「戦前回帰」を考える(一)――「教育勅語」の何が問題か? 2017/05/30 by 相馬千春 No comments ――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を手掛かりに―― 相馬千春 一、「教育勅語」をどのように批判するか? 最近「教育勅語」が話題となったのは、園児に「教育勅語」が暗唱させる幼稚園の存在が明ら Continue reading →
「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの 2017/01/15 by 相馬千春 No comments 相馬千春 一、 「日本的に考えたり感じたりする」〈私〉とは? 昨年、浦上玉堂の山水画を前にして、<「私」というものが画の中に溶け込んでしまう>経験をした(1)とき、<私はやはり東洋あるいは日 Continue reading →
浦上玉堂――「私」が溶解していくその世界 2016/12/27 by 相馬千春 No comments 相馬千春 浦上玉堂を久しぶりに想い出したのは、森忠明さんの新著『空谷跫音録――ともきたる』を拝見したときです。 「夫(か)の虚空(キョクウ)に逃(のが)るる者は……人の足音、跫然(キョウゼ Continue reading →
この頃のこと、雑感。――綿井健陽氏、SEALDs、そしてママたち―― 2015/08/29 by 上之園幸子 No comments 上之園幸子/相馬千春 皆様 「ノー・ウォー横浜展」、若生さんの作品も展示されていたのですね。教えていただけていたら、16日は鎌倉まで行ってたので、行けたかも。残念!でもこの記事から伝わってきます。 25日中野ゼロで、DA Continue reading →
反知性的な政治にどう対抗するのか?――国会前で考える 2015/07/17 by 相馬千春 No comments 相馬千春 7月15日の夜、私も国会前に行ってきました。例の「戦争法案」を止めるために。 日本人は、永年「政治は政治家にお任せ」という人が多かったから、「国会前まで行かなくちゃ」なんていうのは、極少数だったと思いますが、こ Continue reading →
ヘーゲル「論理学」の「否定の否定」と「無限判断」の解釈について――高橋一行『他者の所有』を読む① 2015/03/18 by 相馬千春 No comments 相馬千春 高橋一行氏の『他者の所有』(御茶の水書房)について、何回かにわたりコメントを書くつもりですが、初回は、高橋氏のヘーゲル「論理学」(1)の――そのうち「定在」と「定在の判断」の――解釈を扱います。 Continue reading →
なぜ「新しい公共空間」か 連載④ ―近代日本人の「考え方」を考える(続き)― 2014/05/13 by 相馬 千春 No comments 相馬千春 連載③より続く 五 近代日本人の「考え方」を考える ――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を踏まえて――(続き) 6.近代日本における〈朱子学的思惟〉以外の諸要素 小倉は「日本の近代化」を「社会を「再儒教化」する Continue reading →
なぜ「新しい公共空間」か 連載③ ―近代日本人の「考え方」を考える― 2014/04/21 by 相馬 千春 No comments 相馬千春 連載②より続く 五、近代日本人の「考え方」を考える――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を踏まえて―― 1.「会読」の解体 前回(四)見たように、江戸期の会読(文芸的公共空間)からは Continue reading →
なぜ「新しい公共空間」か 連載② ―江戸の読書会とは何か― 2014/04/20 by 相馬 千春 No comments 相馬千春 連載①より続く 四、江戸の読書会とは何か 1. 「近代化」は「西欧化」を意味しない 前回、<「近代日本精神」のあり方を克服するためには、私たちは再び『江戸の読書会』を興す必要がある Continue reading →
なぜ「新しい公共空間」か 連載① ―福島原発と近代日本精神の「病理」― 2014/04/07 by 相馬 千春 No comments 相馬千春 一、福島原発と近代日本精神の「病理」 現代日本の諸問題を真に論ずるためには、何より「日本人の精神」のあり方を論じなくてはならないと思います。もちろん問題のより「物質的」な側面――資 Continue reading →