヤ神話である。詳しくは以下の拙稿を参照。「〔講演〕神話の3類型――天地開闢・国産み・天地創造(成る・産む・創る)」、石塚正英『歴史知の百学連環―文明を支える原初性』社会評論社、2022年、第2章。
16 中村元『ブッダ入門』春秋社、1991年(2003年)、23頁。
17 田上太秀『ブッダの人生哲学―「正しく生きる」ということ』講談社、2002年、82頁。
18 松長有慶『空海・心の眼を開く―弘法大師の生涯と密教』大法輪閣、2002年、213頁。
19 中村元はこう記している。「釈迦という一人の歴史的人物が説いたのは、おそらくマガダ語か何かである。中部インドの特殊な言葉だったろうと思うのだが、それが後にパーリ語で写されて、あるいはものによってはさらにサンスクリット語で写されている」。中村元「原始仏典について」、中村元監修/阿部慈園編『原典で読む原始仏教』東京書籍、2000年、20頁。なお、私は、立正大学仏教学部にパーリ語講座が開設されていたので同大文学部の学生時代(1969年)、当該科目の履修を願い出たが、種々の事情でそれは叶わなかった。
20 申命記(モーセ五書)23章、『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年。
21 カトリックの聖体拝領については、以下の文献を参照。打樋啓史「パンとワインが意味するもの : キリスト教の共食儀礼と しての聖餐」、関西学院大学図書館報『時計台』第 83 号、2013 年、27 頁。そこに以下の記述が読まれる。

(9 世紀から開始した―引用者)この論争の中で諸説がせめぎ合うことになるが、単純化すればそれらは 2 つの立場に分けられる。第一に、聖別されたパンはリアルな意味でキリストの体であり、パンの形態のもとに神人キリストが真に現存するという立場があった。これに対して、聖別されたパンは現実的な意味ではなく比喩的・象徴的な意味でキリストの体なのであり、それゆえ聖体は記号や像として理解されるべきであるとする立場があった。11 世紀にトゥールのベレンガリウスは後者の立場から論争を引き起こしたが、教会会議によってこの説は排斥され、彼は自説を撤回させられる。 これ以降、教会は前者の立場を強調し、パンはキリストの体に実体的に変化するとい う、いわゆる実体変化(transsubstantiatio)の教説を強化していくことになる。

22 三木清、人生論ノート、新潮文庫、2004年、7-14頁。
23 親鸞著/金子大榮校訂『教行信証』岩波文庫、1957年(2004年)、116頁。
24 同上、119頁。
25 親鸞著/金子大榮校注『歎異抄』岩波文庫、1930年(1990年)、55頁。
26 同上、67頁。
27 須原一秀『自死という生き方』双葉社、2008年、139頁。
28 加藤朋江「ガン告知と家族」、添田義也編『死の社会学』岩波書店、2000年、22頁。
29 須原一秀、前掲書、151頁。
30 自死を選んだ須永と対照的に、フランス文学者の穂苅瑞穂(1937-2021)は長らく生きて従容と死にゆく道を好んだようである。著作『モンテーニュ私記―よく生き、よく死ぬために』筑摩書房、2003年、から以下に引用する。

一生を振り返って、それが芽を吹いて、花を付け、実を結ぶのを見た、そして今、というところにはモンテーニュの肉声が聞こえて来るようだ。かれはもう若い頃のように、病気の時を急いで駆け抜けようとはしないで、楽しかった人生の盛りの頃を思いながら、静かに病気に堪えている。そうしているうちに、歯が抜けるといった小さな死が訪れるようになる。そして、その先に来る本当の死をもう恐れることもなく、それを生の最後の一瞬として迎えるだろう。その意味ではじめて、死は「生の大きな、重要な部分」(983ページ)と言えるのであって、そのように生の重要な一部になった死を、モンテーニュは生に対するのと同じ心遣いをもって遇するだろう。死は恐るべき宿敵でなくて、体のなかに住みついたかれの一部になっている。その部分が少しずつ増していくと、その分だけ今度は生が消えていく(292頁)。

穂苅について、私が、長らく生きて従容と死にゆく道、と記したのには私なりの根拠がある。それは、自死を選んだ須永が文明人であるのに対し、長生きした穂苅は宗教成立以前の〔先史の精神〕に生きたように思えるからである。〔先史の精神〕は以下のように定義される。①先史においては神が人をつくるのでなく、人が神をつくる。②先史においては暦の中に行事があるのではなく、行事の後に暦ができていく。③神の前で先史人は聖なる存在を実現(吐露)するが、文明人は聖なる存在を演戯(模倣)する。④先史人は事実(あるがまま)を認識するが、文明人はその観念(イデア)を認識する。
31 「汎身体」に関しては、上記の〔注01〕に記した拙稿において説明している。
 
〔付記〕2018年7月14日夜半、私は上越市仲町の雁木通りで転倒して頭部を強打した。脳神経外科で「急性硬膜下血腫」の診断を受けた。頭蓋骨の下にある硬膜とくも膜の間が出血したのだ。出血が断続的となれば死は明日とも知れなかった。もはや、覚悟した。妻は、私の身体的変化にそれを悟ったようだ。第一に会話力(活舌)や思考力に支障がで始めた。やり残した研究論文を仕上げたかったが、痺れる手の文字は乱れ、パソコンのマウスも長くは握れず、だった。新聞などまったく読みたくなくなった。意欲の残るうちに、と思い、概要のみ記した原稿を最も信頼している畏友の柴田隆行にメール送信した。もし命尽きたら彼の編集する『フォイエルバッハの会通信』に遺稿として掲載してほしいと依頼した。「承知した」と返答を受けた。研究こそわが使命だったから、とりあえず安堵した。これで死の準備はできた、さぁ、いつでも来い!――その後数日を経て、幸いなことに私は回復に向かい一命をとりとめた。2019年末からのコロナパンデミックを逆手に利用して、私の著述活動はフル回転となって今日に至っている。前稿と本稿は2018年死に臨んで一念発起したわが決意の一成果である。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x13499,2025.07.01)