「戦前回帰」を考える(四)ーー中島岳志/島薗進、『愛国と信仰の構造』を手掛かりに

相馬千春

 
 
(三)より続く。
 
 前回は、丸山眞男などのーー比較的旧世代のーー「超国家主義」論を手掛かりに、超国家主義について考えましたが、今回は島薗進と中島岳志のーー比較的最近のーー議論を手掛かりにして、引き続き超国家主義について考えていきたいと思います。
 
六、中島岳志の「超国家主義生成」把握への疑問
 
1.「超国家主義者は、かつて「煩悶青年」だった」
 まず中島の所説の方からーーそのなかでも中島が昭和の超国家主義の前史を問題にしている点からーー取り上げていきます。
 

「極端なナショナリズムや全体主義に走る人々は、青年期にどのように自己形成を行ったのか。そのことを研究していった時に、見えてきた存在が「煩悶(はんもん)青年」と呼ばれる若者像だったのです。」(中島岳志/島薗進、『愛国と信仰の構造』、集英社新書、2016、p.52。以下同書からの引用はページ数のみを記す。 )
「なぜ急に、個人の内面の問題に悩み苦しむ青年が増えていったのか。・・・明治時代の前半(第一期)と後半(第二期)とでは、社会の雰囲気が大きく違います。/幕末の日本は不平等な条約を結ばされ、諸外国からは一等国とは見なされず、二流の国として扱われるという屈辱を味わいました。なんとかして一等国になりたい、欧米列強と肩を並べたい、近代国家として認められたい。/こうした時代では、個人の人生の目標と国家全体の目標が一体化します。つまり、列強の仲間入りをするという物語と、その国家目標のために生きる立身出世的な物語は一致していたわけです。」(p.53-54 )
「しかし、重要なのは、「坂」を登りきった[日清・日露戦争の勝利によって欧米に肩を並べることになった――引用者、以下同様]明治の後半の人々が見たものは[司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』で言われるところの]「雲」にすぎなかったということです。/その象徴が一六歳で華厳の滝に身を投じた藤村操でした。雲の中に入ってしまった青年たちは、国家の物語と個人の物語を一致させることができなくなり、自己喪失するのです。・・・一八八○年代以降に生まれた青年たちは、日本が欧米と肩を並べ始めた頃から、「立身出世をしたところで、何になるのか?」と考えてしまうようになった。それが、明治後半以降のエリート青年たちの特徴でした。」(p.54‐55)

 
「国家の物語と個人の物語を一致させることができなくなり、自己喪失[する]」というのは、ある時期の青年の心理の説明としては、分からないでもありません。しかし「明治時代の前半(第一期)と後半(第二期)とでは、社会の雰囲気が大きく違います」といって、この二つの時期の青年の心理の変化を説明するのに、「国家の物語と個人の物語」の一致・不一致を持ち出すのは、いささか不適当ではないでしょうか。明治前期の日本では「国家の物語と個人の物語」が一致していたのか?それらの不一致が起こると、人々は自己を喪失していたのか?そんなことはないでしょう。
 明治の新体制を作り上げた人たち、そしてこの新体制に逆らった人たちも、その主流は儒教的教養をもった士族だったわけです。しかし儒教からすれば、君主が天道に悖れば、究極的には君主ではなく天道に従うべきーー「三たび諫めて聴かざれば、則ち之を逃る」(『礼記』)――である。また武士道からすれば、「たとい逆賊の汚名を蒙ろうとも躊躇なく直接的な情誼的結合に従ってたたか(1)」うべし、ということになる。そこに「国家の物語と個人の物語の不一致による自己喪失」などというものを認めることは難しい。じっさい明治の前期には、少なからぬ顕官が下野し、叛徒となったし、また「国事犯」となることを誇りとするような人々がたくさんいた。彼らの「自己」、彼らの「生」は、むしろ「国家との相克」においてこそ、鮮明になったのだけれど、そのことは中島の視野には入っていないように見える。
 
2.自由民権運動の理解をめぐって
 明治前期についての中島の認識の問題点はそれだけではない。幕末から明治前期の反権力の運動について中島は次のように言います。
 

「水戸学の人々は、「一君万民ナショナリズム」を強く警戒しました。/なぜならば、このナショナリズムは武士と農民を同じ「万民」と捉え、封建秩序を決定的に破壊するからです。「一君万民ナショナリズム」は、江戸幕府だけでなく武士が有してきた特権的地位の正統性も解体してしまいます。/明治維新以後には、「一君万民ナショナリズム」は明治国家に対する批判的な運動となり、内乱[佐賀の乱や西南戦争などの士族反乱のことーー引用者]まで引き起こした。」(p.39)
「体制側はなんとかそうした内乱を抑え込んだ。/そこで、明治国家への批判の形態は、武装闘争から言論での闘いへと変化していきます。それが西南戦争後に高揚期を迎えた自由民権運動です。/自由民権運動とは、身分制を批判し専制的な政府のあり方を批判する運動です。その中では「国民主権」の原則が主張され、国会開設と参政権の確立が展望されました。/自由民権運動と言うと、左派的な運動だと現代では分類されがちですが、当時、自由民権運動にコミットした人たちというのは、非常に強い天皇主義者が多かった。つまり、「一君万民」に基づいたナショナリストたちだったのです。」(p.40-1)

 
 この中島の説明にたいしては、島薗が 「中島さんは、国学的な側面から王政復古を説明されましたが、私自身は、儒教の影響を重要視しています」(p.36)と言っていますが、これは随分と紳士的な言い方で、端的にいえば、ここの中島の説明はおかしいわけです。
 先にも述べたように、自由民権運動は士族層の主導権のもとに始まったもので、彼らの教養のベースは儒教です。彼らはーー体制側のエリートもそうですがーーその儒教的教養をベースにして西欧近代の思想を摂取していった。その結果彼らは、大勢としては「君民共治」を唱えたが、その内部からは共和主義的思想も語られるようになったわけで、「自由民権運動にコミットした人たちというのは、強い天皇主義が多かった」などとはとても言えない。また彼らの士族的メンタリティは否定しがたいものがある(2)。
 これに対して中島のいう「水戸学に警戒されるような一君万民思想」の「強い天皇主義」というのが当てはまるのは、むしろ「国学」です(それで、島薗は上のような論評をするわけです)。そして国学の担い手の多くは、豪農など村落の支配層だった(3)。
では、儒教受容層と国学受容層はそれぞれ自由民権運動とどのような関係にあったか。この点については、北原明文の研究を引用しましょう。
  

「国学を継承する地方名望家たちの政治理想は、おおらかな神代への回帰である。彼らは新時代の戸長職を尊い天皇による委任と心得ていた。彼らは維新政府の指導者とは違って、精神の基底にまで浸透した「攘夷」の殻を今なお破ることはできなかった。彼らには待望した復古回帰と逆行する日本の「欧化主義」政策には組することができない。また欧米から流入した思潮、例えばルソー流の自然への回帰や天賦人権論には拒否反応を示し、また基督教信仰には油紙が水をはじくように反発を覚えた。/一方時局を憂いて民権運動に参加した豪農層の多数は、士族と同じく儒教の教養を備えていた。この両者には同じ儒教の理解が思想的な共鳴の媒介項になっていた。彼らが封建期以来の儒教を解明的に再解釈した場合は、天賦人権論も欧米の市民革命論も薩長藩閥の専制を倒す「第二の維新」のイデオローグに転用されるのである(4)。」
 
 そして、「これが日本の諸地域にも該当するような普遍性があるか否かは全く判らない」と断りながらも、明治期の地方史の調査研究に基づいて、北原は次のように指摘する。
 

「幕末に国学が展開した地域には自由民権や基督教など欧米的思惟の展開はみられない。/自由民権運動の展開した地域には儒教攻究の知的基盤があり、儒教典籍を攻究する方法で基督教の聖書を講読すると、両者には共通する高位の倫理の存在が伺われて、これが基督教を受け入れる基盤となっている。佐久や土佐がその例である。」(同上、p.54)
 
 以上述べたこと、また引用してきたことで、自由民権運動についての中島の理解に問題があることは理解いただけると思います。
 さて、このように明治十年代には、士族層を中心に多くの人々が、国家に反逆的だったわけですが、明治二十年代には、こうした叛逆心はほとんど消滅してしまうように見える。つまり明治二十年代に入ると、人々の「精神的気候(5)」に変動が生じる。明治三十年代の「煩悶青年」も、そうした「精神的気候変動」の全体像を踏まえて、捉える必要があるでしょう。そのためには、まず明治二十年代に国家への叛逆心がほとんど消滅してしまう原因を理解しなければならない。これは難しい問題だと思いますが、少なくとも自由民権運動に関しては、次のようなことが言えるでしょう。
①明治十年代の権力は「有司専制」であり、権力の正統性に疑問符が付けられたが、明治憲法発布により、国家体制の「正統性」
(天皇の統治権に基づくものであること)が明らかにされた。
②自由民権派は大勢として君民共治を主張していたので、明治憲法体制に包摂されることとなった。
③自由民権派の志向した自由の内容は、感性的な自由であり、必ずしも思想信条の自由ではなかった。
④自由民権派が明治憲法体制に包摂されていったのは、彼らが帝国主義的なナショナリズムに共鳴する思想性を持っていたことにもよる(6)。
 それでは、明治二十年頃に生じた「精神的気候変動」の特徴はどのようなものだったのか。ここで暫定的な考えを述べることを許してもらえるならば、次のようなことが言えるのではないか。すなわち、天皇について『タブー』が成立する(7)ことを通して、何ものにも懐疑を向けるような精神、真に普遍的なもの(天皇=疑似的普遍者を越えるもの)を求めるような精神は成立し難くなる、と。「煩悶青年」も、そういう「精神的気候変動」を踏まえて、捉える必要があるのではないか?
 しかしこれらの点について、次回に多少とも掘り下げて検討することにして、次に『愛国と信仰の構造』における島薗進の主張を見てみます。
 
七、島薗の視点、「明治維新から昭和期の全体主義までの連続性」の意味
 
 島薗は次のように言います。
 

「丸山眞男は、ある時期までの日本は立憲君主制で、昭和になってから天皇と国民が直接結びついて、全体主義的な運動になっていったという評価をするわけですが、私の見方は少し違います。/全体主義は昭和に突如として生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたものです。」(p.132)
「日本の全体主義は、戦争の直前に突然、湧き起こってきたものではない。だから、昭和のファシズム期からではなく、明治維新まで遡って日本の宗教と国家デザインの変遷を考えるべきなのです。」(p.23)
「国民の中に皇道や国体論の教えが刷り込まれていくのは、一八九〇年に教育勅語が発布された後のことです。それ以降、学校行事や教科内容、軍隊の訓練、戦勝記念行事や大正天皇の結婚式など、さまざまな機会を通じて、天皇や皇室の存在が、国民の脳裏に強く焼きつけられていくようになりました。/こうした形で、一八九〇年から一九一〇年あたりの二〇年間で、国家神道を普及させるさまざまな制度やシステムが確立していきます。そうなると、国家神道は国民自身が担い手となる「下からの」運動という性格を帯びていく。つまり、民衆が自ら自発的に国家神道の価値観を身につけ、その価値観をもとに行動していくのですね。」(p.124)

 
 私たちは、これまで<明治の国家主義と昭和の超国家主義との区別がどこにあるか>という視点で議論を進めてきましたが、島薗は、<明治期に立憲君主制が確立したが、昭和になってから全体主義になった>という評価を否定し、<明治期に設定された日本の宗教と国家のデザインと昭和の全体主義との連続性>を主張します。しかしそれでは島薗が<明治期に設定された日本の宗教と国家のデザインがそのまま昭和の全体主義となった>と主張しているのかといえば、必ずしもそうとは言えない。島薗は次のように言います。
 

「明治国家を作り上げた元勲たちは、国家神道がここまで[一九三〇年代の如くにーー引用者]国を覆い尽くすことは予想しなかったはずです。天皇崇敬をうまく利用することで安定した支配体制ができると考えていたわけですから。」(p.130)
「哲学者の久野(くの)収(おさむ)が大変興味深い指摘をしています。明治の国家体制は、民衆向けの「顕教」と、エリート向けの「密教」の組み合わせで成り立っていたと。/すなわち、国民全体に対しては、無限の権威を持つ天皇を神として信奉させる建前を教え込み、国民の紐帯と国家への忠誠心を確保する。これが「顕教」ですね。/他方、エリート向けには、国家と社会の運営にあたる際には、近代西洋の民主主義や自由主義の制度を導入して、政治や経済をまわしていく。明治憲法では、欧州並みの立憲君主制を規定し、対外的にも近代国家であることをアピールする。ただし、これはエリートのなかのだけの暗黙の了解です。つまり、「密教」ということになります。」(p.130-1)

「維新以降の国家デザインを組み立ていった伊藤博文ら明治の元勲たちは、この二重構造が存続し、「密教」の立場が政治システムを統御し続けることを意図していました。」(p.131)

「一九二〇年代あたりから、「顕教」すなわち国家神道を掲げる「下からのナショナリズム」や、その影響を受けた軍部や衆議院の発言力が強くなり、「密教」の作動を困難にしてしまった。言い換えれば、国家に向けられた民衆の宗教性が、明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かしてしまったということです。」(p.131-2)
 
 以上引用した島薗の認識については、細かく検討する必要があるでしょうが、島薗の「民衆の宗教性が、明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かしてしまった」という認識は正鵠を射ていると思われます。しかし事態がこのように把握されるのなら、明治の国家主義と昭和の超国家主義の間には、断絶の側面もあったというべきではないか。そして、ここで「民衆の宗教性」を『宗教性を持った民衆』と言いかえてよいのなら、「歴史を動かしてしまった」のは、つまり歴史の『主体』であるのは、民衆であるということにならないでしょうか。
 
 今回は、多くの論点について、ほとんど疑問を提出しただけになりましたが、次回以降、これらの疑問点について「回答のようなもの」を提示できれば、と思っています。(続く)
 

 
(1)丸山眞男『忠誠と反逆』(筑摩書房1992年p.32)の表現。丸山は次のようにも言う。

「もともと武士的結合の本質が、主人と従者との間の、どこまでも具体的=感覚的な人格関係にあり、忠誠も反逆も、そうした直接的な人格関係を離れて「抽象的」制度ないしは国家に対するものとしては考えられなかった」(同上、p.11)

 
(2)自由民権派が目指した政体について、松岡僖一は次のように言う。
「かれら[坂本直寛や植木枝盛]は、人民の政治的成熟度を中心に歴史の発展を見ていた。それによれば、歴史は、封建時代→君主専制→君民共治→共和制と発展する。いま人民の政治的成熟度は君民共治を望む段階であるにもかかわらず、現実の政治形態が君主専制であることが問題であった。勿論かれらは、もし政府が君民共治を拒否するなら、そのことが人民を一気に共和制に向かわせるかもしれないことを指摘するのを忘れなかった」(松岡僖一「士族民権家の自己変革」跡見学園女子大学紀要第二十六号(一九九三年三月十五日)、p.64)。

自由民権家の士族的メンタリティを示すものとしては、植木枝盛の次の言を掲げておく。

「夫レ士ハ実ニ封建時代ノ尤物ニシテ、……之ヲ要スルニ立派至極ナル道徳充然トシテ満チタル者ナリ。豈ニ珍シカラスヤ。ソノ珍且美ナリシコト試ミニ之ヲ世界ノ博覧会ニ出サバ(為スベキコトニハアラザレトモ)無比ノ上物ニシテ第一等ノ賞牌ヲ受クルヤ必セリト云フベシ」(「何ゾ封建世ノ精神ヲ愛セサル」 (『愛国新誌』第十四、十五号、明治十三年)。日本評論社『明治文化全集 第十四巻』 p.131。)

 
(3)米原謙「国体論はなぜ生まれたか」、ミネルヴァ書房、2015年 p.14。
 
(4)北原明文、「明治期地方名望家の教養と西洋思潮」、清泉女学院短期大学研究紀要(第18号)、p.40。
この論文では、三河士族民権家川澄徳次の『奇怪哉』から、彼が明治一六年四月、三州街道稲橋村(現在の豊田市北東部)で「勤王愛民ヲ以テ有名ナル」国学者古橋源六と会談した際の記録が紹介されている。以下に引用した古橋の発言は、この時期の国学派が政治に対してどのようなスタンスを取っていたかを示すものとして、興味深い。

「予ハ政党ノ事ニ付テハ末ダ熟思セシコトナシ然レトモ王家ノ為メニハ身命ヲ抛テ勤王スルハ素志ナリ今日ニ於テ政府ニ向テ別ニ非難スルコトナシ故ニ我ガ郡ニ於テハ殖産ヲ盛ニシテ以テ富国ノ基ヲ開クヲ急務トス云々日本ハ元君臣国ナリ故ニ君命ニ従フハ臣タル者ノ本分ナリ今ヤ自由党或ハ改進党ナル者アリテ国家ノ良民ヲ害ス実ニ悪ムベシ就中自由党ハ国家ヲ乱スノ賊ナリ改進党ハ現ニ国賊ノ集合体ナリ……然リト雖モ予ハ現時ノ役人ヲ以テ皆善ナリト云フニ非ズ或ハ参議ニシテ悪姦アリ或ハ地方官ニシテ不良ナルアリ然ニ自ラ自由党ヤ改進党ニ比スレバ遥ニ善良ナルヲ信ス予ハ現時ノ政党ニ入ルヲ欲セズ予ハ現時ノ官吏トナルヲ欲セズ唯タ退テ味噌ト酒ヲ造ルヲ以テ足レリトス云々」(同上、p.42)

 
(5)丸山眞男は次のように言う。

「明治二十年までの一般的な精神的気候は、二十年代以降とあらゆる面でちがっていた。宮崎滔天はその少年時代を回顧して、「余が親類縁者や村中の老爺、老婆等は、皆、言を極めて兄様のやうになりなさいと煽りたり。兄様とは、明治初年に自由民権論を主張して四方に漂浪し、十年、西郷の乱に与して戦死したる長兄八郎の事なり。されば余は、大将豪傑の何者なるやを知らずして、大将豪傑たらんことを望み、自由民権の何物なるやを知らずして、自由民権を善き事と思ひ、また官軍や官員や、総て官のつく人間は泥棒悪人の類にして、賊軍とか謀叛とか云ふことは、大将豪傑の為すべき事と心得たり」(『三十三年之夢』大正十五年)といっているが、熊本という土地の条件や宮崎の性格を顧慮しなければならないとしても、ともかく西南戦争から自由民権時代にかけて流れていたこうした雰囲気は、明治二十年代以降には急速に影をうすくして行ったことは間違いない。」(『忠誠と反逆』p.60-1)

 
(6)ここでは四つの要因を挙げたが、このうち①と②については説明を省く。
③の点について、丸山真男は次のように指摘している。

「自由民権運動の思想的な基礎の脆弱性ということを考えてみなければいけない。……個人の自由という場合、その自由は、多分に快楽主義的な意味での自由として捉えられている。そこには良心の自由というよりも、むしろ、自然のままの人間の本性を、できるだけ拡充するという感性的な自由、感覚的な自由が考えられている。」(丸山真男「自由民権運動史」1948、みすず書房『戦中と戦後の間』所収、p.327-8)

④の点については、松岡僖一は次のように指摘する。

「かれら[若手民権家]は、大衆の啓蒙と組織化がもはやほとんど不可能であると認識したとき、”前衛”分子による蜂起を夢見る。……それゆえにこそ板垣を中心とした長老たちは、官民調和論・国権拡張論を提起し、若手民権家の眼を海外に転じることに全力を尽くした。そして若手民権家は、国権拡張の第一着手としての”朝鮮改革運動”と称した軍事教練を熱狂的に支持したのである。共同体の全体利益への責務の自覚として志士意識を純化したかれらも、自らの視点を社会経済状況に刻印される大衆の日常性に定位することがなかったがゆえに、共同体なるものは抽象的であり、それは容易に国家権力と一体化し、かれらをして帝国主義的政策の尖兵であることさえ肯じせしめたのである。」(松岡、前掲論文、p.70)

 
(7)明治憲法体制の成立によって天皇に関して『タブー』が成立したといっても、それはいわゆる「一般臣民」についてのことであって、天皇を補弼する人々についてのことではない。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x4805,2018.01.12)