「戦前回帰」を考える(五)――「教育勅語」は「国家神道」を目指したものだったのか

相馬千春

 
(四)より続く。
 
八、島薗進「国家神道」論・「教育勅語」論への疑問――内村鑑三『不敬』事件を手掛かりとして――
 
1. 島薗の考えにたいする疑問点
 前回の最後に、『愛国と信仰の構造』から島薗の考えを紹介したのですが、私の興味を引いたのは次のような島薗の発言でした。
 

「全体主義は昭和に突如として生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたものです。」(『愛国と信仰の構造』p.132)
「国民の中に皇道や国体論の教えが刷り込まれていくのは、一八九〇年に教育勅語が発布された後のことです。/国家神道は国民自身が担い手となる「下からの」運動という性格を帯びていく。つまり、民衆が自ら自発的に国家神道の価値観を身につけ、その価値観をもとに行動していく」(同上、p.124)
「哲学者の久野収(くのおさむ)が大変興味深い指摘をしています。明治の国家体制は、民衆向けの「顕教」と、エリート向けの「密教」の組み合わせで成り立っていた」(同上、p.130-1)
「一九二〇年代あたりから、「顕教」すなわち国家神道を掲げる「下からのナショナリズム」・・・が強くなり、「密教」の作動を困難にしてしまった。・・・国家に向けられた民衆の宗教性が、明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かしてしまった」(同上、p.131-2)

 
 しかし、以上のような島薗の発言を聞くと、私には次のような疑問が湧くのです。
<教育勅語発布以前に、皇道や国体論、あるいは「天皇尊崇」は、すでに民衆に浸透していたと思われるが、これをどう位置付けるのか?>
<「大日本帝国」の「イデオロギー」構造を「密教」と「顕教」との二重構造として把握することは妥当なのか?>
<出発点の『顕教』から、昭和の全体主義を説明できるのか? >
<民衆の「イデオロギー」は、本質的には支配層の作為によって規定されているのか?>
 しかし、これらは難問でしょうから、まず、「国民の中に皇道や国体論の教えが刷り込まれていくのは、一八九〇年に教育勅語が発布された後のこと」だ、という島薗の主張から、検討を始めることにします。
 
 島薗のこの主張に私が引っ掛かるのは、一八九一年に起こった内村鑑三『不敬』事件のことを想い起こすからですが、島薗は「教育勅語」とこの『不敬』事件とを『国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)、『国家神道と戦前・戦後の日本人』(河合ブックレット、2014年)では、次のように位置付けています。
 

「国家神道の大事な柱が、明治天皇による「教育勅語」ですね」(『国家神道と戦前・戦後の日本人』p.15)
「国家神道とは何かを知る上で教育勅語がもつ意義は、いくら強調しても強調しすぎることはない。それは教育勅語が国家神道の内実を集約的に表現するものだった」(『国家神道と日本人』、p.38-9)
「国家神道が信教の自由、思想・良心の自由を脅かす事態が度々生じた。」(同上、p.41)
「そうしたせめぎあいの顕著な例は、教育勅語が発布されてさほどの時を経ずに起っている。衝撃が大きく、影響が長期にわたったのは、内村鑑三(うちむらかんぞう)(一八六一-一九三〇)の不敬事件である。」(同上、p.41)

 
2. 内村鑑三『不敬』事件とは?
しかし内村自身は、この事件の事実経過をアメリカの友人ベルに次のように書き送っています。
  

「一月九日、私が教鞭をとってきた高等中学校で、教育勅語を丁重に承認しようとの儀式がありました。校長の式辞とその勅語の朗読の後、教授と生徒が一人ずつ壇に上り、勅語にそえられた天皇の署名におじぎをする……ことになりました。
……どうすべきか考える余裕はほとんどありませんでした。そのため、迷ってためらいながら、私のキリスト教的良心にとって無難な方針をとり、……私は自分の立場をとり、おじぎをしませんでした
まず数人の乱暴な生徒たち、ついで教授たちが私を非難しました。国の元首が侮辱され、学校の神聖が汚され、そして内村鑑三のような悪党・売国奴が学校に居つづけるならば、学校全体を破壊した方がよいというのです。……首都と地方の各紙は私の行動について別々の意見を述べましたが、ほとんどは、むろん好意的ではありませんでした。
校長は私に非常に心のこもった手紙を書き、私の良心的行為を認め、賞賛し、そのうえで国の慣習にしたがうことを懇願せんばかりであり、私に、おじぎは礼拝を意味するのではなく、皇帝への敬意にすぎないのだと、確信させようと説きました。
この手紙は、とくに肉体的にひどく衰えている私の感情を動かしました。……あの瞬間、私におじぎをさせなかったのは、拒絶ではなく、ためらい良心のとがめでしたから、校長が私に、それは礼拝ではないと断言してくれるいま、私のためらいは解消し、この儀式はばかげたものと信じながら、学校、校長、それに私の生徒たちのためにおじぎをすることに同意しました。(注1)」(引用文中に傍点はアンダーラインで表記。以下同様。)

 
 上の引用にある通り、事件は一八九〇年一〇月三〇日の教育勅語発布からわずか二カ月余り後に、第一高等中学校(=後の旧制一高)への教育勅語導入のセレモニーに際して起こったものです。そして内村の行動をはじめに咎めたものは、生徒たちであった。そうすると、「教育勅語」の導入の時点では、すでに<天皇崇敬>は生徒たちに浸透していたのではないか。この事件を<「教育勅語」の浸透の結果>とするには無理があるでしょう。また<首都と地方の各紙は内村の行動について……ほとんどは、むろん好意的ではなかった>と言われていますから、すでにこの時点で「首都と地方の」大衆にも<天皇崇敬>は浸透していたと考えるべきしょう。
 内村に対する当時の新聞に論評から、大衆への<天皇崇敬>の浸透を主張するのは、根拠として弱いと言われるかもしれません。しかし当時の社会状況は、「ベルツの日記」の明治22年1月29日の条(くだり)に「一般に、日本の民心はあらゆる外国のもの、特にすべての外人に対して断然不利である。久しくわれわれの予想していた反動がついに来たのだ(注2)」とある通り、政府の推進する欧化主義への大衆の反撥が強まっていたわけです(支配層の中にもそれに同調する者が少なからずいた)。同年2月11日には急進的な欧化主義者として知られていた森有礼が西野文太郎に襲われる(西野はその場で自害、森は翌日死去)。暗殺の理由は<森が一年前伊勢神宮で不敬をはたらいた>というものであった。そして「上野にある西野の墓では、霊場参りさながらの光景が現出している!特に学生、俳優、芸者が多い」(「ベルツの日記」、3月19日)という状況であった。この時期には、外国と欧化主義への反撥が、<天皇崇敬>と結びついて、旧来の国学派の枠を超えて大衆的な勢力となりつつあった、と見てよいのではないでしょうか。
 
 さて、内村に話を戻しますが、内村自身も<教育勅語に反対>の立場だったわけではありません。山路愛山は事件の一年数カ月前の時点での内村の演説について次のように記しています。
 

「明治廿二年の天長節に於て余は麻布の東洋英和学校に於て内村氏の演説を聞きたり。……彼れは更に声を揚げて曰く、諸生よ、窓を排して西天に聳ゆる富獄を見よ。是れ亦天の特に我国に与へたる絶佳の風景なり。されど諸生よ記せよ、日本に於て世界に卓絶したる最も大なる不思儀は実に我皇室なり。天壌と共に窮りなき我皇室は実に日本人民が唯一の誇とすべきものなりと。……(注3)」

 
 また先に引用した内村のベル宛の手紙には次のような記述もある。
 

「式の後一週間、私は訪ねてきた何人かの生徒と教授を迎え入れ、できるだけおだやかに、学校における私のふだんの行動や生徒たちとの会話のなかに、また天皇の忠誠な臣民としての私の過去に勅語に反するような何かを見出せるかどうか、と尋ねてみました。また私は、りっぱな皇帝が臣民に勅語をあたえるのは、それにおじぎをさせるためではなく、私たちの日々の生き方において、それに従わせようとされているにちがいない、とも語りました。」

 
 これらを見るかぎり、<内村の思想が「教育勅語」そのものと対立していた>と考えることはできない。「天壌無窮の皇運を扶翼」することは内村の精神でもあった。ですから、思想の点からしても<「教育勅語」の発布によって内村の行為は不敬と見なされるようになった>と言うことには無理があるわけです。
 
 それでは何がこの事件をもたらしたのか。それは上の手紙にある通り、内村がこの儀式で「宸書へのおじぎ」をためらったからに他ならない。彼は天皇の「忠誠な臣民」ではあるが、彼にとって天皇は神ではないし、魂を欠いた物におじぎするという「この儀式はばかげたもの」(ベル宛手紙)である。
 「宸書へのおじぎ」というのは習俗であり、外面性ですが、習俗=外面性こそがこの国の人々の精神を規定している。これに対して内村の場合は、「信仰」という内的なものが外面性を規定していて、おじぎをためらうことになる。しかしこの国の人々にとっては、自分たちの習俗=外面性に同調しない者は、この国そのものを否定する者である。内村と人々との対立の内実は、およそこのようなものだったのではないか。 
 
 それでは「教育勅語」自体は、「国家神道の柱」(島薗)と言えるものだったのでしょうか。
 この問いに答えるためには、まず島薗が「国家神道」を、次に「教育勅語」をどう捉えているのかを見る必要があります。以下では島薗進『国家神道と日本人』によって、彼の考えを探ってみます。
 
3. 島薗の「国家神道」把握
 「国家神道」という言葉は、多様な意味で使われていて、私などは<天皇を「現人神(あらひとがみ)」として崇拝する>ことをイメージしてしまうけれど、国家の公認思想の上で、天皇が「現人神」として崇拝されるのは、実は昭和十年代になってからのこと(注4)だそうです。
 さて、島薗が「国家神道」という場合、それは「帝国憲法」と「教育勅語」によって明治二十年代の前半には確立されたものであり、「皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道とが組み合わさって形作られ」たものとして理解されています。このうちの天皇崇敬は国体論に基づくことから、「皇室祭祀、神社神道、国体論などの要素からなる国家神道」とも言われている。以下で、もう少し詳しく島薗の「国家神道」論を見てみましょう。
 
a.「皇室祭祀」について
 島薗は「国家神道」の三つの要素のうちの一つ、「皇室祭祀」について、次のように言います。
 

「天皇が自ら祭司の役割を担う祭祀は一三であるが、そのうち古代以来のものは、毎年の稲の新穀を天皇が天神地祇に供え、天神地祇とともに食する新嘗祭のみである。また、神嘗祭(かんなめさい)は……伊勢神宮のもっとも重要な祭祀だが、新たに宮中でも行うこととなった。他の一一の祭祀は、新たに定められたものである。
……元始祭は……天孫降臨(てんそんこうりん)、すなわち天津日嗣(あまつひつぎ)(皇位)の始原を祝うもの、紀元節祭は初代天皇とされる神武天皇の即位を祝い、その即位日とされる日に行われる祭祀である。天皇が親祭する他の九つの祭祀は、例年行われる神武天皇祭……など、天皇家の先祖祭であり、……「万世一系(ばんせいいっけい)」と唱えられた歴代天皇の祭祀である。「万世一系」は国体論の核心をなす概念である。……新たな皇室祭祀は国体論と不可分のシステムとして導入されたことがここにもよく現れている。」(『国家神道と日本人』、p.24。以下、同書からの引用はページ数のみ表示する。)

 
 しばしば伝統的と見做される「皇室祭祀」も実際には、ほとんど新たに創出されたシステムであり、創造された「伝統」である。そしてこの新たな皇室祭祀は国体論と不可分のものである、ということです。
 
b.「神社神道」について
 次に、「国家神道」の第二の要素、「神社神道」については、島薗はこれを国家神道の基体と捉える見方――これは「かなりの数の神道学者、歴史学者、法学者などに共有されている見方」なのだそうですが――に批判的である。
 すなわち「神社神道」という語は、「明治中期に神道のうちの「教派」と「神社」が分けられ、前者の「教派神道」に対して、後者をまとめてよぶために用いられるようになったもの」(p.71-72)であり、「神社神道」は「国家神道の形成の過程で、次第に実質をもつようになったもの」、「近代の国家や法の制度に強く規定されて形作られたもの」(p.72)である。
 「神社神道は……皇室崇敬に資するような新たな神社を設立しつつ全国の神社を組織化していく過程で形成されていったもの」(p.90)であり(注5)、「近代に形成された神社神道組織を皇室祭祀と切り離して、それだけを独立した宗教組織として実体視するのは適切ではない」(p.90)ということになります。
 なお、「明治中期に神道のうちの「教派」と「神社」が分けられ」たことによって、神社は「私的な宗教集団とは異なる国家機関」、「宗教」とは異なる「祭祀」を司る施設」(p.15)であるという『論理』が成り立つようになる。この『論理』が、「国家神道」の強制へと繋がっていくことは、押えておくべきでしょう(注6)。
 
c.「国体論」について
 次に「国家神道」の第三の要素である「国体論」について、島薗は次のように言います。
 

「国体の語は中国の古典に由来し、「国家の形体」を意味したり、「対外的な国家の体面」を意味するものだった。……やがて、それまで日本の国家伝統の独自性について説かれてきたことの多くが国体の語に集約して論じられるようにな[る]……。/国体思想の中核的な内容は、「日本の自国認識に関する思想で、とりわけ万世一系の天皇統治を根拠にして、日本の伝統的特殊性と優越性を唱える思想」(辻本雅史「国体思想」)である。……「国体」という観念にはさまざまなヴァリエーションがあり、その担い手も多様で、神社神道組織のみがその宣布の担い手だったわけではない。仏教徒やキリスト教徒や教派神道諸派、学校や軍隊のような組織も国体論の担い手になりえた……。天照大神からの神的系譜という要素はあまり重んじることなく、同じ一つの王朝が変わることなく続いてきたという歴史の特徴の方に重きを置くものもある。その場合、神道的な信仰要素が薄くなることは明らかだ。儒学系の国体論にこの性格が強い」p.60-61。

 
 国体論は、日本の国家伝統の独自性・優越性を説くものであるが、その内容も担い手も多様である。特に儒学系の国体論では日本の歴史の特徴の方に重きが置かれるという点は、「教育勅語」を考える上でも重要だと思います。
 
d. 民間の尊皇主義をどう位置付けるか
 以上、「国家神道」の三つの要素については、島薗の指摘はなかなか説得的だと思うのですが、私が引っ掛かるのは、葦津珍彦(あしづうずひこ)(『国家神道とは何だったのか』)の「国家神道」観にかんする島薗の批判です。島薗は次のように言います。
 

「葦津はもし国家神道という語を、尊皇や敬神を掲げる精神運動という意味で用いるとしたら、これらの「在野神道諸流」がそれにあたると示唆していると読み取れないこともない。いわば尊皇主義的な反体制の立場から、宗教活動を制限され国家機関となった神社界のあり方への慨嘆を基礎とした「国家神道」観である。」(p.89)

 
 これはその通りなのかもしれません。しかし「皇室祭祀・皇室神道を排除した国家神道理解が成り立ちえないことは明らかである」(p.90)と切り返すのはどうか。同様に<「在野神道諸流」や尊皇主義的な民間人の動向を排除した国家神道理解が成り立ちえないことは明らかである>とも言えるのではないか。
 島薗は――これまで見てきたように――「国家神道」の要素として、「皇室祭祀」、「神社神道」、「天皇崇敬あるいは国体論」を挙げているのですが、島薗の叙述では、「天皇崇敬あるいは国体論」は、もっぱら「国家主導」のそれのように読めてしまうのではないでしょうか。言い方を代えるならば、在野の「天皇崇敬」・「国体論」が「国家神道」の生成に占めるウエイトは、否定されてしまうか、あるいは見え難くなってしまうのではないか。
 幕末・明治の始めからの「国家神道」の生成・転変の過程を見ると、大衆の「天皇崇敬」は、必ずしも支配層の「作為」によって規定されているとは言い難いものがあります。そのような大衆の『自発』的な「天皇崇敬」が第四の「契機」として位置づけられても良いはずですし、上で見た内村鑑三『不敬』事件も、この第四の「契機」を含む「神道運動」という視点から見なければ「腑に落ちない」のでは、と思います。もっとも、この第四の「契機」を含む「神道運動」を「国家神道」と呼ぶべきか否か、という問題はあるでしょうが。
 
4.島薗の「教育勅語」把握
 次に「教育勅語」把握の問題ですが、島薗は次のように言います。
 

「教育勅語は真ん中に臣民が守るべき徳目を説き、始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の神聖な紐帯、その神的な由来、また臣民の側の神聖な義務について述べている。国家神道的な枠の中に、儒教の徳目に対応するような、ある程度の普遍性をもつ道徳規範が述べられている、という構造になっている。」(p.38)

 
 教育勅語で「ある程度の普遍性をもつ道徳規範(儒教の徳目)が述べられている」というのは、問題ないでしょう。しかし<「教育勅語」が「国家神道的な枠組み」を持っている>と言えるのでしょうか。
 島薗が「国家神道的な枠組み」を示すものと解釈するのは、「教育勅語」の「始まりと終わりの部分」ですから、そこを引用しておきましょう。
 

「朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我ガ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」(始まりの部分)
「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ是ノ如キハ独リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スベキ所之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(終わりの部分)

 
 これらの部分は「国体論的」であるのは間違いない――「国体ノ精華」と言われている――として、「国家神道的」といえるのか。島薗は次のように言います。
 

「天皇は「皇祖皇宗」を引き継ぎ徳治を続けてきた神聖な存在であり、「臣民」は国家の創始以来、天皇に対して仕えつくす関係にあったこと、また、それが称えるべき規範であり、この勅語が下す聖なる教えでもあることを示している。」(p.35-36、傍線は引用者)
「「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」とは、天照大神の「神勅」に従って天皇に仕え支えることを意味する。」(p.37)

 
 このような解釈は妥当でしょうか。島薗は勅語中の「天壌無窮」を「天壌無窮の神勅」に結び付けていますが、この他に勅語のテキストで「神」と結びつけられ得る語があるとすれば、それは「皇祖」だけではないか。じっさい井上哲次郎は――「勅語衍義」の草稿で――「皇祖」を天照大神と解釈しました。しかしこの「勅語衍義」の草稿に、教育勅語を取り纏めた井上毅は、「皇祖とは神武天皇」であるとの修正意見を付しています。
 

「肇國(ハツクニシラス)天皇ト稱へ奉ルハ神武天皇ナリ又崇神天皇ノ詔ニ皇祖トアルハ即チ神武天皇ヲ尊稱シタマヘルナリ故ニ皇統ノ綿系ヲ論スルトキハ天照太神ヲ皇租トスヘキモ肇國ノ基始ヲ叙ルニハ皇祖トハ神武天皇ヲ稱へ皇宗トハ歴代ノ帝王ヲ稱へ奉ルモノニシテ解セザルヘカラス古典ニ據レハ天照太神ハ「天シラス神」ニシテ「國シラス神」ニハ非ス(注7)」

 
 また、井上は「勅語」制定の過程で山縣有朋に対して、「此勅語ニハ敬天尊神等ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレハ此等ノ語ハ宗旨上ノ争端ヲ引起スノ種子トナルベシ(注8)」とも言っている。
 これらの井上の発言を踏まえると、「教育勅語」からは「天」も「神」も排除されていて、「国体」は神武以来の『歴史』として語られている、そう読まれるべきではないでしょうか。<「神武紀」は「歴史」ではなく「物語」ではないか>と言われるかもしれないが、それでも「教育勅語」の「国体論」が「歴史観」の枠内にとどまっていることは否定できないでしょう(注9)。先にみたように、島薗も(国体論の中には)「歴史の特徴の方に重きを置くものもある。その場合、神道的な信仰要素が薄くなる」と指摘していますが、井上毅では、それは云わば極限まで押し進められている(注10)のではないか?
 また<「天壌無窮」は、神武より前の天照大神の時代の「神話」的な「天壌無窮の神勅」を示唆するものだ>という解釈も、「皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト……」の「皇祖」とは神武天皇だという井上毅の説明を聞くと、説得的ではなくなります。そもそも「天壌無窮」という言葉は、唐代の中国の寺の碑銘にも見られる慣用句(注11)なのだそうです。そういうこともあって、「天壌無窮」が使われているからといって<神勅を示唆している>とすることはできません。
 以上を踏まえると、<教育勅語のテキストは「国家神道的」なものである>とするのは、過剰な読み込み――「教育勅語」が使用された「儀式」の国家神道的性格から遡及的に考えられたもの――ではないか。
 このように<教育勅語は「国家神道的」なものではない>というと、<それでは、教育勅語に問題はないのか>と問われるかもしれません。勿論そんなことはない。<教育勅語の「国体論」は「歴史認識」のみに基づいて構成されたものである>にせよ、その「歴史認識」は「現実の歴史」と乖離している。現実は「国体論が日本歴史を解して皇室に対する乱臣賊子は二三の例外にして国民は古今を通じて忠臣義士なりしと云ふと正反対に、歴史的生活以降の日本民族は皇室に対しては悉く乱臣賊子にして例外の二三のみ皇室の忠臣義士(注12)」だったのですから。
(六)に続く。
 

1 ベル宛内村鑑三書簡、岩波書店「日本近代思想体系6」p.385-390。英語原文を「日本近代思想体系6」の編者が訳したものによる。
2 『ベルツの日記』、岩波文庫、p.134、次に引用した3月19日の記述はp.141。
3 山路弥吉(愛山)『基督教評論』。ここでは小沢三郎、『内村鑑三不敬事件』、新教出版社、1961年、p.31より重引。
4 島薗は新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』によって、次のように言う。
「一九〇四年から二一(大正一〇)年までの第一段階では、「天皇は天照大神の子孫であるという天皇「神孫」論と、天皇の徳と臣民の忠義とによってこの国の歴史は続いてきたのだという君臣「徳義」論」によって天皇崇敬が根拠づけられていた。
一九二一年から三九年に至る時期の第二段階では、それに「皇室はいわば本家で臣民は分家のようなものである、天皇は親で臣民は子のようなものであるといった「家族国家」論がつけ加わってくる」。さらに一九三九年以後の第三段階なると、天皇「現人神」論と「八紘一宇」論が付けくわえられたという。」(『国家神道と日本人』p.67-68)
5 この点について、島薗は次のように説明している。
「国家神道の第一期である「形成期」には、皇室祭祀の整備が著しく進展した。また、神仏分離・廃仏段釈によって、仏教組織の支配下にあった神仏習合の神祇施設が、尊皇思想に力点を置く神社神道施設へと転ずるよう促された。さらに湊川神社(楠木正成、一八七二年)、靖国神社(東京招魂社、一八六九年。七九年に改称)、豊国神社(豊臣秀吉、一八八○年)、阿部野神社(北畠親房、一八八二年)、橿原(かしはら)神宮(神武天皇、一八九〇年)などが新たな創建神社として建立された。これらはいずれも天皇崇敬に連なる性格をもつ神社で、国家神道的な色彩が濃いものである。」(『国家神道と日本人』p.160-1)
「一八九四年、内務省は訓令を発し、「大祭」と「公式の祭」に分けて、伊勢神宮と官国幣社の共通の祭祀を指定している。」(同上、p.103)
官国幣社の「大祭」と「公式の祭」は次の通り。
「大祭――祈年祭。新嘗祭。例祭。臨時奉幣祭。本殿遷座。/公式の祭――元始祭。紀元節。大祓。遥拝式。仮殿遷座。神社に特別の由緒ある祭祀。」(同上、p.104)
6 明治前期の宗教政策の変遷は複雑であるが、本文の叙述に関する限りことを記しておく。
明治三年に「大教宣布」が出され、明治五年には神祇省は廃止、教部省が設置され、大教院を中心とした神仏合同布教の体制が採用される。
「教部省は宗教家を「教導職」として認定登録し、宗教活動に許可を与え……宗教活動を行うにあたっては、「三条の教則」を柱として説教を行うよう命じられた。「三条の教則」とは、「大教」の大枠を簡潔に示した以下のようなものである。/第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事/第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事/第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」(『国家神道と日本人』p.13)
しかし「政府は、一八八二年に教導職と神職を分離し、その二年後には教導職そのものを廃止したのである。そして、政府は、一八七二年の出発点に戻って、今度は徹底的な祭教分離を行なった。その具体的な政策として、一方では、神道の宗教的、信条的な活動を担うものとしての神道教派の特立を認め、他方では、神社又は神職には、説教及びその他の宗教的活動を禁止したのである。」(ロコバント・エルンスト「国家神道の発展と機能-現代の国家と宗教の分離制度の背景として-」)
http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/199004.pdf
7 井上毅が「勅語衍義」草稿に附箋をつけて示した修正意見を、稲田正次、『教育勅語成立過程の研究』、p.345より引用。
8 『井上毅伝 史料篇 第2』、二四四 教育勅語意見 〔明治二十三年〕六月二十日 p.231-2。
9 島薗は「「神武創業ノ始」という神話的過去」(p.107)と言っているので、<皇祖が天照大神であれ神武であれ、皇祖に関する言説は神話的である>と言うのかもしれない。しかし「神武紀」の骨格は「神話」的要素を排除しても成り立つもの(「物語」)ではないか。
したがって「神武紀」が単なる「物語」であって、これを井上が「歴史」と捉えたことが誤りであるとしても、それは「歴史」認識上の誤りであって、彼が何らかの宗教的立場を「勅語」に挿入したことを意味するものではない。
なお、右派の思想とは別の視点から、学問的に「神武架空説」に疑問を呈する研究もあるので、紹介しておく。
古田武彦「歴史と歌の真実」http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin14/rekisuta.html
宝賀寿男「神武天皇の原像」http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/jinmuto1.htm
10この点を明らかにするためには、井上毅の宗教思想・宗教政策を把握する必要があるが、ここでは、
中島三千男「明治国家と宗教-井上毅の宗教観・宗教政策の分析-」
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/8082/1/%E4%B8%AD%E5%B3%B625.pdf
の参照を願う。
11 岩波書店『日本書紀 上』p.571には、用例として「唐の貞観四年の昭仁寺碑銘の「与天壌而無窮」」などが挙げられていて、(「日本書紀」も)「仏教の願文類の慣用句を借用したものであろう」という家永三郎の説が紹介されている。
12 北一輝、『国体論及び純正社会主義』第4編第11章(書肆心水『北一輝思想集成』p.543)。
 
(六)に続く。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x4852,2018.02.18)