リベラル・左派にとって民衆と「前近代」は啓蒙の対象でよいのか?

――リベラル・左派の何が問題か?(二)

 

相馬千春

 

1.近代日本教育の産物としての「リベラル・左派」
    前回は、日本のリベラル・左派の低迷の背景に、<日本の「リベラル・左派」のセンスと一般民衆のセンスとの間にかなりのギャップがある>ことを指摘し、そのギャップを埋めるためには、「リベラル・左派」の態度を啓蒙から対話へと転換することが必要ではないか、と申しましたが、日本の「リベラル・左派」にとって、こうしたことはなかなか難しいようです。
    というのは、まず「リベラル・左派」に限らず、そもそも近代日本人は、対話――仲間内の話ではない他者との対話――が不得手のようですから。それはなぜなのか。まず丸山眞男の引用から考察を始めましょう。
   

「日本がヨーロッパの学問を受け入れたときには、…学問の細分され、専門化した形態が当然のこととして受け取られた。ところが、ヨーロッパでは…長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している。……それが共通の根をきりすてて、……個別化された形態が日本に移植され、それが大学などの学部や科の分類となった。……技術化され、専門化された学科というものが、はじめからアカデミックな学問の存在形態とされた…(1)。」

   
    ヨーロッパの学問の「共通の根」のところには、プラトンの「対話篇」なんかがあるはずですが、近代の日本では、その辺が共有財産とはならず、もっぱら「専門化された学科」としての西欧的学問が導入されたわけです。こうして形成された近代日本教育の特徴は、江戸期のそれと較べると鮮明になるでしょう(2)
    江戸時代の私塾や藩校の教育はどのようなものだったか。前田勉「江戸の読書会」によると、そこでは学生たちによる「テキストの会読」にかなりの時間が費やされていた。たとえば緒方洪庵の「西洋医学所」では「会頭は黙て之を聞いて居て、先づワキから質問をさせる。いよいよ分らぬと、討論になる……其の質問も先づ初めに文章の意味を問ひ、次に性や格をただし……なかなか綿密にやつたのじや(3)」という具合です。
    ところが洪庵の後、松本良順――彼はオランダ人軍医ポンペから日本で初めて系統的・組織的な西洋医学教育を受けた――が頭取となると、「医学所では、文法を学び、難文を読解することを禁じて、もっぱら理化学、解剖学、生理学、病理学、薬物学、内科学、外科学の七科目を定めて……順次に講義をして、他の書物を禁止する」ようになる。それで「医学所の俗吏」たちは、「前日緒方氏の校長たるや、昼夜会読輪講あり。……今日は生徒沈黙ただ机上に書を見ると、午前午後通じて三回の講義を聴くのみ。これ学問に不熱心の故ならん(4)」と言ったそうです。
    こうした良順の教育こそその後の日本教育を予示するものだったと言えるでしょう。現代の医学者である上昌弘は次のように言います。
   

「医学部の授業は、ほぼ必修科目で埋まっていて、選択科目はほとんどない。多くの医学生は、早朝から夕方まで、講義と実習で忙殺される。大学1、 2年生の教養の講義を減らして、専門科目を教えるようになっている大学も珍しくない。/これは受験勉強の延長で、そこに主体性はない。こんなことをしていると、自分の頭で考えることができなくなる。」
「何も考えない医師は、学会や医師会、厚労省などの権威に頼る。「生涯学習カリキュラム」や「専門医制度の更新」など、他者の定めた学習内容を盲信する。新聞や本はもちろん、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」や「ネイチャー」などの専門誌にも目を通さない。これでは、まともな医師になれるはずがない(5)。」

   
    要するに日本では近代的な教育が確立することで、人々の実学的能力は向上したが、「自分の頭で考える」力は逆に落ちてしまう。人びとは、自分で考える代わりに「権威」に頼り、したがって別の考えを持つ人との「対話」も苦手になってしまった。
    丸山眞男によれば、明治の初めには「ちがったイデオロギーの持主が集って徹夜で討論するような精神的空気が実際にあった(6)」のですが、それは明治二十年頃を境にしぼんでいった。これは近代日本が構築した教育体制の帰結と言ってもよいでしょう。
    そもそも明治の新体制が確立されると、体制にとっては批判的な精神よりも従順な精神が、トータルな視野より専門性が望まれるのは避けられない。そしてこういう状況と相即して高等教育から生み出される「人材」も「英雄」型から「専門家」型へと変わっていきます。こうして明治の末には「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ其の従事すべき仕事の上にのみ集中せらる。正にこれ、英雄時代去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて専門家の時代に達せり」(山路愛山)と言われる状況になります(7)
    しかし権威に従順な「専門家」で実務上の事が足りるのは、政府の中枢に「元勲」たち――私塾・藩校で養成された彼らはトータルで批判的な思考力を持っている――がいる限りであって、やがて彼らが政治の第一線から退場してしまうと、政治家も「やがて官僚上りの政治家となり、ついに官僚のままの政治家(実は政治家ではない)が氾濫する(8)」(丸山眞男)ようになります。そして、トータルで批判的な思考力が没落し、「対話」をする「精神的空気」が社会から失われると、政治に関わる意識も自分の帰属する集団の方ばかりを向いたものとなってしまう(9)
    以上のことは、リベラル・左派の話というより、日本人一般の話ですが、日本のリベラル・左派も、近代日本教育の産物である以上、思想のコンテンツは違っても、思想の構造においては日本の『知識人』一般と同型であることを免れない。日本のリベラル・左派が、うまく対話をできるようになるためには、以上見てきた様な近代日本人の思想の構造そのものを自覚的に変えていく必要があるのではないでしょうか。 
   
2.民衆は啓蒙の対象か?
    しかし、<いまの日本のリベラル・左派に必要なことはたんに異なる考えの人たちと対話である>というわけにはいきません。というのは、さらに日本のリベラル・左派は民衆に対する啓蒙的な態度を捨てることが必要であると思うからです。
    日本のリベラル・左派は、民衆がじっさいに思っていること、感じていることを大事にしていない。それには様々な原因があって、政党のレベルでは、政党が労働組合の影響下にありさらに労働組合が企業の影響下にあるとか、小選挙区制のもとでは政党指導部の権限が強くて、国民の代表であるはずの国会議員が陣笠扱いされている、そしてさらにその指導部の方は誰かにしっぽを掴まれている、などと言うことがあるのかもしれない。
    しかし問題はそれだけではありません。党派の活動家にかぎらず、リベラル・左派の皆さんは一般民衆とのギャップをあまり気にしていないように見える。そしてそうした姿勢には、思想構造的・歴史的な体質が背景にあるのではないか、と思うのです。
    まずリベラル・左派が西欧近代に由来する思想をアイデンティとする以上は、その思想構造からして「土着的」な大衆の意識は、ほとんどの場合、否定的なものと見なされる定めにあるのではないか。また歴史的には、日本のリベラル・左派はそのルーツを維新後の士族層に持つと思われるが、彼らが大衆に対する優越意識を含んでいた点は否定できない(10)。そしてこうした優越意識は、学歴や職業などによって身分意識が再構築されることで受け継がれていったと考えてよいでしょう(11)
   
3.マルクス「ザスーリチへの手紙」が示唆するもの
    それでは、こうした啓蒙主義に対して有効な批判はあり得るのでしょうか。批判というのは、一般に外在的な批判であっては効果がない。ですからここでは――日本的な考えによってではなく――むしろ西欧に属する思想によって、西欧的啓蒙主義を批判するという方法を取ってみましょう。
    そうした思想はいくつか思い浮かぶでしょうが、ここでは晩年のカール・マルクスを取り上げることにします。
1881年2月、マルクスはロシアの亡命革命家ヴェ・イ・ザスーリチ(12)の手紙を受け取りますが、この手紙のなかでザスーリチはマルクスに次のような問いかけをしています。

<ロシアで“マルクス主義者”を自称する者たちは「農村共同体は、歴史や科学的社会主義が死滅すべきと宣告している原古的形態である」と言っているが、それは正しいのか。それともロシアでは「農村共同体の解放とその発展」は可能なのか。ロシアの農村共同体のありうべき運命と世界のすべての国が資本家的生産のすべての段階を通過することが歴史的必然であるという理論についての、あなたの考えを明らかにして欲しい。ロシア社会主義者の運命はあなたの答えに懸かっている(13)>と。

    この問いに対するマルクスの返信が、「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙」ですが、この手紙の他にマルクスは四つの草稿を書いています。これらのテキストについては既に多くの論文(14)が書かれていますので、詳しい話はそれらを見ていただくことにして、ここではマルクスからの引用は最小限にしましょう。
   

「私が[『資本論』で――引用者]分析した過程は、勤労者の私的で分散的な所有の一形態を、ほんの少数者の資本主義的所有にとりかえ……、所有のある種類を他の種類にとりかえたのであった。この過程がどうしてロシアに適用されうるのだろうか?そこでは、土地が耕作者の「私的所有」ではなく、また、かつてそうであったこともないのに。」
「もしも革命が適時に起こるならば、もしも、農村共同体に自由な飛躍を保障するために、革命が全力を集中するならば、農村共同体は、まもなく、ロシア社会を再生させる要素として、資本主義制度によって隷属させられている諸国に優越する要素として、発展するであろう。」
「この共同体はロシアにおける社会的再生の拠点であるが、それがそのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体におそいかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう」(15)

   
    これらの記述を見ると、①『資本論』が述べている<分散的な私的所有を資本家的な私的所有にとりかえる過程>はロシアには適用できないこと、②マルクスは「農村共同体はロシアにおける社会的再生の拠点である」と考えていること、以上の二点は明らかでしょう。そうすると、農村共同体に伴う習俗・文化などに対しても、単純に否定できないことにもなるはずです。つまり晩年のマルクスの発想からは、民衆や前近代的なものに対して一律に啓蒙的に振る舞うという姿勢は出て来る余地はありません。
    このような晩年のマルクスの認識は、西欧の外部に位置する日本のリベラル・左派にとっては、いまだに重要な示唆を与えるものと言えるでしょう(16)(三へ続く)
 

1(丸山眞男「日本の思想」p.132)
2 江戸期の教育については、前田勉『江戸の読書会』を参照戴きたい。
また拙稿、「なぜ「新しい公共空間」か 連載① ―福島原発と近代日本精神の「病理」―」および「なぜ「新しい公共空間」か 連載② ―江戸の読書会とは何か―」でも『江戸の読書会』を紹介している。
3 前田勉「江戸の読書会」(p.354~355)に載っている池田謙斎の回顧談。
4 前田勉「江戸の読書会」(p.355~356)。
5 上 昌広「「奴隷にならない」人生を決定づける大学生活の送り方」
6 丸山眞男『後衛の位置から』所収「近代日本の知識人」p.95。こうした「徹夜で討論するような精神的空気」を象徴するものとして、丸山は中江兆民の『三酔人経綸問答』を挙げている。
7 同上p.101。ここで「英雄」と言われているのは「幕末の志士」のことである。丸山は、山路の言を引用した後、次のように文を続ける。
「こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言ではないと思います。」
8 丸山眞男「軍国支配者の精神形態」(p.127-128)。
9 近代日本の集団内では、構成員がほとんど無意識のうちに自己検閲をしていて、集団内で同調されやすい言説だけが発せられるのだろう。
10 この点については、松岡僖一「士族民権家の自己変革」(跡見学園女子大学紀要第二十六号)の植木枝盛に関する次の叙述(p.52)を参照していただきたい。(「跡見学園女子大学機関リポジトリ」https://atomi.repo.nii.ac.jp/ により閲覧可能。)
「平民大衆への愚民観と平民大衆の可能性への期待ということは矛盾していた。この矛盾を最も端的に示したのは、この時期の立志社の言論闘争の要であった植木枝盛であった。たとえば、かれの著作のうち最もすぐれたものの一つに数えられる「民権自由論」(七九年六月)のはしがきが、「一寸後免を蒙りまして、日本の御百姓様、日本の御商人様、日本の御細工人様、其他士族様、御医者様、舟頭様、馬かた様、猟師様、飴売様、お乳母様、新平民様御一統に申上まする」で始まるのは、かれの先覚者としての責務の自覚の現れに他ならない。しかしながら、この不必要なまでの大衆へのへりくだりは、かれの大衆への愚民観の裏返し的表現であるといわねばならない。「東京日日新聞」の士族民権家への自己批判要求は、かれにおいても消化されていない。そうであるかぎり、大衆の士族民権家への不信感は、解消されることはない。」
また、関曠野は日本の左翼のルーツについて次のように言う。
「近代日本の左翼の精神的な系譜をたどると、維新で没落し薩長閥の私物化する明治国家に深いルサンチマンを抱きつつキリスト教や社会主義思想に関心をもった下級武士層に行きあたるのである。」(関曠野『野蛮としてのイエ社会』p.13)
11 丸山は福本イズムに代表される日本の左翼の体質について次のように言う。
「レーニンが「目的意識性」と「自然成長性」の区別をしましたが、福本和夫はそれに依拠して、「日本の運動にとって緊急の課題というのは運動の大衆化ではない。一切の折衷主義や『ズルズルべったり』の妥協から訣別して、厳格な理論と世界観で労働者階級を武装させることがまず先行すべきである。」と主張しました。……インテリが、ここで初めて、理論と世界観を労働者階級に植えつけるという積極的使命を与えられた。/狭い意味での福本イズムがコミンテルンの批判によって没落した後においても、方法論とか理論とか体系の強調ということは引きつづき日本の左翼運動の体質をなしております。」(丸山「近代日本の知識人」p.106-107)
<インテリには、理論と世界観を労働者階級に植えつけるという積極的使命がある>と考えるのは、身分的優越意識の一種だろうが、ここではそれがレーニン主義という輸入思想によって権威づけられている。
12 ヴェーラ・イヴァノーヴナ・ザスーリチは、1849年ロシア貴族の娘として生まれる。1878年トレポフ将軍(横暴な振る舞いで人びとの憤激を買っていたペテルブルク特別市長官)に面会してその場で銃撃、トレポフに重傷を負わせる。陪審裁判所では無罪となり、その後亡命。この事件は世界的に知られることとなり、1882(明治15)年には日本でも、『魯国奇聞 烈女の疑獄』(杣田策太郎)が出版された。また同年9月には17歳の河野広躰(のちの加波山事件被告)も福島県白河町で「烈女サシユリツチノ伝」と題して演説している(岩波書店日本近代思想体系21『民衆思想』p.466)。
13 「ザスーリチからマルクスへの手紙」については、手紙の英訳Letter from Vera Zasulich to Marx がネット上で公開されている。
邦訳で比較的閲覧しやすいものとしては、森田志郎『日本の村 小さい部落』に平田清明による訳文が引用されている。ただし全文ではない。
14 マルクスの「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙」と草稿に関する論文は数多くあるが、ここでは次のものを挙げておく。
佐藤 正人『ザスーリチの手紙への回答』およびそれの『下書き』考
不破哲三『エンゲルスと資本論 下』p.222-231。
小松善雄「晩年期のマルクスの移行過程論――続・資本主義から協同社会主義への移行過程(下)――」の5「ヴェ・イ・ザスリッチへの手紙」のロシア社会再生論」
15 マルクスの「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙」とその草稿(「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙への回答の下書き」)からの引用は、いずれも大月書店『マルクス=エンゲルス全集 19』による。第一の引用は「第二草稿」(p.399)から、第二の引用は「第一草稿」(p.398)から、第三の引用は「手紙」(p.239)からのものである。
16 マルクスの「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙」とその草稿がその後の「マルクス主義者」たちの主流には影響を与えなかったのはなぜかについて、私にはそれを説明するだけの知識はないので、前注で挙げた小松善雄「晩年期のマルクスの移行過程論」から参考になると思われる点を引用しておく。まず「この手紙と4つの草稿は1924年にようやく日の目を見るという仕儀に立ち至った」(p.147)。すなわちこのテキストの公開は著しく遅れたため、このテキストは、19世紀末~20世紀初頭の社会主義運動に影響を与えることが出来なかった。
第二に、「ロシア革命運動もロシア革命後の社会主義建設も,チェルヌイシェフスキー・マルクスの農耕共同体の共同体的土地所有を維持発達させ,そのうえに農業生産協同組合の全国的展開をはかる協同組合社会主義の線に沿った道ではなく,土地の国有化のもと国有国営企業を最高の社会主義的企業とし,共同体を解体し国営農場(ソホーズ)を頂点におく協同農場(コルホーズ)への強制的農業集団化を押しすすめ,スターリン時代には「国有化の『物神化』」……といわれれるまでの域に達した国家社会主義の線を推し進め,75年後,自壊・破滅するにいたった」(p.147)。つまり、ソ連の「社会主義建設」の路線は晩年のマルクスの構想とは著しく乖離したものであったため、マルクスのこのテキストは、ソ連全盛期の“マルクス主義者たち”の主流にとっては、もはや実践に指針を与えるものとしては参照され得なかったのだろう。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x7923,2020.08.15)