「戦前回帰」を考える(三)――昭和の「超国家主義」とは何だったのか?

――丸山眞男、橋川文三、久野収と鶴見俊輔の「超国家主義」論を踏まえて――

相馬千春

 
(二)より続く。
 
五、「超国家主義」をどう理解するか?
 
 本稿は<「戦前回帰」を考える>という題を付けたのに、ここまで論じてきたことは「戦前」のことばかりです。<標題に偽りあり>と言われそうですが、「戦前」のことを論じておかないと、「戦前回帰」のことはよく判らない。それで今回も「戦前」の話です。
 
 前回は、「国体」論の変容の話でしたが、今回は「超国家主義」――それの登場によって「国体」論も変容したとおもわれますが――について考えてみたいと思います。
 「超国家主義」といっても、そこには多様な人物・思想が含まれています。或る者は日蓮主義者であり、或る者は親鸞主義者である。或る者は漢学派であり……という具合で、「超国家主義」者たちをある思想上の共通項で括ることは難しい。さらに「超国家主義」に共感した一般民衆の思考・感情といったものは、広い裾野をなしている。
 それならば、「超国家主義」ということをもって我々は何を理解すべきでしょうか。
 
1. 久野収と鶴見俊輔の「日本の超国家主義」論
 
 まずは、久野収と鶴見俊輔の言うところを引用してみましょう。
 

「昭和の超国家主義は、既存の国家機構や伝統的制度にたいし、その代表的人物を次々と殺害するという手段によって、はげしい打撃をくわえた。しかし……旧来の制度や機構を一新して、自己流のスタートラインを新しく引き直す仕事には、ついに成功することができなかった。それは、旧制度の鬼子であっても、新制度の主人にはなれなかった。新しいスタートラインを全面的に引き直した独伊のファシズムとは、この点で大きくちがっている。
この根本的特色から、次のような思想的特色が流れでてくる。
(1)伝統的国家主義との思想的切れめがはっきりしていない
(2)近代思想や革命思想が挫折したあとの空所をうずめる土着的シンボルの回復であったため、この両思想と正面から思想的に対決していない
(3)思想の自由競争の中で大衆の魂をとらえる方向ではなく、国家機構内部の既成勢力、たとえば、軍部や新官僚と結託する方向に進んでいる
(4)従って、結託の相手如何によって力点を異にする結果、全体としての思想的統一に不足し
(5)最後には伝統的国家主義の圧力に屈し、それに併合され、その別働隊の役割を演じることにおわった。」( 『現代日本の思想』「IV 日本の超国家主義」p.119-120)

 
 久野と鶴見は、さすがに日本の「超国家主義」の特徴をコンパクトに要約していますが、ここでは「伝統的国家主義との思想的切れめがはっきりしていない」という点を考えてみます。
 
 さて「超国家主義」というタームは丸山眞男がその論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)で使ってから一般的に使われるようになったと思うのですが、その丸山の「超国家主義」の理解を橋川文三は次のように批判しています。
 

「この論文[丸山 眞男「超国家主義の論理と心理」]においては、日本の超国家主義=ファシズムの根本的特質は、天皇制国家原理そのものの特質としてとらえられている。天皇制原理というのは、……「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負」うことによって、はじめて究極的価値の絶対的体現者とみなされる天皇の支配ということであった。天皇はたしかに神的存在とみなされた。しかしその神性を保証したものは、「これを垂直に貫く一つの縦軸」としての国体という伝統的価値にほかならなかった。こうして「中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されている」という有名なテーゼが生れてくる。そして、これがまさに日本超国家主義の全貌を包括しうる基礎的な視角とみなされたのである。」(『橋川文三著作集5』「昭和超国家主義の諸相」p.4)

 
 丸山の理解では、明治期に構築された「天皇制国家原理」と昭和期の「超国家主義」とは連続していることになる。しかし橋川は「あの太平洋戦争期に実在したものは、明治国家以降の支配原理としての「縦軸の無限性、云々」ではなく、まさに超国家主義そのものであったのではないか」(同上 p.7)と言います。つまり橋川の理解では明治の「国家主義」と昭和の「超国家主義」とは断絶している。
 それでは、明治の「国家主義」と昭和の「超国家主義」との間に何らかの断絶があるとして、その断絶は何処に見出されるのでしょうか。
 
2. 昭和的テロリストのプロトタイプ――朝日平吾
 
 この断絶を象徴する人物として、久野と鶴見そして橋川が注目するのが、朝日平吾です。まず橋川を引用しましょう。
 

「日本における「超国家主義」……のスタートを暗示するものとされた朝日平吾の安田善次郎暗殺は大正十年(一九二一)のことである……。……私は今でもこの事件に関する次のような新聞解説の奇妙な感じに関心をいだかざるをえない。/「大久保利通の死、森有礼の死、星亨の死、それぞれの時代色を帯びた死であるが、安田翁の死のごとく思想的の深みは無い。……それから思えば、安田翁の死は、明治大正にわたっての深刻な意義ある死である。」[「読売新聞」からの引用]/……明治期の代表的な暗殺事件が実はそれほど論者の関心をひかないのに対し、たんなる「市井の無頼漢」(「時事新報」)の敢行したこの暗殺の方が、重大な思想的興味をいだかせるということを暗示していることは確かである。」(橋川文三『昭和維新試論』(以下『試論』)p.9-10)

 
 朝日平吾(31歳)は、大正10年9月28日、安田財閥創始者の安田善次郎に面会、これを刺殺したうえ、その場で自殺します。引用文中にもある通り、それまでにも要人暗殺はあったわけですが、それは、「主として政治権力のろう断に対する士族反対派の行動という意味」(『試論』p.14)を持っていた。
 ところが朝日平吾の場合は違う。「けだし平素の素行修らず、自暴自棄の極、あたかも市井の無頼漢が、首も廻らぬ借金に焼けをおこし、青楼に上りて娼女と無理心中したると同様の感なきにあらず」(「時事新聞」、橋川文三著作集〈5〉p.11よりの重引)と評されるように、彼のテロの根柢には、彼自身の人生から生じた鬱屈・不幸がある。そしてその不幸の由来とは次のようなものです。
 

「こうした不幸感の由来は朝日個人の経歴について見ればかなり明確である。……要するに継母故の家庭からの疎外、貧困と気質にもとづく学生生活からの疎外、馬賊隊参加と大陸放浪による日常的感受性の荒廃、その結果としてのあらゆる現実的企画の挫折といった諸要因によって醸成されたものであった。」(『試論』p.17)

 
 これを読むだけですと、朝日の不幸・鬱屈は、もっぱら個人的な事情に由るようにも思えますが、朝日のテロが大きな共感を呼び起こした――37日後には朝日のテロに触発された中岡艮一(19歳)が原敬を暗殺した――ことからも明らかなように、朝日の「不幸・鬱屈」は多くの青年たちの「不幸・鬱屈」でもあった。資本主義の発展につれて、多くの若者が故郷を後に都会へと出てくるが、夢に破れて故郷に帰ってみても、そこにはもう自分の居場所はない。大正という時代は、貧しいだけではなく、何処にも居場所がなく、家族も友もいないものたちを大量に生み出していった。
 こうした「不幸・鬱屈」の果てに決行されたテロは、単なる社会的な『無理心中』であるようにも見える。しかし朝日の遺書は、明治的テロリストたちのそれとは異なる『思想性』の成立を告知しています。
 
3. 「臣民」(主体β)から〈赤子〉へ(1)
 

「吾人ハ人間デアルト共ニ真正ノ日本人タルヲ望ム、真正ノ日本人ハ陛下ノ赤子タリ、分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ、併モ之ナクシテ名ノミ赤子ナリト煽テラレ干城ナリト欺カル」(「死の叫声」、『現代史資料』4 p.480)

 
 朝日は自分たちが社会的に「承認」されるべきことの根拠を「陛下ノ赤子」であることに求めている。<われわれ「真正ノ日本人」は「陛下ノ赤子」であり、(天皇の)「分身」である。したがってその栄誉と幸福とを保有し得る権利があるはずだ>と。ここで「赤子」は、この語の儒教的文脈での本来的用法、つまり比喩的な意味で使われてはいない。そうではなく、「赤子」は、天皇の「分身」を意味するものとして使われているのですが、このことから朝日はさらにつぎのような『権利』をも主張します。
 

「然ルニ前述ノ如キ現下ノ社会組織ハ国家生活ノ根元タル陛下ト臣民トヲ隔離スルノ甚ダシキモノニシテ、君民一体ノ聖慮ヲ冒瀆シ奉ルモノナリ、而シテ之ガ下手人ハ現在ノ元老ナリ政治家ナリ華族ナリ顕官ナリ、更ニ斯如キ下手人ニ油ヲ注ギ糧ヲ給スル者ハ実ニ現在ノ大富豪ナリ、従テ君側ノ奸ヲ浄メ奸富ヲ誅スルハ日本国隆昌ノタメノ手段ニシテ国民大多数ノ幸福ナルト共ニ真正ノ日本人タル吾等当然ノ要求ナリ権利ナリ。」(同上)

 
<「赤子」は天皇の「分身」である>ということから、<天皇と「赤子」とを隔離している「臣」は、誅されるべき「君側ノ奸」でしかない>ということが引き出され、「君側ノ奸」や「大富豪」へのテロの正当性が引き出される。そして「只ダ刺セ、只ダ衝ケ、只ダ切レ」(同上 p.482)という「死の叫声」はいつまでも消え入ることのない「こだま」となって、血盟団や五・一五事件の青年将校たちにまで届いていったかのようである。 
久野と鶴見は次のように言います。
 

「朝日の遺書は、明治以来の伝統的国家主義の主柱であった元老、重臣、新旧の華族、軍閥、財閥、政党の首脳を、だれかれの別なく、悪の元兇と断じ、かたっぱしから殺してしまえと主張することによって、明治以来の伝統的国家主義からの切れめを明らかにしている。……
第二に、ここには外来思想の排撃や直接的テロ行動や志士意識や天皇の赤子観といった昭和の超国家主義の特色が、すべて出そろっており……」( 『現代日本の思想』「IV 日本の超国家主義」p.123)。

 
4. 久野・鶴見「超国家主義」把握の問題点
 
 久野と鶴見のこの認識は正しいと思うのですが、ここで疑問も生じます。
 たしかに「朝日の遺書は……明治以来の伝統的国家主義からの切れめを明らかにしている」し、そこには「昭和の超国家主義の特色が、すべて出そろって」いる。しかしそれらは言わば現象としての「超国家主義」についての話であって、<超国家主義の本質は何であるか>は、必ずしも明らかになっていないのではないか? と。
 久野と鶴見のいうところをさらに引用してみましょう。
 

「注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。」(同上 p.132)
「昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリくささに反撥し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった。
この連合勢力の攻撃に直面したとき、明治の末年以来、国家公認の申しあわせ事項であった天皇機関説、明治国家の立憲君主的解釈は、天皇自身の意志に反してさえ、一たまりもなく敗北させられたのである。国民大衆から全く切りはなされた密教であるかぎり、この運命はまことにやむをえなかった。」(同上 p.133)

 
 仮に事実関係がこの通りであるとしても、「超国家主義」と(伝統的国家主義の)「顕教」との関係はどうなっているのか、曖昧ではないでしょうか?(伝統的国家主義の)「顕教」そのものが、すでに「超国家主義」だったのか?と言えば、彼らはそうは言っていない。しかし顕教と区別された「超国家主義」そのものが概念把握されているかと言えば、そうとも思えない。
 彼らの論文が、この後で問題にしているのは、北一輝の思想です。しかしそうした考察によっては、社会的・『集団』的レベルでの「超国家主義」の本質は必ずしも明らかにされないのではないか。というのは、例えば北一輝という『思想家』と青年将校たちという『大衆』の間には、越えがたい懸隔がある。この点について古賀暹は次のように言っています。
 

「大岸頼好という大尉がいた。彼は「国家改造運動」の中心人物の一人であり、北-西田とは距離をおいていたが、このグループの兄貴分的な存在だった。/大岸は「皇政維新法案大綱」というものを執筆しているが、これは、おそらく、北の「天皇機関説」に基づく『法案』を読んで、天皇の扱いに関して違和感を抱いたために執筆したものであったと思われる。/つまり、大岸の「維新論」は、一言で言えば、「覇道的制度機構」の下に発生した奸臣を排除し、文武の大権を「現人神」である天皇の下に帰属させることを明確にし、天皇親政を実現することにあった。言うまでもなく、こうした天皇神格化主義は、「右翼運動」総体を覆うイデオロギーであり北グループの青年将校たちの全部がそうした思想の影響圏内で育ってきた。だから大岸的な主張は彼らにも受け入れられやすかったと言える。/それに対して、北の天皇機関説から生み出された天皇論は異質のものであった。」(『北一輝 革命思想として読む』p.385――アンダーラインは引用者による)

 
 私たちが近代日本の「超国家主義」を理解するためには、何より「大衆の思想」を把握する必要があります。しかし大衆の声は普通は「声なき声」であり、一瞬社会の表に現れても、すぐに歴史の深淵に埋もれてしまう。ですから「大衆の思想」を把握することは難しいし、まして私のような素人が、そうした「大衆の思想」を歴史の深淵から掬い上げようとすることなど、困難なことです。
 それでも「大衆の思想」としての「超国家主義」に接近するために、ここで大岸頼好の言説を取り上げておくことも無駄ではないでしょう。なぜなら、それは天才・北一輝の思想とは異なる<「右翼運動」総体を覆うイデオロギー>を、或いは少なくとも<青年将校たちの全部がそうした思想の影響圏内で育ってきた>イデオロギーを表しているのだから。
 
5. 「国家主義」から「超国家主義」への転換点としての〈赤子〉
 
 大岸頼好は一九三五年九月、「相沢事件」(2)の証人尋問に対して次のように答えています。
 

「……古事記ノ修理固成ヲ深ク考ヘ初メマシタ処、……遂ニ現人神陛下ガマシマスト云フ信仰ニ到達致シマシタ。之ガ在来ノ単ナル所謂政治、社会、経済機構第一主義ノ考へ方ニ決定的ナ判決ヲ与へマシタ。此ノ判決ト申シマスノハ、所謂改造或ハ所謂維新ナルモノノ真髄ハ先ヅ第一ニ我々ガ現人神陛下ノ子デアリ赤子デアルト云フ自覚、信仰デアルト云フ結論デアリマス」(『検察秘録二・二六事件IV』p.446。アンダーラインは引用者による。)
「国家改造ト云フ事ハ臣下トシテ申上グベキ事デハナク、一ニ上御一人ノ御事ニ掛ツテ居ルト考へマシテ、我々赤子ガ真ノ赤子トシテノ充実発展、換言シマスト天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スル事ニ邁進致シマスナラバ必ズ御稜威ガ御盛ンニナリマシテ、天下皆一人モ其ノ処ヲ得ザル者ナキ結果ニ到達スルト信ジマス。従テ一般ニ云フ改造トカ維新トカ云フ辞ヲ以テシテハ、此ノ信念ハ十分表ハス事ハ出来マセヌ/叙上ノ見地カラ真ノ改造ハ真ノ維新ト云フ字句ヲ強イテ使ヒマスナラバ、天皇陛下、即チ日本国デ赤子ハ陛下ノ分身分霊デアリマシテ、此ノ信仰ノ上ニ立ツテ其ノ日〱[其ノ日]ノ生活ヲ充実発展シテ行ク事ガ即チ維新デアリ、改造デアルト信ジマス」(同上p.447。アンダーラインは引用者による。)

 
 この大岸の言葉、そして(先に引用した)朝日の言葉のなかで、私の眼を引くのは、「赤子」という言葉であり、その語の本来の用法からの逸脱です。つまり大岸の「赤子ハ陛下ノ分身分霊デアリマ[ス]」という言説、あるいは先に引用した朝日の「真正ノ日本人ハ、陛下ノ赤子タリ。分身タルノ栄誉ト幸福トヲ保有シ得ル権利アリ」という言説は、「赤子」に関して、その語の儒教的文脈での本来的用法から、あるいは明治的な用法から逸脱している。
 この連載の(二)で『大学』の一説を引用した通り、教養のベースが儒教であった時代には、「赤子」という言葉が譬喩であって、実質的な家族関係を意味してはいないことは、一定の教養があるものなら誰もが弁えていたはずです。明治国家の場合も――例えば明治四十三年の「朝鮮ニ下シ給ヘル大赦及租税減免ノ詔書」の用例でも――「赤子」はこの本来的(比喩的)な意味で使われています。このことは、この詔書で「赤子」と呼ばれているものが、天皇とは何の血縁関係もないと思念される「朝鮮人民」であることからも明らかで、昭和9年刊行の註釈書でも<「赤子」は「譬喩」である>と註釈されています(3)。
 ところが朝日や大岸の「赤子」――以下では〈赤子〉と表記します――は、天皇の「分身」あるいは「分霊」であって、もはや比喩としての「赤子」ではありません。ここには伝統的な「赤子」からの「逸脱」――譬喩であることを意識的あるいは無意識的に『読み落とす』という簡単な、しかし決定的な『読み替え』――がある。
 明治国家体制下では、「臣」たちが「君―臣」関係に精神的な充足感を得ることのできたのとは違い、民衆は――「臣民」とせられたものの――「臣」であるという実感を持つことができませんでした(4)。それも道理で、明治体制では、天皇を補弼する「臣」=〈主体α〉と、天皇と「臣」たちが定めた国家目的を追求する限りでの主体(『臣民』=〈主体β〉)とは、「主体のグラデーション」(5)をなしていたのですから。
 この「主体のグラデーション」の揚棄、〈主体β〉でしかない自己の揚棄を端的に宣言しているのが、朝日や大岸の〈赤子〉という自己規定ではないでしょうか。〈赤子〉が「分身」・「分霊」であればこそ、〈赤子〉は天皇とともに「一大家族体国家」(大岸頼好『極秘皇国維新法案前編』(6))を形成し得ることになるが、このような幻想的「一大家族体国家」形成の運動こそが「超国家主義」の核心ではなかったか?そしてこの「一大家族体国家」という思想が体制の側にも影響を与えていることは、「国体の本義」が「我が国は皇室を宗家とし奉り、天皇を古今に亙る中心と仰ぐ君民一体の一大家族国家である」と言っていることからも、明らかでしょう(7)。
 同時に、<「超国家主義」は「帝国憲法」と「教育勅語」で始まった体制のひとつの帰結であった>ということも言えるのではないか。但しそう言うのは、<明治体制の『顕教』はすでに「超国家主義」と近いものだった>からではなく、<明治国家体制が「主体のグラデーション」である限り、その内部からこの「グラデーション」を解体する運動が生成していくこともまた必然的であった>と思うからです。
(四)に続く 
 

1 〈主体β〉などの用語については、(一)の「二、「教育勅語」を元田永孚の側から見る」の「4.「教育勅語」には、〈理β〉はあるが、〈理α〉がない」を参照していただきたい。
なお<「臣民」(主体β)から〈赤子〉へ>という表現は、朝日や大岸たちの用語法からすれば、ほんらい不適切ではある。しかし朝日や大岸の〈赤子〉という「規定」は、明治国家的な意味での〈臣民〉という「規定態」とは本質的には対立するものであると思われることから、ここではこの表現を用いた。
2 1935年(昭和10年)8月12日に、相沢三郎陸軍中佐が、永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件。
3 「朝鮮ニ下シ給ヘル大赦及租税減免ノ詔書」(明治四十三年八月二十九日官報)では次のように言われている。
「朕惟フニ、統治ノ大権ニ由リ、始テ治化ヲ朝鮮ニ施クハ、朕ガ蒼黎ヲ綏撫シ、赤子ヲ體䘏スルノ意ヲ昭示スルヨリ先ナルハナシ。……」
また「大日本詔勅謹解 第5」(日本精神協会 昭和9年)は、この詔書の「赤子(せきし)」と「體䘏(たいじゅつ)」について、それぞれ次のように註解を付けている。
「〇赤子 国民についての譬喩、聖上におかせられて国民を赤子(あかご)の如く撫愛せらるゝにより、かく云ふ
〇體䘏 自己の身を仮に相手の境遇に置いて察しあはれむ事。すなわち聖上におかせられて、朝鮮臣民を赤子の如く憐み、十分、同情せらるゝ意」(三二四-五頁)
なお「大日本詔勅謹解 第5」は、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1243180 で見ることができる。
4 石田雄『明治政治思想史研究』は、明治一七年山梨、長野、岐阜諸県の学事を視察した江木千之の談話として次の言を引用している。
「私が或る學校で、生徒に君臣とは誰のことをいふかと質問すると、生徒は君とは天皇陛下であります。臣とは太政大臣首め政府の役人であります、といふだけである。小學に六七年學んでも、生徒は君臣のことを、これ以上知らない、生徒自らも臣であるといふことを知らないのである」(同書p.32)
5 「主体のグラデーション」は小倉紀蔵の用語であるが、これについてはこの連載の(二)の注2を参照していただきたい。
6 大岸頼好『極秘皇国維新法案前編』は、福家崇洋「二・二六前夜における国家改造案 : 大岸頼好『極秘皇国維新法案前編』を中心に」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/160413/1/bkr00008_001b.pdfに掲載されている。なお、拙文における大岸の思想の理解は、ほとんどこの論文に依っている。
7 「国体の本義」では、「一大家族国家」が主張されながら、「分身」・「分霊」という語は使われておらず、また「赤子」の用法も「比喩的」なもの――「天皇は、臣民を……赤子と思召されて」とか、「天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふ」という――に留まる。この結果「国体の本義」の「一大家族国家」論は、『折衷』的印象を免れない。
 
(四)に続く。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-x4345,2017.09.05)