相馬千春
先に掲載した「リベラル・左派の何が問題か?」の(七)と(八)では、主に丸山真男によって「武士のエートス」とはどんなものかを見たのですが、それを通して逆に、近・現代の日本が抱えている根本的な問題を覚ることができた、と私は思っています。
その根本的な問題とは何かといえば、近・現代の日本には自らの社会を根底において支える「エートス」が欠如しているということに他ならないのですが、さて、このことから<武士のエートスを復活させよう>という結論が出るのであれば、話は簡単です。しかしそういう『結論』に対しては、<武士のエートスなんて非民主的である>と言われるでしょうし、せっかく『西欧化』したのに、日本的なものに回帰するのは嫌かもしれない。またなにより「武士のエートス」的なものの復活が可能であるか、それ自体が疑問です。
1. 「精神的貴族主義」とは?
それでも社会あるいは政治体制には、なんらかの「エートス」が不可欠であることは否定できないでしょう。先に丸山真男が「精神的貴族主義」を唱えていることを紹介しましたが(注1)、リベラル・左派の運動が「理論と実践」で事足りるのであれば、丸山もこんなことを言う必要はなかった。「理論と実践」を支えるべき「エートス」の必要性を痛感したからこそ、丸山は「精神的貴族主義」を提起したのではなかったのか。
それでは丸山のいう「精神的貴族主義」とは何なのか? 丸山は詳しく説明していませんから、推量するほかありませんが、丸山が念頭においている「貴族」は――まさか日本のお公家様などではないから――西欧の貴族であるのは確かで、「ノビレス・オブリージュ」という言葉が使われていることからも、そう推量できる。
「ノビレス・オブリージュ」と言うと、「アンシャン・レジーム」の時代を想い起しますが、丸山は、全共闘の学生たちをゲルマン民族になぞらえた際、自身をローマ貴族になぞらえた(注2)とも言われていますから、「貴族」というのは古代ローマ貴族かもしれない。そうすると、その「貴族主義」の核にある精神は「ストア主義」ではないか?
こんなふうに論を運ぶと、<お前の話はストア主義を論じたいがためのコジツケじゃないか>と言われるでしょうが、アンシャン・レジーム下の貴族主義にしても「ストア主義」の流れを汲んでいますから、西欧の貴族主義の把握を「ストア主義」から始めてもおかしくはない。
2. 「精神的貴族主義」はナンセンスか?
さて「ストア主義」について考える前に、ここでリベラル・左派から出されそうな批判を考えてみます。先ず<「貴族主義」も、武士のエートス同様、身分制を前提にしているのだから、非民主的なものである>という批判が出てきそうです。あるいは<リベラル・左派の運動は、武士や貴族のエートスではなく民衆のエートスを基礎に据えるべきである>と。
このような批判はたしかに一理あるようにも思えますが、これに回答するためには、「貴族主義」を考察することが必要なので、「貴族主義」の考察に先立って、こうした批判に回答することは出来ない。しかしあらかじめ、次のような視点を提示することはできるでしょう。
すなわち第一に、はたして「民主制」というものは「貴族主義」などの『非民主的』な契機を完全に排除して成り立つものなのか。むしろ丸山の提起は、「民主制」に対する「平板な」理解に対する異議ではないか。
第二に、エートスというものは――「貴族主義」であれ、「武士道」であれ、あるいは「百姓」のそれであれ――歴史的に形成されたものであって、必ず否定的な側面を抱えているだろうが、だからといって、既成のエートスを全否定して、「正しいエートス」をゼロから創造することなどできないのではないか(注3)。
そして第三に、<民衆のエートスを基礎に据えるべきだ>と言われるが、少なくとも近世・近代日本の民衆のエートスは、主体的に政治過程に関わるというより、政治過程の外部に自らを置くという傾向が強いのではないか(注4)。そうであれば、日本の民衆は、主体的に政治過程に関わるエートスを自らの外部から調達する必要がでてくる。
さて、これらの点については――詳しく論じると当面の議論から脱線してしまいますから――これくらいにして、以下では「ストア主義」とは何かを見てみることにしましょう。
もっとも「ストア主義」を問題にすると言っても、以下は、もっぱらヘーゲルの「ストア主義」論に依存したものであること、またヘーゲルが――「ストア主義」とともに――論じてている「スケプシス主義」と「不幸な意識」についても瞥見しておく必要がある点は、予めお断りしておきます。
3. ヘーゲル『精神現象学』 「VI 精神」の 「ストア主義」把握
さてヘーゲル『精神現象学(注5)』の「VI 精神」では、西欧的な精神の諸形態が叙述されるのですが、それらは意識の諸形態であるだけではなく、「世界の諸形態」でもあって、一つの形態が没落することによって精神は次の形態に到ることになります。
最初に登場する「世界」は古代ギリシャのポリスの世界(「人倫の世界」)ですが、その「人倫的な精神」は「美しい調和と静けき均衡」を持っている。しかしそこには「矛盾と破滅の萌芽」も孕まれていて、「人間の掟」(国の掟)と「神々の掟」(「家族の掟」)との矛盾が、やがて「人倫の世界」を没落させることとなります。
ここで「家族Familie」の掟が「神々の掟」と言われるのは、家族が神々たち=死者たちから成り立っているからですが、これは日本のお墓――何某家の墓――を思い出すと理解しやすいでしょう。この場合「家」をなしているのは御先祖様なのですから。ここで確認しておくべきは、この「人倫の世界」=ギリシャのポリスの世界では、いまだに個人というものは成立していないという点です。すなわち「人倫の世界においては、個別的なものが現実に妥当しまた存在したのは、家族の普遍的な血統としてであるにすぎない」のです。
しかしこうしたポリスの世界が没落して解体されると、ポリスにも家にも帰属し得ないアトム=個人たちが形成される。そしてそのアトム=個人たちを統一するものが「精神を欠いた共同体」、すなわち<ローマ帝国>です。
この共同体のうちでは「今や諸個人が…実体と見做され」、「自我が即且つ対自的にあるところの実在として妥当することになる」のですが、このように諸個人は承認されているように見えても、それは形式的なことに過ぎない。つまり諸個人は人格として所有権を認められているが、所有の内容はこの形式には属していない。
この内容の方は、ローマ帝国という世界の「主人(Herr)」、すなわち皇帝に属している。つまり諸個人の現実の所有は皇帝という「世界の主人」の恣意に依存している。したがって「或る個人を人格(Person)と呼ぶことは、軽蔑の表現」であって、皇帝という「主人」に対して、諸個人は「奴(Knecht)」の位置に置かれる。
このようなローマ帝国の世界をヘーゲルは「法的状態(Rechtszustand)」と名付けるのですが、ヘーゲルは「ストア主義(Stoizismus)」をこの「法的状態」に対応する精神として位置づけています。すなわち「ストア主義とは、没精神的な自立性という法的状態の原理をその抽象的な形式にもたらすところに成り立つ意識以外のものではない」と。
しかしヘーゲルの「ストア主義」の把握を紹介する前に、やるべきことがありました。というのは、私たちはまだ、<ストア派がどんな主張をしていたのか>を見ていないのですから。
4. ヘーゲル『哲学史講義』の「ストア主義」把握
そこでまず彼らの主張を、ヘーゲル『哲学史講義(注6)』で、確認しておきましょう。
ヘーゲルによれば、ストア派の道徳哲学の一般的な原理は、“人は自然にしたがって生きねばならない、すなわち徳にしたがって生きねばならない”というものなのですが、これは、ストア派が“(理性的な)自然が徳へと私たちを導く”と考えることによっています。
またストア派は「人間のもろもろの行為」という「特殊的なもの」のうちにおいて「普遍的なものを保持すること」を目指すが、ヘーゲルによれば「この普遍的なものはまだいかなる内容ももたず、不明確である」。つまりストア派の論理は形式論に留まっている。
さらにヘーゲルは、ストア派の“人間と〔とりわけ〕賢者はひたすら理性にしたがって振舞え”という思想について次のように言います。
「理性にしたがって振舞うということは、・・・人間の自分の内への抽象化、人間の自己のうちへの集中化を含むので、その結果、直接的な衝動や感覚などにかかわるすべてのものを断念し、無関心という態度をとることになる。自分をもっぱら自分のうちに結合し、思惟によって自分を純粋な自分との一致のうちで保持するというこのまったく形式的な原理において、もろもろの特殊な享楽、好悪、激情、利害が断念され、自分にはどうでもよいという無関心が生じる。ここにストア派が特徴とする生きる力、内面的な自立性、自分の内なる人格(Charakter)の自由(Freiheit)が見られるのである。」(岩波版全集『哲学史中巻の二』p.198)
「このようにストア派はまさに内面的なものと自分との一致を本質的なものとして置いた。・・・人間はただ、どこまでも自分自身と同一であり、自分を同一化し、その同一性を保持し、自由であることだけを求めねばならないというストア派のこの断固たる態度は、彼らの際立った特徴である。」(同上p.199)
以上の引用で、ストア派とはどんな人たちか、おおよそのイメージは掴むことができると思いますが、最後にストア派の思想を端的に示している言葉を引用しておきましょう。
“賢者はたとえ手かせ足かせにつながれていても自由である。なぜなら彼は恐怖や欲情に心を奪われることなく、自分自身の心にもとづいて行為するからである。”(同上p.207)
5. 『精神現象学』 「IV自分自身だという確信の真理」を読む
さて『精神現象学』に話を戻しますと、そのVI「精神(Der Geist)」に先行して、I~IIIで意識Bewußtsein、IVで自己意識Selbstbewußtsein、Vで理性Vernunft――これらは精神の契機である――が論じられていますが、このうちIVでもストア主義が論じられています。(IVの標題は「自分自身だという確信の真理」ですが、以下では「IV自分自身だという確信の真理」を「IV自己意識」と略記します。)
その「IV自己意識」では、「自己意識の自由」が論じられるなかで、「自己意識のかかる自由は、自覚的な現象として精神史において登場したときには、・・・ストア主義と呼ばれてきたものである」と言われる。これは、私たち西欧文明の外部にいる者にとって、重要な指摘でしょう。なぜならこの指摘は、<ストア主義の理解を抜きにして西欧的な「自由」を把握することは困難である>、あるいは逆に<ストア主義の理解のためには「自己意識」とその「自由」の把握が不可欠である>と言うに等しいでしょうから。
そこで、私たちも、ヘーゲル『精神現象学』の「IV自己意識」の読解によって、「自己意識」とその「自由」の把握を試みるのですが、議論がどうしても難解なものになってしまうことは、お許しください。
さて、IV「自己意識」論は、冒頭部と「A 自己意識の自立性と非自立性、主であることと奴であること(Herrschaft und Knechtschaft)」(以下では「A(主と奴)」と略記)と「B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義(Skeptizismus)と不幸な意識(das unglückliche Bewußitsein)」から構成されていますので、まず冒頭部の叙述から見ていくことにしましょう。(以下では、「 」はヘーゲル『精神現象学』からの引用であることを、[ ]は引用者による補足であることを、〈 〉は引用者による要約であることを示しています。)
a. 「IV自己意識」 冒頭部を概観する
「自己意識とは・・・感覚的な知覚的な世界の存在から反省することであり、・・・他的存在から還帰すること(Rückkehr)であるから、運動である」。もし他的存在が存在しなければ、「自己意識はただ「自我は自我である(Ich bin Ich)」という運動を欠いた同語反復であり」、「自己意識は自己意識ではない」。
「自己意識に対してはひとつの存在としての他的存在があり」、「これが即ち区別された契機[第一の契機]である」が、この「第一の契機をもって見れば、自己意識には感覚的世界の広がりの全体が維持せられている」。
「感覚的世界は自己意識にとってひとつの存立であるが、この存立はただ現象たるにすぎず」、「自己意識の己れ自身との統一」が「自己意識にとっては本質的」である。
このことは「自己意識が欲望(Begierde)一般であること」を意味していて、それの「直接的な対象」は、「否定的なものという性格」を与えられている。
さらに「我々」(『現象学』の叙述者)からすると、「対象も自分のうちへ還帰している(zurückgegangen)」のであり、このことによって「対象は生命となっている」。
「III悟性」の結果として「IV自己意識」の端緒にあるものは、『無限性(Unendlichkeit)(注7)』あるいは『概念(Begriff)』(とヘーゲルが言うもの)ですが、それは「区別せられえぬものを区別することであり、言いかえると、区別のあるものを統一すること」である。
しかしこの統一も「己れを己れから拒斥して」、二つに分かれ、「自己意識と生命(Leben)との対立」となる。ここで、自己意識のほうは「区別の「無限な」統一であることを自覚している統一」であるが、生命のほうは「この統一たることを自分では自覚していない統一」である。ここで生命論が展開されるのですが、いささか難解ですので、この部分は(注8)に回します。
「IV自己意識」の出発点には「概念」あるいは「無限性」と言われる「無媒介な統一」がありましたが、「生命」論の結果として、いまやこれとは別の統一が成立している。この別の統一とは「形態化と[生命の]過程」という「両契機の統一」のことですが、それは「すべての契機を止揚せられたものとして内含している普遍的な統一」である。この統一は「類(Gattung)」と言われるのですが、生命は自らが「類」であることを自覚していないのに対して、意識は自らが「類」であることを自覚している。この点をヘーゲルは指摘し、これを踏まえて「IV自己意識」冒頭部は次の展開に入ります。
「単純な自我が、このような類であり単純な普遍者であるのは、ただ自我が諸契機の否定的本質であることにのみよっており、自己意識が、[他のもの、すなわち自立的生命の]自分自身であることを確信しているのは、他のものを撤廃すること(Aufheben)にのみよっている。」
「自己意識は対象への否定的関係によってむしろ対象を再び生み出し、欲望を再び生み出す」。そこで欲望としての自己意識は、その「満足において自分の対象の自立性を経験する」。そして「対象の自立性を顧慮すると、自己意識が満足に到達しうるのは、対象自身が自分のほうで否定を実行してくれる場合のみ」である。しかし「対象が己れ自身において否定でありながら、しかも同時に自立的であるときには、そのような対象は意識である」。したがって「自己意識はその満足を他の自己意識においてのみ達成する」ことになる。つまり、自己意識の対象は「他の自己意識」となっている。
ここでヘーゲルは、これまでの展開を総括して、「以上で述べられた三つの契機において初めて自己意識の概念が完成される」と言う。すなわち「(a) 純粋な区別のない自我は自己意識にとって最初の無媒介的な対象である。(b) しかしこの無媒介態はそれ自身絶対の媒介態であり、自立的な対象の撤廃としてのみあり、欲望である。欲望の満足は自己意識の自己への還帰(Reflexion)であり、[客観的]真理となった確信であるが、(c)しかし、この確信の真理はむしろ二重の還帰(Reflexion)であり、自己意識の二重化である」と。
そしてこの総括を経て、ヘーゲルは「ひとつの自己意識がひとつの自己意識に対して存在する」ようになってはじめて「自己意識がじっさいに存在する」ことを確認し、「自己意識が対象であるときには、この対象は対象であると全く同様に自我でもある」と言います。
こうして、「「我々」には・・・精神の概念が現在している」のですが、「この絶対的な実体」すなわち精神は、「我々である我と我である我々(Ich, das Wir, und Wir, das Ich ist)との統一」として把握されます。
b. IV 「A(主と奴)」を概観する
次に「A(主と奴)」の冒頭部では、「自己意識はただ承認せられたものとしてのみ存在する」と言われて、「承認(Anerkennen)」というキイ・タームが登場してくるのですが、それが何を意味するのか、明らかになるのはしばらく先です。
続いてヘーゲルは〈二重化する自己意識の統一という概念、すなわち「無限性」の概念は、多くの側面と多くの意義との絡み合いであり、その諸契機は一方では厳格に分析されなくてはならないが、他方では区別のないものとして、反対の意味において、認識せられなくてはならない〉と言い、〈この精神的統一の概念を分析すると、「我々」には承認の運動が現われてくる〉とも言います。
以下ではこれに続く叙述を追っていきますが、金子武蔵訳と対照しやすいように金子が挿入した標題を〔 〕で示しておきましょう。
〔一 承認の概念〕
ここで、ヘーゲルは「自己意識の統一」の諸契機の「二重の意味」を指摘します。この個所や先の生命論は、「IV自己意識」の中でも難解な個所だと思いますが、それは(注7)でもふれた『無限性』あるいは『概念』(とヘーゲルが言うもの)の展開が前面に出ているからでしょう。これをここで扱うと収拾がつかなくなりそうですから、この箇所は(注9)に回すことにします。
さて、諸契機の「二重の意味」についての論述を経て、ヘーゲルは次のように総括的な把握を提示します。
〈自己意識は両極[二つの自己意識]に分解し、各極は各自の規定態を相互に交換して、全く反対の極へと移って行く。各極は他極にとって[推論の]媒語であり、この媒語を介して各極は己れ自身との媒介的関係に入り、また己れ自身と推理的に連結する(注10)。両極は互に承認しあっているものであることを互に承認しあっている。〉 そして〈今や、この承認の純粋概念が考察せらるべきである〉とされる。
〔二 承認のための生死を賭する戦い〕
〈自己意識の絶対的な対象は自我であり、自己意識はこのような直接態においては、個別者(Einzelnes)である。他者は自己意識にとっては否定的なもの、非本質的対象であるが、他者もひとつの自己意識であるから、ひとつの個体(Individuum)がひとつの個体に対立して登場することになる。しかし、それらのおのおのは、他者についての確信をえていないから、自分自身についての確信もまだなんら真理を持っていない。〉
それでは、どのようにしてこの「自分自身についての確信」は求められるのか。
〈各人が自己意識だけの純粋抽象であるのを呈示するのは、自分がいかなる限定的な定在にも、生命にも緊縛されていないのを示すことによってであるから、両者の関係は、両者が生死を賭する戦いによって自分自身の、またお互の証しを立てることとなる。生命を賭さなかった個人も人格として承認せられるが、自立的な自己意識としては承認せられない。各人は、他者の死を目指しても行かねばならない。なぜなら、各人にとって他者は自分自身より以上の意義をもつものではないから。〉
〈しかし死によって証しをすることは、生じてくるはずの真理のみならず、各人の自分自身だという確信をも撤廃してしまう。なぜなら死は意識の自然的な否定であって、承認に要求せられている意義を欠いているから。両人の為したことは抽象的な否定であって、意識の否定ではない。意識は撤廃されたものを保存・維持し、自分の撤廃されたことをも越えて生きるものである。〉
こうして〈自己意識には生命もまた本質的である〉ことが明らかとなります。
〈最初にあった単純な自我という直接的な統一の解体によって、一方にはひとつの純粋自己意識が、他方にはひとつの意識が定立せられている。この後者の意識は純粋に自分だけであるのではなく、他方の意識に対して存在する意識としてあり、物であるという形態にある。〉
〈両方の契機とも本質的ではあるが、両者は最初には等しくなく対立していて、両者の統一への還帰(Reflexion)はまだ生じてはいない。〉
〈一方は自立的意識であって、この意識にとっては自分だけでの存在が本質であり、他方は非自立的意識であって、この意識にとっては生命ないし他者に対する存在が本質である。前者は主、後者は奴である。〉
〔三 主と奴〕〔α 主であること〕。
〈主は、欲望の対象としての物と物を本質的なものとしている意識との両者に関係するが、主は、(a)自分だけでの存在であると同時に、 (b)今やただ他者を媒介としてのみ自分だけで存在することを得ている。〉
したがって〈主は、(a)無媒介に両者に関係すると共に、(b)両者の一方を介して他方に媒介的にも関係する。この媒介的関係には二つあって、第一に主は自立的な存在(物)を介して奴に媒介的に関係する。〉
〈第二に主は奴を介して物に媒介的に関係する。奴も物に否定的に関係し物を撤廃するが、しかし同時に物は奴に対して自立的でもあるので、奴は物を無きものとすることはできず、物を労働の対象とするだけである。〉
これに対して〈この媒介(奴の労働)によって、主は享受することをうる。物と自分との間に奴を挿入した主は、物をただひたすら享受し、物の自立性の側面はこれを労働の対象とする奴に委ねる。〉
〈これらの両契機において、主は奴によって承認せられているが、ここで生じているのは一面的で同等ではない承認である〉。
〈この関係においては、主が己れを完成したはずのその直下に主において生成しているのは、むしろ非自立的な意識(奴)である。〉
だから〈自立的意識の真理であるのは奴としての意識である〉わけです。
これにたいして〈奴としての意識は最初には自己意識の真理としては現れないが、奴であることもまた完成したときには自分が直接にそうであるところのものとは正反対のものに転じて、真の自立性となる。〉
〔β奴の畏怖と奉仕〕
なぜかと言えば、〈奴であることも、死という絶対的主人の畏怖を感じたことによって、純粋の否定性と自分だけでの存在というこの真理をじっさいには自分自身に即して具えている〉からです。
〈畏怖を感ずることで、奴の意識のなかですべての固定したものは揺り動かされている。この絶対的な流動化こそは自己意識の単純な本質、絶対否定、純粋な自分だけの存在(対自存在)であり、この存在が奴の意識に即してある。〉
〈純粋な自分だけの存在という契機は、奴の意識に対してもある。なぜなら、主においてこの契機は奴の意識にとって自分の対象だから。〉
〈さらに奴の意識は、奉仕において、自然的な定在への己れの執着をあらゆる個々の契機に関して撤廃することを現実に実行しもする。〉
〔γ奴の形成の労働〕
〈絶対的な威力を、畏怖において全般的に、奉仕において個別的に、感ずることは自己における(即自的な)解消にすぎない。しかし労働を媒介とすることによって意識は己れ自身に至る。〉
〈対象への否定的関係は対象の形相となり、持続的なものになる。だから労働する意識は自立的な存在を自分自身だとして直観するに至る。〉
〈形成することは奉仕する意識の最初の契機である畏怖に対する否定的な意義をもまたもっている。なぜなら、物の造形においては、奉仕する意識にとって自分自身の否定態が対象となるのは、この意識が対立して存在する形相を撤廃することによっているから。〉
〈奉仕する意識にとって、対象的な否定的なものは、前には、この意識が戦標したところのよそよそしい実在にほかならなかった。しかし今や形成において奉仕する意識は、このよそよそしい否定的なものを破壊し、己れをかかる否定的なものとして持続の境地のうちへと定立し、自ら自覚的に自分だけで(対自的に)存在するものとなる。〉
いまや〈造形(形成)において自分だけでの存在は、奉仕する意識に対して、自分自身のものとしてあるようになり、この奉仕する意識自身が即自且つ対自的にあるということが意識される〉。
〈形相(Form)は外へと定立せられることによってこの意識にとってこの意識とはちがった他者となるのではない。なぜなら、まさに形相こそは、この意識にとって[客観的]真理となったところのこの意識の純粋な自分だけでの存在だから。〉(この個所は、アーティストとその作品を例として考えると判り易いでしょう。)
〈だから自己を自己自身で再発見することによって固有の意味が労働のうちに生まれる。〉
〈しかし、奉仕する意識が己れのうちに還帰(Reflexion)するには、造形と同じく、畏怖一般及び奉仕一般もまた必要であり、しかも両契機とも普遍的な仕かたにおけるものであることが必要である。もしも奉仕と服従との訓練がないと、畏怖は形式的なものであるにとどまって、定在の意識された現実にはひろがり、行きわたらない。〉
そして、「形成」(教養)の意義、形成における「絶対的な畏怖」の意義を次のように指摘します。
〈造形がないと、畏怖は心のうちにとどまって、意識は自覚的とはならない。また意識を最初の絶対的な畏怖なしに形成したとすれば、意識はただ虚しい我意にすぎず、そのような形成はこの意識に自分が実在であるという自覚を与えることができない〉
〈意識が絶対的な畏怖に耐えぬいたのではなければ、意識の実体はこの否定的実在に徹底的に染まってはいない。その場合は、我が意は我がままであり、この自由はまだ奴隷の境涯のうちにとどまっていて、形相は普遍的な造形、絶対的な概念ではなく、意識に生じているのは技能ではあるが、それは普遍的な威力と対象的実在全体に対して支配的ではない。〉
c. IV 「B自己意識の自由」冒頭部の要旨
IVの以上の展開を経て、私たちは、その「B自己意識の自由」にたどり着きます。
〈主(自立的な自己意識)にとっては、自我という純粋な抽象だけが自分の実在であるが、これに対して奴は、彼が形成した諸物の形相として対象となると同時に、主において意識としての対自存在を直観している。〉
〈奴の意識にとっては、これらの両契機――即ち対象となった自分自身と意識としての対象――は離れ離れになってはいるが、「我々」にとっては物の形相と対自存在(意識)とは同一のものである。そこには、自己意識の――抽象的な自我とは異なる――新しい形態、すなわち思惟する意識が生成している。〉
〈表象せられたもの、存在するものは意識とはちがった或る他者であるという形式を持っているが、思惟にとっては対象は概念において運動するものであり、内容が同時に概念的に把握せられたものであることによって、意識はこの限定せられ区別せられた存在するものと自己との統一を直接的に意識したままである。概念は私にとって直ちに私の概念である。〉
〈思惟において自我は自由である。なぜなら、私は端的に私自身のもとにとどまり、私にとって実在であるところの対象は 私の対自存在(意識)と不可分の統一においてあり、もろもろの概念のうちにおける私の運動は私自身のうちにおける運動だから。銘記せらるべきは、自己意識のこの形態すなわち思惟する意識の対象が即自存在(客体)と対自存在(意識)との直接的な統一であるということである。己れを己れ自身から拒斥する同じ名前の意識が己れにとって即自的に存在する境地となる。〉
6. 『精神現象学』 「IV自己意識」の「ストア主義」把握
以上の「IV自己意識」の展開を経由して、テクストは「自己意識のかかる自由は、自覚的な現象として精神史において登場したときには、・・・ストア主義と呼ばれてきたものである」に到ります。ヘーゲルの叙述に付き合ってきた私たちも、ここに到って「ストア主義」という論題に立ち返ることができました。
さて「B自己意識の自由」の続きを見ましょう。まずヘーゲルはストア主義の原理を次のように押さえます。すなわち〈それの原理は、意識が思惟するものであること、また或るものが意識に対して実在性をもつのは、すなわち意識に対して真ないし善であるのは、意識が思惟するものとしての態度をとってそれに関係する場合だけだということである〉と。
〈今やこの多様な行為は思惟の純粋な運動のうちの単純な区別に集約されてしまい〉、〈限定された物、限定された自然的な定在の意識、感情、欲望、目的として立てられている区別はもはや実在性をもたない〉。
〈この意識は主ー奴関係に対して否定的な態度をとる〉。すなわちその為すところは〈王座の上においても桎梏のうちにおいても、即ち個別的定在のあらゆる繋縛のうちにおいて自由であることであり、没生命の態度をとることである〉が、この態度は〈断えず定在の運動から思想の単純な実在性へと退いて行くことである〉。
こうして〈物、自然的な意識、感情、欲望、目的は実在性をもたない〉とされる一方で、〈思想だけが実在性を持つ〉とされる。
さらに〈我意は個別態に執着して奴隷の境涯の内部にとどまる自由である〉といわれるが、この指摘は近代日本人が真正面から受け止めなければならないものでしょう。近代日本の自由、神島二郎のいうところの「欲望自然主義」における自由とは、まさにこのような「自由」に他ならないからです。これに対して〈ストア主義は、直接に奴隷の境涯から出て思想の純粋な普遍態のうちへと還帰する(zurückkömmt)ところの自由である〉。
またストア主義の世界史的な位置づけについては、〈それは世界精神の普遍的形式としては、一般的な畏怖と隷従との時代ではありながら、また普遍的形成(教養)の時代でもあったときにのみ登場しえた自由である〉としていて、〈この普遍的形成は、形成(教養)を思惟の水準にまで高めた〉とその意義を評価している。なおストア主義は、ギリシアで出発した時点においてはポリス的なエートスに対する主観的な道徳であったわけですが、ここでは「世界精神の普遍的形式」となっているのですから、いまや「一般的な畏怖と隷従との時代」のエートスと言うこともできるでしょう。
〈この自己意識にとっては、思惟された区別としての他的存在を己れにおいてもっているところの自我が実在である。しかしこれは抽象的な実在であるにすぎない。〉
〈自己意識の自由は、己れと同様に自然的なこの定在をも自由に放免した。この自由はただ純粋思想だけを自由の真理としてもっているが、この真理は生活のうえでの中身を欠いていて、したがってただ自由の概念であるにすぎない。この自由にとっては、まだ思惟一般が実在であり、諸物の自立性から離れて己れのうちに退いた形式そのものである。〉
そしてストア派の倫理的原理がどこまでも形式主義に止まるものである点を次のように指摘する。
〈個人は、行動するものとしては自分が生き生きとしたものであることを示すべきであろうし、思惟するものとしては生き生きとした世界を思想の体系として把握すべきはずだが、この思想は己れ自身においては何の内容をももっていない。真なるものと善なるものとについての、知恵と徳性とについての一般的な言説にストア主義は止まらざるをえないのであるが、この言説は崇高ではあっても、内容の広がりには決して達することができない。〉
最後にストア主義の本質的な限界が指摘されます。すなわち〈この思惟する意識は、他的存在の不完全な否定であるにすぎない。定在から自分のうちに退いただけであるので、この意識は自分が定在の絶対否定であることを完遂してはいない〉と。
以上で、私たちは「ストア主義」に関するヘーゲルの叙述を一通り見ることが出来ましたが、「B自己意識の自由」の叙述は、さらに「スケプシス主義」と「不幸な意識」を扱っていますから、それらを問題にすることなしに「B自己意識の自由」の把握は終わりませんし、またそれらの把握なしには「ストア主義」の把握が完結することもあり得ない。しかし本稿は既にだいぶ長くなりましたので、これらの課題は次回以降に廻すことにして、今回はここで終了と致します。(続く)
注
1 拙稿「武士のエートス」とその喪失について考える――リベラル・左派の何が問題か?(七)」「を参照されたい。
2 清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(p.177)による。
3 この点に関しては井上毅の次の言葉を紹介しておく。
「今或ハ儒教ノ平常ナルヲ厭ヒ、一種世ニ適フノ神教ヲ造作シテ、以テ民信ヲ歸一セシメントスルカ如キハ、其意善シト雖モ、千載ノ後、ヒロソーフ家ノ為ニ笑ハレンノミ」(「儒教ヲ存ス」『井上毅伝. 史料篇 第3』p. 500)
4 拙稿「「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」 を参照されたい。
5 以下のヘーゲル『精神現象学』からの引用は、金子武蔵訳(岩波版全集)をもとにしているが、必ずしも金子の訳文のままではない。また引用が多数にのぼるため、引用元のページは表示しない。
6 『哲学史講義』からの引用は宮本十蔵・太田直道訳(岩波版全集『哲学史中巻の二』)による。
7 「無限性」について、ヘーゲルは「III悟性」の終わりの方で、次の様に説明している。
「法則の単純なものが無限性であるが、このことは・・・次のことを意味している。α 単純なものは自同的なものであるが、しかし、この自同的なものはそれ自身において区別であり、言いかえると、同名のものではあっても、己れを己れ自身から拒斥するところの、或は己れを二分するところの同名のものである。単純な力と呼ばれたものが己れ自身を二重化し、己れの無限性によって法則なのである。β 二分して生じたものは法則において「表象」される諸部分をなしていて、存立せるものとして現れてくる・・・。γ しかしながら内的区別という「概念」によって、この不同で相互に没交渉であるところの空間と時間などは区別ではない区別であり、言いかえると、ただ同名のものの区別にすぎぬのであって、統一をもって本質としている。かくてこれらの部分は肯定的なものと否定的なものとして相互に活を入れられ(精神化せられ)ることになり、それらの「存在」とはむしろ各自が己れを非存在として定立し、統一のうちに己れを止揚することである。区別された両者が共に存立し、それぞれ自己によって存在し、しかも自己によって互に対立したものとして存在するが、このことは、両者が各自に自分自身の正反対であることを、両者が各自に他者を自分で具え、そうしてただひとつの統一をなすにすぎぬことを意味しているのである。」
8 当該箇所の要約を以下に示す。
〈生命の規定は、悟性(III)の展開で得られた「概念ないし普遍的結論[無限性]から出てくる」。
生命は「あらゆる区別項が止揚されてあることとしての無限性」であるが、「区別項は区別せられた分肢として、また自分だけである部分として存在する」。
しかし「この自分だけでの存在はむしろそのまま諸分肢が統一のうちへと還帰すること(Reflexion)でもあり」、「統一のほうもまた自立的な諸形態へと分裂して行く」。
「[普遍的な]流動性こそが自立的な諸形態[諸分肢]の実体であるが、この実体は「無限」な実体であるので、形態[分肢]は・・・自分の自分だけでの存在の止揚である」
事態を考察している「我々」からすると、以上のことのうちには次のような諸契機がある。すなわち「第一の契機として、もろもろの自立的形態の存立すること」。
「第二の契機は・・・かの存立を区別の「無限性」のもとへ屈服させることである。」
「[存立する]形態は・・・自分はこの普遍者[普遍的な実体]のうちに解消しているのではなく、自分の・・・有機的でない自然から分離することによって、またこの自然を食いつくすことによって、己れを維持しているものであると主張する。」(なお、金子訳『精神現象学』一七七頁の註(1)によれば、「有機的でない自然」とは「環境のことであって、まだ有機化せられていないというまでであって、所謂無機的自然ではない。」)
こうして「普遍的な流動的な媒体のうちにある生命、諸形態が静かに離れ離れになっていることは、諸形態間の運動、過程としての生命となる。」
こうなったときには「単純な普遍的な流動性のほうが自体であり、・・・諸形態の区別のほうは他者であるが、・・・この区別のあることによって、却って流動性自身もまた他者となる。」なぜなら「流動性は今や区別[されたもの]に対して、そのためにあることになる」から。
そこで「今やこの区別されたもののほうが即自且つ対自的に存在し、・・・「無限」な運動であり」、過程としての生命は「生命あるものとしての生命(das Leben als Lebendiges)」となる。
しかし「この顚倒がまたそれ自身において顚倒されていることである。食いつくされるものは[生命あるものにとって]本質である。・・・普遍者を食いものにして己れを維持する個体性はそれによって、・・・個体性の他者との対立を止揚する。個体性が自らに与える己れ自身との統一こそがまさに諸区別項の流動性であり、・・・それら区別項のあまねき普遍的な解消であるが、逆に個体としての存立を止揚することは・・・この存立を生み出すことでもある。」
「したがって生命の単純な実体は己れ自身を諸形態へと分裂させるものであると同時に・・・区別項を解消するものでもあるが、分裂を解消することもまた全く同様に分裂することであり、分肢することである。だから運動全体の区別せられた両側面、即ち存立のための普遍的媒体のうちにおいて静かに離れ離れに展開される形態化と生命の過程とは互に帰入し合う。後者[生命の過程]は形態の止揚であるのと全く同様に形態化でもあり、前者[形態化]も分肢することであると全く同時にその止揚でもある。」
「かかる円環過程の全体が生命をなしている」。「己れを展開し、この展開を解消するという運動のさなかにおいて己れの単純態を維持しているところの全体」が生命をなしている。〉
9 金子武蔵は当該箇所を次のように要約している。
「(一)さて自己意識に対して他の自己意識が対立しているときには、自己意識は自己を喪失しているように見える。しかし自己意識はかく対他的にしか存在しえないから、他者は却って自己である。だから他者の存在を肯定することは、同時に自己を肯定する所以である。したがって肯定は二重の意味をもっている。
(二)自己は他者を否定することによって初めて自立的であり、自由であると言える。しかし他者の存在なくしては自己は存在せず、むしろ他者が自己であるから、他者を否定することは自己を否定する所以である。したがって否定も二重の意味をもっている。
(三)自己は他者を否定することによって己れに還帰すると言える。しかし自己は他者においてあるから、「他者」を否定するというのは、正確に言えば、他者における己れの存在を否定することであって、他者を自由に放免し、他者をして己れに還帰させることを意味するのであり、かく他者をして他者自身に還帰させることを通じて初めて自己への還帰も成立する、即ち還帰もまた二重なのである。言いかえると、両者は互に自己を与えることを通じて相手より自己を受けもどすのである。
(四)かく肯定も否定も還帰もいずれも他者に向うと共に自己に向うものとして、即ち行為の向う客体から言って二重の意味をもったものであるが、さらに自己意識の行為はその主体から言っても、ただ一方的なるにとどまることはできぬ。およそ自己意識とは独立的な自己完結的なものであるから、ただ一方だけがなにかをなそうとしても、他方がこれを行ってくれるのでなくては、何事をも実行することはできない。行為は双務的なのである。
以上のようにして行為は対象の側から言って、他者に向うものであると同時に自己に向うものであるのみならず、さらに主体の側から言っても、一方の行為が不可分離的に他方の行為でもあることになるが、これが承認の、言いかえると、精神的統一の概念である。」(岩波全集版『精神現象学』総註p.641-2)
念のため、諸契機の「二重の意味」に関するヘーゲルの叙述個所の要約を以下に記しておく。
〈自己意識に対して、ひとつの他の自己意識があり、 自己意識は自分のそとに出ているが、このことは二重の意味をもっている。第一には、自己意識は、自分を他の実在として見出すから、自分自身を喪失しているが、第二には、自己意識は、他者を実在とは見ないから、「他者」を撤廃している。〉
〈この「他者」の撤廃も、二重の意味をもっている。自己意識は、第一には他の自立的実在を撤廃して、自分の実在の確信に向かうが、第二にはそうすることで却って自分自身の撤廃に向う。〉
〈「他者」の撤廃は自己意識の自分自身のうちへの還帰(Rückkehr)であるが、これも二重の意味をもつ。自己意識は第一にはこの撤廃によって自分自身を再び取戻すが、第二には自分に再び他の自己意識を与え戻す。なぜなら、自己意識は、他者のうちにある自分の存在を撤廃することで、他者を放免し自由にするから。〉
〈自己意識のこの運動は、自分の行為であるのと全く同様に他方の行為でもある。・・・だから、運動は端的に両方の自己意識の二重のものである。行為が二重のものであることも二重の意味においてある。すなわち、行為は他方へ向うのと全く同様に自分へも向う行為でもあるだけでなく、一方のものの行為であるのと全く不可分に他方のものの行為でもある。〉
10 伝統的な論理学の推論(推理)は、「MはBである(大前提)、AはMである(小前提)、ゆえにAはBである(結論)」というものであるが、ここで言われている推論(推理)は、〈AとBとを両極として、B はAの媒語(M)であり、Aは媒語(M)すなわちBを介して、「AはAである」(結論)を得る(己れ自身と推理的に連結する)。同様にA はBの媒語(M)であり・・・〉というものであろう。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(記述に重複がありましたので、著者の求めにより、重複個所を削除しました。――編集部、2022.07.16)
(pubspace-x8348,2022.03.29)