「戦前回帰」を考える(十四)――近代日本民衆の反近代的情念について

相馬千春

 
(十三)より続く。
 
十三 近代日本「民衆」の政治上の三つの意識(続)
 
2「反近代の情念」把握のための準備的考察
   近代日本「民衆」の政治上の三つの意識のうち、前回は①「国家に対する「客分」意識」と、②「帝国に同調して行動する「国民」としての意識」(帝国的国民意識)について述べたのですが、今回は、③「日本の近代化を否定的に捉えて、『本来の日本』への回帰を求める意識」――以下では「反近代の情念」と称する――を問題にします。
   そこで先ず、この「反近代の情念」と昭和の「超国家主義」との関連について、どう考えているかについて予め述べておきましょう。
   戦後の歴史認識では、昭和の「超国家主義」(1)の起源はもっぱら国家権力の側に求められることが多いようです。しかし本当に「超国家主義」が国家という外部から人びと(日本の民衆+インテリ)に注入されたものであったのなら、「超国家主義」が人びとの心を捉えることはできなかったでしょう。じっさいには人びとの側に「超国家主義」が生成してくる素地があったのではないか。だからこそ戦後、日本の民衆にとってもインテリにとっても、昭和の「超国家主義」を「総括」することは困難だったのであり、人びとは<昭和の「超国家主義」は、もっぱら国家が――「教育勅語」などによって――人びとを洗脳したことの結果である>という「フィクション」に逃れるより他なかったのだと思います。(2)
   私たちはこうした「フィクション」を解体しなければならない。そしてそのためには、<昭和の「超国家主義」の生成には、民衆の「反近代の情念」が不可欠の契機としてあった>ことを十分に意識する必要があると思います。
   この連載の(七)ではすでに白川部達夫の次の言葉も引用していました。「民衆のなかの近代化から取り残された部分には、近代化の恩恵を享受する支配層のあり方を私欲として批判する潮流が根強く生きつづけた。それはしばしば集団主義的平等意識を媒介として、一君万民を体現した天皇制のもとで皇民民主主義的な意識を形成し、ファシズムの基盤となった。」(3)
   そこで、「皇民民主主義的な意識」と「反近代の情念」との関係をどう把握するのかについても、私の認識――いまだ暫定的なものですが――を述べておきます。
   白川部に従えば――この指摘には私も同意しますが――、「皇民民主主義的な意識」と(本稿で言うところの)「反近代の情念」は繋がっているのですが、面倒なのは、「皇民民主主義的な意識」は――その形成には国家権力の側も関与していて――必ずしも「反近代の情念」と結合されているものではない、という点です。
   しかしその問題を考える前に、まず「皇民民主主義的な意識」の政治的有効性を理解する必要がある。そしてこれを理解するには、近世後期以来の「世直し一揆」的運動が明治17年には最終的な敗北を喫して、近代的土地所有が確立された後の農村の現実を、すなわち明治20年代の農村における「地主」の社会的権力は絶大だったことを、踏まえる必要があるでしょう。こうした状況下では――「天朝御政は恐ろしものだよ」(4)と見做した明治初期の民衆の意識とは異なり――「天皇陛下のもとでは地主も小作も平等だ」という思想が民衆にとって極めて魅力的なものとなったことは、想像に難くない。
   それでは、この「皇民民主主義的な意識」はどのように形成されたのか。大門正克の次の指摘は興味深い。すなわち大門は、1920年代初頭の岐阜県揖斐郡の小作争議について、「争議指導者には「在郷軍人多キコト」が指摘されて」いると述べたうえで、その背景として「農村では地主と小作の格差が歴然としていた。小作農民が、天皇のもとでの平等や「国民」意識を教えられたのは、農村の日常以外の軍隊や学校であり、とくに学校教育の経験が少なかったこの当時の小作農民にとって従軍経験のもつ意味は大きかった。かれらはそこでの体験をきっかけにして、「国民」意識と地主に対する「自負心」を身につけたのである」(5)としています。
   大門のいう「天皇のもとでの平等」は「皇民民主主義的な意識」と極めて近いものでしょうから、「皇民民主主義的」な思想は、官僚の側からも民衆に――彼らを帝国に統合する思想するために――提供されたと理解してよいでしょう。しかしだからといって、<民衆の「皇民民主主義的な意識」は国家権力によって外部から注入されたものだ>と見做してよいのか? 似た構造を私たちは、近世後期・近代初めの「世直し一揆」の主要なスローガンである「仁政」に見出すことが出来る。「仁政」というのは直接的には支配階層のイデオロギーであるわけですが、「仁政」という観念は、それが民衆にも浸透するなかで、民衆が使う「武器」に転化しています。そのような「転化」を見ずに、<「仁政」は所詮は支配階層のイデオロギーだ>ということはできない。そういう意味では「仁政」はすでに「民衆の思想」の表現に他ならないのです。同様に「皇民民主主義」も――その形成に国家権力が関与していたにせよ――すでに「民衆の武器」に転化している。そうであればこそ、底辺の民衆が自らを近代化の被害者と捉えたとき、民衆が「皇民民主主義」という観念を武器として使ったことには、強い必然性があると見るべきではないか。民衆が支配層と闘うとき、どのようにおのれの要求の正当性を主張できるのかを考えると、それは支配層の思想を自らの武器にすることによってではないか? 民衆の中からも対話法的=弁証法的な批判の手法が生まれたのではないか?
   もっとも、「皇民民主主義」という観念について言えば、それがそもそも「世直し」の最終的な敗北の結果として生じたものである点、さらにその「世直し」においても「仁政」を行う主体はつねに民衆自身の外に求められていて、民衆自らが「仁政」を行う主体であろうとしたわけではない(6)点を、見落とすわけにはいかないでしょう。 
 
   以上の点を踏まえた上で、本稿では、まずこの連載の(八~十二)で取り上げてきた<日本近代成立期の「民衆運動」>並びに<「民衆」の「自己意識」とその「周縁」>を振り返り、さらに葦津珍彦の「右翼フアッショの神道思想とは何だったのか」という設問について考えることから、民衆に内在した「反近代の情念」の考察を始めることにしたいと思います。
 
a. 近代日本の出発点における民衆の「近代」拒絶=「新政反対一揆」
   明治維新による「新政」と「文明開化」が民衆にとって肌に感じられるものとなるには、少しばかり時間が要ったと思われますが、「廃藩置県」が行われた明治4年から、西日本では極めて規模の大きい「新政反対一揆」が起こっています(7)
   「文明開化」による「生活習俗の強制的な変更は、徴税方式の変化におとらない抵抗感を生みだし……異様なものの押し付けに抵抗しようとするなかで、民衆社会のなかには、それらの根元を、もっとも悪しき、外来の圧力的な存在[「耶蘇」と「異人」]にみる心情が強まっていった」のみならず(8)、明治4年頃には、そうした「もっとも悪しきもの」が「新政」と結びつけて解釈されるようになった。「太政官ハ異人カ政事ヲ取扱処ニシテ,異人ハ女ノ血ヲ絞リテ飲ミ牛ノ肉ヲ食トシ……」(9)というような流言が拡がって民衆に恐慌状態をもたらし、空前絶後の一揆が起きたわけです。
   しかし、関曠野の言(10)を引用すれば、「体制を批判する側」も「線香花火のような秩父事件は大いに持ち上げながら、それより遥かに大規模な新政反対一揆には事実上口を噤んできた」ので、日本の民衆が近代の出発点において、近代化を拒絶する大規模かつ過激な闘争を展開したことは、あまり意識されていない。しかし日本の民衆が近代の出発点から反近代の強い情念を持っていたこと、またこうした「反近代の強い情念」が「新政反対一揆」の敗北とともに消滅したわけではないことは、忘れてはならないでしょう。
 
b.「困民党」の時代までの「反近代」の民衆運動
   明治維新の時代に起こった大規模な一揆としては、「新政反対一揆」に先行して慶応3、4年に関東で起こった「世直し一揆」を忘れるわけにはいきません。
   日本の民衆は、近世後期から「世直し」一揆を行ってきましたが、これらの一揆での中心的要求の一つに――質物の無償返還や貸付金の帳消し・半減、金穀の醵出などとともに――「質地の返還」がありました。「質地の返還」――土地を質に入れて金を借りたが、金を返せないので質流れとなった土地の返還を求める――というのは、近代人からすれば「無法」な要求かも知れない。しかし近世の土地の所持の根拠は、ほんらい「検地」の際の「名受け」であり、かつ多くの場合、「村法」などの共同体の掟が<借金の返済があれば、何年後であっても質地を返還すべきこと>をうたっていましたから、「質地の返還」は近世の共同体の掟からすれば、無法ではなかったわけです(11)
   明治維新後、近代システムの要である「私的所有」を確立するには、こうした共同体的な慣行を破棄して、「近世的な土地所持」を「近代的な土地所有」に転換する必要があったわけですが、これは明治維新によって直ちに達成できたわけではなく、「近代的な土地所有」が――大審院の判決によって――最終的に確定するのは、明治17年を待たねばならなかった(12)
   この時代の政治運動としては、「自由民権運動」が注目されるのが常ですが、「自由民権運動」の担い手は、まずは「不平士族」であり、ついで「豪農層」だったと言ってよいでしょう。「自由民権派」は、儒家的な素養を基礎に「西欧近代」を受容し、啓蒙の側に立とうとした勢力だった。特に多くの「豪農層」にとっては、村落共同体的慣行は桎梏であり、その破棄を正当化して「私的所有」・「貸借関係」を肯定する原理としての「近代」は魅力的なものだった。しかし、それを裏返して言えば、「お百姓」という自己認識を持つ民衆の主流(13)にとっては「近代」はじつに否定的な原理であったということになるでしょう。
   「所有」や「貸借」を巡る「近代」vs.「反近代」の闘争は、明治17年(困民党の時代)に「近代」の側の勝利によって決着したといってよいでしょうが、しかしそのことはこの時をもって「反近代の情念」が消失してしまったことを意味してはいません。
 
c. 「いはゆる右翼フアッショの神道思想とは何だったのか」――葦津珍彦の問い 
   本来ならば、ここで「近代的土地所有」が確立した後の近代日本農村の実情などについて多少なりとも考察すべきでしょうが、それは後回しして、「反近代の情念」がどのように継承されていったのかを、葦津珍彦(14)によって概観しておきましょう。葦津は大正時代の右翼について次のようにいいます。
 

「右翼の集団や個人は、いづれも、幕末に国際危機を感じた尊王穰夷派に似てゐて「神国思想」を共有してゐた。それは広義の神道思想と言ひ得るが、その精神系譜としては、水戸学的神道、平田神道、崎門の垂加神道、それに各流派の教派神道などに源流してをり、なかには神仏習合の神国思想もあった。」(15)

 
   私たちは既に近世の「神国思想」を取り上げていて、それがいかに多様なものであったかを見ておきましたが(16)、その多様な「神国思想=神道思想」は「大正デモクラシー」の時代にも継承されていた。もっともその起源は、多くの場合民衆の外部にあるのですから、それらが直ちに「民衆の思想」であるとは言えないでしょう。しかしここでも民衆の外部に起源をもつ思想が民衆の「武器」に転化しているといってよいでしょう。あるいはそれらは民衆の内部から生成した思想と結合していくことになる。葦津は、「大本教」を取り上げて次のように言います。
 

「戦前において、帝国政府から、もっとも苛烈な弾圧を蒙ってゐた時代の皇道大本教といふものは、国際的にも右翼戦闘者の代表と公認されてゐる内田良平と、もっとも深く心情的に結合した神道思想であった事実は、十分に注目さるべきである。世にいはゆる右翼フアッショの神道思想は、帝国政府の法令に基く神道-内務省神社局の国家神道の思想的敵対者であった」(17)

 
「大本教」は、教祖の出自から言っても、まったくの民衆宗教といってよいでしょうが、「大本教」については次回に取り上げることにします。また「右翼フアッショの神道思想は……国家神道の思想的敵対者であった」というのも、理解しづらいかもしれませんが、これも次回問題にしましょう。さて葦津は昭和になって以降の思想状況を次のように言います。
 

「日本国の非常時がつづき国の危機がせまるとともに、自然発生的に「神国思想」が、いたるところで国民大衆に影響力を発揮してきた。……二千人や三千人の信徒を集める右翼流の「神国思想」教団は、いたるところに生じた。明治以来の教派神道は、もともと国家神道の神主に比して、二倍三倍の多数の布教使をもってをり、その言論がフアナティックになって行った。/国民のなかには、清洌にして純情な気で「神国思想」の信者になる者が増加して行く。」(18)

 
「二千人や三千人の信徒を集める右翼流の「神国思想」教団は、いたるところに生じた」ということからして、昭和にはこれらの教団が民衆に浸透していたことは否定できないでしょう。つまり教団の起源はもともとは民衆の外部にあったかもしれないが、それらはこの時期には民衆の心を代理するものとなったと見做してよい。これは不思議ではないので、なぜなら、こうした教団は――信者を獲得するには民衆の心を捉える必要がある限りは――民衆の心を代弁する機能を果たさざるを得ないのですから。葦津はつぎのようにも言います。
 

「かれら[GHQ]が……敵目標としてゐた「神道」とは、帝国政府の法令下にあった「国家神道」の神社ではなくて、「神社の外から」「神社を象徴」として、神社に結集して来た在野の国民に潜在する日本人の神国思想ではなかったのか。」(19)

 
   この葦津の言を私なりに言い換えるなれば、<「超国家主義」の本体は、帝国政府の「国家神道」ではなく、在野の国民に潜在する日本人の神国思想であった>ということになります。そしてその「在野の国民に潜在する日本人の神国思想」は「反近代の情念」に基づいていた、そう考えてよいのではないでしょうか。(続く)
 

1 「超国家主義」については、連載(三)を参照。
2 この点については、既にこの連載の(七)で指摘した。
3 白川部達夫『近世質地請戻し慣行の研究』p.484-5。
4 連載(十一)の注18を参照。
5 『近代日本と農村社会』p.99 。なお、国家権力の側が「天皇のもとでの平等」意識を民衆に提供したという点については、次回以降、より具体的な検討を行いないたい。
6 例えば「新政反対一揆」では、旧藩主の帰還が要請された。
7 「新政反対一揆」については、連載(十)でふれた。
8 深谷克己「世直し一揆と新政反対一揆(5)」p.425
9 谷山正道「廃藩置県と民衆」p.160  https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48387/1/71_135.pdf
10 「百姓一揆と出世主義革命」http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0307.html
11 この点については連載の(八)、(九)を参照。なおここでは「質地返還」の要求の具体例として、慶應三、四年の「世直し一揆」を挙げたが、「質地返還」の要求自体は日常的なものであり、またそれが実現した例も多いことは付言しておく。
12 連載の(九)を参照。
13 連載(十二)を参照。
14 葦津珍彦に人物像について、今西宏之「葦津珍彦の思想について―戦後における天皇論・神道論を中心に―」から引用しておく。https://www.chugainippoh.co.jp/info/ruikotu/ruikotu015-02-001.html
「葦津は1909年に福岡県筥崎にて葦津耕次郎の長男として生まれた。葦津家は幕末期に、福岡藩における神社祭祀を儒教の影響下から独立させようと運動し、藩から処罰をされた家系である。父の葦津耕次郎は民間の神道人として活動しつつ、玄洋社の頭山満と親交を結ぶなど独自の活動をしていた。葦津は青年期には共産主義思想や無政府主義思想に惹かれ、福島高等商業学校を退学させられる。
その後、父の姿を見て左翼思想を棄て転向。神社建築業に従事しつつ(靖国神社の神門は葦津が建てたものである)日中戦争の拡大、日独伊三国同盟、対米開戦に反対。戦時中は東条内閣を攻撃し拘留されるなど、一貫して軍国主義体制には批判的な立場をとった。戦後は、前述の通り、神社本庁設立の中心人物となり、神道界・民族派界屈指の論客として活動していく。1992年に鎌倉市の自宅で没した。享年82歳。」
15 葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』p.180
16 「神国」思想の多様性については、連載(十一)を参照。
17 葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』P.182
18 同上P.185-6
19 同上P.211

 
(そうまちはる)
 
(pubspace-x7656,2020.02.14)