(続)「武士のエートス」とその喪失を考える

――リベラル・左派の何が問題か?(八)

 

相馬千春

(七より続く)
 
   この連載のサブタイトルは「リベラル・左派の何が問題か?」なので、「武士のエートス」とその喪失というテーマで書くと、<テーマがずれているんじゃないか。そんなことより、衆議院選の敗北をどう総括するのか>などと言われるのかもしれません。
   しかし日本のリベラル・左派が抱えている問題はかなり根が深い。言い換えるなら、根本的に脱却すべき点や足りない点があると思われる。したがってそれらの点を明らかにしなければならないが、欠点というのは自分で点検しても、なかなか分かるものではありません。そこでなにか良い方法はないかと考えると、一番有効な方法は「他者」と較べることではないか。
   そういう「他者」としては、まず諸外国のリベラル・左派が挙げられるでしょうが、日本の歴史のなかにも比較すべき「他者」を探してよいのではないか。そしてその場合、そういう「他者」としてまず挙げることのできるのが「武士」ではないかと思うのです。
 
1. 戦国時代以降の「武士のエートス」展開の概要
 
   さて前回は、「エートス」について考える手掛かりとして、『丸山眞男講義録5. 1965』(―以下『講義』と表記)の「武士のエートス」論を途中(=鎌倉時代)までを見てきました。今回はその続きを紹介しますが、丸山は、「武士のエートス」のその後の展開を次のように要約しています。
 

「坂東武者を「原型」として成立した武士のエートスにおけるいくつかの基本的要素は、武士の社会的基盤の変動を超えて伝承され、戦国時代に「武士道」と呼ばれるに至った一連の規範体系のなかに流れ込んでゆき、さらにそれが江戸時代に至っていったん儒教的士大夫倫理によって底流にまで押し下げられたのち、幕末維新期に、最後的な噴出を見せる」(『講義』 p. 146)
「武士の行動様式を歴史的発展において辿るならば、原初的な主題が比較的明瞭な形態において浮び上ってくるのは、鎌倉以後においては、・・・〈戦国時代〉と・・・〔幕末〕の二回であって、その間に介在する時代は・・・むしろ主題のメロディーをそのなかから注意深く聴きわけねばならぬほど、エートスが変質した時代である」(同上)

 
   <鎌倉以後、「武士のエートス」が明瞭なかたちを取るのは、「戦国時代」と「幕末」の二回だけである>という指摘は注目すべきもので、私たちはとかく<伝統というものは明瞭なかたちで継承されてきた>と考えがちだが、<そうではない>ということです。この点は重要なのですが、ここではこれ以上深入りはせず、丸山の叙述に戻りましょう。
   さて<鎌倉幕府崩壊後、なぜ「武士のエートス」が衰退したか>を考えるためには、その背景をなす歴史過程(1)を検討しなければならないが、これについては注で簡単に触れるだけにして、直ちに戦国時代(2)における「武士のエートス」の復活の様相を見ることにします。
 
2. 朝倉家の「家訓」にみる戦国の「武士のエートス」
   丸山は、戦国時代における「武士のエートス」の再自覚化の具体例として、朝倉氏第七代当主・孝景――敏景・英林とも称した――が制定したとされる条々(3)を取り上げています。そしてこの「条々」には「戦国時代における武士の社会的存在形態の変化のambivalent〔両義的〕な方向性と、それに対応したエートス<再自覚化された武士のエートス>の矛盾した傾向の同時進展の様相が、驚くほど先駆的に表現されている」と言う。もっとも1481年に世を去った孝景がこの「条々」を制定したとすることには異論もある(4)のですが、この問題は素人の手には余るので触れません。
   ここでは――いったん丸山の『講義』からは離れて――『朝倉家の家訓』(福井県立一乗谷朝倉氏資料館刊行、編集・執筆 佐藤圭)を参考にして、この「条々」を検討することにします。同書にはこの「条々」のテキストの一つである「朝倉英林壁書」の原文と現代語訳――http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/010_about/pdf/003.pdfにも転載されている――が掲載されていますから、この現代語訳をテキストにして、「壁書」を見ることにします。
   「壁書」の条々を分類して要約してみると、第一に人事の原則に関する条々(5)があり、<家柄ではなく能力で登用し、働き応じて処遇する>、<人的資源を有効に活用する>ことが掲げられている。第ニに情報に関連する条々(6)があり、<情報収集>と<機密保持>の重要性が指摘されている。さらに第三に軍事に関して合理的な精神、「兵学的リアリズム」を示す条々(7)、第四に節約と人材(国力)の維持・確保に関する条々(8)、第五に家臣と民の掌握=国の掌握に関する条々(9)がある。
   そして最後に「道理」と合理的で柔軟な思考を重視することが明らかにされている。すなわち第十六条では「およそすべての裁判や直奏の時には、道理と非道を少しもゆがめてはならない」と言われているが、これは鎌倉期の「道理」の精神が復活したものと言えるでしょう。また第十六条では、「『論語』に「君子は重々しくなければ人を従わせることができない」などとあるのをみて専ら重々しくすると理解してはならない。重々しくも軽々しくも状況や時機をみてそうした行動をすることが大切である」とも言われていますが、これは合理的で柔軟な思考の重視といって良いでしょう。
   以上を総括すると、「壁書」の全体構造としては、<「道理」と合理的で柔軟な思考の重視>が根底にあり、そうした思考の具体化として、<人事の原則>の明確化、<情報戦>を含む「兵学的リアリズム」、<冗費の節約と人材の確保>があって、その上に戦国大名的な<家臣と民の掌握=国の掌握>が追求されている。このように言ってもよいのではないでしょうか。 
   さて、丸山の『講義』に戻りますが、丸山は朝倉家の「条々」を次のように評価している。
 

「儀礼主義・フォーマリズムと結びついた儒教的な「道」から、最も鮮明に戦国武士道を分かつのは、この具体的状況に即したリアルな比較考量と、<それに基づく主体的な>決断の尊重である。」(『講義』 p.188)
「朝倉十七箇条を貫いているのはきわめて積極的な現実主義であり、・・・戦闘的で行動的なリアリズムの只中から、「道理」の精神がふたたび自覚されてくる。」(同上)
「この「道理」の精神もまた、先に述べた「器用」を尊ぶ精神、および「臨機応変」の精神などとともに、戦国時代において鼓動するリズムの一つである。・・・南北朝から室町前半期にいったん見失われた御成敗式目の精神が、違った状況下で生き生きと自覚され、リヴァイヴァルしてきている」(同上)

 
   この丸山の評価は、私たちの「壁書」の検討からしても、適切なものと思われますが、丸山が「具体的状況に即したリアルな比較考量と、<それに基づく主体的な>決断の尊重」を指摘している点は、注目に値するでしょう。これこそが近代日本の知識層に決定的に欠けている点なのですから。
   もっとも「兵学的リアリズム」については、さらに検討しておいたほうがよいかもしれません。朝倉家の他の文書である「朝倉宗滴話記」(10)を読むと、その第十条には、「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つが本にて候」とある。それでは「義」など踏みにじっても良いのかというとそうではなく、第六条では「武者を心懸くるものは、第一うそをつかず、聊かも胡論なる事なく、不断律義を立て、物恥を仕るが本にて候。・・・不断うそをつきおき胡論なるものは、如何様の実儀を申し候えども、例のうそつきにて候と、かげにて指をさし、敵味方ともに信用なきものにて候」と言われる。
   つまり「犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つが本」という「兵学的リアリズム」は、<胡論なる事なく、不断律義を立て、敵味方ともに信用されねばならない>という「エートス」を根底において初めて成立し得るものである。しかしこの点は見落とされがちで、しかるべき「エートス」を欠いた者が策に溺れて自滅するということは、今日に至るまで良くあることです。
   さて、朝倉家の「条々」にみられるような「武士のエートス」の復活は、もちろん「家法・家訓」の上のことだけではない。丸山は「武将や武士の現実の行動様式において」も「原初的な武士のエートスないし規範意識がある意味で復活した徴候が明らかに読みとられる」と言い、また「この時代には、…忠誠対象の選択の広い自由さの上に、名誉感と開放的な独立不羈の精神が育ち、しかもたんなる欲望エゴイズムと区別された・・・自己規律を伴う一種の英雄的個人主義の噴出が、そこここに見られた」とも言う。 
   こうして、慶長(1596-1615)のころには、「武士道」という言葉が登場しますが、この「武士道」は「生死を賭けた決闘と不可分な関係に発し」たものであり、それが「いかに一般的生活態度の規範にまで拡大されようと、…「教義」や抽象的規範として、bookishに体系化されえない性格のものである」。すなわち「武士道」というコトバの使い方は、まぎれもなく「弓矢取る身の習い」の伝統を引いているわけです。
   本来ならば、ここで戦国末の「武士道」の具体的な様相――豪傑の話など――を紹介すべきところですが、これも長くなるので省略して、江戸時代=幕藩体制(11)下の「武士のエートス」の話に移ります。
 
3. 江戸時代=「太平の世」の「武士のエートス」
 
a. 「士道」の登場

   「元和偃武」(1615)によって、もはや戦(いくさ)そのものが無くなると、戦国的な「武士のエートス」は無用なものと思われてくる。こうして、江戸時代には、「武士道」というコトバに代わって「士道」というコトバが登場して来るのですが、「士道」について丸山は次のように言う。
 

「「士道」は、文治官僚(士大夫)化した武士の政治・社会的規範として、五倫五常を以て民を治め〔仁政〕、民を「教化」する統治者倫理、および封建家臣団の組織倫理・・・を提供するとともに、天下泰平化した状況のもとでの武士階級のレーゾン・デートル(存在理由)・・・の根拠づけともなるものであった。」(『講義』 p.221)
「要するに、武士道から士道への転回は、(イ)戦闘者のエートスから秩序倫理へ、(ロ)「主従のちぎり」、情的・人格的結合から、客観的な身分的階層秩序の倫理<君臣の義>へ。」(同上)

 
   さて、丸山の『講義』は、江戸時代の「武士のエートス」を主題としては扱っていないので、以下では佐伯真一の『戦場の精神史』によって、「士道」の登場を見ることにしましょう。佐伯も「戦国「武士道」の後継者として江戸時代に最大の力を持ったのは、・・・儒学によって太平の世にふさわしく矯(た)められた「士道」である」としていて、「士道」論の先駆者として北条氏長(1609―1670)を挙げ、その『士鑑用法』を検討しています。
   佐伯が注目するのは――室町時代の『義貞軍記』が、公家の「文」に対して「武」の道を位置づけていたのに対して――『士鑑用法』が「農工商」に対して「士」の位置づけている点で、「軍事の必要性が、農・工・商の民を守るというところから発想されているところが、江戸時代らしい」と言う。
   さらに北条氏長の考え方を発展させつつ、「戦国「武士道」とは明らかに異質な「士道」を体系化した」のが山鹿素行(1622-1685)ですが、彼の『山鹿語類』では――『士鑑用法』ではあっさり提示された――「士」の職業とは何かという問いへの答えが、簡単には出てこない。「太平の世の巨大な統治機構と化した武士階級」の存在理由は、『士鑑用法』のように盗賊征伐を持ち出すくらいでは説明できないので、「士」の役割は、「忠・信・義といった儒教的徳目を守ること」に求められることになります。すなわち「平和な社会において指導的な役割を果たすこと」が武士の任務であるとすれば、「儒教的な徳目を守り、民の模範となること」こそが肝要であるとされる。(『戦場の精神史』p.227)
   このように素行は「士道」を提起したのですが、それでも兵法家である素行の「士道」は戦国「武士道」の流れを継承している。しかし儒者たちは一般に「武士道」をさらに否定的に扱う。例えば、荻生徂徠が「武士道と云ふは、大形は戦国の風俗なり」というように。
   こうして「武士道」は廃れていくのですが、<それは士道に取って替わられた所為である>とばかりは言えないでしょう。『葉隠』には「若い者が集まって話すことといったら金の損得、服装、色恋のことばかりではないか(12)」という記述がありますが、そもそも、太平の世に「生死を賭けた決闘と不可分な関係」(丸山)に発する「武士道」を保つのは難しいでしょう。
 
b. 「武士道」の継承
   それでも――戦国時代までに形成された――「戦場で生き延びようとするところから発した、強さと紐帯を求める感覚や倫理」、「謀略戦を戦い抜き、常に勝利のために真実を追求する武将の心構え」、「日常生活を律する家訓」などを継承する者もいて、新しい時代の「武士道」が生成していく。佐伯は、そのような江戸時代の「武士道」として、大道寺友山 (1639―1730)の『武道初心集』を挙げています(13)。この書は「武士たらんものは、正月元日の朝・・・より、その年の大晦日の夕に至るまで、日々夜々、死を常に心にあつるを以て、本意の第一とは仕るにて候ふ(14)」という言葉で始まるのですが、佐伯によれば、これは「死に急げ」ということではなく、むしろ「死という最悪の事態を想定することによって緊張感を持って過ごせば、無事に長生きできる」ということであって、新しい時代における「武士道」の活用と言える。
   ここで丸山の『講義』からも引用すると、「友山は、いわゆる聖人の道に基礎づけられたのでない、純粋の武士道の体系化を試みている。その体系化のなかに[士道への―引用者]過渡的様相がある」と言われている。たしかに、戦国の武士道は、戦時を前提にしているのにたいして、『初心集』では、平時と変時(戦時)がはっきり区別されている(15)。このように『初心集』は新しい時代に対応しようとしているが、それでも武士の本質はあくまで「変の役人」であるところに求められていて (16) 、その捉え方が全篇を貫いている。そしてその「変時」について述べたところは、「戦国時代の伝統の流れを引いている」(丸山)。
   この『初心集』は藩校のテキストとしても使われていました。吉田松陰などもこれを学んでいますから、『初心集』の「武士道」は幕末に到るまで命脈を保ち続けていたわけです。
   こうして江戸時代の武士の思想としては、『武士道』も命脈を保ってはいましたが、全般的にはやはり『士道』のほうが優勢となっていった。「武士道」と「士道」の関係・交流については、長くなるので省略しますが、佐伯は「「武士道」はしだいに「士道」の内容を取り込んでいった」としています。
 
c. 幕末――甦る「武士道」
   しかし19世紀に入ると、今度は儒家からも「武士道」が唱えられるようになります。その背景には列強の東アジアへの進出とそれに対する危機感がある。特にアヘン戦争で中国(清)がイギリスに敗北すると、「儒教の本家である中国の権威が失墜する一方、ナショナリズムは危機感と共に昂揚し、「武」の必要性が声高に叫ばれるようになった」(佐伯)。
   佐伯は、そうした儒家の一人として中村中倧を取り上げます。中倧はその著『尚武論』で「本来、儒教とも仏教とも異なる「武士道」を自然に有する日本は、中国の真似をする必要はない」と言う。この論は「儒者としては自己否定になりかねない、きわどい主張」なのですが、佐伯は、「『尚武論』はこの後、日本の国情に合わない「文人儒者」を捨て、「吾が武道」を助ける「真儒」を用いればよいのだという論理によって、かろうじて儒教を救い出している」と評しています。さらに佐伯は、「儒教はナショナリズムによって内側から食い破られ、ほとんど外皮を残すのみになっている」が、その「ナショナリズムには、「武士道」の名が冠せられている」、「「武士道」の細い流れは、ナショナリズムと合流して勢いを増し、奔流と化し」つつあった、とも言います。
   もっとも私見によれば、このような思潮を―― 一括して――「ナショナリズム」と言ってよいのかは疑問で、そこには狭義の「ナショナリズム」の他に、「エタティスム」、「エスニシズム」が混在している(17)と見るべきでしょう。言い換えるならば、「ナショナリズム」・「エタティスム」・「エスニシズム」という運動の群は、いずれも自らの拠り所としてそれぞれに伝統を「再発見」した(注)と言えるでしょう。 
   こうして、幕末の日本に「武士のエートス」と「兵学的リアリズム」が甦り、そのことによってはじめて日本は独立を保ちながら「文明開化」の道を歩むことができた。この点については、丸山真男と神島二郎の言を、再度掲げておきましょう。
 

「幕末の動乱のなかにダイナミックな戦国状況がいわば再現したとき、この戦闘者としての武士のエートスはもう一度、最後の沸騰の機会を与えられるのである。」(丸山『講義』p.247)
「動きのとれない自然法的規範の拘束と行動の定型化から自由な<こうした武士のエートスのよみがえりによる>兵学的=軍事的リアリズムは、power politicsの波を乗り切るのに有利だった。」(同上、p.252)
「兵学的リアリズムが、革命の指導者をして、まさに強いられた開国を……みごと主体的にうけとめさせ、それがほかならぬ「開国進取」の政策となる。」(神島『近代日本の精神構造』p.187)

 
   しかし「武士のエートス」を体現した者たちが作り出した明治新体制は、武士という身分を解体しましたから、皮肉なことに「武士のエートス」も解体されていきます。
 
4. 「エートス」を欠如した近代日本知識層
 
   武士たちが歴史の舞台から去った後、日本を統治した主体は、近代的な教育システムによって形成された知識層ですが、彼らは旧世代の武士たちとはまるで違った存在です。それでも彼らには学校教育で十分な東洋的道徳が注入されたはずだし、併せて西欧の知識も仕込まれたはずだから、彼らは国家を統治し、あるいは担い得る主体だと思われていた。しかし、昭和の戦争の時代に到って、それがまったくの幻想であることが明らかになります。こうした近代日本知識層のあり方は、実は戦後にも継続しているのではないか?
こう言うと<そんなのは戦前の話で、戦後の民主主義も戦後の知識層も、戦前の「非合理的な精神」の克服の上に成り立っているのだ>と言われるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。
例えば今回の衆議院選挙では、野党や市民運動の指導者たちは盛んに「政権交替」を強調していました。しかし世論調査を見ていると―――<与党にお灸を据えたい>というエネルギーは強かったが―――<野党に政権を取らせよう>とエネルギーは少数に止まったままだった。もし野党が人々の<与党にお灸を据えたい>という思いの受け皿になれば、野党系候補はもう少しは勝てたのではないでしょうか。ところが「政権交替」と言われて、人々が「枝野首相」を思い浮かべた時、人々はどう思ったか。選挙結果を見れば、答えは明らかでしょう。
このように客観的な状況を無視して政治方針を立てる指導者というのは、近代日本史には前にも登場していて、言うまでもなく「大東亜戦争」の指導者たちがそれです。そういう類似を指摘すると怒られるのでしょうが、そこにはある「思考の型」が見られるのは否定できないように思われます。その「型」とは何か。それは主観的な「正しさ」への「のめり込み」であり、「合理的な思考能力」の欠如です。
しかし彼らのより本質的な欠陥は「エートス」自体が欠如していることではないか。彼らはたしかに『観念』は持ってはいる。しかしその『観念』は「エートス」に裏付けられてはいないのではないか。日本の「リベラル・左派」が、目先の「政治目標」を優先し、容易に「道理」や「人倫」を見失ってしまう(18)のも、そうした近代日本知識層の精神構造が背景にあるのではないでしょうか。
   これらの点についてはさらに考えてみたいのですが、それは次回以降の課題とします。
 

1 鎌倉末からの「武士のエートス」の衰退の背景にある事情について、丸山は次の様に言う。
まず「幕府の成立は、この[荘園制に寄生した存在としての武士の]土着のエネルギーの制度化であって、そのかぎりでは、律令制、荘園制に取って代わるような新体制ではなかった」。
その鎌倉幕府の「統制力の弛緩」の要因としては、幕府の直接の統制下にある御家人の窮乏――分割相続による所領の矮小化と蒙古合戦の経済的打撃による――と離反、幕府の直接の統制下にない非御家人およびその他の諸階層の抬頭――「畿内・西国武士団」において「党(ともがら)的団結」の形成など――がある。
さらに、鎌倉幕府の末期には「守護の地位が幕府官職たることから…所領・所職として恩賞宛行(あてがい)の対象となる傾向」があり、同時に「守護が国司の職権を実質的にその手に収めてゆくことにより、守護の地位が一般統治者的側面をますます具える」にいたった。こうして守護が、「私的性質の主従関係」と、「帝国的官僚制の地方官」との両側面をあわせ持つことで、いわゆる「守護大名」による「分国の形成」が進んでいく。これに対応して「流動化した武士層」は、「戦闘のさいに〈臨時的に〉守護の権限に入るだけでなく、日常的に有力守護と主従関係を設定して”被官”となっていく」が、これによって大名による「階層的家臣団形成」が進んでいくことになる。しかし「守護大名は、強固な階層的編成をもった家臣団をついに形成しえなかったし、また分国一円支配を完成しえなかった点でまさに、戦国大名の段階と区別される」。
こうした過程を「武士のエートス」の変容の側面から見ると、南北朝では、武士層にとっての忠誠の選択対象が著しく拡大し、室町幕府下でも<どの守護大名につくか>が選択されることになる。したがって「主従関係の同族団的情誼性」は稀薄化し、「身分的契約関係」という性格が濃くなる。
丸山は「[鎌倉]幕府御家人体制下の武士のエートスの解体は、このような文脈のなかで理解されなければいけない」と言うが、また「行動様式の打算性、忠誠対象の選択性の増大は、たんに鎌倉御家人のエートスの変容としてだけ見るべきでなく、同時に、もともと坂東武者の伝統を共有していなかった広範な武士団――畿内・西国の御家人だけでなく、国人・地侍・野武士・悪党等々が動乱の表面に登場してきたという状況を背景としてとらえられねばならない」とも言う。
そして、「国人衆の足下にはさらに、凡下・甲乙人といわれた庶民が農業を捨て、系図買いによって侍身分を取得し、あるいは身分不明の「足軽」となって、守護・被官の抗争に大量的に動員」されるようになった。この足軽たちは槍部隊として登場したが、彼らは「武士の伝統的な”しつけ”と作法を知らぬ」集団であり、その武器・槍の登場とともに「戦場の光景」を一変させ、「武士の行動様式の同質性」についてのイメージをも破壊した。
「凡下・甲乙人」については、https://kotobank.jp/word/%E5%87%A1%E4%B8%8B-135014 を参照されたい。
2 丸山は、「戦国大名」が成立するまでの長期的な過程を次のように説明している。
「まず、荘園が地頭によって浸蝕されていく過程が、第一段階(下地中分→地頭が完全領主化)。ついで、守護大名が国司の権限を浸蝕して領国を形成してゆく〔のが〕、第二段階。守護大名は数国を領しているが、しかし完全な一円支配ではなく、寺社領・本所領の「職」が残り、年貢・公事の徴税権のみの支配が多く、しかも国人の反抗(一揆)に悩まされる。そして、戦国大名による分国形成が、第三段階。領主支配の分国大名制の完成期であって、一国の土地と人民の一円支配を大名が兼ね、そのなかに大名の直轄地ができ、同時に、大名の直臣ないし家来に知行地を与えることにより、第二次主従関係が設定される」
なお、引用文中の「下地中分」については、https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E5%88%86-73740 を参照されたい。
3 孝景が制定したとされる条々には様々のテキスト――「朝倉敏景十七箇条」、「朝倉家之拾七ヶ条」、「朝倉英林壁書」など――があるが、文言に違いがある他、条数も「壁書」では十六となっている(「壁書」では、「拾七ヶ条」などの第五条と第六条が一つの条になっている)。これらのうち、「朝倉家之拾七ヶ条」の原文は http://fukuihis.web.fc2.com/data/17jyou.htmlに掲載されている。なお、丸山が講義で採用しているテキストは「朝倉敏景十七箇条」である。
4 『福井県史』通史編2(第四章 戦国大名の領国支配 第二節 朝倉氏の領国支配 三 領国支配機構、執筆 松原信之)が、「朝倉宗滴の編成によるものであろうか」としている一方で、『朝倉家の家訓』(福井県立一乗谷朝倉氏資料館刊行、編集・執筆 佐藤圭)は朝倉孝景の制定としている。なお朝倉宗滴については注10を参照されたい。
5 第1条では「宿老を一定に決めてはならない」、「能力と忠節により登用せよ」と言い、第2条でも〈代々その役職についてきたという理由で軍奉行などに任じてはならない〉と言う。さらに第8 条では〈適材・適所の人材配置〉が、第9条では〈働きに応じた処遇〉が掲げられている。
6 第3条は「天下が平和でも遠近の国々に目付を配置」する必要性を説き、第10条は「他国の牢人などに右筆をさせてはならない」としている。
7 第12条では「当然勝つことのできる合戦、また落とし取ることのできる城攻めの時に、吉日を選んだり方角の吉凶を合わせたりして好機を逃すのは残念」と言われる。また第4条の「名刀をむやみに・・・購入してはならない。・・・一万疋の値段の太刀を持っていたとしても百疋の値段の鑓を持った百人にはかなう筈がない」という。
8 第5条では「四座の大和猿楽を何度も呼びつけてこれを見物すること」や「城内で夜能」を行うことが、また第6条では「伊達・白川へ使者を遣わして良い馬や鷹を購入」することが戒められている。また第11条では「一つの技能に秀でた人材を他国へ行かせてはならない」としている。
9 第14条では「朝倉が館以外には国内に城郭を造らせてはならない。すべて富ある者は一乗の谷に引越して郷村には代官だけを置くこと」としている。これは「守護大名」的な家臣と国の掌握から戦国的大名的な家臣と国の掌握への転換を端的に示している。
また第7条は「家臣の年始の出仕」の着衣に関する規定で、「富があるからといって立派で華やかな衣装で身を飾ると、国のあちこちに在住している侍は・・・貧乏の身なりでは出仕しづらい」というもので、――これも直接には節約を求めるものだが――、末端の家臣への気配りによって、家臣を掌握しようとするものでもあるだろう。
民に関しては、第13条で「能力があり正直な者に命じて年に三度ほど領分を見廻らせて民百姓の評判を聞いて政務を改善せよ」、あるいは「少し姿を変えて自分自身で見廻ってもよい」と言い、第15条では、巡検の際、「不恰好な者は不恰好といい、よいものはよいといえば」、民も「御当主のお言葉を賜った」と思って、物事の改善が進むとしている。
10 この「話記」は、第七代当主・孝景の末子である宗滴(1477-1555)の語ったものを萩原宗俊がまとめたものである。宗滴は18歳の初陣以来、死の直前、79歳に到るまで戦場に身を置いた武人で、朝倉景豊の乱(1503)以降は、一族中で党首に次ぐような地位を保持し、実戦での司令官(武者奉行)の他、長期的戦略を決める参謀の役割を果たしていた(『朝倉家の家訓』p.24)。
11 丸山によれば、幕藩体制は戦国大名の一国の支配システムを全国的な規模に転用したものである。すなわち戦国大名の下では「一国の土地と人民の一円支配を大名が兼ね、そのなかに大名の直轄地ができ、同時に、大名の直臣ないし家来に知行地を与えることにより、第二次主従関係が設定される」が、「この戦国大名の地位に、全国支配を達成した幕府がそのまま坐る」(『講座』p.220~)のが、「幕藩体制」である。
12 この箇所の原文を引用しておく。
「三十年以来風儀打替リ、若侍共之出合之咄ニ、金銀之噂損得之考、内証支之咄、衣装之吟味、色欲之雑談斗(ばかり)ニて、此事なけれハ一座しまぬ様ニ相聞ヘ候。無是非(ぜひもなき)風俗ニ成行候。」(聞書第一、63。講談社学術文庫『新校訂 全訳注 葉隠(上)』(p.137)。
これを読むと、「士道」のほうも、一般の武士に、どれだけ浸透したのか、疑問に思われる。
13 この他、佐伯は『葉隠』も検討しているが、佐伯によればこの書は「江戸時代には、・・・全国的には無名の存在であった」。
14 岩波文庫『武道初心集』一、p.29
15 岩波文庫『武道初心集』六、p.40~
16 (平時には)「古き控、覚書、絵図等までも借りあつめ・・・勤方の大筋を呑込候得ば、何時何役に成り候ても、務り易き道理」(岩波文庫『武道初心集』p.57)だが、「世の変に至り候ては、人の介抱引廻し預る事は、ならざる事に候間、善くも悪くも、我独分別にて、埒を明るより外は無之候」と言われている。
17 明治憲法体制が形成される時期になるとその分岐は明らかになる。政権側は「エタティスム(国家主義)」、在野の民権派は「ナショナリズム(国民主義)」と言ってよいだろう。この他に維新政権から早い時期に追われた神道勢力・国学派――これは『国家神道』ではない――が存在していて、これは「エスニシズム(民俗主義)」と言うべきではないか。
18 その典型的な例が先の横浜市長選と選挙後の野党の対応である。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(最初の段落、“テーマとずれているんじゃないか”を“テーマがずれているんじゃないか”に訂正しました。2022.01.09、編集部)
(pubspace-x8348,2021.11.25)