高橋一行
ランシエール(1940 —)は多才で、その議論の領域は広範囲に及ぶ。その全容を捉えることはできないが、本稿では、ランシエールの思想をアルチュセール、ジジェク、ラクラウがどう理解しているかということを中心にして扱いたい。さらに本シリーズでは、このあとにバディウとマラブーを扱う予定で、彼らもまたランシエールを批判する。その批判の仕方を見ることで、ランシエールの主張の是非を検討したいと思う。
まずランシエールは、アルチュセールの弟子として、師とともに『資本論を読む』(1965)の共同執筆者に名を連ね、注目を集めた(注1)。ところが彼は、1968年の五月革命の解釈の対立から師と袂を分かつ。彼の最初の単著『アルチュセールの教え』(1974)の中で、その批判が展開される。しかしそれは単純なもので、アルチュセールはフランス共産党を批判しておきながら、党に留まり、かつ仲間もまた党に留まらせたということに尽きる。その批判が妥当であることはアルチュセール本人も認めている(注2)。そしてその分厚い本自体は、むしろ師の説を忠実にまとめているようにも思える。その本の中で、ランシエールはアルチュセール理論それ自体を批判しているようには思えない。それはもう実存主義も構造主義も終わって、すでにランシエールが影響を受けていたM. フーコーの知と権力論が学生の間にも支持され始めていた1968年の時点で、ランシエールが試みたのは、アルチュセール批判に力点を置くのではなく、むしろマルクス主義とこの新しいフーコー理論とを接合しようとしていたかのように感じられるのである(注3)。
ランシエールがその独自の理論を展開し得たのは、その後20年以上経った1995年の『不和あるいは了解なき了解 政治の哲学は可能か』においてである。このあとで、ジジェクとラクラウがランシエールをどう批判するかということを書いていくが、先に、この20年余りランシエールが何をしていたかということに触れておく。
ひとつは無名の労働者たちの運動と芸術の記録を、ランシエールは熱心に分析している。邦訳もされている、『哲学者と彼の貧者たち』(1983)ではプラトンやマルクスなど、西欧思想史が如何に分析対象としての貧しい労働者たちに依存してきたかということを明らかにしている。ランシエールは一貫して、美学と政治、言語と政治の関係を問い、政治的な諸事象とともに現代の映画・文学・美術を論じている。さらには教育と政治というテーマも扱っている。そこで民主主義とは何か、平等とは何かということを繰り返し問い質している。
ここにランシエールの思想は現れている。つまりマルクス主義ではなく、デモクラシー理論へ、階級闘争ではなく、民衆へと、その主題が移っている。そして本稿でもこののちに検討するが、もうすでにここにアナーキーの萌芽が見て取れる。
さて、『不和あるいは了解なき了解』という本の主題のひとつは、まさに題名の通り、不和である。以下にこの本の主張をまとめる(注4)。プラトンのアルシ・ポリティーク、アリストテレスのパラ・ポリティーク、マルクスのメタ・ポリティークという3つの段階をランシエールは提示する。
ランシエールはまず、プラトンの政治を、原理(アルケー)に基づくアルシ・ポリティークと呼ぶ(注5)。そこでは民主制ではなく、理念に基づく共和制が対置されている。そこでは法が共同体とそのメンバーを完全に支配している。その法の下で格差の是正がなされることが期待されている。
プラトンはこのように、哲学的に政治の問題を解決しようとしたのだが、残念ながらそこで現実的に民衆の問題は解決されていないとランシエールは考える。そこで平等を理念として掲げた上で、それを現実的に実現しようとするアリストテレスが評価される。アリストテレスの、この理念を現実化する具体策は、民衆は誰でも競争をすれば、平等に支配者の地位に就くことができるような制度を創ることである。今の言葉で言えば、民衆は誰もが平等に政治に参加する権利を持っているということになる。これをランシエールはパラ・ポリティークと呼ぶ。民衆を権力の当事者としてずらしたということで、副次的かつ並行的な(パラ)政治学という意味である(注6)。
第3段階のメタ・ポリティークは、民衆とその自由を絶対的なものと考える。その定式化はマルクスに見られる。ここでは階級が政治を基礎付ける真理として取り挙げられる。プロレタリアートとは、分け前なき者の分け前を係争に掛ける方法である。
政治は偏在する。これがメタ・ポリティークの名前の由来である。
この第3段階に入って、不和が明確になる。それは自由を求める民衆が必然的に生み出した政治的状況である。それは政治の終焉と、同時に政治の哲学の可能性を示唆している。政治哲学の課題はまさに、係争を創り出すことである。またその役割は、不和(了解なき了解)を明らかにすることである。
そこからランシエールは、この係争の主体を探していく。それはかつてマルクス主義においてプロレタリアートと言われた存在である。マルクス主義において、それは運動の担い手であったが、ランシエールにとっては、それは民主制の主体と言うべきものであって、係争的な世界を構築し、分け前なき者の分け前を普遍化する。
かくして、第3番目のメタ・ポリティークはその限界を示し、そこからさらに新しい政治哲学の可能性が開かれる。それが民主制である。
さて、ジジェクはランシエールのどこを批判するのか(注7)。
まず『厄介なる主体』(1999)の第4章で、上記3つのポリティークが詳細に論じられる。ここで結構分量を使って論じられている。3つ、ないしはその後に来ると予想されるものも含めて、それらのポリティークの移行がていねいに論じられる。そこからひとつの結論が出てくる。それは全体主義の問題である。
全体主義は民主主義の論理の内部で起こった倒錯であるとジジェクは言う(p.343)。全体主義はまずアルシ・ポリティークにおいて、君主の権威が何か超越的な存在に由来することに根拠を持つ。第二のパラ・ポリティークにおいて、民主制が創出されるが、そこにおいては、本来空虚な権力の場が、一時的にある個人によって占有されている。人々はその個人を君主として、承認する。メタ・ポリティークにおいては、全体主義は超越した根拠も、民衆の承認も要らずに存在することが可能である。そこで主君は、「私はお前たちの最も深い部分にある渇望の化身なのである」と言う。ここで主君は、全体主義の論理に従って、主君たり得るのである。
全体主義はこのように、民主制の中から出てくるのである。民主制が直接的に生み出したものであるということが確認されるべきである。
ジジェクの考えでは、このメタ・ポリティークから本来、プロレタリアートという例外的な存在を主体に、階級闘争を激化させていくべきだということになるのだが、しかしランシエールは、この不和から階級闘争には進まず、民主制に留まる。それがジジェクを苛立たせる。
『迫り来る革命』(2002)において、ジジェクによる、ランシエールの民主制論批判がまとまって考察されている。
それはそもそも民主制において、権力の行使はひとつの例外であり、権力の空虚な場の一時的な占拠に過ぎないと考えられている。しかしそういう考え方は、ジジェクに言わせれば、拒否されるべきである。なぜなら、民主的な決定を通じて、誰を権力の側に組み込み、誰を排除するかという意思決定は、必ず民主的には行われ得ないからである。
ジジェクは民主制に対して根本的な疑問を呈する。社会革命が選挙という平和的手段を介して何ら痛みもなく達成されるのか。それは幻想に過ぎないのではないかということである。
さらに民主主義は私的所有に依拠しているのである。それは国家権力の一形態に他ならない。
そういう洞察をマルクスがすでにし得たのに、ランシエールはマルクス以前に戻ってしまっているとジジェクは考えているのである(p.224ff.)。
私はジジェクのランシエール批判は十分なものではないと思っている。選挙を通じての民主制については、ランシエール自身がすでに限界を感じていたからである。このことはこのあとで述べていきたい。
一方ラクラウは『ポピュリズムの理性』(2005)で、ジジェクを論じた後に、ランシエールを論じ、ふたりを比較している(注8)。
まずラクラウはランシエールを非常に高く評価している。ジジェクの考えには同意しかねると言ったあとで、ランシエールに対しては、自分の考えと近いと言っている。
ランシエールは不和という概念をマルクスから得たが、しかしマルクス主義からは離れる。そこでランシエールが得たのは、民衆の再発見である。これがラクラウのランシエール観である。
ランシエールは、『不和あるいは了解なき了解』で3つの段階を挙げ、あたかもその第3段階が最も重要であるかに見えるのだが、しかしランシエールは、ここでむしろ第2段階のアリストテレスの主張に戻るのである。ラクラウの言い方では、ランシエールとラクラウはともに、階級闘争概念(ジジェクはここに拘っている)を超えて、民衆を発見する。そこに集合的意志を見出す。つまり彼らはマルクス主義ではなく、民主制を重視するようになる。
ただしラクラウに言わせれば、ランシエールは、代表の概念が不十分である。そこがヘゲモニー概念に依拠して、ラディカル・デモクラシーを唱えるラクラウと異なるところである。
結局、ジジェクはランシエール理論の内、不和という観点を評価し、民主制に対しては否定的である。ラクラウはその反対だと言っておく。
さて、ランシエールの主たる主張が民主制論に尽きるのではない。すでにアリストテレスのパラ・ポリティークにランシエールが惹かれるのは、その平等概念である。これがメタ・ポリティークにおいて、またはその後の政治において、十全に開花されねばならない。
この平等概念が、C. マラブーによって称賛される。2022年の『泥棒! アナキズムと哲学』においてである(注9)。マラブーはこのアナキズムを主題とする本を、まずはアリストテレスから始め、レヴィナスやフーコーやデリダなどを論じ、最後の第 9 章でランシエールを取り挙げている。そこでマラブーはランシエールを持ち上げる。第 9 章の初めに「ランシエールはアナーキーについての偉大な思想家である」と書く。「ランシエールはアナキズムという考え方が持つ力を明確にしたただひとりの現代の哲学者である」とも書く。
それはランシエールのどの考え方を指しているのか。先に上げたプラトンのアルシ・ポリティークから、アリストテレスのパラ・ポリティークへの移行時に、そのアナーキーの理念が最も良く表れているとマラブーは考える。前者は、国民を階層化し、そこに秩序を創設し、現存の秩序を理想的な秩序に置き換える。後者は、理念を提示するのではなく、根源的な平等性を前提にした上で、それを実現すべく、和解不可能なものを和解させようとする。現実的に統治に関わるのが困難な民衆にしか、統治の正当性はないと考える。
マラブーが特にランシエールの主張の中で重視するのは、くじ引きによる代表制である。これは代議員や行政の長を、選挙ではなく、共同体の成員の中からくじ引きで、つまり無差別に選ぶという制度である(注10)。くじ引きは、統治したがる政治家を排除し、利益誘導型の政策を排除し、選挙に結び付く感情の高まりを排除するという理由で、ランシエールが主張するものだ。本来ならアリストテレスが、自らの主張をもっと突き詰めていれば、ここに至ったであろうとマラブーは言う。くじ引きだけが、ただひとつ可能な正統性なのである。
マラブーはしかし、アナーキーを否定的な言い方でしか語り得ないものとする。その支配 / 被支配の構造を超えた理念は、未来においてしか現れないとマラブーは言う。それは未来によってのみ、呼び覚まされるある種の記憶であるとも言う。
しかしこのくじ引き民主主義ならば、もうすでに一部は実現されているし、議論はたくさんあって、マラブーが言うほど実現が困難ではないように私は思う。ここで吉田徹のくじ引き民主主義論を挙げておく(注11)。この本には、くじ引き民主主義の歴史の話もあり、また現在行われている様々な試みについても詳しく展開されている。
もちろんくじ引き政治が行われることで、問題が一挙に解決する訳ではない。しかしくじ引きで代表者を選んで、そこでどう社会を構築すべきかということが議論されるというやり方でしか、解決案は出てこないのではないか。実現不可能な極論で人々に幻想を抱かせ、対立を煽るというタイプの政治が、今後ますます増えそうな時勢にあって、根本的な議論をするしか、次の時代の方向は見えてこないという、正論を打ち出したい。若者も老人も、富者も貧者も、等しい確率で選ばれるくじ引き民主主義以上に、平等で成員のやる気を引き出す制度はあり得ないだろうと私は思う。
実は近年、アナキズムが評価されつつある(注12)。まずはマラブーが数年前からアナキズムに言及し始めていて、その影響は明らかであろう。またD. グレーバーが『アナーキスト人類学』を出したのは2004年で、その2年後には邦訳が出ている。また日本では森政稔の仕事があり、さらに今年に入って重田園江が本を出している。
そしてこのグレーバーと森は、ランシエールを民主制と結び付いたアナキズム論を展開した思想家であると考えている。つまりマラブーが最初にそう言ったという訳ではない。ただマラブーは、自らの本の中の、ひとつの章をランシエールに割いて、ていねいに論じており、彼女の貢献度は大きいと思う。
またこの昨今のアナーキーブームは、バクーニンやクロポトキンのような古典的アナキズムとはだいぶ異なるものである。少なくとも暴動によってアナーキーの世界を達成すべきものと考えていはいない。
本稿の最後の議論として、生野克海を参照する(注13)。ランシエールの『不和あるいは了解なき了解』において、アルシ・ポリティークを超えていることこそがデモクラシーの統治の原理であるとされていた。それがパラ・ポリティークにおいて見られる。ここでアルケーがない、つまりアナーキー(an-arche)こそがデモクラシーの基礎である。それは統治の正統性を解体する、逆説的な統治として考えられていると生野は言う。ランシエールは、このアナーキー性を積極的に認めたのである。そのため、アナーキーは民主制の根底に据えられている。
生野はまずはランシエールに即して、その民主制論がアナーキーを示唆するものであることを明確にし、その上で、マラブーとラクラウのランシエール観を比較する。
一方でマラブーは、ランシエール理論では、政治にポリスが働いていると考える。抽選制の議論をしても、そこで代表という概念は肯定されており、一体なぜランシエールは代表という概念を拒否しないのかと、彼女は批判する。他方でラクラウは、先にも書いたように、ランシエールにおいては、代表の概念が曖昧であると批判する。つまり片や、代表という概念が存在するために批判され、片やその概念が不十分であると批判される。
なお、一言以下のことを付け加えておく。ランシエールは、アルシ・ポリティークからパラ・ポリティークの議論をした上で、さらにマルクスに代表されるメタ・ポリティークに話を広げる。しかしマラブーはそこを完全に無視する。つまりマラブーは第 3 のポリティークであるマルクス主義にまったく言及しない。彼女の考えでは、マルクス主義はアナーキーから遠く離れているものだから、言及に値しないのかもしれない。そしてランシエールをもマルクス主義者ではないと考え、そのアナーキーな感性を高く評価する。
しかしジジェクにとってランシエールは、結局はアルチュセール門下にあって、やがてそこから脱して、コミュニズムを論じた人である。その限りで有益な議論をしていたのに、段々とずれてしまったという不満が、ジジェクにはあるだろう。
またラクラウが見ると、ランシエールはラクラウと同じく、マルクス主義から民主制論へと移行した思想家であり、ただし、まだ議論が不十分だということになる。
私は3者ともランシエール解釈を、自分の主張にあまりに強引に近付け過ぎているという印象は否めないと思う。しかしランシエールが、コミュニズム、デモクラシー、アナキズムと3つの政治思想のそれぞれから評価されていることは間違いなく、そこにランシエールの面白さがあると考えるべきであろう。
さらに本シリーズでは、このあとバディウやデリダを論じるが、そこでもランシエールはコミュニズム、デモクラシー、アナキズムのそれぞれの関わりで参照される。多岐に亙る彼の理論はなお、魅力的である。
補足的に言えば、ランシエールには、さらに様々な顔があり、例えば『無知な教師』における教育論だとか、『感性的なもののパルタージュ』などの美学に、ランシエールの本領発揮と言うべき分野があるかもしれない。
注1
ランシエールの著作は以下の通り。
・ 「『1844年の草稿』から『資本論』までの批判の概念と経済学批判」(1965)『資本論を読む 上』アルチュセール編、今村仁司訳, ちくま学芸文庫, 1996
・ 『アルチュセールの教え』(1974) 市田良彦・伊吹浩一・箱田徹・松本潤一郎・山家歩訳、航思社, 2013
・ 『哲学者と彼の貧者たち』(1983)松葉祥一他訳、航思社、2019
・ 『無知な教師 知性の解放について』(1987)、梶田裕訳、法政大学出版局, 2011
・ 『不和あるいは了解なき了解 政治の哲学は可能か』(1995)、松葉祥一訳、インスクリプト, 2004
・ 『感性的なもののパルタージュ 美学と政治』(2000) 梶田裕訳、法政大学出版局, 2009
・ 『民主主義への憎悪』(2005)、松葉祥一訳、インスクリプト, 2008
注2
アルチュセール『未来は長く続く アルチュセール自伝』宮林寛訳、河出書房新社、2002
注3
市田良彦による、『アルチュセールの教え』の訳者解題を参照した。
注4
拙稿「老いの解釈学 第5回 プラトンとアリストテレス」を参照せよ。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/12474
注5
プラトン『法律』(上)(下)、森進一他訳、岩波書店、1993
注 6
アリストテレス『政治学』政治学(上)(下) 三浦洋訳、光文社、2023
注7
ジジェクは次の2冊を使った。『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心』I(1999)、鈴木俊弘他訳、青土社、2005、『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』(2002)、長原豊訳、岩波書店
注8
ラクラウ『ポピュリズムの理性』(2005)、澤里岳史他訳、明石書店、2018
注9
C. マラブー『泥棒! アナキズムと哲学』伊藤潤一郎他訳、青土社、2027
注10
ランシエールが明確にくじ引きに言及する箇所は意外にも少ないのだが、例えばマラブーは、ランシエールの『民主主義への憎悪』から、「民主主義は統治し得ないものであり・・・、あらゆる統治はこの統治し得ないものに基礎をおいている」と言う文言を引き出してきて、「任期は短く、再任できず、兼務も禁止される」くじ引きしか正当化され得ないとしている(『泥棒! アナキズムと哲学』p.340, 『民主主義への憎悪』p.69)。
注11
吉田徹『くじ引き民主主義 政治にイノヴェーションを起こす』光文社新書、2021
注12
アナキズムについて、マラブーの著書と生野の論文以外に、次の3冊を挙げる。
森政稔『アナーキズム 政治思想史的考察』作品社、2023
D. グレーバー、『アナーキスト人類学のための断章』(2004)高祖岩三郎訳、以文社、2006
重田園江『シン・アナキズム 世直し思想家列伝』NHK出版、2025
注13
生野克海「アナーキズム的代表 ? 」『年報政治学2025-I』筑摩書房、2025
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x14159,2025.09.10)