「戦前回帰」を考える(一)――「教育勅語」の何が問題か?

――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を手掛かりに――

相馬千春

 
一、「教育勅語」をどのように批判するか?
 
 最近「教育勅語」が話題となったのは、園児に「教育勅語」が暗唱させる幼稚園の存在が明らかになったからですが、これを以って<「教育勅語」の復活>といえば、言いすぎかもしれません。「教育勅語」は1948年に国会で排除・失効の決議がなされているのですから。
 しかし今回、首相夫人が名誉校長を務める学校法人で「教育勅語」が暗唱され、その経営者は安倍政権を支える「日本会議」の役員でもあるので、<安倍政権はいよいよ「教育勅語」の復権を目指しているのか>と受け取ったひとも多かったのではないでしょうか。じっさい3月8日の参院予算委員会では、稲田防衛大臣が「教育勅語に流れている核の部分は取り戻すべきだ」と述べています。
 こうした「教育勅語」の復権を批判することは、『戦後的価値観』を「物差し」とする限りでは、難しいことではないでしょう。じっさい今日「教育勅語」は、もっぱらその始めのところ(「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ……」)と「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」のところが批判されています。つまり<「教育勅語」とは、結局のところ『天皇陛下のために命を捧げよ』というイデオロギーである>と。 
 しかし、物事を『戦前』の側から見るとどうなるか。おそらくは<『戦後的価値観』自体が、敗戦と占領の所産にすぎず、戦後の日本人はたんに『転向』しただけだ>と言われるでしょう。
 それでは、一体「教育勅語」に対してどのような批判が有効なのでしょうか。私はここで「真の論駁は反対者の力の中に入り込み、その強固さの圏域に身を置くのでなければならない」(注1)というヘーゲルの言葉を思い出すのですが、我々もこうした流儀で「教育勅語」を批判してはどうか、と思うのです。
 
二、「教育勅語」を元田永孚の側から見る
 
1.「教育勅語」成立の経緯
 そうは言ってみたものの、私は近代日本思想史などは全く識りません。そこで、以下では小倉紀蔵の『朱子学化する日本近代』に頼ってこの問題を考えてみたいのですが、その前にまず教育勅語の制定にいたる経緯を簡単に押えておきましょう。
 
 明治前期の日本の「徳育」の方針は混乱していて、紆余曲折はありますが、明治23年(1890年)2月、府県知事一同は、「国は徳育ノ主義を定めるべきである」と榎本武揚(文部大臣)と山県有朋(総理大臣兼内務大臣)へ訴え、天皇から「教育上の箴言を編むべし」との大命が下ります。最初は元老院議官・中村正直が草案を作るのですが、彼はクリスチャンで、「敬天敬神」を最も重視し、天皇より天を上位に置く草案を上奏する。しかし中村のこの草案は没になって、今度は法制局長官・井上毅(いのうえ こわし、1844 – 1895)が起草を担当することになるが、他方で、元田永孚(もとだながざね 1818 – 1891)も独自に草案の作成を始めます。元田は明治天皇の侍読・侍講(儒書その他を講義して君徳を養う役)であり、天皇の「最親最密の顧問」(徳富蘇峰)と言われた人物ですが、思想的には朝鮮・李退渓の流れをくむ儒者(朱子学者)であり、彼の草案は当然ながら儒教に基づくものでした。
 他方、法制局長官・井上毅のほうは<特定の道徳的価値観を「国教」として国家が強制することは近代国家の原理に反する>という考えでしたから、両者の考えには、当然ながら、相当の違いがあったわけです。
 この井上と元田の間の議論・妥協のうえに「教育勅語」は成立(明治23年10月30日)するわけですが、井上の努力により「教育勅語」は「「儒教主義へのかたより」を少し抑え」(注2)たものとなったわけです。
 
2.元田永孚の問題意識
 小倉は次のように言います。
 

「この当時[明治前期]は、新生日本が急激な変化をなした時代であった。同時に伝統主義者の目にとっては、徳育の大混乱の時期であった。」(p.257)(注3)
「近代化への道を進む明治日本に、…形式上の中心(天皇)はあったが、内容上の中心はなかった。」(p.258-9)
「元田は明治前期の日本を、単なる「混乱」と見た。そしてその混乱を収拾する核心は、天皇と儒教しかないと考えた。」(p.255)
「日本に欠如していた統合性を、元田は儒教的教育と天皇によって実現しようとした。…その結晶が一八九〇(明治二十三)年の「教育勅語」なのだった」(p.258)(注4)

 
3.朱子学の「理」と万世一系の天皇の矛盾
 ところが儒教(朱子学)と明治憲法的な天皇制の考え方(大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス)には矛盾がある。
 儒教(朱子学)の考えからすると「天皇は天皇であるという事実のみによっては尊敬されえず、かつ国家の中心たりえない」。武家の幕府による統治が廃されて、天皇の親政が行われるようになると、儒教(朱子学)の論理からして「天皇は革命の対象として直接に打倒されうる論理的可能性を持ってしまう」。しかし明治体制での天皇は「万世一系の、それゆえ易姓革命によって打倒されえない天皇」でなければならず、「国家イデオロギー上の役割として「それ自体で」「無条件に」国家の中心でなければならない。」そして「この矛盾を抱えたまま、国教論と天皇親政論が性急に合流したのが、「教育勅語」」であると小倉はいう。(以上、p.261-3による。)
 
4.「教育勅語」には、〈理β〉はあるが、〈理α〉がない
 このような儒教(朱子学)と「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という考えの間の矛盾は、次の様な形で現れることになります。
 

「「教育勅語」がひとつの妥協点にすぎないことは、その叙述にも露わになっている。「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ……」。ここには徳目の延々たる羅列しかない。もともと儒教の経典では、そして特に朱子学に至っては、おのおのの徳目は、全体との関連によって厳密に位置づけられ、その位置関係こそに有機的な統体原理が宿っていたのであった。ところが「教育勅語」ではその有機的な関係性が完全に解体されてしまっている。前述した〈朱子学的思惟〉でいえば、「教育勅語」は「各具太極」「所当然之則」としての〈理β〉の細目メニューでしかない。そしてこの「万理」を論理的につなぎ合わせ統合する〈理〉すなわち〈理α〉が存在しないのである。個々の〈理〉はばらばらに羅列されるだけであり、その「万理」をどう統合するかという〈主体α〉が存在しない。つまり、自らが守るべき徳目のみを順守する〈客体的主体〉すなわち〈主体β〉しか、ここには存在しない」(p.271)
「元田は、朱子学的統体国家をつくろうとして、結局妥協し、統体の原理すなわち〈理X〉を構築することができなかった。」(p.271-2)

 
 ここでまず、〈理α〉、〈理β〉、〈理X〉という小倉の用語を説明しておくべきでしょう。小倉は『入門 朱子学と陽明学』で次のように言います。
 

「朱子の思想の核心は、「理」という概念にある。/理とは、宇宙・世界・国家・社会・共同体・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則である。」(『入門』p.124)
「理には、さまざまな階層性がある。朱子学では次のように理の二重性が規定されている。ひとつめは、「一理」と「万理」の別である。すべてのものごとには個別的な理がある。これが万理である。だが、それらはすべてひとつの理に包摂される。これが一理である。」(『入門』p.133)
「私としては、理には実はもうひとつ別のメタレベルがあると考えなくては、朱子学という思惟体系の構造(特にその政治性・権力性)を正確に把握できないと考えている。それは、一理つまり絶対的理の説明体系の地平そのものを支えている論理構造としての理である。」(『入門』p.135)

 
 小倉は、『朱子学化する日本近代』では「一理」を〈理α〉、「万理」を〈理β〉、「一理つまり絶対的理の説明体系の地平そのものを支えている論理構造としての理」を〈理X〉と名付けています。
 
 教育勅語では「臣民」に個別的な理(理β)がばらばらに羅列されて付与されているけれど、「個別的な理を包摂する一つの理」(理α)は付与されない。これは、ちょうど旧陸・海軍で、砲術や航海術のために下士官兵に「三角関数」の公式が教えられたけれど、「ピタゴラスの定理」の証明などの「幾何学」は教えられなかったのと似ています。
 なぜ個別的な理(理β)に留まらぬ普遍的な理(理α)を提示しないのか。それは「教育勅語」の対象――「爾臣民」――が普遍的な理(理α)を理解しえないものとして扱われている、ということなのでしょうが、仮に普遍的な理(理α)を提示したのなら、<普遍的な理(理α)と天皇のどちらかがこの国の中心であるべきか>という問題が浮上することは避けられなかったでしょう。つまり革命を内にはらむ朱子学的〈理〉と万世一系の天皇制の間には矛盾があって、これを隠蔽しようとすると、必然的に普遍的な理(理α)を提示することはできない。したがって「教育勅語」は、「臣民」(主体β)の形成には有効だが、普遍的な理(理α)を担う〈主体α〉の形成には無力だったと言えるでしょう。
 
 「教育勅語」制定の当時は、政治に関与する「士大夫」は、「教育勅語」のレベルとは異なる「普遍的」な思想――小倉のいう〈理α〉――を身につけていなければならないことは、言うまでもなかったわけです。
 しかし、その後の日本の政治の流れにおいては、「普遍的な理=理α」も、それを担うべき「士大夫」もだんだんと衰退していったのではないか。むしろ「自らが守るべき徳目のみを順守する〈客体的主体〉すなわち〈主体β〉」が変容して、自らを<真の主体>と勘違いし、「士大夫」的主体=〈主体α〉を押しのけてしまったのではないか。
 こうした主体をめぐる構造こそが――小倉に従えば――「教育勅語」に内在する難問(アポリア)だった、ということになります。
 もっとも以上のことは、直接には元田の側から見てのことであり、井上の側からみれば、「教育勅語」に「特定の道徳的価値観」(儒教主義)が残ったことが問題であった、ということになるでしょう。
 こちらの問題は突き詰めると、まず<日本という国が究極的には「個人の内面の自由」を許容しないのではないか>ということであり、また、「内面の自由を保持する」主体が、日本においてどのような人間類型として存立し得たのか、という問題とも密接に絡みます(注5)。第二に、この――井上の側から見ての――問題は、儒教主義という「特定の道徳的価値観」に対する外部の存在を前提にしたものですから、<儒教主義への外部からの批判はどのようなものであり得るのか>も、視野に入ってくる。これらは――ともに難しい問題ですから――別の機会に検討することができれば、と思います。
 
 ともかく、「教育勅語」制定の時代には、普遍的な理を担うのは、凡そ儒教的な「士大夫」(主体α)だった。こう言うと、<「普遍的な理」を担う主体は儒教的士大夫とは限らなかったのではないか>と反論されるかもしれません。しかし小倉は次のように言います。
  

「明治前期思想史は、〈儒教に対抗する西洋近代〉と〈それに対抗する反動儒教〉という図式で把えるよりもむしろ、〈西洋近代を摂り入れて日本社会に主体性を導入して儒教化しようという士大夫的立場の思想〉と、〈王と民衆の関係を規定して原理主義的儒教社会をつくろうという思想〉とが、互いに補完しあって中央集権的・統体的儒教社会を日本に根づかせてゆこうとする過程と見ることができる」(p.265-6)
「自由民権論がその根拠とした天賦人権の思想は、儒教社会において治者[=士大夫]のみが享受していた自律的人権を、民衆にまで拡大しようという動きであった…。そこで唱えられた歴史変革の意志や抵抗権の観念、理性への信頼、道徳的心性とそれに基づく行為の自由などは、儒教士大夫たちの徳目に酷似している」(p.266-7)

 
 実際、この時代の官僚の中には、すでに西欧思想の強い影響を受けたものが少なくない。例えば、「教育勅語」の起草者である井上毅は――上述したように――<特定の道徳的価値観を「国教」として国家が強制することは近代国家の原理に反する>(注6)と考える人でした。しかし彼は同時に「儒教士大夫」でもある。
 ようするに、この時期の政治家・官僚のかなりの部分は、精力的に西洋近代を摂り入れようとした人たちですが、その多くは「儒教士大夫」でもあった。つまり小倉のいう〈理α〉という原則から全体を考察し得る君子――君子は器ならず――であったと言えるでしょう。
ところが、明治前期には強かったこの「儒教士大夫」的メンタリティは、時代を経るにしたがって、著しく衰退していったように思えます。丸山眞男が以下のように叙述する過程は、<「儒教士大夫」的メンタリティの衰退の過程>と言ってもよいのではないでしょうか。
 

「彼ら[伊藤博文]らは官僚である以前に「政治家」であつた。彼らは……それなりに寡頭権力としての自信と責任意識を持つていた。……そうした衿持が失われるや、権力は一路矮小化の道をたどる。政治家上りの官僚はやがて官僚上りの政治家となり、ついに官僚のままの政治家(実は政治家ではない)が氾濫する」(『現代政治の思想と行動』p.127-8)

  
(「戦前回帰」を考える(二)に続く。)
 
 
(注1)ヘーゲル『論理の学III 概念論』p.12(山口祐弘訳 作品社)
(注2)麻尾陽子「教育勅語の成立」p.285
なお、以上の<「教育勅語」成立の経緯>は、この論文を参考にしている。
(注3)『朱子学化する日本近代』からの引用に関しては、ページ数のみを示す。
(注4)このように、<「教育勅語」の基となっているのは儒教である>というと、次のように言われるかもしれません。
<「教育勅語」は「国家神道の象徴」(島薗進『国家神道と戦前・戦後の日本人』p.15)であるのだから、「儒教的」ではないのではないか?>と。
しかし、ここには巧妙な仕掛けがあるようです。そもそも、日本の儒教では「神儒一致」ということが言われるわけですが、元田の場合は、次のような論理が駆使されるわけです。
「仁の普遍性を認識する元田にあって、西洋世界をも含めて国別を超えてそれは存在することになる。しかし、その具体的な現れは、国別であり日本にあっては「神道」として示されるが、文字を持たざる日本にあっては、その註解を孔孟の書によらねばならないというのであった。」(森川輝紀「元田永孚と教学論」
「[元田にあっては]ただ、天の命ずる理の現れは「処」によって異なるだけである。日本にあっては天照皇から天孫への三種の神器が智仁勇の三徳を示すものとして与えられている。」(同上)
(注5)なお、小倉が『朱子学化する日本近代』で検討している「日本の近代における人間規定の類型」は、〈主体〉、〈ネットワーク〉、〈こころ〉、〈ニヒリズム〉ですが、それぞれについて――少し長くなりますが――紹介しておきます。
〈主体〉
「この〈主体〉型は、西洋近代の〈主体〉とは明らかに異なるものだった。後者が、神や自然から自我の自律性を分離し、そのアトム的な主観性=〈主体性〉(subjectivity)を社会の最小単位としての「個人」という概念にまとめあげたのに対し、前者は、あくまでも〈理〉の超越性に依存する〈主体〉であった。」(p.154)
「日本のマルクス主義者は、マルクスないしマルクス主義を〈理〉と仰ぐ朱子学的〈主体〉だった」(p.155)
「朱子学的〈主体〉の主な関心は、〈理〉の体現の多寡による自己と他者の、あるいは共同体内での〈序列化〉なのであった。典型的な例としては明治官僚制を挙げることができる」(p.155)
〈ネットワーク〉
「「主体型」と最もよい対照をなすのは、日本人の「ネットワーク型」人間観であろう。
①【私の非中心性】日本の伝統的な「ネットワーク型」では、私が世界の中心となっているという観念はな[い]。
②【私の散在性】……私は……むしろ「関係Aにおける私」と「関係Bにおける私」と「関係Cにおける私」が分散して存在している、という実感が強い……。このことをよく示すのが日本語の一人称の多様性である。日本人が一日に使う多様な一人称代名詞のうち、どれが本物でどれが仮面であるかという議論は成り立たない。
③【私の非人間性】「主体型」の韓国人と比べると、「ネットワーク型」の日本人は自分が人間であるという確固たる信念に欠けているような印象を受ける。/儒教のごとき文明主義的な人間中心主義よりは、仏教的・神道的・アニミズム的な非人間中心主義が、日本人の世界観から消え去っていないことがその大きな要因であろう。」(p.127-8)
〈こころ〉
「〈こころ〉の人間性は、往々にしてロマン主義的である。これは〈主体〉の人間性が啓蒙主義的であるのとよい対照を成している。前者が陽明学的で後者が朱子学的である所以である。ただ、啓蒙主義、ロマン主義といってもあくまでも……東アジア的なそれである。」(p.156)
「〈こころ〉型の人間が近代日本においていかに人気を博したかについては、内村鑑三……の『代表的日本人』……を見てもよくわかる。……五人の「代表的日本人」は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人である。……[上杉鷹山以外の]四人はまさに、外部の超越的な理法に従わず、自らの内面の純粋な〈こころ〉に従う、という意味で典型的な〈こころ〉型の人物である」(p.159-60)
〈ニヒリズム〉
「荷風の〈ニヒリズム〉とは、きわめて日本的な意味におけるそれである。すなわち、文明や文化がヘゲモニー争いをするその「場」から一歩身を引き、それらの「活動する文明・文化」の価値を相対化ないし無化して、自己を無価値の場に置く、という心境を、「日本的〈ニヒリズム〉」と呼んでよいであろう。」(p.170-1)
(注6)森川輝紀「元田永孚と教学論」による。
 
(そうまちはる: 公共空間X同人)
 
(本稿は、2017年5月28日に開催された「公共空間X」の合評会に提出されたものが元となっています――編集部)
 
(pubspace-x4113,2017.05.28)