S. ジジェクを巡る思想家たち 第6回 É. バリバール

高橋一行

 
   このシリーズを、アルチュセールから始め、彼の影響を強く受けたラクラウ、ランシエール、バディウと順に扱ってきた。今回バリバールについて書く。これでアルチュセールと彼の学派と呼んでも良いだろう4人について、人物ごとに書くというスタイルを終え、次回からは、少し観点を変えて、なおこのシリーズを続けたい。
   今、私はアルチュセールの学派と書いたのだが、この4人は皆アルチュセールから、かなり早い内に離れている。忠実にアルチュセールの教えを今に至るまで守り続けている思想家がいない。そこがアルチュセールの思想の特殊性を表しているように思える。つまりマルクス主義の新しい理論を打ち出して颯爽として登場したのだが、それはマルクス主義の衰退の前のあだ花のように思えるのである。その教えを受け継いだ弟子たちが、たちまちの内に、師の批判を始め、マルクス主義そのものがその影響力を低下させる。
   またこの4人の中で、バディウだけは少し主張が異なるが、ラクラウ、ランシエール、バリバールは共通するところが多い。それはコミュニズムから民主主義理論へとまとめることができる。バリバールを取り挙げることで、今までのまとめができる。もちろんここが、ジジェクの最も批判するところのものとなるのである。
 
   バリバールは1942年にブルゴーニュ地方で生まれている。アルチュセールの『資本論を読む』(1965)に「史的唯物論の根本概念について」という論文を寄せたのは、23歳のときである。これは翻訳で240ページに上る大作である。平易な言葉で対象をていねいに分析する、彼のスタイルが、若い内からもう鮮明に現れている。
   ここでバリバールは次の様に、革命の主体について論じる。まず政治的主体をプロレタリアートとするのではなく、様々な政治的主体が絡み合って構造を創っていて、その帰結を見極めなければならないとしている。構造主義的な理解に基づいて、そういう結論に至ったと言って良い。
   しかもその主体は経済的関係から自律しているとされる。主体は政治の次元において、経済に規定されず、政治の論理で構成されるのである。
   つまりプロレタリアート独裁と経済を根底に置く、従来のマルクス理論はここで覆されている。バリバールはマルクスを、まずはアルチュセールの重層的決定理論に従って読む(注1)。さらにそこから次第にマルクスから離れていく。但し、マルクスを捨てるのではなく、マルクスを内在的に批判し、その階級国家論、経済に力点を置く見方から離反するのである。
   ここでウォーラーステインとの共著『人種・国民・階級: 揺らぐアイデンティティ』(1990)を参照する。ここで大衆という概念が論じられる。人種主義とナショナリズムの問題も取り挙げられている。ここに至ってバリバールは、プロレタリアート独裁というマルクスの基本的な考えから完全に離れる。大衆社会の出現とともに、その大衆が政治的主体と見なされる。このあと、詳細に引用する太田悠介の論文「階級から大衆へ エティエンヌ・バリバールのイデオロギー論をめぐって」の言い方を借りれば、階級から大衆へと、その分析対象が変わるのである。
   それは20世紀の後半の、中間層の拡大や、消費化社会、そののちの情報化社会への変化に対応する。
確かにマルクスの階級概念は、当時の歴史的な状況と合致する。そこではプロレタリアートは、普遍的な階級である。プロレタリアートの利益は普遍的な利益は一体化している。プロレタリアートはひとつの階級ではなく、大衆そのものであったのである。
   階級概念は捨て去られていない。ここでもアルチュセールの重層的決定論に従って、バリバールは国民国家の内部の大衆の構造を取り出す。
   これはひとつには、時代の変化に対応していると言って良いものである。またこれは、ラクラウとランシエールと同じ軌跡で民主主義理論に至ったと考えて良い(注2)。ただバリバールが最もアルチュセールに忠実だったということは、つまり先に述べたように、アルチュセールの理論を活用して、その批判をしたということは、アルチュセール理論の中に、その内部崩壊の要因が潜んでいたことを示していないだろうか。
   もうひとつは、マルクスの理論の中に、その理論が変化せざるを得ない要因を求めることができる。先に挙げた太田は、バリバールの未邦訳の著作を参照する。そこでバリバールは、マルクスとエンゲルスの著作をていねいに分析し、そのイデオロギー論を取り出す。ここで私は、太田が示した結論だけを引用する。取り挙げるのは、『大衆の不安』(La Crainte des masses 1997)である。そこでバリバールは、以下の4つの著作を分析する。それは『ドイツ・イデオロギー』(1845)、『共産党宣言』(1848)、『資本論』第1巻(1867)、『反デューリング論』(1877)である。
   まずイデオロギーというのは、社会の組織化を説明する原理である。その定義の上で『ドイツ・イデオロギー』を見ると、そこではプロレタリアートは、古い支配階級を打倒するという目的を実現する限りで、それは自らの特殊利益を実現するのではなく、その利益は普遍的な利益と一致するとされる。とすると、プロレタリアートは一階級ではなく、大衆としてのプロレタリアートになるのである。
   しかしこれはまだ、経済と政治の両方のレベルでうまく整合的に考えられたものではないとバリバールは見ている。実際、『共産党宣言』に至ると、革命は諸階級の対立・闘争の内部で考えられている。
   そしてようやく『反デューリング論』に至って、その主張する唯物論は、プロレタリアート・イデオロギーのことで、まさにここでこのイデオロギー理論が完成するとされている。
   しかしこれは、マルクスにおいて、すんなりと階級から大衆への移行が理論化されたということではなく、むしろマルクス主義の理論のアポリアとして、その問題が現れたのであると太田は言う。つまりマルクスは支配階級のイデオロギーを批判していたはずなのに、プロレタリアートのイデオロギーが支配的イデオロギーとなってしまい、大衆と接合できなくなってしまったと言うのである。太田はこのようにバリバールの主張を読み解いている。
   この問題は、『資本論』第1巻において、プロレタリアートという言葉はほとんど使われなくなるというところにも現れている。これは『ドイツ・イデオロギー』の理論的枠組みがすでに解決されているからであるとバリバールは考える。また大衆を資本の力で労働力に転化させることで、大衆のプロレタリアート化という現象は見られるのだが、しかしここでプロレタリアートと大衆が接合されたのではない。
   結局マルクスの理論では、階級によって大衆を包摂できなかったというのがバリバールの結論になる。つまりマルクスの理論が階級から大衆へと進んだのではなく、マルクス理論の内にある限界をバリバールが読み取って、こういう結論を導いたということなのである。太田はこのようにバリバールのマルクス主義論をまとめている。
   さて戦後のフランスにおいて、大衆の登場という社会的状況があり、マルクス主義は批判される。しかしそのために却って、マルクス主義のテキストを精緻に読み取り、現代の大衆理論を作るべきである。バリバールはそう考えるのである(注3)。
   ここで注目すべき、もうひとつの観点は以下のことである。バリバールの主張は、単なる20世紀後半の大衆社会論に依拠しただけのものではない。
   つまりバリバールの論じる国家は同質性から成る国家ではない。そこには移民と不法滞在者の問題がある。
   バリバールは人種問題を精力的に論じ始める。先にプロレタリアートとブルジョアジーの間の階級分裂を論じたが、ここではさらに国民と外国人の間の対立が問題となる。大衆の政治的主体性は、このように重層的に規定されている。これは大衆の異質性にバリバールが気付いたのだと言って良い。
   1962年にアルジェリア戦争が終結するが、フランスはそれでもまだ植民地の発想を残し、移民の広がりに対処し得ない(注4)。そこに問題がある。
   さらに市民社会の論理が検討される。それが国民を統合する機能を持つと同時に、排除の論理を併せ持つことに注意が必要である。
   このバリバールの大衆理論はスピノザ由来である。バリバールはスピノザをていねいに読み込む(注5)。
   スピノザの主張は、法権利と大衆の集合的な力を一致させることにあるとまずは言うことができる。大衆を、政治システムを形成する最も基本的集団であると考えている。バリバールはここに着目する。
   バリバールは、まずプロレタリアートという――マルクスの時代の――共同体の概念を解体する。そしてさらに今度は、国民や人種といった属性によって規定される現代の政治的集団の概念を解体し、大衆へ遡行するのである。
   ここで付言すれば、実はスピノザは、バリバールが着目する論点以上に興味深いものを持っている。それはスピノザが、カトリックのスペインまたはポルトガルから、プロテスタントのオランダに移住したユダヤ人商人の子孫で、ユダヤ教教会から破門されて、オランダ国内を放浪し、その中で近代国家の基礎付けを試みたという、その出自に関わることである。そこで考えられたのは、異質なものが異質なもののままで、統合されるひとつのシステムとして考えるというものである(注6)。
   さて、以上のようにバリバールの説をまとめて、ここからジジェクのバリバール評価を見ていく。ここで『厄介なる主体』の第4章を参照する。そこでは先のバリバールの主著『大衆の不安』が引用される。
   まずバリバールにおいて問われているのは、普遍の問題であるとジジェクは言う(p.305)。それは、抽象的な普遍と具体的な普遍の分裂である。つまり後者は具体的な形で構築された普遍の秩序だが、それが前者の、平等=自由という、要求によって切り崩されてしまうというのである。普遍が政治の究極的な地平であるとされることによって、そうなるとジジェクは考える。
   またもうひとつ批判されるのは、国家を「市民同士の討議の空間を保証していく現実に即して妥当なるもの」と見る見方である。現代社会の中で人権の要求を聞き届ける市民の対話の空間を保持したいとバリバールは考える。ジジェクはそのことを批判する(p.308)。
   普遍は次の3つの構造から成るとジジェクはまとめている。すなわちラカンの現実界、想像界、象徴界に対応する構造である。ここで現実界とは、グローバル化という現実の普遍であり、それは内部に、人びとを排除するプロセスを持っている。また想像界はイデオロギー的なヘゲモニーを生み出すフィクション化を形成する。それは国家や教会といった集団の中で、ひとりひとりが自由な主体であると見做すことを可能にするのである。そして最後に象徴界は、平等=自由という理想という普遍である。それが現在の秩序に対して抵抗を推し進めていくことになる。
   バリバールは十分自覚的という訳ではないが、事実上、ラカン理論に対応している。そこでは国民国家の欺瞞が覆い隠されてしまう。国民国家は、一方では特殊な民族という前提の上で、過度な愛国心を煽り、他方で市場経済制度に立脚している。愛国的な同一化は、市場を内と外に分け、そこで経済活動は愛国的な行為として正当化される。そこでグローバル化が進むと、市場は国家を超え、一方で原理主義的な共同体論が強くなる。ふたつのベクトルが逆方向に向かうことで、それぞれが一層その力を強めていく。ここで外国人排斥が起こる。これは大衆化された社会で個人主義が強まるからではなく、上述の通りの近代化の過程が、引き起こすのである(p.382f.)。
   そういう状況であれば、次のことは論理的な帰結となる。ジジェクは以下の主張を繰り返す(p.400とp.416)。国民国家では、普遍が具体的な普遍と自由と平等という抽象的な普遍に分裂している。前者はここでは想像的な普遍秩序と言い換えられる。そういう国民国家こそが批判されるのである。
   ジジェクにとっては、その国民国家における例外が普遍である。排斥される人々こそが真に普遍である(p.400)。ジジェクはあくまでプロレタリアート独裁を主張する。バリバールが市民社会から排除してはならないとする移民、不法滞在者が、ジジェクにとってのプロレタリアートである。ジジェクはバリバールよりも、もっと戦略的にその例外性を強調し、そこから普遍性に繋げている。しかし一般的に言えば、バリバールの方が穏健な民主主義者であり、ジジェクの方がアクロバティックな論理展開をしていると言うべきである。
   ジジェクはさらに、バリバールはアンチ・ハーバーマス主義を掲げているハーバーマス主義者と言う。これは言い得て妙であると思う(p.305)。
   バリバールの『ヨーロッパ市民とは誰か』(2001=2007)では、市民権を、国民国家にも、またEUにも押し込めることはできないとしている。国民国家だけでなく、EUもまた、境界からの排除を前提にしているからである。バリバールは、ヨーロッパの国民ではなく、ヨーロッパの大衆が議論されるべきであるとするのである。
   バリバールの主張、すなわち基本的には市民社会の論理を評価すべきであり、またEUにも肯定的であるべきが、ただその限界にも着目すべきであるという主張に対して、ジジェクは物足りなさを感じていると言うべきであろう。
   さらにもう一点、ジジェクのバリバール批判を挙げておく。
   バリバールは元々アルチュセールのお気に入りだったのに、バリバールの方は、アルチュセールの名前を出さないで、アルチュセール批判をするとジジェクは書く。バリバールは、アルチュセールに触れることなく、アルチュセールが重視したスピノザを参照し、同時にアルチュセールが嫌ったヘーゲルについても論じている(ジジェク p.226f.)。バリバールのスピノザ論については、すでに書いた。ヘーゲルについてバリバールは、デリダの追悼集『来るべきデリダ』に論文を寄せている。
   それは「普遍的なものの構築と脱構築 ジャック・デリダの感覚的確信」という論文で、普遍的なものについて、バリバールが考察している。
   これはデリダがその著作の何箇所かで、ヘーゲル『精神現象学』の「感覚的確信」を論じていることを取り扱っている。そこで普遍的なものの構築が論じられていると、バリバールは言う。
   ここでもバリバールは、詳細にデリダとヘーゲルを読み込んでいる。私はその結論部のみをここで紹介したいと思う。それは妥当なものである。ヘーゲルは普遍的なものと個別的なものとのパラドクシカルな統一について論じている。デリダはそれを、どう脱構築するかというときに、新たな発見と予測不可能な解釈の出来事が、絶えずそこに伴うということを忘れてはならないとしている。そのことを受けて、バリバールはその論文を次のように締め括る。「本当に困難な争点は、普遍性それ自体の内部にある衝突にあり、あるいはその内的な不一致から、もろもろの普遍的なものを構築すること、生産することにある」。バリバールは、デリダによるヘーゲルの脱構築のポイントを良く押さえている。そしてバリバールの民主主義論に見られる普遍性の論理はここから来ているし、またジジェクがこだわるのもこの点なのである。
 
   ここでまとめに入る。
   バリバールの理論の特徴はまず、マルクスの精緻な読解に基づく。それにスピノザ理論が加わる。そしてフランス社会に大衆化社会が進行し、移民の増大とそれに対する排斥運動の激化があるという判断をする。さらにはそれらの状況に対するフランス共産党への批判をする。こういったことから、バリバールの主張は成り立っている。
   バリバールの文体は平易である。ジジェクやバディウの様に難解な用語や概念を使わない。しかし逆にジジェクやバディウの場合、私たちはその主張に一旦馴染んでしまえば、言っていることは良く分かるのだが、それに対してバリバールは、どれも説明が長く、時間を掛けて記述を積み重ねていると思われるのだが、しかし何が言いたいのか、明瞭でない。対象をていねいに論じていて、それは評価すべきことなのだが、だから何が言いたいのかということになる。そういう印象をバリバールに対して、私は持ったのである。
   今回は、このシリーズのまとめであるということをあらためて振り返りたい。つまりラクラウ、ランシエールと来て、バリバールで民主主義理論は完成する。最も若く、最も生産的な仕事をするバリバールによって、それはなされたのである。そしてそれは穏健なものである。むしろプロレタリアート独裁というコミュニズムにこだわるバディウとジジェクの方が特異であると言うべきであろう。
   またジジェクのバリバール批判についても、ラクラウやランシエールやバディウを批判する際についでにバリバールにも言及するという感じがある。『厄介なる主体』でも、主として論じられるのは、ラクラウとランシエールとバディウである。バリバールについては、序でに言っているだけだ。
   つまりジジェクにしてみれば、バリバール以前に、もう論点は出尽くしていたということになるのかもしれない。
   結局ジジェクのバリバール批判は、普遍性としての民主主義批判に尽きるであろう。そのことをここで確認したい。そしてそれに付随する、もうひとつの批判は、その社会の目指すものとされる平等概念に対するものである。
   このことは、今までも何度も書いてきた。直近ではそれは「バディウ論」にある(注7)。ここで今までの議論に加えて、もう一点論点を付け加えたい。
   ジジェクに言わせれば、バリバールの平等=自由は、ブルジョアの価値にほかならない。つまり平等という概念は、実際にはブルジョアによる階級抑圧の手段である。それはブルジョアによる統治の装置である。その際に、マルクスの考えていた社会の理想が、「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて受け取る」というものであるのなら、それは能力と必要度の不平等を前提としていることになる(マルクス p.28)。
   かくしてジジェクは、ラクラウとランシエールに対するのと同じく、バリバールの民主主義国家論を批判し、バディウに対しても言っているように、バリバールの平等概念の重視を批判する。
   最後に補足する。このシリーズでは、ジジェクを巡る思想家を取り挙げており、その一環として、バリバールを取り挙げている。バリバール自身の主張の意義を問い質しているのではない。彼の移民論が、2025年、世界的に移民排斥が強まっている現在、どのくらい有効なものかという問いは興味深いものではあるが、これは後日の課題としたい。
 

1 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第2回 アルチュセール」
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14033
2 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第3回 E. ラクラウ」
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14091
 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第4回 J. ランシエール」
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14159
3 『マルクスの哲学』。ここにもマルクスのイデオロギー論がある。
4 『市民権の哲学 民主主義における文化と政治』。ここに市民権や、アルジェリアの問題がある。
5 バリバールのスピノザ論は次のふたつの論文を参照した。『真理の場所/真理の名前』第1章「ホッブズとスピノザ」、及び「政治的なるもの、政治 ルソーからマルクスへ、マルクスからスピノザへ」。
6 拙著『ホッブズからヘーゲルへ 全体論の可能性』第3章
7 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第5回 A. バディウ」
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14289
 
参考文献
バリバールは次の著書を使った。
単著書
『マルクスの哲学』(1993)、杉山吉弘訳、1995
『真理の場所/真理の名前』(1994)、堅田研一他訳、法政大学出版局、2008
『市民権の哲学 民主主義における文化と政治』(1998)、松葉祥一訳、青土社、2000
『ヨーロッパ市民とは誰か 境界・国家・民衆』(2001)、松葉祥一他訳、平凡社、2007
共著書及び論文
「史的唯物論の根本概念について」アルチュセール『資本論を読む』(1965)、今村仁司訳、筑摩書房、1997
ウォーラーステインとの共著『人種・国民・階級: 揺らぐアイデンティティ』(1990)、和歌森章孝他訳、大村書店、1995
「政治的なるもの、政治 ルソーからマルクスへ、マルクスからスピノザへ」(1995)、水嶋一憲訳、『現代思想』Vol.24-14, 1996
「普遍的なものの構築と脱構築 ジャック・デリダの感覚的確信」『来るべきデリダ』(2007, 講演は2005)、藤本一勇監訳、明石書店、2007
その他
マルクス, K., エンゲルス, F., 「ゴータ綱領批判」『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』全集刊行委員会訳、大月書店、1977
太田悠介「階級から大衆へ エティエンヌ・バリバールのイデオロギー論をめぐって」『クァドランテ』No.15, 2013
高橋一行『ホッブズからヘーゲルへ 全体論の可能性』信山社、2001
ジジェク、S., 『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心 I』(1999)、鈴木俊弘他訳、青土社、2005
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x14357,2025.11.10)