「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの

相馬千春

 
一、 「日本的に考えたり感じたりする」〈私〉とは?
 
 昨年、浦上玉堂の山水画を前にして、<「私」というものが画の中に溶け込んでしまう>経験をした(1)とき、<私はやはり東洋あるいは日本という文化圏に属しているのだ>という思いに捉われました。
 安易にそんなことを言うと、叱られるかもしれません。「西洋哲学では天人分離であり、東洋哲学では天人一体であるという観念が示しているのは、東洋思想の優越性ではなくて、是が非でも西洋思想を二元論的な対立構造にはめ込んでしまうとする意思(2)」である、と。
 
 たしかに、玉堂に天才を見出したブルーノ・タウト(3)のように、西洋人にだって日本の文化を愛好する人はいるし、多くの日本人が西欧の文物を愛好してもいます。しかしそれでも彼我の感性・思考様式の間には「隔たり」があることは否定できないでしょう。かつてカール・レーヴィットは、次のように言っています。
 

「[日本人は]二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、[レーヴィットのような]ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、疑問に思う(4)。」

 
 西欧思想にどっぷり浸かっている日本人でさえ、「階下では日本的に考えたり感じたする」。しかしそういう「日本的な考え方、感じ方」とは何なのか?西洋の標語には「汝自身を知れ」というのがあるけれど、『日本人』(5)の「私」とは何なのか、必ずしも明らかではない……。
 
 そんなことを考えていて、新形信和のことを思い出しました。レーヴィットの言葉を知ったのは彼の本(6)によってだったからです。その新形は、西洋的な自我を「神に支えられた〈わたし〉」と捉え、それとの対比で「日本人の〈わたし〉」を「自然のなかに溶けこんでいる〈わたし〉」と捉えています。後者はまさに<山水に溶け込んでいく「私」>です。
 それで、新形の説を検討してみたいのですが、それは次の機会にして、まずは新形が踏まえている金谷武洋の所説を取り上げることにします。
 
 金谷は、三上章の学説――主語・主述関係廃止論――を受け継いでいますが、この点は後回しにして、金谷が問題にしている<日本語と英語の認知の視点の違い>をまず取り上げます。
 
二、 英文と日本文では認知の視点が違う
 
 金谷は川端康成『雪国』の冒頭を例にとっています(7)
 原文の冒頭は、有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
 他方、E.サイデンステッカーによる英訳文は“The train came out of the long tunnel into the snow country.”
 金谷は、両者の認知の視点を比較して、日本語原文では、作者・読者の視点は地上を走る汽車のなかにあるけれど、英訳文では作者・読者の視点は「汽車の外の上方」となっている、と言います。
 

「原文と訳文の認知的イメージが著しく違う……。……何よりも変えられたのは視点である。原作では汽車の中にあった視点が,英訳では汽車の外,それも上方へと移動している。本書で「神の視点」と呼ぶのは,この視点のことである。視点はここで「地上から上空へと」移動した(8)。」

 
 じっさい池上嘉彦(言語学者)が講師を務めたテレビ番組で、数人の英語話者にこの英訳文の情景を絵に描いてもらうと「汽車の中からの情景を描いたものは皆無で,全員が上方から見下ろしたアングルでトンネルを描いている(9)」のだそうです。どうして、こういうことが起こるのか。
 

「よく見ると,川端の原文には「主語」がないのである。主語がないと,英語では文が作れない。日本語はちっとも困らないが,英語では大問題だ。このままでは英訳できないので,英訳に原文にはなかった単語が主語となって出現している。それが「汽車(The train)」だ(10)。」

 
 蛇足になりますが、この事態を私なりにまとめてみましょう。
 日本語話者の視点は、地上を走る汽車のなかにあります。この場合、語り手の視野にあるのはほとんど窓の外の風景だけですから、窓の外の変化だけが叙述されている。ところが変化する「窓の外」は、ほとんどフェノメナル(現相的)な世界で、原文にある「長いトンネル」も「雪国」もこのフェノメノン(現相)のなかでは『主語』(主格)となるような客体性を持ってはいません。「長いトンネル」は、暗黒の連続と騒音の違いがそう解釈されているに過ぎず、「雪国」というのも、窓からの光が届く狭い領野が白くなっていることで、そう解釈されているに過ぎないのですから。その他のものは、「列車」も、この光景を見ている「私」もフェノメノン(現相)のなかには存在していない。
 ところが、このようなフェノメノン(現相)に即した・主語を欠いている日本文はそのままでは英文にはならない。それで訳者は「汽車」という語を選択して、英文の主語とした。ところが「汽車」を含む一つの視覚像(一つのセンテンス)を作ろうとすると、作者・読者の認知の視点は「汽車」の外部に移動するしかない。
 この場合、認知の視点が上空にあるのは、――(地上の)諸事物をクリアにイメージする(見る)ためには、軍隊の観測員のように、認知の視点を高いところに置く必要があるからである、とも思われますが――ここでは、経験上明らかになっている英語話者の認知の特徴と理解しておきます。
 
 このように、英語と日本語の表現の差を認知の視点の差として考えると、次のような考察も生まれます。
 

「「富士山が見える」と英語の「I see Mt. Fuji.」を取り出して比較してみよう。なぜ,日本語では「私は」を言わなくてもいいのだろうか。その答えは,やはり「視点」にあるのだ。「I see Mt. Fuji !」においては,行為者としての「私(I)」を,「神の視点」から,まるで第三者のように見下ろしているもう一人の話者がいるのである。……一方,日本文の方には「外部から私を見ているもう一人の私」などはいない(11)。」

 
 「「私(I)」を,「神の視点」から,まるで第三者のように見下ろしているもう一人の話者がいる」と言われると、疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。でも次のような場合はどうでしょうか?
 

「[日本語では―引用者]「私」が消える別の端的な例が「ここは,どこですか?」であろう。英語ではこれを……「Where am I ?」と言う……。……英語のような「神の視点」からは,「I」を含めてすべての人称が横並びするから,「Where am I?」「Where are you?」「Where are they?」などと一括扱いでいいわけである,「I」を特別に扱う必要がないのだ(12)。」

 
 日本語で「私はどこにいる?」と言うと、普通はヘンに思われる。英語でそれがおかしくないのは、日本語とは認知の視点が違うからだ。
 だから日本語でも、写真の中の自分を探す場合は 「私はどこにいる?」と言える(13)。この場合には、文中の「私」は写真の内部にいる「私」で、その「私」を探しているもう一人の「私」は写真の外部にいる。
 すると英語で「Where am I?」と言えるのは、探されているほうの「私」は地上の世界の内部にいるが、探している方の「私」は地上の世界の外部にいる、と思念されているからでしょう。
 そう考えると、金谷が、英語で「私」(I, my, me) という語が使われる場合に、認知する「私」の視点は、認知される「私」の外部に設定されている、と言うのは肯ける。
 
 ということは英語では、認知の視点(認知する「私」の視点)は、世界(諸事物・諸人物・「私」)の外部に設定されているということになり、金谷がこの「認知の視点」を「神の視点」と呼ぶわけも了解されます。すべての被造物=世界の外部にあるのは、「神」のみなのですから。
 これに対して日本語では、認知の視点は地上の「私」にあるので、「私」は外部から見られたイメージとしては存在せず、その分、「私」という語の使用頻度が――英語と較べると――極めて少なくなるのも道理でしょう。
 
 ここまでの金谷の紹介では日本語と比較されていたのは英語でしたが、金谷は、やはり主語を必要とするフランス語についても同様のことを論じています。金谷はカナダで日本語教育に携わっているので、日常的に英語・仏語と日本語の比較を行う立場にある。彼の比較言語論に説得力があるのは、その経験にもよるのでしょう。
 
 なお<日本語には主語がない>と言うと、日本語が特殊な言語であるように思われるかもしれません。しかし金谷によれば、全ての文に主語が必須な言語は、英語、ドイツ語などゲルマン系の6つ、ラテン語から派生したロマンス諸語の中ではフランス語とスイスで話されているロマンシュ語である。地球上に主語が不可欠の言語はこれら8つ以外にはない(David Permutterの研究による)(14)のだそうです。
 
三、日本語に主語はあるのか?
 
 <日本語に主語はない>という点については、もう少し補足しておいた方がよいでしょう。この論点については、まず岡智之(15)に依ることにします。
 岡は「「すべての文に主語がある」というのは、事実と反する」と言い、「「寒い」はそれ自体で文であり、主語はない。状況全体を体感してそれを表出する文であり、認知主体は状況(場)の中にあり、しかも言語化されない(16)。」と言います。
 じっさい主語がない文は「しずかですね。」「やっと春になりましたね。」「警察では犯人を捜している。」「私からやります。」などいくらでもある。引用した文の場合は現に主語がないだけでなく、主語が省略されていると考えることも困難でしょう。
 
 それでは、「何々は」とか「何々が」は主語ではないのか?
 まず「は」について。岡は池上嘉彦の所説を引用していますが、池上は、「この「は」は「概念的な場所」であることを指摘している。たとえば、「東京は人が多い」という文では、「東京」という場所において、「人が多い」ということが成立するということを表しているのであり、ここに「場所においてコトがなる」という日本語特有の認識が成立する(17)」。
 
 「が」はどうか。「富士山が見える」や「犬がこわい」の場合「が」は知覚や情意の対象であることを表す「対象格」であり、主格ではない。主格であるのは「鳥が飛んでいる」というような場合の「が」である(18)
 
 それでは、主格の「が」は「主語」を表すのか。これについては三上章が次のように述べています。
 

「甲型[鳥ガ飛ンデイル―引用者]の方は、なるほど「主語-述語」型に似ているが、これは補足語が「鳥ガ」の一個しかないためにこのような結果になったまでであって、西洋人のように毎々主格だけを引立てるというのとは、たてまえが違う(19)。」
「英文法の主語は、述語の形を決め、また語順を述語と交換して疑問文を作る。日本語の主格にはそのような構文的器量はない。つまり、日本文にはbipartiteな「主語-述語」型なんか存在しないのである(20)。」
「日本文法界という所は、「ハ」を係助詞、「ガ」を格助詞と、せっかくちゃんと分類しながら、強力な「ハ」と微力な「ガ」との雲泥をいきなりいっしょくたにし、同じ構文論的役割「主語」を振り当てている。そんなことでは、構文論のできっこないこと太鼓判である(21)。」

 
 引用が長くなりましたが、要約すると、①日本語には明らかに主語のない文が多数ある、②「ナニナニハ」は「概念的な場所」を示すものである、③動作主を表す「ナニナニガ」(主格)も他の補足語と並ぶ補足語であり、述語の形を決めたり、語順の交換で疑問文を作ったりする「主語」とは異なる。⑤係助詞に分類される「ハ」と格助詞に分類される「ガ」をいっしょくたにして西欧文法的観念である「主語」の役割を振り当てるのは無理がある、というところでしょう。
 以上の点を考えると、「日本語に主語はいらない」、さらには「日本語に主語はない」という見解には説得力がある、と私には思われます。
 (この論点に関しては、月本洋の所説(22)も大変興味深いのですが、それは別の機会に検討することにします。)
 
四、金谷「日本語論」から導かれるもの
 
 さて、以上でみた範囲での金谷「日本語論」からどのような問題群が導き出されるかを考えてみます。
 第一に「日本語に主語はない」ということから、西洋文法を模倣して、日本語を無理やり「主語―述語型」に押し込めている「国語・国文法」の無効性が明らかになります。
 こうした「国語・国文法」の無力さは、近代日本の『知』の一側面を象徴しているのではないでしょうか。西欧的な学問・方法が『日本人』の自己認識――「国語・国文法」とはまさに自己認識であるはずです――にも適用されるが、それでは腑に落ちない。しかし権威はもっぱら西欧的な学問・方法の側にあるので、『日本人』の自己認識は未了のままに放置されている。こういう状況が「二階と階下を往き来する梯子」(レーヴィット)が存在しないと言われるのでしょう。 
『日本人』の自己認識には「日本語に主語はない」ことを踏まえた日本語論が不可欠でしょうし、借りものでない日本語文法を通してこそ「汝自身を知れ」という標語に応えることもできるでしょう。
 
 第二に――これは第一の問題と密接に連関していますが――英・仏語など主語を必須とする言語の話者と日本語話者では認知の視点が違っている。繰り返しになりますが、英・仏語などでは「上空からの認知の視点」があり、諸事物だけでなく「私」のイメージ(視覚像)が成立していると言われるが、日本語では認知の視点は状況(場)の中にあるので、「私」は視覚像とはなり難い。
 そうすると西欧近代の「自我」(視覚像として把握される「自我」とそれを把握する「自我」に『分裂』した「自我」)と日本的「私」(視覚像とはなり難い「私」)とは、本質的に違うのではないか。そうであればまた、西欧的「自我」の把握は、日本的「私」の把握と相即的にのみ可能なのではないか?
 
 第三に、英・仏語などと日本語の認知の視点の違いは、「私」(西欧近代的「自我」あるいは日本的「私」)と「自然」との関係にも関わってきます。
 冒頭で浦上玉堂の山水画に相対して<「私」というものが画の中に溶け込んでしまう>経験をしたことに触れましたが、このような「私」と「山水」(自然)との一体感は、認知する視点にも依存していると思われるのです。
 「私」が「自然」とどう関わるかは、思想上の大問題だと思いますが、認知の視点の問題は、この問題にも手掛かりを与えるものだと思うのです。
 
 さて、若干ながら問題意識を述べたところで本稿は終了とし、次回は新形信和の所説を手掛かりにして、いま述べた問題群について考えていきたいと思っています。
 

(1) 相馬千春「浦上玉堂――「私」が溶解していくその世界」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/3799参照。
(2) 加藤尚武「環境倫理—人と自然—」http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/environment.html
(3) ブルーノ・タウト『日本の芸術』篠田英雄訳 春秋社p.97-101参照。
(4) カルル・レーヴィット『ヨーロッパのニヒリズム』柴田治三郎訳 筑摩書房 昭和49年p.118) 
(5) 本稿で『日本人』という場合は、概ねネイティブな日本語話者をイメージしている。
(6) 新形信和『日本人の〈わたし〉を求めて』新曜社 2007年
(7) 金谷武洋『英語にも主語はなかった』講談社 2004年
(8) 同上p.29
(9) 同上p.29
(10) 同上p.30
(11) 同上 p.58
(12) 同上 p.59-60
(13) 金谷武洋インタビュー「金谷日本語論のエッセンス」「季刊iichiko Winter 2012 No.113」所収p.14
(14) 金谷武洋「日本語の述語制:日仏語対照研究」「季刊iichiko Winter 2012 No.113」所収p.30-31
(15) 岡智之「日本語の主語、「は」と「が」をめぐって――「場所論」の観点から」「季刊iichiko Winter 2012 No.113」所収
(16) 同上p.97-98
(17) 同上p.100
(18) 同上p.104
(19) 三上章『続現代語法序説』くろしお出版 1972年 p.101
(20) 同上p.102
(21) 同上p.99
(22) 月本洋『日本人の脳に主語はいらない』講談社 2008年
 
(そうまちはる: 公共空間X同人)
 
著者の申し出により、初出「西欧近代思想で言われる「自我」(視覚像として把握される「自我」)」を「西欧近代の「自我」(視覚像として把握される「自我」とそれを把握する「自我」に『分裂』した「自我」)」に変更しました(1月26日、編集部)。
 
(pubspace-x3849,2017.01.15)