高橋一行
脳は老いるのかという問いを立てる。この問いに対しては、脳が身体の一部であると考えるなら、脳も身体の他の部位とともに老いるということになる。わざわざ問いにするまでもない。
しかし今、AI(人工知能)が急速に発達し、それが人間の脳に匹敵する、ないしはそれを上回る能力を有するとき、そのAIを脳の代替物とすることはできるのだろうかという問いは、私たちにとって、際立って大きな意味を持ち始めている。つまりAIは半永久的だと考えられるから、人間の脳をそれで以って代替すれば、脳は半永久的に生き続けることになる。そして身体もまた人工物で代替できるのかとか、脳さえあれば、私たちの精神活動は維持できるのかといった問いもそこから派生してくる。
まずSFを取り挙げて、この問題を考えたい。森博嗣『彼女は一人で歩くのか Does She Walk Alone?』を読む。
ここで展開されるのは、22世紀後半の世界である。そこではAIが発達している。それをロボットに組み込む、つまりAIにロボットとして身体を持たせるのだが、そのロボットはここでは、人工の細胞が培養され、人間の身体に似せたものが造られるという設定になっている。そこにAIがインストールされて、人造人間が造られる。小説ではそれがウォーカロンと呼ばれる。
ウォーカロンは極めて人間に近いのだが、人間ではない。しかし小説では、人間とウォーカロンの違いは、天然ものか、養殖ものの違いでしかないと言われる。
しかし実際には、ウォーカロンの方が高い知能を持っている。それをわざとその思考の速度を遅らせて、人間に近付けるということもなされる。
法的にはウォーカロンに人格はない。例えばウォーカロンが犯罪をしたことがある。彼らは正常の思考回路を持っているはずだが、それでも殺人を犯すことがある。その後捕まって、殺害に関与したウォーカロンは消滅させられる。つまりあくまでウォーカロンはロボットなのである。
さて人間の方も、人工細胞の技術の発達のお陰で、病気になっても身体の一部を取り換えることで、病も傷も癒える。そのために、人は老いることがなくなるとされる。主人公は80歳で、この未来社会では若い方だとされる。同業者の先輩は160歳である。
個人は事故で死ぬことはあるが、多くは蘇生が可能で、そうすると極めて長寿になる。同時に少子化が進む。つまり人が死ぬことが稀になり、しかし新しく生まれてくることも減る。
さてここで、ウォーカロンに生殖の能力を持たせることが技術的に可能になる。すると人間の方は新しく子どもが生まれることがなくなりつつあるのに、ウォーカロンの方は、子孫を増やすことが容易になる。人間がウォーカロン化し、ウォーカロンが人間化する。両者は外見では違いが分からない。
小説はここから始まる。主人公は、人間とウォーカロンを見分ける技術を研究している。そして人間とウォーカロンの間で、勢力争いが起き、主人公は事件に巻き込まれる。このあたりの展開はSFの定番だ。以下、その事件そのものについては触れない。ここでは、如何にもあり得そうな、この未来社会を成立させている、その前提について考えたい。
この小説を読んで、人間の長寿化とウォーカロンの出現について、私が違和感を覚えるのは、次のことである。
ひとつは、身体は部品の集まりであって、どこかが故障すれば、それを取り換えれば良いという発想があることだ。確かに今の時点でも臓器移植は行われ、義肢や義眼もある。技術が発達して、臓器や身体の一部が本物と同じ性能を持つようになれば、病気になったり、機能が衰えたりしたら、その部品は替えれば良いということになる。しかしある程度はそれが可能だと私も思うが、まずは身体の一部は他の身体の部分と有機的に関連しているのだから、部品の取り換えという発想には限界があるのではないのか、また身体全体が老いることはないのかという疑問が生じる。ここはすでに前回考察をしていたことであり、老いが生物にとって必然的なことであるのなら、部品を取り換えたところで、本質的に変わりはなく、人はやがて老いて死ぬのである。
また補足的にここに付け加えれば、最も効率の良い人工細胞を造るのなら、カズオ・イシグロが小説『わたしを離さないで』で描いた世界が展開されることになる。つまりその臓器を将来他人に提供するために、子どもを育てるという、不気味でショッキングな話になる(イシグロ)。部分的に生体を造るよりも、子どもを産んだ方が早いということなのである。
もうひとつは、AIについてであり、つまり脳の機能をそっくりそのまま人工的に再現し、人の脳を人工の脳に移し替えることができるのかということである。つまり人工の脳を生身の身体に接続させられるのかということである。脳と身体は独立していて、簡単に接続させられるのかということが問われている。
さらに森博嗣の小説を離れて、一般に未来にありそうな話として、このAIが、身体を伴わず、つまり人工的に造られた脳だけで自立できるのかということも問題になる。
そしてこの問題に関連して、人は脳だけでものごとを考えるのか、身体を使って考えるのではないのかということもまた新たな疑問として出てくる。この問題は長い間の私の課題である(高橋2024)。また、このシリーズで考えてきたことは、病に伏して身体の機能が衰えることで、思考にも変化が生じるのではないかとか、死の近付くのを感じることで、思想に深みが出るのではないかいうようなことである。
だから私は、人工的に作られた脳が人間の脳の代わりを務めるのか、さらには人工の脳だけで独立した主体としてみなされるのかという問いに対して、否定的な答えを持っているのだが、しかし多くの人は、脳の性能を完全に人工の脳で代替可能だと考え、永遠に老いることがないAIを造ることができると考えたがる。そのことを今回、考察してみたい。
またもうひとつ理論的に考えられることは、身体も生身の肉をベースにして、それを部分的に人工物で補うのではなく、完全に金属やシリコンで代替するという選択肢も出てくるだろう。つまり脳も身体も完全な人工物でできたロボットを造ることができるのかということである。
前著で私は、AIロボットにも身体が必要だと書いた(高橋2024 7-2)。現時点でロボットの身体は、人間の持つ多様な能力の中の、ごく一部を代替するものだ。例えば掃除をしたり、寿司を握ったりするものを念頭に置けば良い。問題は、ロボットが人間の多様な能力をすべて持つように造ることは可能か、つまりロボットは人間の身体の代わりになるのかということなのだが、それに対しては、結論は容易に導かれる。すなわち、将来、人間の全能力を併せ持つロボットを造ることが原理的に可能になるかもしれないが、しかしそういうロボットを造るメリットはどこにもないのではないか、というのがそれである。ロボットはあくまで人間の部分的な能力を持ち、それで以って人間の活動を手助けすれば良い。人間の完全な代替物になる必要はない。
身体によって複合的で全体的な能力を持つ点で人間はロボットと異なる。そしてそれは生物だから、当然老いる存在である。つまり身体は老いる。ロボットは身体ではない。老いという観点でAIロボットの存在意義を考え直したいのである。つまり総合的な能力を持つ生物としての人間と、その一部の性能を特化させた機械としてのAIロボットと、ここでは全然別のものだと、まずは考えておく。
さて、身体の一部の機能を持つAIロボットであれ、逆に身体性から切り離されて、身体を持たないAIであれ、いずれにしても、それらは人間とは別物だと、今書いたのだが、しかしそれらが発達して、人間の能力を超えるという議論が出てくる。以下、取り挙げるのは、R. カーツワイルである。生物と機械は別物だという話から、機械の方が生物としての人間よりも優れたものになり得るということになるのである。
さて、AIの能力が人間のそれを抜く日をシンギュラリティ―と言うのだが、カーツワイルは、それが間もなく来るだろうと言う。AIの技術は指数関数的に進歩しているから、21世紀の最初の数十年で、革命的な進展があるはずだと彼は考えている。それは生物としての人間が、科学技術と融合して、生物としての基盤を超越するだろうと考えられているのである(カーツワイル)。
身体は人工的に改造される。また神経系統から、バーチャルリアリティーや拡張現実がもたらされて、脳の能力は飛躍的に増大する。そして脳の中に、非生物的な装置が取り付けられて、その能力が元々の身体的な脳の持っていた能力をはるかに上回るようになる。こういう楽天的な像が語られる。
こういう考えに対して、西垣通と河島茂生は、もう一度あらためて、生物と機械とを対比させ、人間は生物であり、AIロボットとは異なると言う(西垣・河島)。
ここで重要なのは、自律性という言葉である。まず生物は、自己-創出的な存在であり、つまり自律性を持つ。機械はどんなに複雑なものであっても、人間が設計したものであって、他者-創出的であり、つまり他律的な存在である。
そして人間の場合は、生物としての自律性を越えた、社会の中での道徳的な主体性が問題となる。これは狭義の自律性を持っていると言い換えても良い。
もちろん人間であっても、すべての行動が意識的になされる訳ではない。しかし人間はいかなる行動をするかという点に関して、内部で自分のルールを持っている。これは生物が自分で自分を造るという自己-創出的な存在であるということなのである。
それに対して、AIやAIロボットは、複雑なものは、自ら自律的に環境に適応していくように見えるのだが、それは自律してるのではなく、ただ単に適応しているに過ぎない。西垣と河島はこのように考えて、カーツワイルを批判する。
一応これを穏当な考えと評しておく。しかし本当にそうなのかと私は思う。AIに自発性や責任や自由意思を教え込むことはできないのか。自発性を教え込むと、それは教え込まれたてのだから、自発性ではないだろうと言われるかもしれない。しかし人間の場合はどうか。私たちは教育を受けて、それでやっと自発性が出てくるのではないか。
私自身のことを考えると、子どもの頃は非常におとなしく、すべてにおいて消極的であったけれども、知識が身に付くにつれて、段々と自信が出てきて、積極的になった気がする。つまりどうすれば積極的になれるかということが分かってきて、意識的にそう振舞えるようになったのである。また道徳についても、私の心の中に道徳が本来的に備わっているかどうかということについては、極めて懐疑的で、しかし社会で生きていく上で、道徳的であった方が得だと思う。人から善人であると思われた方が過ごし易い。かくして私は道徳的に振舞っている。私が言いたいのは、そういうことを、AIに教え込めないかということである。
前著で私は、2014年の時点で、AIロボットは漫才ができないが、それはロボットは間合いが取れないからであるという主張を取り挙げて、しかしいずれロボットにも間合いを教え込めば取れるようになるだろうと書いた(高橋2024 6-3)。逆に人間でも間合いを取るのが困難な人もいる。訓練してやっと、漫才ができるようになる人もいる。
私が言いたいのは、自律、自主性、自発性もある程度はAIロボットに教えられるだろうということである。そしてこれも逆に言えば、人間でも教わらないとそれらは身に付かないのである。本稿では従って、自律という概念はAIも、人間と同じように持ち得るという結論を出す(注1)。
考察をさらに進める。カーツワイルの著書(原文)が出たのは2005年である。それを批判する西垣・河島の本は、2019年である。また私の前著は2024年6月である。以下に取り挙げる栗原聡の本は、さらにそののちの2024年11月に出ている。以下、その栗原の著作を参照する。
彼はAIロボットの進展を道具から自律した機械へという言い方でまとめている。まずは道具としてのAIロボットがある。床掃除をするロボットを考えてみよう。それはAIを搭載して、段差があったり、邪魔者が置いてある床を、巧みに移動しつつ、掃除をするロボットである。それが次の段階では、汎用ロボットとなる。それは床だけでなく、テーブルや窓ガラスも掃除をしてくれるロボットである。ここまでが道具としてのAIロボットであり、2段階の進展がみられるのである。
その次に出てくるのが自律型ロボットであり、これは状況に応じて自ら判断をするものである。例えば1時間後に来客が来るから、それまでに部屋の掃除をしてほしいと言えば、そういう抽象的な目的をこなすべく、まず床を掃除して、次にテーブルを拭いて、窓は今日はそれほど汚れていないし、時間もないことだから、これは省略しようという判断をして、自ら問題に対処する。そういうAIである。道具としてのAIに自律性が組み込まれたのである。
さらに将来的には、AIが自らAIを創りだし、人の能力を超えていくだろうことが予測される。自ら問題を発見し、それを解決するAIが出てくるだろうと栗原は考えている。
この自律という言葉が問題になる。つまり栗原によれば、AIも自律するのである。栗原の「AI進展4段階論」においては、その第3段階でAIは自律し、さらに第4段階で人間の能力を抜くのである。このように考える点で、栗原は、カーツワイルに近い。しかし彼は、AIは人間に役立ち、人間のために働くものだと考えている。AIが人間を支配するようになるとは考えていない。AIは単なる道具ではなく、つまり自律しているが、人間と共存する。すると主人は人間であり、そして人間は生物であり、寿命がある。AIはとてつもなく長い寿命を持つが、しかし有限の人間に奉仕するものなのである。神になるのではない。
AIは人と共生する。栗原はおもてなしをするロボットという言い方をする。そこではあたかもAIが意識を持っているかのようである。それは人に適切なアドバイスをする。実際人よりもはるかに頭が良い。しかし人を支配しようとはせず、私たちを見守ってくれる。そういうロボットを栗原は考えている。
ここで西垣・河島は批判されることになる。つまり自律と他律という概念で、生物と機械を截然と分け、人は機械ではなく、生物であると言い張ることは、もはやできないのである。機械もまた自律的になり得る。
しかしさらに言うべきは、確かに機械は自律的に思考し得るが、そしてそれは極めて人間的であり、またときには人間を超えるものであるが、ただ機械は生物の面が全然なく、つまり老いることもないし、死ぬこともない。そのために物足りないのであり、それに対して、人間はまずは生物であって、さらに機械が部分的に代用しつつある知的操作の能力を持つ。そこに人間らしさがあると考えるべきである。その考察が次の課題である。
さて西垣と河島の、生物は自律的で、機械は他律的であるという二分法においては、この両者はまったく別物である。しかしそれに対してシンギュラリティ論者は、物質から生物が出てきて、その生物が進化して精神が出てくるという、ヘーゲル的とも言うべき三分法を前提にしている。生物は物質でできているが、物質を超えている。同じように、人間は精神を持つが、まだ生物的な制約のもとにある。それに対してAIは生物から切り離されて、純粋に精神の世界に入っていると彼らは考えているのではないか。人間もやがては、生物の制約から解き放なたれるべきであるのだが、現時点の人間はまだ十分に人間になっていないのである。つまりそこで考えられているのは、AIが人間の精神性を完成させるということだ。
このように考えた上で、私はこのシンギュラリティ論者の考え方も批判したい。つまり人間の精神的な能力をAIがある程度は代替できると考え、しかし最後のところで、AIは生物ではないので、生物としての人間が持っている身体性、つまり死の恐れや老いの感覚がないということを以って、やはり人間はその生物の側面を超えた精神的な存在であるが、しかし根源的なところで生物であるということを忘れてはいけないのであると思う。ここまでくればやっと私たちは生物であり、AIが私たちの代替物にはなれないということが示されるはずである。この直観を、以下で論理的に説明したいと思う。
AIは自分の頭で考えられるから、自律はしている。しかし社会の中で主体とは認められていない。私たちはAIに主体になってもらう必要性を感じていないからだ。まずはそれだけの話と書いておく。社会は、私たちが互いに老いていく存在として、相互に承認し合って生きていくためのものであり、その中で私たちは、自らを主体として確立し、他者の主体性を認めることが要求されている。AIをその中で、人間と同じように、主体として扱う必要性を私は感じないと、ひとまず書いておきたいのである。
ここから以下、S. ジジェクのHegel in a Wired Brainという本を読む。これはまだ翻訳されていないものなので、その引用は長めに抜き出し、読者に理解してもらい易くしたいと思う。
まず前提として、ジジェクには以下の問題意識がある。AIの開発と脳研究とは果たして繋がるのか。また両者が繋がって、AIが人間の精神活動のすべてを代替できるようになるとして、さてそのことは、個人が考えたことをすべて物理的に読み解くことが可能になるということを意味するのだろうか。かつそれは、個人の精神活動をすべて人工的に復元できるということなのだろうか。
さてそこでジジェクによって批判されるのは、E. マスクであり、彼は、AIは個々の人間の脳を繋いで、神のような、普遍的な脳を造り出せると考えている。これは一見するとヘーゲル的である。つまりそこでは個を超え、その個を統合して普遍に至るからだ。しかしこの考え方をジジェクは批判する。その批判にヘーゲルが使われる。一見ヘーゲル的に見える議論を、ジジェクはヘーゲルを使って批判するのである。
ジジェクに拠れば、個を超えて普遍に到達することはあり得ない。重要なのは、身体を持ち、言語を使う、特殊な個なのである。個をすべて吸収し尽くした普遍は批判される。
以下、ジジェクの議論を順に見ていく。
まずその序説で、このAI論は、ヘーゲルの問題だということが確認される。ジジェクは言う。「本書の仮説は、ある意味では、二〇世紀はドゥルーズの世紀ではなくマルクスの世紀だったのであり、そうだとすれば、二一世紀はヘーゲルの世紀となるだろうというものである」。「完全に「時代遅れ」であるヘーゲルの思想こそが、現代の展望と脅威を認識するための比類ないレンズを提供してくれるのである」(序章)。
ここで彼の問題意識が語られる。「問われるのは、接続された脳のようなものが実際に出現した場合、人間の精神、つまり私たちの主観に何が起きるのか、ということである」(同)。ここで主観と訳したのは、subjectであり、主体と訳すべき側面をも併せ持っている。
ジジェクは続ける。「「接続された脳」とは、私たちの心のプロセスとデジタル・マシンとが直接的に接続された状態を指す。この接続によって、私はただ考えるだけで直接に現実の出来事を引き起こすことができる(私がエアコンを動かそうと考えると、コンピューターが私の思考を解読してエアコンを作動させる)。逆に、デジタル・マシンが私の思考をコントロールすることも可能になるのである。「シンギュラリティ」とは、私の思考や経験を他者と直接共有することによって(私の心のプロセスを読み取った機械が、それを別の心に移し替えることによって)、広汎に共有された心の経験の領域が出現し、それが新しいかたちの神として機能するという考え方である――私の思考は直接に、宇宙そのものである大文字の〈思考〉に没入することになる」(同)。ここでこの「接続された脳」が普遍であるということになる。
続けて批判の対象が明らかにされる。
「イーロン・マスク他8名が設立したアメリカの神経技術企業であるニューラリンク社で、移植可能なブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)・・・の開発に注力している。これらの言葉はすべて、まず強化された脳、あるいは接続された脳と外部装置の間に、次いで脳そのものの間に、直接的コミュニケーション経路を通すという同じ構想を示すものである」(2章)。
「この直接的コミュニケーションには二段階がある。まず、脳がデジタル・マシンに接続されると、考えるだけで物事が現実に起こるようになる(テレビの画面に思考を向けると、選択した番組が流れ始め、コーヒー・マシンに思考を向けると、コーヒーが淹れられる、など)。次いで、脳が別の脳に直接接続され、それによって私の思考を別の個人が直接共有できる(激しい性的体験を夢想すると、別の個人が私の体験を直接共有できる)ようになる。話された言葉、書かれた言葉、電信、電話、インターネット……といったように媒介の層を追加していく方向でコミュニケーションは徐々に発展してきたが、ここで一気にショートカットされ、これらの追加された層を飛び越えて直接つながるという展望が生まれる。その結果、私たちは、・・・あなたの脳>あなたの声帯>空気>あなたの電話>遠距離通信網>私の電話>空気>私の耳>私の脳・・・等々から、あなたの脳>私の脳へと移行するのである」(同)。
「私の脳と環境との複雑な相互作用は、複雑な意味のある経験を生み出すが、この相互作用は何らかの形で私の脳に記録されなければならず、そのため私の脳における神経細胞のプロセスを再現することによって、共有しようとする別の主体のうちに、同じ経験を生成することが可能になりうる」(同)。
マスクたちが試みているのは、このようなものである。ここでシンギュラリティ―の理解は通常のものと異なる。AIが人間の知能を抜くという意味ではなく、脳の機能を人工的に再現し、そのことによって、個々の脳を直接読み取り、そのことによって個々の脳を繋げることが可能になるという意味で使われている。もちろんこのことによって、AIは人間の知能を抜くのである。ここでシンギュラリティは個別を超えて普遍に達している。
しかし個を超えた普遍はない。ジジェクはこの点で、シンギュラリティ理論を批判する。またマスクの考えるAIは身体を持たず、言葉も使わない。つまり個ではなく、いきなり個を超えてしまった普遍である。そこをジジェクは批判する。
「マスクは、私たちの思考が言語による表現とは無関係に心の中に存在している、と単純にも考えている。したがって、私が自分の脳と他人の脳を直接つなげば、相手は私の思考を、言語のぎこちなさや単純化によって歪められることなく、その豊かさと繊細さをそのまま体験できることになる。しかし、もし言語がまさしくそのぎこちなさと単純化によって、私たちの思考のとらえどころのない豊かさを生み出しているとしたらどうだろう。そう、確かに言語は、私たちの思考がもつ乱雑さを、単純な語と文に還元する——例えば、私が誰かに「愛してる!」と言うとき、私の気持ちの豊かさは、毎日何千回も口にされる、単純な定型表現に還元される。しかし、まさにこのように混沌とした富が凝縮されることで、複雑な意味が生み出され、語られないままになっていたものの豊かな織物が織り成される。私たちはここで無意識に、物神崇拝的な幻想にとらわれてしまう。語られないままになっていた「より深い意味」という剰余は、あらかじめそこにあるものではないし、単純に発見されたりほのめかされたりするものでもない。それは、私たちの思考が単純な言語的定式に還元されることによって生み出されるのである」(同)。
言語に拠らない思考が存在するという考え方が批判される。言語が思考を生み出す。単純な言語活動が複雑な思考を生むのである。
「これについては、ヘーゲル的な形で変奏を奏でてみることもできる。思想の真の内容は、言語的な表現を通じてのみ現実化する——この表現以前には、思想の内容は実体的なものではなく、ただ混乱した内的志向性に過ぎない。私が言葉を話すとき、自分が何を言いたかったかを理解するのは、それを実際に言うことによるほかない。私たちは言葉で思考するのである」(同)。
「私たちが意味を経験するとき、鍵を握っているのは言葉である。しかしながら、このことによってニューラリンク構想に対する評価がただちに損なわれるわけではない。このプロジェクトを救うために必要なこと、それはまさに、思考は言語によるみずからの表現とは無関係に心の中に存在する、というマスクの前提を捨てることである。ニューラリンクは私たちの経験の内的な流れを記録することになる。とすればそのニューラリンクが、私たちの心の中に現れる言語的な素材、つまり私たちの思考の場となる言葉を記録できないわけがあるだろうか——言葉は心的表象に遡ってもなお言葉なのではないだろうか」(同)。
さらに繰り返しが続く。ジジェクは論理的に話を進展させていくのではなく、繰り返し同じことを、表現を変えて説明していく。
「ヘーゲルにおいては、すべての精神的生命、すなわちあらゆる現実の精神的実存は、有限の身体的実存に、すなわち物質的で歴史的な実在に根ざしている。精神の独立した領域はない。精神は人間の文化の中にのみ実在する。言語はその媒介である。ニューラリンクもまた物質的な実在(デジタルネットワーク、神経生物学)に根ざしており、ある意味では科学的・物質的な還元主義を極限まで進めたものであると言えるが、その一方で反対の極限にも到達している。その大躍進が実現されれば、心と心とのダイレクト・リンク、つまり表現の物質的媒体なしのコミュニケーションの可能性が開かれるのである。もう一度、ヘーゲル的に言えば、ニューラリンクは最も低次のもの(神経ネットワークやデジタルネットワークの物質的現実)と最も高次のもの(心)が「一致」する、固有の無限判断を成し遂げることを約束する。それによって純粋思惟の可能性が開かれる。この思惟は、いかなるコミュニケーション的媒介も必要とせずに心と心を直接リンクするという意味でまさに「純粋」であるだろう。直接的に共有された思考の空間という意味で、これも共産主義の一種とも言えはしないだろうか」(3章)。
もっとも高次の精神が最も低次の物質と結び付けられる。こういうところもジジェクの得意な言い回しである。
さらに次のようにも言われる。
「ドイツ観念論と「シンギュラリティ」の理論家を分ける違いは、ドイツ観念論者にとっては、この精神と現実の完全な統一は、哲学的思弁において(あるいは、より神秘的なバージョンでは、神智学的経験において)すでに達成されているということにある。私たち人間の自己意識が、宇宙そのものにおいて中心的役割を果たす、というのは、人間の自己意識の中で現実が自己を認識するようになり、神が完全に現勢化するようになるからである。「シンギュラリティ」の理論家にとっては、それとは反対に、私たち有限な人間は、精神と現実の完全な統一を現勢化することはできない。—-私たちの自己認識は個別に隔てられており、その意識があまりにも強い障害となる。現実と精神との和解が達成されるのは、私たちが分離した個性を捨て、現実そのものに浸透している精神とひとつになるとき、私たちの自己意識が現実そのものの自己認識としてみずからを経験するときにのみ—-つまり、私たちが「シンギュラリティ」に入るときにのみである」(4章)。
「私たちは身体としての存在を失うが、みずからの存在の基盤をハードウェアからソフトウェアに変えることができる。つまり、みずからの意識をポスト=生物学的(デジタル)存在にダウンロードし、この方法で無際限に自分を再生産し続けることができるのだ」(同)。
このようにシンギュラリティ論者の考えを説明していく。もちろん、こういう考えが批判されるのである。
さてその次に、ジジェクの最も強調したい無意識の考え方が出てくる。これは本稿で私が最も着目するところでもある。
「もし私たちがシンギュラリティに没入したとして、私たちの「無意識」はどうなるのだろうか。この問いに適切にアプローチするためには、まず「無意識」という概念を明らかにする必要がある。ラカンが明らかにしたように、フロイトのいう「無意識」は、ユングの元型のような、主体の存在の究極的な心的現実としての実体的な領域ではない。無意識は、存在の次元にも非存在の次元にも属さない。それは純粋なポテンシャルからなるバーチャルな場に属しているのであって、精神分析治療における転移の現象の中で現勢化されて、(社会的)現実を獲得するのである。「無意識」は転移の中で現勢化される」(6章)。
「ここでいう無意識とは、主体の存在の実体的基盤としての無意識ではなく、自らの結果に対する不在の参照点としてのみ存在する(エグジスト)(というより、執拗に残存する(インシスト))ような、バーチャルな参照点としての無意識である。つまり、自らの結果に先行することなくむしろ結果においてのみ現勢化するような、つまり結果によって遡及的に生起するような原因としての無意識である。したがって無意識とは、例えば父とのトラウマ的関係からくるような本来の現実のことではない。分析者との関係からくる現在の現実のことでもない。むしろ無意識とは、私の現実の一部をなす二つの現勢的な存在者の中間にある、第三の純粋にバーチャルな存在者なのである」(同)。
この無意識はどこから来るのだろうか。S. フロイトの理論を参照すれば、それは人間における性と死の問題から発生する。そのことを端的に表した概念が、「死の欲動」である。
これは通常、次のように説明される。そもそも有性生殖を行い、他の性を欲望する人間は、自らのうちに本質的な欠如を抱えている。男と女は、それぞれの欠如を埋めるために他の性を求める。この欠如を埋めるために他を求める欲動がリビードだとすれば、欠如の根源的な消失を希求する欲動が死の欲動である。あらゆる欲動はより以前のものに立ち返ろうとするとフロイトは考えるが、その欲動は性が分化する以前の状態への回帰、すなわち死を目指すとされるのである。フロイトはこうして欠如を解消しようとすることにおいて、より根源的な死の欲動を「あらゆる欲動」の根底にあるものとみなしたのである(注2)。
このことは次のように言い換えても良い。人は長い赤ん坊の時代があり、その間は無力で、全面的に面倒を見てもらって大人になる。またその成長の過程で親から話し掛けられて、言語の世界に入る。また父親と母親に対しての性的な関心を持つ。こういったことは、フロイトの良く分析するところである。そしてそういった乳幼児期の経験が無意識を創っている。
また決定的なことは、人間は誰もがいずれ死ぬということである。私たちは、死の恐怖と、先に述べた死の欲動とを併せ持つのである。この無意識が主体を創り出す。
「なぜ主体は「シンギュラリティ」で消滅しないのだろうか。なぜならひとたび差異性がそこにあり、そして私たちがその空間にいるときには、まさに消滅が存続するからである。──実在的事実としてではなく、不在として。この純粋な内在との間の根本的なギャップは、単に「客観的」なものではなく、主体に内在するギャップである。この客観化(とそれを認識すること)を通して、「空」としての主体 $ は、「シンギュラリティ」から最小限の距離を保ちながら存続する。・・・超個人的な統一体には、私と、私が受肉した実在との間の根本的なギャップを伴う。──私は同じ超個人的な意識の一部であることができるが、その対価として私は、私という個人としての統一体を失い、世界の中にある物体としての私の身体に関わるようになるのである」(7章)。
シンギュラリティ論者の目指すところは理解できるのだが、しかし彼らは無意識について正確な理解をしていないというのが、ジジェクの言いたいことである。
「フロイトにとって、メランコリーとは、欲望の対象と、それを欲望させる対象=原因との間のギャップによって定義されることを思い出してほしい。メランコリーでは、私たちはかつて欲望したものを持っているが、今ではそれを欲望していない。このようなメランコリーの構造は、明らかに分裂した主体を意味している。そのような主体は、ある対象を(意識的に)欲望するのだが、その対象を欲望させている(無意識の)対象=原因に気づいていない。そのため、欲望の対象=原因がうまく機能しないとき、この主体は自分の状況を矛盾したものとして経験する。つまり自分が欲望するものを本当には欲望していないかのように経験するのである。このことによって私たちは大きな問いに立ち戻ることになる。つまり、接続された脳という事実は、フロイトが「無意識」と呼んだものの次元にどのような影響を及ぼすのだろうかということだ。私の行為や決定を記録する、デジタルな大文字の「他者」は、ある意味では事実上、「私自身よりも私をよく知っている」と言うことができる。・・・デジタルな「他者」は、私の内なる感情や意図を無視し、それゆえ、私が本当はどこに位置しているのかを私よりもうまく特定することができる。商品フェティシズムに服従する主体を想像してみよう。私が商品交換に勤しんでいるときの活動を観察し記録するだけで、大文字の「他者」は、私が公言する世俗的合理主義とは対照的に、私が本当に商品フェティシズムを信じていること、商品が呪術的な物体であるかのように行動していることなどがわかるだろう。ブレイン・コンピューター・インターフェイス(BCI)では、その状況は(ほとんど)逆転する。私の内なる感情や経験を記録することによって、デジタルな「他者」は私を、プラグマティックな合理主義者として認識するだろう。しかし、それは(私の行動を決定する)私の無意識なフェティシズムを記録できるのだろうか。言い換えれば、フロイト=ラカンの「分裂した主体」、その意識的な自己体験と無意識的な信念や姿勢の間で分裂した主体は、ここではどうなるのだろうか。冷厳な言い方をすれば、ニューラリンクという考え方は、無意識を無視し、私たちを従来の自己意識的な主体性に還元してしまわないだろうか。父に対する私のあいまいな姿勢の例に戻ろう。私は意識的には父を憎み、追い出したいと思っているが、この憎しみは父に対する無意識の愛と執着を覆い隠している。そして、すでに見たように、この別の次元は、私の精神の奥底に、私の真の現実として既成のもののように存在するのではなく、転移のような現象においてのみ執拗に現れては完全に実現される、曖昧な精神的推進力なのである。このような分裂した主体の場合、ここでは意識的なものと無意識的なものという二つの現実を扱っているのではない。無意識は私のより深い現実ではなく、ラカンが主張するように、実現しないものの領域、純粋にバーチャルな潜在性の領域なのである。父への無意識的な憎しみは、私自身の奥底で私が「本当に父を憎んでいる」ということではない。それは、私の公然とした(愛の)発話が、言い間違いその他の症状的な行為によって妨害されることを意味している。それらの症状的な行為は、公然とした発話のメッセージに抵抗する別の次元を示すのである。では、どのような姿勢がデジタルな大文字の「他者」に記録されるのだろうか。このことは、ここでもまた、経験や意識的思考の直接的共有としての接続された脳が、「無意識」を無視していることを示しているのではないだろうか」(終章)。
「すなわち私たちの発話や活動についてのデジタルな制御や記録と、私たちの内なる意識の流れそのものを他者と/または機械と共有するような脳への接続との間の違いである。接続された脳は、より多くのことを私たちに暴き出すように見えるかもしれない。もし私たちの行動や発言がすべて記録されるとしよう。それでも、私たちは幸運を祈りながらではあるが、していることや言っていることをし続けることができ、それによって私たちの精神生活がデジタル制御から逃れられるという幻想を維持することができる。しかし、もし私たちが(精神分析が主張するように)分割された主体であるなら、すなわちもし私たちの存在の最も内のところにある核が私たちの意識の流れにつながらないにしても、この抑圧された部分が、私たちが意図せずに行ったり言ったりすること(言い間違いなど)に表現されるとしたらどうだろうか。その場合、逆説的だが、私たちの外的行為の記録は、私たちの心を直接洞察するより、存在の核についてもっと明らかにできるだろう――私たちが仮面を付けて役割を演じているだけだ(と思っている)としても、その仮面には、仮面の下のものよりも真実がありうるのだ」(同)。
「夢作業とは、単に夢の「真のメッセージ」を覆い隠すようなプロセスを指すのではない。夢の真の核心、すなわち夢の無意識の願望は、この覆い隠しのプロセスを通してのみ刻み込まれる。したがって夢の内容を、そこに表現された夢思考へと再翻訳した瞬間に、私たちは夢の「真の原動力」を失ってしまうのだ。要約すれば、その本当の秘密を夢に刻み込むのは、覆い隠すというそのプロセスそのものなのである」(同)。
ジジェクが言っているのは、難しいことではなく、AIに無意識の構造を創りだすことはできないということに過ぎない。そしてその無意識は、私たちの身体を通じて現れる。ジジェクの言い方では、私たちは私たちの内面を、仮面を着けて覆い隠すのだが、真の内面は、その覆い隠すという行為の中にある。このことについては、すでに次のように言われていた。
「ある主体が自己自身について適切なかたちで表象することを試みるとする。この表象は失敗するが、主体とはまさにこの失敗の結果である」(2章)。
言語活動があり、そして私たちはしばしば言い間違いをする。そういう言い間違いが私たちの主体を創っている。
そしてそういうことはAIにはできないのである。AIロボットに、赤ん坊の時代を体験させ、ゆっくりと時間を掛けて大人にし、そして性を持たせ、さらにまたゆっくりと老いさせる。そういうことができるか。またそうさせることが必要か。言い間違いをするロボット、仮面を被るロボットがあるか。つまり無意識をロボットに教え込むことが必要か。
話は二転三転している。先に私は、ロボットは生物ではないが、しかし生物でなくても、自律性、自発性、柔軟性は身に付くと書いた。しかしさらに言うべきは、ロボットは生物としての身体を持たないために、人間の代わりにはならない。
AIが機械に組み込まれて、ロボットができるならば、AIは機械としての身体を持っている。しかしそれが主体ではないのは、それは成長せず、また成長の過程で無意識を形作り、そしてやがて老いて、死ぬ存在ではないし、そのようなものとして他者から承認されないからである。
人間の身体は有限で老いる存在であり、そこに死の予感があり、老いの不安が強くなり、しかしその中で人生を解釈し直し、残りの人生を楽しみ、性の快楽もまた享受する。他者もまた自分と同じく、そういう身体を持つ存在であると認め合う。これが人間であって、AIには代替できない。こういう平凡な結論がここで得られる。
ここで無意識は、人を根本的に制約している嫉妬や見栄といった情念や、他者を支配したいという欲望なども生むのである。ここでもまた、そういったものを機械に教え込む必要があるのかということが問われる。さらには死の恐怖や死への憧れなどといった屈折した感情も機械とは無縁なものだ。機械にそういうことを教え込む必要がないということは、逆に言えば、人間に固有のそれらの特質は、赤ん坊の時代から、青年期、壮年期を経て、やがて老いて死ぬという人間の生と裏腹の関係にあるということなのである。
AIは今のところ、無意識も、また嫉妬や見栄や他者への支配欲求も持っていないが、それらを教え込むことは可能だろうかというのが、最後の問いになる。それはもしかしたら可能なのかもしれないが、しかしそれらを教え込むことは、人間にとって有害であって、有益ではない。
先の栗原聡は、著書の最後に「人工知能学会倫理指針」を掲げる(栗原)。その中には、「他者に危害を加えるような意図をもって人工知能を利用しない」とか、研究開発が「悪用されることを防止する措置を講じるように努める」というものもある。そして決定的なものは、人工知能そのものもまた、「上に定めた人工知能学会会員と同等に倫理指針を遵守できなければならない」と書かれていることである。私は単純に機械に有害なものを教え込む必要はないと思うのだけれども、どこかの段階でそれらを教え込まれてしまった場合、その対策を講じる必要があるということなのである。
補足的に次のことを付け加える。私は前著で、ジジェクの1990年代の電脳論を参照しつつ論じた。そこでは現実とバーチャルな世界の反転がテーマである。つまり真の現実がバーチャルであり、バーチャルな世界はバーチャルであるということを経由して現実的なものになる(高橋2024 1-3)。
それに対して、今回のジジェクの主張は、個別と普遍がテーマである。個別は特殊であることによって、普遍を担う。極めて特殊であることによってこそ、個別は普遍性を帯びる。個別の特殊性を統合して、普遍に至るのではないと考えるのである。
このどちらもヘーゲルが「論理学」で追究したテーマである。正確に言えば、ジジェクが解釈するヘーゲル理論である。
ジジェクは、この本においてもAIについての理解は、1990年代の電脳論の頃と比べてそれほど進歩していない。また本来なら、脳と身体の関係や言語について、もっと詳細な議論が必要になってくるのだが、そういう作業もしていない。しかしヘーゲル論理学の応用という点では、今回大分進展が見られる。
注
1 ただしそこから、主体や責任という言葉の概念についても、それがAIにあてはまるのかどうかの検討は要る。また逆に、それらの概念を人間は本当に持っているのかということも問われるべきである。これは別稿を要するが、主体や責任も、社会が必要とするために、構築されるものである。ロボットにそれらがないのは、社会がそれらをロボットに要求していないからである。
2 この辺りの説明は、荒谷大輔『ラカンの哲学——哲学の実践としての精神分析』の第5章第1節を使った。正確さを期すために、フロイトやラカンの原典に直接当たる必要があるが、ここでは荒谷に依拠しておく。いずれきちんと書き直す予定である。
3 ジジェクの解釈については、2023年度から始まった科研費基盤研究B「スラヴォイ・ジジェク思想基盤の解明」研究会における、メンバー間の議論を参考にさせてもらった。そのことを記して、感謝申し上げたい。
参考文献
荒谷大輔『ラカンの哲学——哲学の実践としての精神分析』講談社, 2018.
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄約、早川書房、2008
カーツワイル, R., 『シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき』井上健監訳、NHK出版、2016
栗原聡『AIにはできない』KADOKAWA、2024
森博嗣『彼女は一人で歩くのか Does She Walk Alone?』講談社、2015
西垣通・河島茂生『AI倫理 人工知能は「責任」をとれるのか』中央公論新社、2019
高橋一行『身体の変容 メタバース・ロボット・ヒトの身体』社会評論社、2024
Žižek, S., Hegel in a Wired Brain, Bloomsbury Academic, 2020
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x13354,2025.06.08)