――リベラル・左派の何が問題か?(四)
相馬千春
1. 「リベラル・左派の何が問題か?」(一)、(二)、(三)のまとめ
ここで(一)、(二)、(三)で述べたことを、一度まとめておきましょう。(まとめるに当たって、用語を改めた点はお断りしておきます。)
日本のリベラル・左派の低迷の背景には、「リベラル・左派」のセンスと一般民衆のそれとの間のギャップがあり、そのギャップを埋めるためには、「リベラル・左派」の態度を啓蒙型から対話型へと転換することが必要ではないか。
日本のリベラル・左派も、思想の構造においては、近代日本の『知識層』一般と同型であることを免れない。近代日本の『知識層』は、近代的な教育制度の確立にともなって輸入された理論の権威に頼るようになったため、却って――江戸期の私塾・藩校で教育を受けた世代に比べて――「自分の頭で考える」力を弱め、他者との対話能力をも弱めてしまった。
日本のリベラル・左派は、多くの場合、西欧近代に由来する思想にアイデンティティを置いているため、日本の民衆の意識を、啓蒙の対象と見なしてしまう。そしてそのことによって、日本のリベラル・左派の意識と民衆の意識との間には深刻なギャップが生じた。
しかし晩年のマルクスが提起しているように、西欧以外の地においては、西欧近代社会とは異なるその地の民衆が持つ共同性が、未来社会の形成にとって重要な要素となり得るのではないか。(以下では、上述の意味での共同性を「エスニック(1)な共同性」と言う。)
さて、<エスニックな共同性が、未来社会の形成にとって重要な要素となり得るのではないか>と言うと、<日本では西欧近代的な政治—社会制度が導入されて百数十年が経っているので、そんなことはあり得ない>と言われるかもしれない。しかし神島二郎や阿部謹也にしたがえば、近代の日本においては「市民社会」は成立しておらず、そこにあるのは、「群化社会」あるいは「世間」と言われるものである。
このような神島や阿部の分析については議論の余地があるとしても、現代日本において「エスニックな共同性」が存続していることは否定できないだろう。
2. 日本の未来にとって、「エスニックな共同性」は重要な要素となるか?
以上のような認識が正しいとして、それでは<日本の未来社会の形成においては、「エスニックな共同性」が重要な要素とされるべきか?>と言えば、簡単には肯定できないでしょう。というのは、日本における「エスニックな共同性」は、直接には、擬制的な「ムラ」あるいは「イエ」などとして現れているので、それらを肯定するのでなければ、現存する「エスニックな共同性」をそのまま受け入れることは困難ですから。
それでは、<日本における「エスニックな共同性」はいっそうの西欧化によって解体されるべきか?>と言えば、それも肯定しがたい。なぜなら、<西欧化が無条件に善であるのか>という点は措くとしても、日本における「エスニックな共同性」には、少なくとも啓蒙的西欧化によっては、容易に解体されないだけの根深さがある、と思われますから。
したがって私は、これからも海外の思想・文化を主体的に吸収すべきことは勿論だけれども、同時に「エスニックな共同性」を現存するものからそれとは異なるものへと変革することを考えるべきではないか、と思うのです。そしてそうであるならば、「エスニックな共同性」は、未来社会の重要な要素として存続することになるのではないか。
さいきん日本の政治の世界では、リベラル・左派の中から保守との連携の試みが生じていますが、こうしたリベラル・左派と保守との連携は、常識からすれば、野合のようにも見える。しかし<日本の未来社会の形成にとっても「エスニックな共同性」が重要な要素となり得る>のならば、リベラル・左派と保守との連携は存外、可能性を秘めているのかもしれません。
もちろんそうした連携は、現在のリベラル・左派と保守とを足して二で割るようなものであっては意味がない。このような連携を模索する以上は、それぞれが、それまでの思考の枠組みに固執することなく、むしろその枠組みを取り払う覚悟をもって、議論していく必要があるでしょう。
3. <日本におけるリベラル・左派の長期的退潮の原因は何か?>という問い
こうした議論を始めるにあたっては、リベラル・左派も自省が必要ではないでしょうか。こう言えば、リベラル・左派からは反撥があるかもしれない。しかし、日本のリベラル・左派の退潮は、昨日今日に始まったものではなく、長期的なもので、社会党時代から数えれば50年にも及ぶものです(2)。
ですからリベラル・左派は、この長期的退潮の原因をもっと真剣に問うても良いはずですが、そうした問いはなかなか出て来ない。その理由は、そうした問いが日本のリベラル・左派のアイデンティティを毀損する懼れがあるからではないかと思うのですが、本当に懼れるべきは、ラディカルに問うことが無意識のうちに抑制されていることの方ではないでしょうか。
ですから以下では、<日本におけるリベラル・左派の長期的退潮の原因は何か?>という問いについて考えてみたいと思います。
さて、現在のリベラル・左派の退潮は、近代日本史においては二度目のものですから、その原因を考えるには、まず一度目の退潮、すなわち戦前における退潮を把握しておいた方が、分かり易い。そしてそのためには、再度――連載(一)の叙述と重複しますが――明治維新以来の近代日本史をざっと振り返っておく必要もあるでしょう。
4. 戦前の歴史過程をどう総括するのか?
明治維新は「尊皇攘夷」運動から始まり、維新に際しても「王政復古」が唱えられましたから、維新政府は「復古派」を抱えてスタートします。しかしこうした「復古派」は1871(明治4)年には早くも弾圧され、1873(明治6)年の政変の後は、「開明派」が権力を掌握していく。彼らはナショナリスト(国民主義者)というより、エタティスト(国家主義者)であって、西欧近代文明は、彼らエタティストによって、強引に日本に導入された。民衆はこうした啓蒙主義=西欧近代文明の導入に強い抵抗を示し、1871(明治4)年-1873(明治6)年には大規模かつ暴力的な「新政反対一揆」が起ります。この一揆自体は敗北しましたが、民衆が抱く反近代の情念は潜在化して存続していく(3)。
1889(明治22)年には「帝国憲法」、翌年には「教育勅語」が制定されますが、これらは民衆を臣民として位置づけるものではあっても、いまだ国民として統合するものではありませんでした。
ところが日清戦争が始まると状況が変わります。村々の小学校で戦争の幻灯会が開催されたのですが、「幻灯とは正に戦争を幻視させるものでした。この幻視のなかでは、村人はみずから千里のかなたで異国の城塞を陥落させ、敵艦を撃沈している。やがて、出征した兵士たちが帰ってきて、実戦談を語る。子供たちは戦争ごっこを始め、大人たちも国家が提供した物語=幻想の中に住処を得るようになる(4)」。
国家が提供する幻想――戦争によって提供される幻想――が、村人が自前で提供する幻想――村の祭りや性の領域――を凌駕することによって、初めて人々は帝国日本に国民として統合されていったわけです。こうして1905(明治38)年の日露戦争終結に際しては、戦争終結に反対する大暴動が起きるまでになりますが、これは民衆が帝国的国民意識を形成し、これに基づいて国民として政治要求を掲げ始めたことを意味している。その後、欧州で第一次大戦が起こると、日本の支配層にも来るべき戦争が総力戦であることは明白となりましたから、支配層も民衆を、単なる臣民としてではなく、より主体的な国民として帝国に統合していく必要性を覚えることになる。こうして男子普通選挙制度が導入され、帝国的な国民統合は完成の域に入っていきます。
日本の近代化=西欧化は、このような民衆の帝国への統合過程と並行して、進展していくわけですが、こうした近代化=西欧化の負の側面は、1930年代に入ると、否定し難いものとなります。すなわち世界恐慌が日本を襲い、街には失業者が溢れ、農村では娘たちが次々に売られていく。
こうした状況下で、人びとの中に潜在していた反近代=反西欧の情念は再活性化され、明治以来の近代化=西欧化を否定する思潮(5)が時代の前面に登場し、さらには西欧思想(マルクス主義を含む)の洗礼を受けた「知識層」の中からも、西欧近代の止揚と日本回帰を掲げる思潮が――これはやがて「近代の超克(6)」と称されるわけですが――登場してきます。
こうした反近代=反西欧の試みは、「資本主義」の否定をも掲げていましたが、それはじっさいには「統制経済」の導入に過ぎず、地主ー小作関係にも手を付けることが出来ませんでしたから、国内の矛盾は必然的に国際的な矛盾に転化されるしかありませんでした。こうして帝国日本は、世界システムとしての近代、即ち英・米の世界支配に挑戦していくことになります。
しかしこうした情勢下でも、リベラル派は民衆の窮乏に冷淡でしたから、民衆はむしろ「広義国防論」を掲げる陸軍に生活改善の希望を託し(7)、小作農は満蒙開拓に夢を膨らませることになる。左派知識層も、教条主義とその帰結としての大衆との乖離とを克服できず、また当時の『マルクス主義』が知識層に提供できた思想も、天皇を中心とする「霊的共同体」に対抗できるものとはならなかった(8)。リベラル派も左派も、弾圧のみならず、こうした要因によって軍国主義・超国家主義に敗北して行ったと言えるでしょう。
5. 戦後の民主主義が出発点で抱えていた問題
このような先の戦争に至る経緯と較べると、戦後日本の状況はもちろん異なっていますが、共通する側面もあります。幕末以来の近代化=西欧化が、西欧を中心とする世界システムへの強制的包摂によるものであったのと同様に、戦後の民主主義が、アメリカ占領下で強制されて成立したものであったことは否定できない。言い換えれば、戦後の民主主義は、軍国主義・超国家主義に対する国民の総括の上に成立したわけではありません(9)。
敗戦になって、軍国主義・超国家主義が批判されるが、悪いのは国民以外の他者(軍部など)とされることで、軍国主義・超国家主義の本当の意味での総括は回避されてしまう。しかも、これは民衆レベルの話だけではなく、戦後のリベラル・左派による軍国主義・超国家主義の『総括』自体が、多くの場合、同様の構造になっています。未だに<戦前の日本では、「教育勅語」などによって、民衆が国家神道に洗脳されたために軍国主義と超国家主義が生まれた>というような「神話」が、まことしやかに語られていますが、ここでも軍国主義と超国家主義の責任を国家に帰することによって、戦争に同調した――知識層を含む――国民の問題は不問に付されることになる。
こうして「戦争中の軍国主義と超国家主義のにない手がそのまま戦後の平和主義と民主主義のにない手である(10)」戦後日本が成立します。
6. 「戦後民主主義」批判、そして「リベラル・左派」が抱えている問題
しかし戦後の民主主義が抱えているこうした問題もやがて意識されるようになります。1955(昭和30)年頃には、戦後の進歩派リーダーたちの戦時中の言動が批判の俎上に載るようになりますし、1960年代には「戦後民主主義」批判に反撥した丸山真男が、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」という反語的表現によって、「戦後民主主義」の「虚妄」性を『承認』することになります(11)。
さらに1960年代後半になると、若者たちによる「体制」に対する反撥が起り、その中では「戦後民主主義」もいっそう激しい批判の対象になっていく(12)。どうしてこの時代にこうした運動が起きたのか。その背景には、戦後世代(=若者たち)が「体制派」とともにリベラル・左派の大人たちにも「欺瞞性」を感じとっていた(13)、という事情があるようですが、こうした反撥・批判は、どこの国の若者にも見受けられるものとされるかもしれない。しかし日本の場合は少し事情が異なっているのではないか。
というのは、日本の知識層の場合には――カール・レーヴィットが1940(昭和15)年にすでに指摘している(14)ように――、彼らの西欧的知識の世界とその日常生活の世界との間に断絶があるからです。この点については、阿部謹也も次のように指摘している。
「西欧の学問や技術を輸入しようとした政府や開明的な人々は、世間という言葉を捨てて社会という言葉をつくった。そのとき古来の世間という意識に基づく社会認識を形のうえでは放棄し、西欧的な形式を選んだのである。
しかしそれは西欧の形式の根底にある哲学や世界観をもたず、形のうえだけの模倣であったから容易に輸入できたが、その形式は一般の人々の意識から程遠いものであった。
わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。……もちろん学会もひとつの世間であるからこのような問題提起がただちに受け容れられるとは私も思ってはいない。」(『阿部謹也著作集7』、 P.6-7)
このように、日本の知識層の日常生活の次元での行為とその「西欧的思想」とが、ほとんどの場合、乖離しているとすると、そうした知識層を主流とするリベラル・左派も同様であることは避けられない。こうしてリベラル・左派も、実際の人間関係の次元では、「古来の世間の意識」で物事を処理し、掲げる言説と実際の行為とが断絶しているということになってしまう(15)。
こうしたことが明らかになってリベラル・左派の鍍金が剥がれていくと、そもそも「ニセもの」的な要素を抱えた戦後民主主義派が退潮して、「エスニックな共同性」を基盤とする保守が相対的に優位になってきたのは、不可避のことだったとも思われます。
もちろん「日本におけるリベラル・左派の退潮の原因は何か」という問いには、多様な答えがあり得る(16)はずです。そしてまた、私がここで主張したいことも、<何々が退潮の根本原因である>というよりは、むしろこの問いを考えることの重要性の方なのですが、自らが設問をした責任に鑑み、浅学を顧みず卑見を述べた次第です。(五へ続く)
注
1 日本語WordNet http://compling.hss.ntu.edu.sg/wnja/ は、“ethnic”の意味として「集団の人々により確立された生活を意味する、に由来する」を挙げている。
2井田正道「55年体制期の政治意識に関する一考察-年齢階層と政党支持について—」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10969/1/seikeironso_78_1-2_83.pdf
を参照されたい。
3「「戦前回帰」を考える(十)――「新政反対一揆」」ならびに、「「戦前回帰」を考える(十四)――近代日本民衆の反近代的情念について」を参照されたい。
4「「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」を参照されたい。
5 「「戦前回帰」を考える(十四)――近代日本民衆の反近代的情念について」を参照されたい。
なお、明治初期における民衆の反近代=反西欧の情念(神国思想など)はエスニックなものではあっても、いまだナショナル(国民的)なものとは言えないだろう。
6 1942(昭和17)年7月の座談会 「近代の超克」とその事前提出論文の発言者・提起者の考えには相当の幅があるが、この点については、石塚正英「『文學界』特集・「近代の超克」を検証する」(石塚正英・工藤豊 編『近代の超克―永久革命』所収)を参照されたい。
また「近代の超克」全般に関しては、『近代の超克―永久革命』の他、冨山房百科文庫『近代の超克』、廣松渉『〈近代の超克〉論』を参照されたい。
なお、廣松渉は、『〈近代の超克〉論』で、川村二郎の「……日本の近代化の方向は明治以降、方向性としてははっきりしてたと思うんですね。だからそういう方向に対する一つの原理的な疑問というものが、ああいう『近代の超克』論議のうちに少なくとも萌芽として、可能性として含まれていたことは確かだと思うんで、戦後においてその面もみんな侵略戦争のイデオロギーということでもって、みそも糞もいっしょに捨ててしまった傾向が近代主義者の側にあったと思う。そのところをはっきり、原理的に問題とすべきところと、時代の情況のために歪められている部分とを正確に切りわけることは非常に難しいと思うんですが、しかし、難しいからこそ現在われわれができるこだわりのない立場でそこをわけて考えなければならないんではないか。また考えることによって、現在のわれわれのいる場所を確認できるんじゃないかというような気持がぼくはします」という発言を引用している(p.15-16)。
その上で廣松は、「川村氏のこの発言に筆者[廣松]は満腔(まんこう)の共感を覚える」としているが、私も、川村・廣松のこのような「近代の超克」の評価に共感する。
7 この連載(一)の注11を参照されたい。
8 廣松渉は、当時の左翼の転向の論理を1933(昭和8)年の共産党獄中最高幹部佐野学・鍋山貞親の「転向声明」を素材にして、分析しているが、廣松は、この「転向声明」の主張のうち、①コミンテルンの指導に対する自主独立、②反戦闘争の放棄、③天皇制打倒の曖昧化、に注目している(『〈近代の超克〉論』、「第六章 三木清の「時務の論理」と隘路」)。
このうち、①は、国外から日本の現実とは乖離した方針が導入されたことへの反撥であり、②は、日清・日露戦争以降の根強い帝国的国民意識がその背景にあったと思われ、特に1931(昭和6)年の満州事変以降は、前線の兵士を支えようという国民感情から戦争反対はいっそう困難となっていたと思われる。③に関しても、「転向声明」が「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある」としている点は、転向の言い訳などではなく、事実であっただろう。じっさい小作争議などでは「一君万民」思想が、むしろ民衆の闘争を支える役割を果たしていた――「「戦前回帰」を考える(十四)――近代日本民衆の反近代的情念について」を参照――から、明治の初期とは異なり、この時代には「天皇制」は民衆に根を下ろしていたと言える。
さらに昭和10年代に入ると、次のような事態が生じてくる。
「昭和十年代に入って、東大生たちがマルクス主義から「日本主義」に急速に傾いたのも、単に保守化した、あるいは弾圧によって〈主体性〉を喪失した、という解釈は正しくないであろう。そうではなく、霊的共同体の参加者・翼賛者となることを〈主体〉的に選び取ったのだといってよい。それは、国体という概念が彼らにとって閉じられた系ではなく、自分たちの参与によってこそよりよい内容を具備した霊的共同体として構築することが可能だという信念に基づいた行動だったと思われる。マルクス主義による社会の変革よりも、国体という霊魂共同体への参与のほうに、より〈主体〉的な魅力を感じるようになったのである。」(小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』p.247)
(小倉紀蔵のこの指摘については、「「戦前回帰」を考える(二)――「教育勅語」から「霊魂主義」的国体論へ」でも検討した。)
そしてこれら――思想の外来性による民衆との隔離、帝国的国民意識による好戦性、「霊的共同体」が人を引き付ける力――は、現代的な問題でもあると思われる。
9 伊丹万作はで次のように言う。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。……私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。……民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。……すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。」
「すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。」
「このことは、……町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。/ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。」(「戦争責任者の問題」1946年8月)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
10 これは、鶴見俊輔「二十四年目の「八月十五日」」(『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』所収、p.211、1968年8月)の文言であるが、注12で引用するように、鶴見は戦後民主主義の全面否定には賛成していない。
11 1955年頃からの戦後民主主義への批判、ならびに引用した丸山の文言の解釈については、清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』 を参照されたい。
12 鶴見俊輔が「私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思うが、しかし、だからといって、それを全体として捨てるべきだとは思わない。ニセものは死ねと、ほんものとしての立場から批判する思想を、私は、政治思想としては、信じることができない」、「自分のニセもの性をみずから笑うたのしみが、私たちが開拓することのできるもう一つのたのしみではないのか」(「二十四年目の「八月十五日」」)と言うのも、この時代の戦後民主主義批判に戦後民主主義の全面否定を感じ取ったからだろう。
全共闘運動でも、「自らを変革の「客体」とし得ない者は変革の「主体」にはなり得ない」(山本義隆、『知性の叛乱』、p.336、1969年4月)という認識は形成されたが、この認識は、「「通常の政治」を拒否し、「大学解体」や「自己否定」を掲げ、一種の「永続革命」を志向する傾向」(塩川伸明「小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』を読む」)につながった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/kosugiryoko.pdf
こうした二つの態度は<一方は大人で、他方は幼稚である>とされるのかもしれないが、「未熟」と言われるような行為の経験なしには、成熟した人間も成立し得ないだろう。
13 塩川伸明は、「大人の説く価値観に反撥する中学生・高校生の多くは、その価値観そのものを全面否定するというよりは、「大人の言行不一致」「偽善」「押しつけがましさ」などに反撥する」(「小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』を読む」)と言う。
14 レーヴィットの当該の文言については、この連載の(一)の注13を参照されたい。
15 例えば、リベラル・左派のある人物がさまざまな差別的な言動をとったり、他者に対するリスペクトを欠いた発言をした場合、彼はリベラル・左派の信条を踏みにじったのだから、リベラル・左派から批判されるはずなのだが、じっさいはそうならないことが多い。つまり「リベラル・左派」も擬制的ムラを形成している限りは、彼はムラから擁護されるわけである。
16 リベラル・左派の退潮の原因は多様なものと思われるが、特に、民衆が擬制的ムラやイエ(企業一家など)に包摂されることによって、日本の労働者が――西欧では形成されたような――共同性と階級意識を形成し得なかったことが、日本のリベラル・左派退潮の根底にあると思われる。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(pubspace-x8059,2021.01.01)