「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識

相馬千春

 
(十二)より続く。
 
十三 近代日本「民衆」の政治上の三つの意識
 
   この連載の(十一)、(十二)では、「近世中・後期―近代初頭の「民衆」の「自己意識」とその「周縁」」について考えてみましたが、これを踏まえて、ここから「近代日本「民衆」の政治上の意識」を対象としたいと思います。もちろん「民衆」の「政治上の意識」を問題にするためには、「民衆」の「日常生活における意識」の考察に、繰り返し立ち返る必要があるので、私たちは、この二つの領域を往復しなくてはならないでしょう。
   さて今回は、標題とした「近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」とは何かを、予め提示しておいた方が、話が分かり易い。それでさっそく「三つの意識」とは何かといえば、①「国家に対する「客分」意識」、②「帝国に同調して行動する「国民」としての意識」(帝国的国民意識)、③「日本の近代化を否定的に捉えて、『本来の日本』への回帰を求める意識」の三つがそれです。そこで「三つの意識」をこのように措定した上で、私が提示したい仮説は、第一に「近代日本「民衆」の政治意識」はこの三つの意識を基軸として把握することが可能ではないか、第二に、この相互に矛盾するはずの三つの意識が、実際には必ずしも相互に排除されずに、場合によっては個人の意識レベルにおいてさえ、並行して存在していたのではないか、というものです。
   
1「客分」意識と「国民」意識形成の端緒
   
   近代の政治意識というと「ナショナリズム」(「国民」であるという意識)の問題を避けて通ることはできませんが、日本においては「ナショナリズム」は――「民衆」レベルでは――どのように、またどのようなものとして形成されたのでしょうか?
   成田龍一は次のように言います。
   

「国民国家は、「国民」という意識に基づいた人びとの自発的、積極的な支持――主体の形成を伴っています。「国民」であることとは、近代=文明を内面的に価値化しているということと同義です。近代的な主体形成――国民としての自覚が、求められています。/しかし、日本において、近代=文明を内面化した主体が、自発的にじっくりと醸成される動きは希薄でした。……国家のかたちをつくることが先行し、国民の形成はそれに遅れます。」(成田龍一『近現代日本史との対話』p.176)

   
   成田の話には実は――概念構成に関して――疑問があるのですが、日本では<近代国家>形成の進行に対して、「民衆」レベルでの「国民の形成」が遅れた点は、否定できないでしょう。
   ここで近代日本における「国民の形成」について、成田の説明をさらに引用すべきかもしれませんが、成田の説明は分かり易いとは言えないので、止めておきます。もっとも「国民の形成」自体がなかなか進まないのですから、この点についての「分かり易い説明」など望むべくもないのですが。
   
a.「客分」意識
   このようになかなか「国民」化しない民衆の意識を、牧原憲夫は「客分意識」と名付けるのですが、以下の八ツァンや熊サンのセリフを聞くと、「客分意識」というのはどういうものか、分かるでしょう。
   

「窮民どもが謂(い)ふところを聞くに、八公(はちこう)は此せつ三度が三度ながら正真(ホンマ)の飯を食ふ奴は、月給取か行険者(ヤマシ)か、左もなくば盗賊(ドロボウ)だと云ひ、又、熊的(くまてき)は鯰の子が地震になろうが、赤髭が威張ろうが琉球人が将軍になろうが、米さへ安くなつて元の様に一日三度づゝ米の飯が食はれゝば、己達は外に望みも願ひもなしと(『東京日日新聞』八〇・一二・六) 」(牧原憲夫『客分と国民のあいだ』p.4)

   
   昭和の時代には過剰ともいうべき「ナショナリズム」が席捲したことを考えると、明治の始めには「ナショナリズム」が抬頭しなかった――特に「民衆」レベルでは――ことは、意外に思われるかもしれない。しかし、「民衆」は、長いあいだ「御政道」の領域から排除されていたのですから、「民衆」レベルでは、「国家」の成員としての意識を不可欠な契機とする「ナショナリズム」が形成されなかったのは、むしろ当然のことだったでしょう。
   近世・近代初頭の日本の「民衆」はたしかに度々「一揆」を起こしてはいますが、それは、我が身、我が家、我が村に火の粉が降りかかる事態になった場合のことで、「御政道」は御侍(おさむらい)がやるものであることは、いささかも疑われなかった。つまり「民衆」はあくまでも自らを「政治」の「客分(客体)」として意識していたわけです。 
   しかもこうした「客分(客体)意識」は、明治期のみならず、昭和の時代においてさえ「民衆」の意識の底に滞留していたのではないか。
   

「 ――どうせな、ついでに早く日米戦争でもおつぱじまればいいのに。
――ほんとにさうだ……(中略)……しかし……戦といふものは腹がへつてはかなわないぞ。
――うむ、そりやさうだ。だが、どうせまけたつて構つたものぢやねえ、一戦のるかそるかやつつけることだ。
――勝てば勿論こつちのものだ、思ふ存分金をひつたくる、まけたつてアメリカならそんなひどいこともやるまい、かへつてアメリカの属国になりャ楽になるかも知れんぞ。」(筑摩書房『現代日本思想大系31』p.217-218)

   
   これは、五・一五事件の民間人指導者・橘孝三郎が聞いた農夫たちの会話なのですが、これを聞くと、昭和の時代になっても「民衆」の「客分意識」は失われてはいないことが伺えます。
   私たちは、この「客分意識」を近代日本「民衆」の主要な政治意識の一つ――否定的形態での政治意識――として押さえておくべきではないか。
   
b.「教育勅語」受容の外面性
   では「民衆」レベルでの「国民」意識の形成はどのように進んだのでしょうか?
   このように問うと、<帝国憲法と教育勅語によって天皇が神とされ、忠君愛国主義と家族国家観が推進されたからだ>という答えが返ってきそうです。
   しかし――そもそも帝国憲法や教育勅語には「天皇=神」も「愛国」も「家族国家」も登場しない(1)点は措くとして――、「教育勅語」やそれにも基づく「修身教育」がほんとうに「民衆」に浸透したのでしょうか。
   高橋敏は次のように言います。
   

「少なくとも明治一〇年代までは民衆にあっては前代の習俗が濃厚に残存し、……国民皆学を実現しようとした小学校は、ムラに確実な拠点を確立したとは到底いえなかった。/明治二〇年代に入って……諸学校令の施行、教育勅語、御真影の下賜、国家祝祭日の設定と儀式化等による上からのムラビトの取り込みが行なわれ、そこに習俗との相剋が展開したのであるが、これとても近代「公」教育のムラにおける定着とはなりえなかった。」(高橋敏『民衆と豪農』(以下、〈高橋〉p.230)

   
   もう少し後の時代はどうか?鈴木理恵によると、大正9 (1920)年に、教育者・三輪善吉は次のような主張をしています。
   

「学校側は「毎日奉読さへすれば其趣旨が徹底出来ると思って」小学校1年生から「奉読」させようとしたが,当の子どもたちは教育勅語の読みも意味も理解できないのでついつい「奉読」中も横を向いてしまう,それに対して「勅語を奉読してゐるのに横向いてゐるのは何事だ」と叱責がとんでくる。……教育勅語の意味や読みのわからない低学年にとって勅語を毎朝「奉読」したり勅語に頑を下げることは,勅語を「何か知らん有難いもの」として偶像崇拝しか受け取られなくなりなぜそれが有り難いものか考えなくなってしまう(2)

   
   また布川弘は次のように言う。
   

「1921(大正10)年に行われた[在郷軍人を召集して行われた]簡閲点呼では,……将校が,大崎下島[市町村名入れる]の在郷軍人二百余名を相手に,「軍人の本分は何か」という質問をした。これは,「軍人勅諭」の最も基本的な点の理解を聞くものであったが,「知りませぬ」「忘れました」という回答が大多数であった。……軍人勅諭は兵役期間中に必ず暗記させられたものであるから,文章は知っているはずである。しかしながら,内容を理解していないのである。……学校の公式行事では必ずといってよいほど教育勅語の奉読が行われ,生徒も暗記していたと思われるが,おそらくその内容は理解されていないに違いない。」(布川弘『近代日本社会史研究序説』p.128)
「天皇制イデオロギーは「立身出世」に必要な公式の論理であり,地域の人々は公式行事の場において,例えば勅語を奉読する,あるいは青年団の機関誌に文章を綴るなど身振り・手振りの次元でそれを受容した。したがって,それは自発的に国家を構成する国民にとって不可欠な倫理として受容されたわけでは決してなかった。……日常の生活次元での倫理は旧来の生活文化に根ざしたものであり,それは容易に改変できないものであった。」(同上p.130)
   
   以上のような指摘を踏まえると、「民衆」の「日常の生活次元での倫理」は依然として「旧来の生活文化」に根ざしていたこと、「教育勅語」は外面性のレベル(=身振り・手振りの次元)では受容されたが、それは「自発的に国家を構成する国民にとって不可欠な倫理」としては受容されたわけではなかったことが確認できるでしょう。つまり近代日本民衆の「ナショナリズム」を権力によるイデオロギーの外的な注入――「教育勅語」に象徴されるような――の産物として捉えることには無理があると思われる。
   
   「天皇制イデオロギー」を――「愛国主義」を形成するものとしてではなく――「「立身出世」に必要な公式の論理」として捉える布川の視点は興味深いものですが、ここでこれを論ずることは――長くなりますので――控えておきます。
   
c.対外戦争を通しての「国民」意識の形成
   それでは「民衆」レベルでの「ナショナリズム」は、いったいどのように形成されたのでしょうか。
   高橋敏は当時の静岡県の小学校「校務日誌」を検討することを通して、次のように述べています。

「学校の村内定着を考えるうえに無視しえない力を発揮したのが、日清・日露戦争であった。」(〈高橋〉)p.230)
「伝統的生活様式、換言するなら文明開化の外にあって伝承と習俗のなかにあったムラを対外戦争に駆りたてるために、国家施策を理解させ、同調を得ようと行なわれたのが幻灯会であった。往時の文明の先端を行く教育機器ともいうべき幻灯器を使用して短時間に多数のムラビトを動員し、戦意を高揚する画面をつぎつぎと繰りひろげることによって、四季折々の生活習俗にどっぷり浸っていた田夫を一瞬にして愛国者に仕立てあげることに成功した。/豊浜小[旧遠江磐田郡豊浜村]では翌[明治]二八年二月二日に「中遠教育会幻灯ヲ使用シテ教育上ノ談話幷ニ日清戦争談ヲナス、聴衆無慮四百許名」とあり、大変な盛会であったことがわかる。」(〈高橋〉p.234)

   
   幻灯とは正に戦争を幻視させるものでした。この幻視のなかでは、村人はみずから千里のかなたで異国の城塞を陥落させ、敵艦を撃沈している。やがて、出征した兵士たちが帰ってきて、実戦談を語ります。子供たちは戦争ごっこを始め、大人たちも国家が提供した物語=幻想の中に住処を得るようになる。こうした幻想を媒介にしてはじめて「民衆」は「国民」へと転化を始めていくのではないか。ここでも「思想」は、身体的なもの(身振り・手振り)のイメージに他なりません。<人は、兵士となって戦うことをイメージするようになるとき、国民となる>のではないか。
   
d.近代初頭の村落と「幻想領域」
   近世・近代初頭の村の生活の中でも人々への「幻想」の提供は不可欠でした。
   

「竹の下の地蔵会は毎歳八月廿四日を期日とす。これは御厨最も第一等の法会にて当日の雑鬧言ハん方なし。翁媼(ぢゝいばゝあ)の児孫(こども)を携へ杖を曳くあり。村婦(よめ)の顔に温飩粉(うんとんこ)を(マサカ)コデ〱塗りて隣り村の小檀那と合傘するあり。脊戸(せど)の兄(あに)イが芋掘歌を鼻吟するあり。富士道者が白衣を被(き)て金剛杖をつき鈴を振て意気揚々然たるあり。其醜体も亦甚しと云ふべし。里俗之を色地蔵と云ふ、宜(むべ)なるかな。、総じて御厨人種に三個の好嗜物(こうしぶつ)あり。曰く村芝居に祭文読(3)、夜竊婬(よばい)等なり。(後略)」(〈高橋〉p.180-181)

   
   これは明治12年8月18日付け『函右日報』に掲載された士族民権家の教員・榊研三の「駿東郡御厨の景況」という記事からの引用ですが、これを読むと近代初頭の村の祭日がどのような様子だったか実感できるでしょう。
   じつは祭りの開催は、近世郷村の<村内政治>の重要課題でした。高橋は山之尻村(現御殿場市)の名主日記を分析して次のように言います。
   

「毎年のように若者は、秋になると祭礼を願い出、芝居興行を企画する。作柄もよく、年貢収納も順調で、小田原藩の意向もさして配慮する必要のないときは、村役人にとっても、村のハレ行事の眼目でもあるので円滑に許可し、祭礼・芝居は執行された。しかし、……凶作時の祭礼執行は困難をきわめた。」(〈高橋〉p.122)
「[天保二(1831)年正月の芝居興行は] 倹約令下の祭礼禁止に耐え抜いた若者にとって祭礼執行の欲求が蓄積し、これが爆発したもので、これにほとんどの村人が同調したものであろう。祭礼芝居興行は、幕藩制村落全体の総意であった。……若者組が村落全体のハレ行事の執行を代行していた」(〈高橋〉p.125-6)

   
   「芝居」も「祭文読み」のような「演芸」も「我を忘れ」させるものですが、「性の領域」もエクスタシー(忘我)を与えるものであることは、言うまでもない。人間にとってはこうした「自己忘却」(=自己の中断)は不可欠ですから、近世の村々もこうした「自己忘却」の場を人々に提供する必要があったのでしょう。 
   しかし日清・日露戦争の時代、村の小学校で「幻灯」に映しだされたものは、それまでの義理・人情をテーマとした「村の芝居」とは、まったく別の世界であり、人々はそれに憧れることになります。
   
e.「ムラ」と「帝国」の二重構造
   人々が幻灯のなかに見出した「物語」のなかでは、人々は国家とともに海外に雄飛し活躍するのですが、この物語の主人公には帰るべき故郷がある。大活劇にも終りがあって、エピローグは村への帰還です(4)。つまりここでは人々は国家(=幻想共同体)の物語の中に閉じこめられてしまうわけではありません。
   
   そうすると、ここには必然的に二つの意識があることになります。
   ひとつは、日本帝国ととも雄飛しようという意識であり、ある種の「立身出世主義」ですが、それは国家の「帝国」化に随伴しようとするものです。つまり、日本の「民衆」の「国民意識」は、そもそも「国民国家」に対応しているものではなく、「帝国」に対応して形成されたものだということになる。ですから、<「国民国家」の形成に、遅延しながらも対応する「国民意識」の形成>という概念フレームで日本の「民衆」の「国民意識」形成を叙述しようとしても、うまく行かないのは当然でしょう。
   そしてもう一つは、村(あるいは「擬制的村」や「擬制的家」(5))に帰属するものとしての意識。こちらの意識は依然として「前代の習俗」(高橋敏)・「旧来の生活文化」(布川弘)と結びついたものに他ならない。
   先に近代日本における「客分意識」に言及しましたが、この「国家」に対する「客分意識」が――「国民意識」が形成されて以降も――存立し得た根拠は、近代の日本「民衆」が一面では「国民」化されながらも、他面では村(あるいは擬制的村や擬制的家)の成員としての意識を持ち続けたことによるのではないか。
   高橋敏は、東伊豆町稲取の国民学校の敗戦前後の状況について、次のように言います。
   

「昭和二〇年になりますと、非戦闘員である老幼男女が四九人も[この町への]爆撃によって生命を奪われる悲劇が重なります。……この痛手のさなか八月一五日をどのように迎えたのか、何か人びとのなかから戦争に反発するような動きがあったのではないかと、先入観も働いて興味をつのらせながら校務日誌を読んだのですが、とりたてて記事はないのです。相変らず「御真影御影御安泰」の記述はつづくのです。/……この記述が消滅したのは昭和二一年二月一八日で、実は御真影が奉還されたからなのです。あれだけの大打撃を受けたのですからいささかなりとも反戦的なものがあってしかるべきだと思ったのですが、見事裏切られました。全校生徒の会礼、奉送のあと役場助役、駐在所の警部補の見送りのなかを校長に抱れて奉還されるシーンを眼の当りに見るような思いに駆られ、強いショックを受けたのです。この事実のなかに日本の民衆の実像はあるのではないのか……。」(〈高橋〉p.148)

   
   敗戦によって「国家の物語」が断ち切られたにもかかわらず、人々の『心』の連続性は見事に維持されている。それが可能であったのはなぜか。人々にとって、「国家の物語」も結局のところ「取り換え可能な物語」の一つでしかなく、「国家の物語」の外部につねに現実の共同体=「ムラ」が持続していたからではないでしょうか。(続く)
   

1. 「帝国憲法」にも「教育勅語」にも「天皇=神」という観念が存在しないことは、この連載の(五)と(六)で指摘しておいた。「愛国」や「家族国家」という観念も井上哲次郎の『勅語衍義』において登場するもので、「帝国憲法」や「教育勅語」には見られないものである。
2. 鈴木理恵「教育勅語暗記暗誦の経緯」 http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/5983/1/KJ00000045666.pdf による。
3. 「祭文」について、兵藤裕己は「デロレン祭文とチョボクレ・チョンガレ、浪花節は、ともに祭文系統の芸能として、相互に交渉しながら伝承されていた」(『〈声〉の国民国家』p.71)としている。このように「祭文」は浪花節に隣接する、あるいはその源流にあたる芸能であり、「民衆」を対象とした「大道芸」であった。
4. 軍隊経験は、除隊後の村での生活のあり様に密接に結び付いていた。一般に軍隊経験者は村で一目置かれる存在であり、伍長・軍曹などに昇任して十数年軍隊に務めれば、恩給が付いたし「村の有力者となる道が開けていた」(吉見義明『草の根のファシズム』p.14)。これは軍隊での教育や人事評価がそれなりに妥当であって、軍隊経験者の――まして下士官の――実力は、評価に値したからであろう。
大門正克は、1920年代初頭の岐阜県揖斐郡の小作争議について、「争議指導者には「在郷軍人多キコト」が指摘されて」いると言い、更に次のように述べている。
「近代日本の社会は、四民平等、一君万民という新しい理念を掲げてスタートしたが、現実の社会には貧富の差や階級間の格差が存在し、とくに農村では地主と小作の格差が歴然としていた。小作農民が、天皇のもとでの平等や「国民」意識を教えられたのは、農村の日常以外の軍隊や学校であり、とくに学校教育の経験が少なかったこの当時の小作農民にとって従軍経験のもつ意味は大きかった。かれらはそこでの体験をきっかけにして、「国民」意識と地主に対する「自負心」を身につけたのである」(『近代日本と農村社会』p.99)
5.「擬制的村」、「擬制的家」については、この連載で別途論じることにする。

(そうまちはる:公共空間X同人)

(pubspace-x7040,2019.09.13)