石塚正英
まえおき
 大類伸『西洋中世の文化』冨山房、1953(初1925)年、からの【引用】と【注記】。文中の「/」は改行を示す。下線は引用者による。引用に際し、(中略)(中略)を挿入して必要箇所の抜粋にとどめている場合がある。文中の漢数字は算用数字に変えてある。注記に当たっては、引用者がこれまでに論文として蓄積してきた研究成果を利用している。大類伸(おおるい・のぶる、1884-1975)は、1924年から1944年まで東北帝国大学法文学部史学科で、主に中世文化史の研究と教育に勤しんだ。同僚にはフランス近代史の中村善太郎(1879-1932)が、高弟には史学史の酒井三郎(1901-82)がいる。ちなみに、酒井は私の恩師である。
☆ ☆
【引用01】中世は近世を生む母胎となったのであるが、それは単に近世の準備であったのみでなく、中世それ自身として独自の世界でもあった。近世はもとより中世を克服する意味で歴史に登場したのであるが、そこには単に中世の否定のみでなく、その反面更に近世の自己批判として中世への反省が考えられる場合がある。この点からも中世に対する広い理解が望ましいのである。(序、2頁)
【注記01】「近世の自己批判として中世への反省」という捉え方に転倒的発想が読み込まれ、実に含蓄がある。通常は過去の批判的態度が現在を肯定し、現在の批判的態度が未来の展望を呼び寄せる。しかし、大類は前代をもとに後代を批判する姿勢なのだ。あるいは、前代を再評価する目的で後代を自己批判する姿勢なのである。〔文明を支える原初性〕という私の立場と共通する。人類は、衣食住の獲得を目指して大地を駆け回り、大地を掘り返してきた。辛く苦しい環境ほど人類を賢く育てあげた。その成果は身体知となって文化的に遺伝して今日に至っている。私が研究上で座右の銘にしている〔文明を支える原初性〕は、人類のそのような歩みの通奏低音をなしている。私にすれば、先史時代に確立した文化は、様式であれ精神であれ、現代に至るまで文明社会とその文化とともに存在し、それを支えている。〔原初性〕研究の途上で、私はある一つの傾向を発見した。人類学はもとより、哲学、宗教学、神話学、それに歴史学や考古学において、先史社会とその文化を現代社会のベーシックにしてアクチャルな要因とみる学的体系や理論は先行研究として存在しないということである。
【引用02】生に対する積極的な肯定が古代人の悦びであり、誇りであったとすれば、中世人はまず死に於て生を認めた。そうして一旦否定した生の内から再び起ち上って新しい別の生を生み出そうと努めた。(序説、2頁)
【注記02】先史時代には無に帰すというような死の観念がない。生と死は垂直でなく水平の移動だった。キリスト教的中世には垂直の観念が一般的だったが、ペストの流行などにより生をまっとうできそうにない場合、せいぜい残された人生を愉快に過ごそうという発想が流行した。メメントモリ(memento mori、死を忘れないで今を楽しめ)である。例えば、14世紀前半から15世紀にかけて生じたペストの大流行により、社会秩序や世界観は大きく変化した。政府の対策や医者の努力も虚しく、住民の4~6割が死亡したため、政府・法の権威は失墜するとともに、年齢・社会階層の人口比のバランスが崩れた。家族・友人関係といった絆が打撃を受け、死と隣り合わせの生活を強いられ、快楽主義に走る人々がいた一方、ペストを神罰と捉え極端に敬虔な生活をする人々も現れた。また、死の絶対性、死の前での無力を描いた「死の舞踏(ダンス・マカブル、トーテンタンツ)」を描いた芸術が広がった。こうした現実をテーマにした作品が、ボッカチォの『デカメロン(十日物語)』である。また、以前から迫害されていたユダヤ人はペスト流行の元凶であるという根も葉もない流言飛語により、教皇のユダヤ人迫害反対にも拘らず、ユダヤ人大量虐殺が行われた。
【引用03】(聖像崇拝と聖像破壊との論争について:引用者)西欧に行われた聖像崇拝に比して、東欧の聖像破壊論は理論としては決して無意義ではない。それは時代の情勢と大きな妥協をしたカトリック教に比して、むしろ近代的と見られないでもない。ともかく東欧のキリスト教徒が、聖像崇拝に対し激烈な非難を加えて、キリスト教から迷信的分子を駆逐しようとした熱誠は、見逃し難いものがある、そこに古代ギリシア人の知性の閃きが認められよう。この運動はビザンツ陣が、等しく東方の文化を代表するサラセン人と類似したことを説明するもので、宗教思想に於てイスラム教との関係を想像させるものがある。(23頁)
【注記03】カトリック教会での聖像崇拝はモーセの十戒(第2戒「自分の偶像を造ってはならない)に触れる観念であり、東方ビザンツ教会では、偶像崇拝を否定するイスラム教徒への対応という判断からしてもカトリックに批判を加えた。しかし、この論争は、「キリスト教から迷信的分子を駆逐しようとした熱誠」に読まれるとおり、生物や無生物を崇拝する先史的観念の中世的残存との戦いでもあった。大理石像の美を追求するギリシア人は、大理石という物質と美という観念のはざまで両者を総合する力量があったが、中世においては聖とむすびついた美が俗と結びついた物質から分離していった。その後ヨーロッパ人は、自然をなんらかの方法によって人間に心地よい方向に加工してきた。なるほど、それを通じて人々の感性も豊かなものに成長してきたが、半面で重要な伝統を破壊してしまったわけである。
【引用04】(中世前半のビザンツ美術は:引用者)もとより全体に重苦しい陰影の圧力感は免れないとしても、それは「生」によってではなく、「死」によって生きることを本義とした中世人の人間観の現われなのであり「永遠」のために眼前の「現実」を犠牲にした結果に外ならない。(25頁)
【注記04】「「生」によってではなく、「死」によって生きる」とは、水平的な物質世界、「現実」を離れ垂直的な観念世界、「永遠」に向かうこと意味した。ただし、中世といわず近世といわず、ミレニウム(千年王国)の系譜だけは地上の現実世界に神の国=永遠を実現できると考えた。垂直な教会権力を水平な民衆共同体に引き戻そうという発想である。そのように、ヨーロッパの下層社会には、依然としてミレニウムの潮流が根強く残っていた。12世紀末から13世紀初めのインノケンティウス三世の時代を頂点として教皇権が衰退し始めると、そうしたミレニウム的な異端運動は民衆を領導して活発化する。その代表は、12世紀を中心に北イタリアやフランス南部アルビ地方に拡がったカタリ派(アルビジョア派)と、フランスのリヨンからおこったワルド派である。そのうち、リヨンの商人ピェール・ワルドによって創始された後者は、財産所有を否定して原始キリスト教的清貧を訴え、贖宥・聖者崇拝・戦争などを否定し、ヨーロッパ各地の信者を1000年昔の「共同の食事」の精神に立ち帰らせた。かつまたこの精神は、ワルド派以後、各地各派の異端運動の中に核心的な現象として息づいたが、その一例に、フィオーレのヨアキム(12世紀後半)と北イタリアのドルチーノ(13世紀)がいる。参考:ノーマン=コーン、江崎徹訳『千年王国の追求』紀伊國屋書店、1978年。
【引用05】キリスト教の寺院は要するにキリスト教観念の具体的表現である、もとよりその様式や材料には、古代美術や異教的要素が少なからず混入している。即ちキリスト教は、古代文化に対して新しい理想を奉じて現われたにせよ、技巧の様式までも一新することは出来なかった、かくしてバジリカの建築様式も古ローマの様式を孕んだものであり、モザイク画の技術もまた古代のそれを継承したものである。(57-58頁)
【注記05】時系列に即した文化のシンクレティズム。後代が前代を否定したり克服したりしたというものでなく、後代が前代を継承したり両者が融合したりしたというものである。バジリカ様式はローマがギリシア(王の会堂を意味するバシリケー・ストア βασιλική στοά)から受け継ぎ(ラテン十字 Latin Cross)、中世キリスト教に伝えた(ロマネスク、ゴシック、ルネサンス様式)。ギリシア語のムーサ(Μοῦσα、文芸の女神)を語原とするモザイク画の場合、最古の史料は紀元前2600年頃のシュメール都市国家ウルの遺跡で発見された通称「ウルのスタンダード(Standard of Ur)」(スタンダードとは「軍旗」のこと)である。南伊のポンペイ遺跡ほか古代ローマ各地で多くのモザイク画が出土している。〔文明を支える原初性〕の一例である。
【引用06】(教会と国家:引用者)この両者の接近を助けたものは、思想上からは古代のストア派であった、即ちストア派の自然法の観念は、キリスト教の世界的精神と現実国家の権力との連鎖となったもので、宇宙に偏在する自然の掟は神の定めたものであり、その自然の法則が現実国家の種々の法律の源をなすものと解釈された。(中略)教会と国家との握手を促した事情としては、なおゲルマン的要素も考慮さるべきである。(中略)中世に於て大地主制度が封建制度として発達すると共に、都市に住する司教の勢力が及ばない地方では、教会は勢い領主の下に属することとなり、ここに領内教会Eigenkircheを生じた。(59-60頁)
【注記06】ストア派はコスモポリタン(世界市民)であってポリタン(国家市民)ではなく、前者の神々と後者の唯一神とは類型を異にするので、大類の説明には賛成できない。また、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)の解釈に2通りある。①世界を皇帝のものと神のものに分割することによって皇帝に妥協した。②皇帝のものでなく皇帝すらも侵犯し得ない神の世界を宣言した。①の解釈に従えば大類説に関係し、②に従えば私の主張に関係する。なお、中世の「領内教会」に関する解釈は大類の通りだろう。
【引用06】殊に中世初期無智粗野なるゲルマン人を教化した時代には、高遠なる教理は到底彼等の幼稚な頭脳には入らない、従って幾多の迷信的風習を採用することとなった。中世初期のキリスト教には礼拝や儀式の上に異教的分子を採用したことが多い、殊に人民は祈祷を以て病気を治癒する手段と考えていた。文化程度の低いゲルマン人は信仰と物質的利益とを結合させなければ承知しなかった。かくして迷信の風は益々キリスト教の内には入って来た。殊に9、10世紀頃には遺宝の礼拝が盛んに行われて聖徒の遺骨とかその他種々の霊宝を信仰したものである。教会も信者を吸収する手段として頻りに遺宝を吹聴し、やがてはそれを偽造したり奪い合ったこともあった。儀礼の上から言えば、復活祭に樹木を用いる風も、ゲルマンの樹木崇拝の古風から出たという説もある。(63頁)
【注記06】古代ゲルマン人は「幼稚」であり、彼らの習俗は「迷信的風習」だとする大類の理解は、ともに正しくない。①フィジカルなゲルマン文化、②メソフィジカル(メタではない)なキリスト教文化かというように、文化の類型が違うだけである。また、ギリシア思想を継承するキリスト教は①の上に②をシンクレティズムとして重ねているだけである。私は①フィジカルな類型を〔文化の第二類型〕とし、②メソフィジカルな類型を〔文化の第一類型〕としている。第一類型の特徴は統合性・共通性にあり、第二類型の特徴は分散性・個別性にある。耕作(cultivation)は文化(culture)と同類語である。第二類型的文化は個別だが水平的に連合できるのである。それに対して第一類型的文化は文明(civilization)に昇華している。複数並ぶと高低の格差が見られて、上位文化が下位文化を統合したがる傾向にある。なお、「メソフィジカル」とは私の造語であり、理念としてはメタフィジカルであっても十字架や聖像などフィジカルなツールで表現するような、いわばメタフィジカルとフィジカルの中間に位するものを指す。参考:石塚正英「芸術作品に対する感性文化的評価」、同『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第7章。石塚正英「自然と超自然の緩衝域を考える」、同『原初性漂うハビトゥスの水脈―量子世界・地中海・ゲルマン・クルド』社会評論社、2024年、第2章。
【引用07】中世の人々は唯一なるものに最も高い生命を期待した、「多」は「一」によって支配される、他から支配される者は至高のものではない、自から他を支配して、他から支配されない者は唯一のものでなければならないと中世人は信じていた。これは異教の多神信仰に優るものとして、キリスト教の一神信仰を奉じたことと正に一致している。かくて唯一の神、唯一の信仰、唯一の権威そうして唯一の帝国と皇帝、唯一の教会と法王、すべてこれ等の全人類、全世界の観念の具体的表現こそ、実に中世が後世に対して誇るべき宝であった。(68-69頁)
【注記07】「唯一」には二つの解釈がある。①唯一神性、②唯一個別性。大類は①を力説するが、私は②をそうしたい。こちらの類例としては、例えばヴァルター・ベンヤミンのいう「アウラ」を放つ物質が相応しい。ルートヴィヒ・フォイエルバッハは以下のように言う。「宗教の本質は、少なくともこの点では、まさに宗教が或る種または或る種から唯一の個体を選び出し、そしてそれを神聖不可侵なものとしてその他の個体に対立させることのなかに成立しているのである。この人間、この「唯一者」、この「比較することができない者」、このイエス・キリストが排他的に神である。このオーク、この場所、この森、この雄牛、この日が神聖なのであって、その他のオーク、その他の場所、その他の森、その他の雄牛、その他の日が神聖なのではない。そのために宗教を廃棄するということは、その宗教がもっている神聖化された対象または個体と、それと同一な類に属する他の世俗的な個体との同一性を証明すること以外の何物をも意味しない。聖ボニファティウス(Bonifatius, 672-754)は神的なオークの木、ガイスマル(Geissmar)のオークの木を倒したのであるが、彼はすでにそのとき我々の先祖にこの証明をしたのである」。「『唯一者とその所有』に対する関係におけるキリスト教の本質」(1845年)、石塚正英『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020年、251-252頁。キリスト教の神が霊的唯一神だとすると、フォイエルバッハの取り上げる「ガイスマルのオークの木」は物質的唯一神すなわちフェティシュ(フェティシズム)である。
【引用08】要するに、中世に於てはすべては神との関係に於てのみ存在の意義を認められたのであった。従って中世人の自然観は知覚によって自然界を経験的に認識することから出発するのではなくして、超越的な宗教観念から演繹的に自然界を説明するのであった。(中略)古代人にとっては自然界は、それ自身で独自の存在であった、中世人はそれを神意の映像と考えた。(209-210頁)
【注記08】「独自の存在」という表現では曖昧さが残る。私はそれに二つの類型を設けている。①アニミズム的自然と②フェティシズム的自然である。先史古代世界や非ヨーロッパ世界に存在する儀礼・信仰としては、アニミズムのほか、トーテミズム、シャーマニズム、フェティシズムなどが知られる。そのうち、最初の3種は、何らかの意味で神霊と神体とが区別されるが、18世紀フランスの比較宗教民族学者シャルル・ド=ブロスの命名になるフェティシズムには、その分離が明白には認められない。前者は、いわゆる〈宿る神=抽象神=アニマ〉であり、後者は〈ものがみ=具象神=フェティシュ〉である。人類学者ジェームズ・フレイザーは、アニマを限りなく神体に依存する霊魂とみ、民族の神霊の場合、それを宿す王の身体に大きく依存するものとみた。野生社会で王殺しの儀礼を生み出す精神構造は、このアニミズムにあるとみる。フェティシズムでは神霊と神体(王の身体)は分離していないので、王が死ねば神霊も死ぬことになる。
【引用09】なお興味あることは、中世初期から盛んであった厭世隠遁の風が自然界と深く握手していることである。修道院生活の流れの裡には、世間に立交って集団的に、組織的に現実的行動を続けてゆくものと、浮世を離れて閑寂の境に静かに心を養うものとの二派があった。後者の隠遁者流anchoretにあってはその伴とする所は自然の風物であり、更に自然界に生きる動植物の類であった、彼等はそれ等の姿の上に神の影をみ、神の声を聴いて寂莫の生活を送っていた、この場合彼等は人間社会を離れると共にその代償を自然に求めた、即ち自然界は人間界の対照として、或は相反するものとして彼等の眼に映じたのである。要するにそれはこの土を捨てて一意彼岸の神国に憧憬して已まないキリスト教的傾向の現われであるが、しかし彼等が神の反映としての自然の姿の上にこの土を讃歎していたことは、やがて彼等が人間に復帰すべき前提であったと考えられる。(中略)ともかく中世人が神を仲介としながらも、自然の姿をそのままに見ようとしたことは、古代人が自然の諸相に一々神性を賦与してそれを崇めまた怖れたことに較べて、少くとも自然により近く、より親しく接近しつつあったことを示している。(211-212頁)
【注記09】大類は、古代人と厭世隠遁的中世人の自然観を対比しているが、修道院生活を舞台とする後者は中世人の代表とは見なされない。少々強引である。中世人は「自然の姿をそのままに見ようとした」という表現に曖昧さが表れている。その理由は少なくとも以下の2つである。①神を仲介としている。②神の反映としての自然の姿。また、「古代人が自然の諸相に一々神性を賦与して」とあるが、その場合の「神性」とは何か? 先史人に関係する神は個別(物質)に宿る「アニマ」か個別(物質)そのものたる「フェティシュ」であり、古典古代にあっては多神教である。中世キリスト教の唯一神ではない。
【引用10】以上の如く、森羅万象を神の映像として観察する傾向からして、中世には象徴主義Symbolismの顕著な発達を見ることとなった。自然現象、動植物すべてを神の力、神の恵みを現わす象徴と考えた、その最も巧緻な一例は人間の容貌そのものが「神の人」の象徴であると言う説である。二つの眼は二つのOを示し、鼻はM,耳はD、鼻孔の断面はE、口はIの形と一致する、これに発音の助字Hを加えればHOMO DEI即ち「神の人」となる、即ち人間が神から造られた証拠であると言うのがそれである。これはベルトルドBerthold von Regensburgの説であるが、ダンテの「神曲」にもそれと同じ意味の記載がある。(213頁)
【注記10】神は人間を自身の姿にあわせて造った、という。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:27)。それで大類は、中世人は「自然現象、動植物すべてを神の力、神の恵みを現わす象徴と考えた」としている。しかし、被造物を造物主の象徴と見るのは理屈に合わない。「象徴」とは、本質的なところで両者が一致していなければならないからである。せいぜいが「類似」「代理」しているくらいである。例えば信徒が身に着ける十字架は、イエスの象徴である。十字架とイエスは本質的に一致している。物としての十字架でなくイエスとしての十字架である。けれども「自然現象、動植物すべて」つまり自然界は被造物であって神そのものではなく、神と本質的に一致しているわけでもない。汎神論的な神観念が登場してくれば、話は別であるが、それは中世的ではない。
【引用11】深くキリスト教の感化を受けた中世人は、物の形相に即するよりも、むしろその内に秘められた深い意味を重んじた。(214頁)
【注記11】ここに読まれる「物の形相」と「深い意味」は、象徴と本物にあたる。例えば白いハトは平和・平穏の象徴である。旧約聖書「創世記」(8-8~12)には、ノアの箱舟から放たれた鳩がオリーブの枝を加えて戻ってきた、とある。それは鳩を平和の象徴とみなす一根拠となっている。その発想は、プラトンの「イデア」に代表されるギリシア哲学の影響を示す解釈である。ギリシア以前の神話、例えばフェニキアやリビアの神話では、鳩や牛そのもの(物の形相)が神(深い意味)だった。いや、深いも浅いもなく、物がダイレクトに神(フェティシュやアニマ)だった。精神は身体を質料としこれに依存する形相である、とのアリストテレス学説を一方では認めつつ、他方では、現実に対するプラトン的イデアのヴァーチャルな力に人間の本質と限りない可能性を見いだす。このスタンスは中世において闇に消えた。
【引用12】キリスト教的色彩の薄かった時代の産物としては、アングロ・サクソン伝説の「ベオウルフ物語」Beowulfの如きがある。そこには北人の英雄が怪獣を退治する勇敢な行為が謡われ、北人の粗野な気分がよく現われているが、それがアングロ・サクソン人によって高尚な感情と結び付けられ、異教的ながらも一の高い道徳にたかめられた、そうして更にキリスト教の感化を受けるに及んで野蛮と闘う正義の行為として讃えられたのである。(中略)キリスト教的色彩の甚だ薄いニーベルンゲン物語(中略)アーサー王伝説の武士は終局に於てキリスト教道徳の範囲に踏み入るのが多い、その点はニーベルンゲン伝説が復讐を生命としているのとは少からず趣を異にしている。(227-228頁)
【注記12】大類は「ニーベルンゲン物語」と「ニーベルンゲン伝説」を区別するが、前者は中世騎士道物語「ニーベルンゲンの歌」のことであり、後者はそのもととなったゲルマン神話である。1204年頃、ドナウ流域のドイツ語文化圏において幾つかの古い伝承が結びついてヨーロッパ中世最大の英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』(全39章)が編集された。物語成立の歴史的背景としては、キリスト教化する以前の古ゲルマン人諸民族がトルコ系と言われる異民族フン人(アッティラ)の侵入を受けて動きを活発化させた経緯(ブルグント滅亡)がある。その経緯に、さらに古ゲルマンのジークフリート伝説が加わって物語が成立した。物語全体を統括する基調はブルグントに代表されるゲルマンの民族性であり、キリスト教精神の影響は部分的であり、変質しながらも先史ゲルマン社会の慣習が残存している。ただし、妻が夫の復讐をするというストーリーは先史に相応しくなく、キリスト教的後代の発想である。先史ゲルマンの慣習では、女性は結婚後も生まれた集団に帰属し、生まれた子も母親の集団に帰属した。この物語と対になるものに『グードルンの歌』がある。こちらは、妻が家族の復讐を企てて兄に援助を求めつつ、夫の家族(王族)を攻める。ただし、最終的には夫の家族を許し、双方の王族が結婚して終わる。また、この『グードルンの歌』の先駆となったらしい、さらに古い物語『アトリの物語』がある。それは北欧神話『エッダ』に残存するもので、妻は家族の復讐のために夫の一族を皆殺しにする。
【引用13】宗教的観念に支配された文化の産物として、中世美術には自然的な自由の気分は認められない。現わされた物象はより高い生命と結びつけられて始めて意義をもつので、それ自身はただ一つの象徴(シンボル)に過ぎなかった。(250頁)
【注記13】大類は、より高い生命と結びつかないシンボルには聖性を認めない。しかし、およそ十字架をみたなら、それが聖性(イエス)と結びついているかそうでないか考える人はいないはずだ。理屈の上では、より高い生命と結びつかない物はシンボルでないが、一対一で聖性と結びつくような十字架は、いつ何時にもシンボルとみなされる。シンボルであれば、それは聖性を備えている。「ただ一つの象徴(シンボル)」という評価は下せない。ただし、本物(神)と区別のつかない物的シンボルは、実はシンボル(象徴)でなく本物(神)だということであり、ヴァルター・ベンヤミンの言う「アウラ」を発している。私はそれを〔フェティシュ〕としている。
【引用14】アレゴリアとして最も多く行われたものは人間の七徳を古代風な神像の姿で現わしたものである、七徳とは古代より唱えられた四徳即ち正義、聡明、節制、力の四と、更にキリスト教の三徳、信仰、希望、愛の三者を総称したものである。要するに中世は宗教的である。有限の世界にあっては神性の力は自由の精神に外ならずと言うような近代的精神はまだ中世人には遠いものである。(251頁)
【注記14】「徳」といったメタフィジカルを「像」といったフィジカルで表現するのは確かに古代風であるが、それは「四徳」に限られる。ミロのヴィーナスに象徴される像は、メタフィジカルとフィジカルの中間であるメソフィジカルな存在である。理念と像とはほとんど親和的である。大理石にも神性が漂う。それに対して、残りの「三徳」は古代でなく中世に限られる。理念と像との間には天と地の懸隔がある。近代に至っては宗教抜きに、「自由」といったメタフィジカルを「自由の女神」像というフィジカルで表現して古代風を復活させている。大類は「神性の力」=「自由の精神」が「近代的精神」だというが、それは古代の復活でもある。ニューヨーク港リバティ島の自由の女神は正式名称を「世界を照らす自由」と称しているが、それに宗教色は感じられない。ミロのヴィーナス(古代)と世界を照らす像(近代)とは共通する人間的側面を有しているが、中世のマリア像は天上的存在である。
【引用15】要するにロマネスクの時代はなおヨーロッパの文化一般に混乱の存した時代で、(中略)キリスト教が異教的形式を採用せねばならなかったのも、不純な混淆文化の結果とも言えるのである。(253頁)
【注記15】大類は混淆文化つまりシンクレティズムを「不純」と見做している。シンクレティズムの語源は、クレタ島に外敵が襲って来た時、それまで内部抗争に陥っていたクレタ島諸都市が一致団結して外敵に立ち向かったこと “συγκρητισμός”(synkrētismos, federation of Cretan cities)をさす。「クレオール」についても言えることだが、混淆は不純ではない。16世紀から400年以上にわたってヨーロッパ人がアフリカ一帯を支配した結果、先住民文化はさまざまに変化させられ、不均等に発展させられた。だがしかし、そこに居住する人々の日常生活はけっこうしたたかなもので、受け入れうるものは受け入れていった。けっしてヨーロッパ文化への迎合一辺倒ではなかった。昔ながらのアフリカ文化でなく、さりとて近代ヨーロッパ文化でもない、それらが融合して種々雑多なクレオール文化=生活文化が成立したのである。それは新規ではあっても、不純なものではなかった。混淆を不純と捉えるのは、近代に至って「純粋」に価値や意味を見いだした文明諸民族の観念である。アフリカ文化は、やがて、離散した地域におけるサブカルチャーとして存在意義を確保し出した。ニューオーリンズほか北米でかたちをなした音楽「ジャズ」や「ソウル」、カリブ海域でかたちをなした音楽「レゲエ」はその一つである。
【引用16】想うにロマネスク彫刻に認められる怪奇の曲線文様がキリスト教精神によって醇化された結果が、ゴティックのこの明暢な線の旋律となったと考えられる。ゴティックの生命は向上の精神にある。地上に足を踏みしめながらもなお彼岸を求めて已まない永遠の努力、それがゴティックの垂直主義となって顕わされて来た。(267頁)
【注記16】天空にのびるゴティック教会で聖なる讃美歌を唱和するキリスト教も、西アジア・地中海域における諸文化のシンクレティズム=クレオール文化なのだ。ところで、ボーダーレスやトランスナショナルの傾向が増大している現在、クレオール文化は今後息をふきかえすのではないか。今後は「純粋・単一」文化から「雑種(ハイブリッド)・混交」文化へと状況がかわるのではないか、ということである。
【引用17】要するにロマネスクからゴティックに移って、内面の欲求を外部に表現しようとする精神は著しく発揮された、高きに憧れる塔はその最も目覚しい表現の一つである。(中略)この表現の精神こそはロマネスクからゴティックへ、さらにゴティックからルネサンスへと一貫して進む大きな流れであった。(268頁、270-271頁)
【注記17】「内面の欲求を外部に表現しようとする」行為は形なきメタフィジカルの内実に形あるフィジカルの型式を与えることである。「高きに憧れる塔」は神性の象徴なのか、それとも神性そのものなのか。信徒の意識は後者に傾くはずだ。だいたい、聖体という概念こそ、物(遺骨・遺物)を聖の象徴というよりも聖そのものとみなしている証拠である。理念としてのキリスト教と生活儀礼としてのキリスト教の潜在的な乖離は、やがてルネサンス期になって顕在化する。
【引用18】いかに自然や人間に対する興味が高調されようとも、中世芸術の窮極は神に存した、芸術は神の鏡でこそあれ、自然の映像ではなかった。自然はただ神に似たものとして認められたに過ぎない。(273頁)
【注記18】大類がいう「神の鏡」としての「中世芸術」は、私の分類では〔美の文化〕である。それは、先史の儀礼文化を断ち切ったギリシア諸民族のもとで開花した。大類がいういま一つの「自然の映像」は、私の分類でいくと、農民諸衆の儀礼に開花した〔感性文化〕に関連する。そこでは先史由来の儀礼は潰えない。ギリシア的な洗練とは程遠い地点で永続していく。程遠い地点とは非ヨーロッパの村落であり農牧業であり、各種の生産儀礼の現場である。ところで、18世紀に美学を確立したとされるバウムガルテンは、自身の「美学」を構築するにあたり、その下支えとして「感性“sensus”」を取り扱った。彼は〔感性文化〕を無視していなかったことを意味する。参考:石塚正英「感性文化と美の文化―バウムガルテン・ヘーゲル・フレイザー―」、石塚『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第11章。
【引用19】死の偉大な力を恐れる情に伴って注目すべき傾向は、死の力が一切に対して平等無差別であるとの信念であった。(334頁)
【注記19】「死の力が一切に対して平等無差別」という場面を、私は水上勉の短編小説『石よ哭け』(径書房、1984年)を読んで感じ取った。それはある寺院の住職一家の物語だが、その寺院の片隅には差別戒名の刻まれた墓石群がある。かつて最下層に呻吟した男女の遺骨が眠っている。人類の平等を説いた仏教ではあるが、江戸時代には身分制度の下層、あるいはそのさらに下位に位置づけられた最下層の人々は、死後も差別され続けたのだった。しかし、『石よ哭け』の世界では、彼ら彼女らはみな死後共生している。境内には樹木が繁り、墓地の下、地中には樹木の根っこが縦横無尽にゆきわたっている。その根っこたちは、生前に尊い身分であった人々をも、生前から死後にかけて差別され続けている人々をも、すべて分け隔てなく包み込んでいる。一面では、石は残酷だ。刻まれた差別戒名を永遠に刻印し続けるから。けれども、石はやさしくもあり得る。これが差別戒名だと分からないようになってからは、その石がのこっているからこそ、多くの心ある人々に供養されるからである。差別意識を弾劾する民主主義の時代であればこそ、そうした墓石はむしろ意識しててあつく供養されるのだろう。
【引用20】14世紀の中頃フロレンス地方を襲った恐しい黒死病は、ピザの「死の勝利」の壁画を生む契機となったが、またボッカチオの「デカメロン」をも生み出した。中世末期に於ける人生悲観や死の恐怖は上述のような幾多の深刻な作品を残したが、一面にはまた愛の力を高調する温い感情の流れとなって現われた。(336頁)
【注記20】黒死病とメメントモリ。ラテン語の“virus”は、ウイルスが発見される前からあって、その意味は、汁、粘液、痰、毒液、毒物、悪臭、病原体。2019年末以降コロナ・パンデミックに見舞われてからの広報や報道を見ていると、コロナのことを悪魔や殺人鬼のように形容したり、「アマビエ」による祓いの対象にしたりしている事例にであってきた。中には「withコロナ」と称して、ある程度は受け入れていこう、という態度も見受けられた。けれども、withを一時的と思うことなかれ。宿主に依存するとはいえ、ウイルスも自然の一部であり、いろんな意味で、完全に撲滅されるものではない。自然生態系の中で何らかの軌跡を描いている。ウイルスは、発端として人々の外からやってくるとしても一過性のものでなく、内部における結果的共存性のものである。永続的には、人間の心身的環境を整える要因でもあるのだ。レトロウイルスは妊娠中の母親の免疫反応・拒絶反応から胎児を保護する重要な役割を担っている。ウイルスも環境の一つである。ウイルスは、人間身体に吸収され凝固・結晶することによって人間身体そのものの形成に不可欠の要因となってきたのである。「一面にはまた愛の力を高調する温い感情の流れ」とは言えないまでも、功罪相半ばする事柄であることに変わりはない。参考:石塚正英「環境の凝固結晶としての人間身体」『理想』第691号、2013年。石塚正英『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年に再録。
(いしづかまさひで)
(pubspace-x14172,2025.09.13)