日本的な〈わたし〉の問題

――リベラル・左派の何が問題か?(五)

相馬千春

(四より続く)
   
1. 近代日本における「主体的契機」の転換
   明治以降の日本は西欧文明の導入に努めてきたわけですが、それでは<日本は西欧化されたか>と言えば、そうとは言えない。日本では西欧的制度・価値観は建て前としては通用するが、それと自分たちの精神の本音との間にはギャップがあって、西欧的な教養を身に付けたはずの知識層においても、実際の行動では、西欧的価値観とは別の精神が作動している。この点については、この連載の(三)でも述べましたが、論じ足りない点も多々あるので、日本的な『個人』あるいは日本的な〈わたし〉について引き続き考えて見たいと思います。なおこの文では――引用を除いて――〈わたし〉と表記されるのは、日本の〈わたし〉であり、西欧の一人称(英語の“I”やドイツ語の“ich”など)で言い表されるものについては“わたし”と表記することにします(1)
   「文明開化」が始められた時代には、当然のことながら、西欧的価値観と日本的精神のギャップは歴然としていて、それは「和魂洋才」という言葉に端的に示されている。この時代に西欧文明の導入に心血を注いだ人々の多くは武士階級で、彼らは「武士的エートス(2)」と言われる心性を持ち、また儒教的教養を身に付けていた。つまり「和魂洋才」と言う場合の「和魂」とは、「武士的エートス」を中核とするものと考えても、大過ないでしょう(3)
   しかし「文明開化」は、儒教を支配的なイデオロギーの地位から引き下ろし、何より君臣関係が解体されることで、武士的エートスは解体せざるを得ません。これに対して「教育勅語」制定のように儒教を基調として倫理の再確立を目指す動きや、あるいは「武士道」称揚の動きも生じる(4)のですが、それでも「武士的エートス」と儒教的倫理の解体という大勢は如何ともし難かった。
   しかし武士的エートスなどが解体されたからと言って、<日本の知識層はすっかり西洋化したのか>というと、そうは思えない。それでは、武士的エートスに代わって登場したものは何だったのか?神島二郎は次のように言います。
 

「・・・明治と大正以後とではその[献身の―引用者]主体的契機がことなっており、明治期においてはそれが武士的エトスであったのにたいして、大正以後においては欲望自然主義であったことが注意されなければならぬ。」(『近代日本の精神構造』、p.203)
「欲望自然主義は、いわば、西欧近代の個人主義に代位するものである」(同上、p.201)
 

この「欲望自然主義」については、この連載の(三)でも触れましたが、さらに検討することにしましょう。
 
2. 神島二郎の「欲望自然主義」論
   神島によれば、「武士的エトス」から「欲望自然主義」が成立する過程は次のようなものである(5)
   「武士的エトス」の場合は、その献身の対象は「パースナルな君主」(=殿様)であるわけですが、明治になると人々はもはや殿様を献身対象とするわけにはいかなくなります。それで概念的なもの――「公道」・「国事」を始め、「自由」・「民権」など――が献身の対象とされることになる。しかし「献身対象がパースナルな君父でなくなれば、対象自身が献身内容を規定する(命令!)ことはないから、献身内容について……勝手な解釈を施す余地が出てくる」。つまりそこに「個人の恣な欲望を潜入させる」余地が生じるわけです。
   さらに神島は、高山樗牛を念頭に置いて、「欲望自然主義」の成立過程を跡付けるのですが、神島の論述を追う前に樗牛の思想を一瞥しておいた方が良いでしょう。もっとも、樗牛はその短い生涯(明治4年-明治35年)のなかでその思想を何度か転換しているのですが、「欲望自然主義」が姿を現すのは、樗牛晩年の明治34年8月のことである。
   樗牛は「美的生活を論ず(6)」において、「幸福とは何ぞや」と問い、「本能の滿足、即ち是れのみ」と答え、さらに「本能とは何ぞや」と問い、「人性本然の要求是れ也」と答える。そして「人性本然の要求を滿足せしむるもの」を「美的生活」と定義する。
   「人性本然の要求」には当然ながら性欲が含まれ、また恋愛も含まれますが、樗牛は、これらを「人生の至樂」として肯定し、「美的」なものと称する。
   しかし樗牛のいう「本能なるもの」は性欲や恋愛ばかりではない。「本能なるもの」は「謂はば種族的習慣」であり、「古の忠臣義士、孝子烈婦の遺したる幾多の美談」も、一種の「美的行爲」(=「本能の滿足」)である。例えば、楠木正成が湊川で討死したのも、「至善の觀念」によるのではなく、「至高の滿足」によるものである。また、「眞理其物の考察」を「本來の目的を遺却」して「無上の樂み」となすのも「美的生活」であり、「守錢奴」さえも「美的生活中の人」である。
   そしてこうした視点から樗牛は、世の道学先生(儒学者)を、「人の作りたるもの」である道徳を以て、「天の造りたるもの」である人性本然の要求を「律せむとするもの」と批判し、また學究先生を「何ぞ其の迂遠にして吾等の生活と相關せざることの甚しき」と批判する。
   こうした樗牛の言葉が明治の青年たちに与えた衝撃の大きさは、石川啄木の「その思想が魔語のごとく……当時の青年を動かした」という評言からも容易に想像できるでしょう。啄木が「明治の青年が、……青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めた」のは、「樗牛の個人主義がすなわちその第一声であった(7)」と言うとおり、樗牛の言葉には新しい時代の精神が宿っており、その言葉から日本の『個人主義』がスタートしたわけです。
   このような樗牛の思想展開を、神島は次のように把握します。
 

「献身対象の概念化に即応して潜入した個人的欲望が、まず国民的性情―種族的習慣―本能という線でその恣意性を合理化され、ついで献身行為における本能の完全燃焼という点で自己目的化されたことである。私はこのような欲望の自己目的化を”暗転”といったのであり、その結果出てきたものが、「欲望自然主義」である(8)

 
   ここで言われている「国民的性情」という用語は、樗牛の「日本主義と哲学(9)」(一八九七年)――「美的生活を論ず」より前の時期の論文――においては、「道徳主義は國民性情と相合致するを須要とす」というように使われている。つまりこの段階では、「國民性情」が道徳主義に対して、より恣意的な欲望を合理化する根拠となっているわけです。
   ところで「欲望自然主義」のもとでは「欲望」の内容自体は規制されませんから、神島によれば(10)、「功名欲本位のものから性欲本位のものまで」、種々の「欲望自然主義」が登場してくる。「功名欲本位」のものは、この時代には「維新革命のさいとは異なり、活動の舞台は国内にはもはやありえず、もっぱら「海外雄飛」に求め」ざるを得ない状況になっている。文学では性欲本位の自然主義が登場しますが、これは「自己主張の要求が……「時代閉塞」の壁にぶつかって政治から退却」した結果であり、「やがては、私生活への沈倫か、日本主義にかえらざるをえなかった」。
 
3. 中島義道の「欲望自然主義」論
   こうした神島の「欲望自然主義」論を踏まえて、中島義道も独自の「欲望自然主義」論を展開しています。
 

「日本的欲望自然主義は、みずからの信念(利益)に基づくがむしゃらでいちずな欲望の追求を意味しない。・・・むしろ、それは、・・・他人(世間)の視線を気にかけた欲望の実現であって、それこそこの国では自然な欲望追求の仕方なのだ。」(中島義道『醜い日本の私』p.78)
「日本的自我は、はじめからそして徹頭徹尾他人の視線のもとにある。ハイデガーの言葉をもじれば、まさにそれは「世間=内=存在」である。」(同上p.78)
「この自然な運動を導く原理原則は何もない。誰も正確には自分がどこに向かっているのか知らない。だから、人々は危機的状況に直面すると、みんな一緒に一丸となっていっさいのはからいを捨てて自然にある方向に動いていく。太平洋戦争開戦前夜でもそうであったし、79’石油危機のときのトイレットペーパー争奪戦もそうである。」(同上p.78~9)

 
   なお、ここで使われている「自然」という言葉には注意が必要です。中島によれば(11)、「日本人にとって「自然」とは固有の領域ではなく「副詞的自然」つまり自然にという意味しかもたない」のであり、「あらゆる人為現象も自然現象の一部であり、あたかも自然現象のように「おのずから」起こってしまう」のである。つまりそこには「西欧近代的「意志」とは無限に隔たった概念」がある。
   以上のような中島の指摘は的確なものと私には思われる。つまり「欲望自然主義」は、その端緒である高山樗牛においては、道徳や国家に抗って『個人』を確立するものでしたが、その展開の結末においては、知識層も「世間」あるいは「ムラ」(=擬制村)的な秩序に絡めとられてしまい、けっきょく近代日本では西欧的な「個人」というものは、一般的には成立しなかったと言ってよいでしょう。
   無論、近代の日本でも個々の思索者を見れば、その思索は多様なものであり、そこには「個人」を確立するための様々な模索もあったわけですから、近代日本の知識人をすべからく「欲望自然主義」に制約された人々として捉えることはもちろん出来ない。しかし総体としての近代日本知識層はどうかと言えば、それを「欲望自然主義」に制約されたものと把握することには、それほど無理はないと思われるのです。
 
4. 金谷武洋:<「神の視点」と「虫の視点」>
   ところで「日本的自我」が「徹頭徹尾他人の視線のもとにある」とすると、「西欧的自我」の方はどうなのでしょうか?
   この点については言語学者・金谷武洋の指摘(12)が興味深い。金谷は<現実を言語化する際に日本語と英語では認知的な違いがある>ことを指摘し、その一例として川端康成の『雪国』の冒頭とそれの英文翻訳を挙げる。
   日本語原文は、ご存知の通り、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」なのですが、サイデンステッカーの英訳は、“The train came out of the long tunnel into the snow country. ”となっている。
   こうして比較すると二つの文はその構造も意味も全く異なっているのですが、なぜこんなに違うのかと言えば、それは原文を直訳できないからです。原文にはそもそも主語がなく、それも省略されているのではなく、本来的に存在していない。これでは英語にしようがないので、“The train”を主語として構成されたのが、サイデンステッカーによる翻訳文でしょう。 
   面白いのは、原文と英文の認知的な違いです。両文をそれぞれネイティブ・スピーカーに読んでもらって、それが喚起するイメージを訊くと、原文(日本語)の場合、そのイメージは列車内から車窓の外の情景を覗いているものだったと言いますが、じっさい日本人には、そのようなイメージしか湧きようがないでしょう。
   つまり日本人はその認知の在り方において、地上すなわち自然に内在しているわけです。このように人間自体が自然の一部なのですから、日本では「あらゆる人為現象も自然現象の一部であり、あたかも自然現象のように「おのずから」起こってしまう」(中島義道)のも、いわば当然のことです。金谷はこの日本人の視点を「虫の視点」と名付けます。
   英語話者の方はどうでしょうか。“The train came out of ……”のイメージはトンネルから出てくる汽車を上方から見下ろしたものだったという。つまり英語話者の視点は空の上にある。
   同じようなことは、別の例文でも言えるでしょう。例えば、「富士山が見える」と“I see Mt.Fuji.”とを、あるいは「ここは何処?」と“Where am I ?”とを較べると、日本語では話者の視点は地上にありますが、英文の方では、<富士山を見ている“わたし” (13)>を見ている「視線」があり、<地上の何処かにいる“わたし”>を探している「視線」がある。そしてこれらのイメージの「視点」は、地上にではなく、空の上にあることは、“The train came out of ……”の場合から容易に類推できます。金谷はこれを「神の視点」と名付けるのですが、そう名づけるのは恣意的と言われるかもしれない。
 
5.新形信和:<西欧の〈わたし〉は世界の外にでる>
   しかし新形信和によれば、ヨーロッパの人々は「神の眼」を意識していた。
 

「エックハルトでは、神を見る「わたしの眼」と、わたしを見ている「神の眼」とが同じひとつの眼であるということ、クザーヌスでは、「あなた[神――引用者]を観ることは、あなたを観ている者をあなたが観て下さることに他ならない」ということ、このことは信仰にもとづいていわれていることです(14)。」(新形信和『日本人の〈わたし〉を求めて』、p.170)
「このような信仰にもとづく「神の眼」の図像がルネサンスの時代に登場します。」(同上)

 
   先ず、ここに<神が“わたし”を見ている>というイメージがあるのは確かでしょう。したがって英語話者の「空の上からの視点」を「神の視点」と名付けることにはそれなりの根拠があるといえる。しかし「神の視点」に立っているのは、神だけなのか。
   エックハルトは、「わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である」と言い、クザーヌスは「あなたの観ることは、私によってあなたが観られること」と言っていますから、“わたし”も「神の視点」に立っていることになるのではないか。
   <いや、“わたし”は地上にいて、天上にいる神を見ているのではないか>と言われるかもしれない。しかし神は――モノではないので、文字通りの意味では――見ることはできません。「神の視点」から見た視像(イメージ)を“わたし”がイメージするその限りでのみ、“わたし”はその視点に立っている者を知ることができるのではないか。この場合は“わたし”は「神の視点」に立っていると言えるでしょう。
   新形信和は、ヘーゲルの「ヨーロッパ精神は自己に向かいあって世界を定立し、自己を世界から解放する(15)」という言葉を引用し、それを「世界のなかにいる自己が世界の外にでるということを意味します。……簡単にいえば、それは自己が世界を対象化するということです」と解釈します。更に新形は次のように言う。
 

「世界が〈わたし〉という自己に向かいあって存在することによって、〈わたし〉は世界の外にでることができるのです。」(新形信和『日本人の〈わたし〉を求めて』、p.204)
「このような〈わたし〉というのは、二重化した〈わたし〉における主体の〈わたし〉のことです。つまり、自己に向かいあって世界を定立し、世界を対象化するための前提として〈わたし〉の二重化が成立していなければならない……。〈わたし〉の二重化というのは、〈わたし〉が〈わたし〉の外にでるということであり、そのことによって、〈わたし〉が世界の外にでることが可能になるのです。」(同上、p.205)

 
   この「主体の〈わたし〉」は世界の外に出た“わたし”ですから、世界から切り離された“わたし”であることになる。西欧的な“わたし”がこのようなものであるとすると、「日本の〈わたし〉」――それは「自然の一部」である――とは全く違うことが了解されるでしょう。
 
6.夏目漱石:<日本人の自由とイギリス人の自由」>
   夏目漱石は大正3年の講演(16)で、当時の日本人について「近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようです」と言っていますが、これは当時の欲望自然主義的な〈わたし〉に対する的確な批評と言えるでしょう。一方で漱石は、イギリスについては「嫌いではあるが事実だから・・・」と断った上で、「彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。 England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉はけっして当座限りの意味のものではない」と言う。これは<日本の〈わたし〉には「義務」(=何をすべきか、何をしてはならないか)が伴っていないが、イギリスの“わたし”には義務が伴っている>ということでしょう。
   確かに日本人は「君の義務を果たしたまえ」などと言われても、困惑するのではないか。なぜなら、日本で「義務」を定めるのは他人=世間なのですから。それではイギリスの“わたし”に義務が伴っているのはなぜか? それはイギリス人(西欧人)の“わたし”は、「神の視線」に晒されていて、「神」が掟を定めているからではないでしょうか。
 
7.ヘーゲル:<奴僕としての「西欧人」>
   こういうと「自由の背後に…義務という観念が伴って」いる西欧的な“わたし”というのは素晴らしいもののように見えるかもしれません。しかし――そもそも、西欧人が果たす義務というのはしばしば他国の略奪だったりするのですが、そうした点を措いても――西欧的な“わたし”も問題を抱えている点は見落とすわけにはいかないでしょう。この点はカントに対するヘーゲルの批判から見ることにします。
   カントは、ツングース族のシャーマンやウォグリッツェンとヨーロッパの聖職者やピューリタンたちとを較べて、「信仰の流儀にはいちじるしい隔たりがあるにしても、その原理に隔たりがあるわけではない」と言います(17)。つまり彼らは皆、「それ自体ではよりよき人間となることを確認できない事柄に……礼拝を措定するような部類」に属している。カントによれば、「もっぱらよき生き方の心術にのみ礼拝を見出す気でいる人々だけが、彼らと区別される」。
   しかし若いヘーゲルはこれを次のように批判します。
 

「ツングース族のシャマンや教会と国家を統治するヨーロッパの高僧、あるいはヴォグル族やピューリタンなどの連中と自分の義務命令に従う者との間には、前者は自らを奴隷と化するが、後者は自由であるというような区別はない。むしろ前者は自分の外側に主人を持つが、後者は自分の中に主人を持ち、しかも同時に自分自身の奴僕であるという区別があるのである。」(以文社『ヘーゲル初期神学論文集 II』 所収、「キリスト教の精神とその運命」、p.146)

 
   要するに西欧的な“わたし”には主人である「神」がいて、彼はその奴僕である。そのことは、主人が彼の外にいようが彼の中にいようが、変わらないということでしょう。ヘーゲルにとっては、このような「主-奴」関係を止揚することが課題となる(18)
 
8.取り敢えずのまとめ
   近代日本は「武士的エートス」を持った人たちの主導によって形成されたわけですが、近代日本で形成された「知識層」は、「欲望自然主義」的な〈わたし〉として形成されていく。しかし〈わたし〉の「欲望」自体が「世間」あるいは「ムラ」の「視線」によって規制されることによって、近代日本では「知識層」も「世間」あるいは「ムラ」といった「共同性」に従属するものとなってしまったと言えるでしょう。前近代的存在である武士たちが、どこまでも「家」に属する存在でありながら、きわめて「個性的」なキャラクターを持った人々であったのに対して、近代化後に形成された「知識層」が「共同性」に強く制約されるようになったのは、まことに皮肉な話です。この「共同性」による制約は、一般に外的な力によるものではない。<そんなこと言えば、浮いてしまう>というような「空気」が「場」を支配して、それが行動のみならず、思考さえも制約し、しかも自らが制約されていることさえ、意識下に追いやられてしまう。
   「武士的エートス」の伝統が消えていくと、こういう状況が日本を支配するようになり、「誰も正確には自分がどこに向かっているのか知らない」まま、日本は戦争に突入していった。
   そういうメンタリティは戦後においても変わってはいません。戦後の日本は、パクス・アメリカーナの下で経済的繁栄を指向し、その路線はある時点までは成功したように見えたが、今日ではそれは過去のものとなっている。客観的に見ると、今日の日本には、「武士的エートス」に匹敵するような何らかの「エートス」が必要になっていると思われるのですが、それを得るための道筋はなかなか見えて来ないようです。(六へ続く)
 

(1)この連載の(三)では、引用文との関係で、『個人』という語を主に使ったが、これは西欧的な「個人」を代位するものという意味であった。今回は、新形信和に倣って〈わたし〉というタームを使う。ただし新形信和は西欧的な文脈のおけるものについても〈わたし〉と表記している点はお断りしておく。なお、日本語の〈わたし〉はそもそも名詞であって、ほんらい西欧の一人称の人称代名詞(I、ichなど)と対応するものではない点は、押さえておきたい。 
(2)「エートス」(Ethos)という語は多義的であるが、ここでは丸山眞男の説明(五九年度講義の註)を紹介しておく。
「Ethos 人間の行動様式を内面的に規制して行動を指示する気質。ただし、ある程度社会化されたもの。もちろん、必ずしもrationalなものではないが、さりとて、まったく無意識的なものでもない。一方の端に倫理思想的moralをおき、他端に感情・情操などのemotionalなものをおくとすれば、その中間にそれは位する。」(『丸山眞男講義録 第5冊 日本政治思想史1965』、 解題 p.313)
   神島二郎はEthosを「エトス」と表記しているので、拙論でも、神島からの引用については「エトス」を使う。
   なお、<武士的エートスをどう把握すべきか>については、次回、考えることにしたい。
(3)国学の中でも津和野派――新政府内で影響力を持っていた――は、西欧文明の導入に対して積極的であった。同派の福羽美静は「其文明の国々[英・仏・亜米利加―引用者]の開化の道をわが国にうつして国のたふとさを添ふるハ、実ニ愛国の至情赤心」と言う。福羽のこの言葉は、大島明秀「「開国」概念の検討―言説論の視座から―」 http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1872/1/5502_ooshima_19_34.pdfによる。
(4)明治期の武士道については、船津明生「明治期の武士道についての一考察―新渡戸稲造『武士道』を中心に―」https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/nichigen/issue/pdf/4/4-02.pdf を参照されたい。
(5)「近代日本の精神構造」 p.187による。
(6)「美的生活を論ず」はhttps://www.aozora.gr.jp/cards/000271/files/4603_7318.htmlで読むことが出来る。
(7)石川啄木の言はいずれも「時代閉塞の現状」https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/814_20612.htmlからの引用である。
(8)『近代日本の精神構造』p.190
(9)「日本主義と哲学」はhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871940コマ番号148~で閲覧可能である。
(10)神島二郎『近代日本の精神構造』(p.190~191)による。
(11)中島義道『醜い日本の私』 p.64~67
(12)金谷武洋『英語にも主語はなかった』第一章「「神の視点」と「虫の視点」」。なお、金谷の指摘については、拙論「「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの」でも触れている。
(13)さきに述べたように、拙論では西欧の一人称(英語の“I”やドイツ語の“ich”など)で言い表されるものについては“わたし”と表記する。
(14)新形は、エックハルトの次の言葉を引用している。
   「わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である。わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である。」(岩波文庫『エックハルト説教集』p.93)
   またクザーヌスからは、次の言葉が引用されている。
   「主よ、あなたが私を慈愛の眼差しで見つめて下さっているのですから、あなたの観ることは、私によってあなたが観られること以外の何でありましょうか。あなたは私を観ながら、隠れたる神であるあなたを私によって観させるために、[あなたを私に]贈って下さっているのです。あなたが、自らを観させるようにと贈ってくださらない限り、誰も[あなたを]観ることはできません。あなたを観ることは、あなたを観ている者をあなたが観て下さることに他ならないのです。」(『神を観ることについて』岩波文庫p.30)
(15)ヘーゲル『エンチクロペディ―』§393補遺。
(16)この講演は「私の個人主義」であるが、これはhttps://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.htmlで読むことができる。
(17)岩波書店『カント全集〈10〉単なる理性の限界内の宗教』 p.236
(18)ヘーゲルがこのような「主-奴」関係の止揚をどう構想していたのかについては、次回以降、検討したい。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x8122,2021.04.28)