「戦前回帰」を考える(五)――「教育勅語」は「国家神道」を目指したものだったのか 2018/02/18 by 相馬千春 One comment 相馬千春 (四)より続く。 八、島薗進「国家神道」論・「教育勅語」論への疑問――内村鑑三『不敬』事件を手掛かりとして―― 1. 島薗の考えにたいする疑問点 前回の最後に、『愛国 Continue reading →
「戦前回帰」を考える(四)ーー中島岳志/島薗進、『愛国と信仰の構造』を手掛かりに 2018/01/12 by 相馬千春 No comments 相馬千春 (三)より続く。 前回は、丸山眞男などのーー比較的旧世代のーー「超国家主義」論を手掛かりに、超国家主義について考えましたが、今回は島薗進と中島岳志のーー比較的最近のーー議論を手 Continue reading →
「戦前回帰」を考える(三)――昭和の「超国家主義」とは何だったのか? 2017/09/05 by 相馬千春 One comment ――丸山眞男、橋川文三、久野収と鶴見俊輔の「超国家主義」論を踏まえて―― 相馬千春 (二)より続く。 五、「超国家主義」をどう理解するか? 本稿は<「戦前回帰」を考える>という Continue reading →
「戦前回帰」を考える(二)――「教育勅語」から「霊魂主義」的国体論へ 2017/07/16 by 相馬千春 One comment ――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を手掛かりに―― 相馬千春 (一)より続く。 三、「教育勅語」から「霊魂主義」的国体論へ 「教育勅語」の策定に関わった井上毅や元田永孚は〈儒 Continue reading →
「戦前回帰」を考える(一)――「教育勅語」の何が問題か? 2017/05/30 by 相馬千春 No comments ――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を手掛かりに―― 相馬千春 一、「教育勅語」をどのように批判するか? 最近「教育勅語」が話題となったのは、園児に「教育勅語」が暗唱させる幼稚園の存在が明ら Continue reading →
「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの 2017/01/15 by 相馬千春 No comments 相馬千春 一、 「日本的に考えたり感じたりする」〈私〉とは? 昨年、浦上玉堂の山水画を前にして、<「私」というものが画の中に溶け込んでしまう>経験をした(1)とき、<私はやはり東洋あるいは日 Continue reading →
浦上玉堂――「私」が溶解していくその世界 2016/12/27 by 相馬千春 No comments 相馬千春 浦上玉堂を久しぶりに想い出したのは、森忠明さんの新著『空谷跫音録――ともきたる』を拝見したときです。 「夫(か)の虚空(キョクウ)に逃(のが)るる者は……人の足音、跫然(キョウゼ Continue reading →
この頃のこと、雑感。――綿井健陽氏、SEALDs、そしてママたち―― 2015/08/29 by 上之園幸子 No comments 上之園幸子/相馬千春 皆様 「ノー・ウォー横浜展」、若生さんの作品も展示されていたのですね。教えていただけていたら、16日は鎌倉まで行ってたので、行けたかも。残念!でもこの記事から伝わってきます。 25日中野ゼロで、DA Continue reading →
反知性的な政治にどう対抗するのか?――国会前で考える 2015/07/17 by 相馬千春 No comments 相馬千春 7月15日の夜、私も国会前に行ってきました。例の「戦争法案」を止めるために。 日本人は、永年「政治は政治家にお任せ」という人が多かったから、「国会前まで行かなくちゃ」なんていうのは、極少数だったと思いますが、こ Continue reading →
ヘーゲル「論理学」の「否定の否定」と「無限判断」の解釈について――高橋一行『他者の所有』を読む① 2015/03/18 by 相馬千春 No comments 相馬千春 高橋一行氏の『他者の所有』(御茶の水書房)について、何回かにわたりコメントを書くつもりですが、初回は、高橋氏のヘーゲル「論理学」(1)の――そのうち「定在」と「定在の判断」の――解釈を扱います。 Continue reading →