「武士のエートス」とその喪失について考える

――リベラル・左派の何が問題か?(七)

相馬千春


1. 「兵学的リアリズム」を支えるものとしての「武士のエートス」

   前回、幕末・維新期の武士たちの「兵学的リアリズム」について触れましたが、「兵学的リアリズム」の必要性を指摘すると、<それなら我々も「兵学的リアリズム」を技術的な知識として身に付ければ良い>と言われるかもしれません。しかし武士たちにとって、「兵学的リアリズム」は「武士のエートス(1)」があって、はじめて成りたつものでした。なぜなら、「戦(いくさ)」は、<あるモノに命を懸ける>という「エートス」があって、はじめて成りたつ(2)ものですから。
   しかし「エートス」は、今の日本では重視されないようです。「エートス」なんて言うと、若者からは<そんなの関係ない>と言われそうですし、「リベラル・左派」は<国家による道徳教育>を心配するかもしれない。たしかに「保守」や「右派」は歓迎するかもしれないが、彼らがほんとうに「エートス」を大事にしていたら、日本はこんな国にはなっていなかったでしょう。
   あるいは<やはり、戦後体制が悪いのですね>と言われるかもしれない。しかし、この連載でくりかえし述べてきたように、「武士のエートス」は明治末にはすでに過去のものとなっていました。すなわち近代日本は、「武士のエートス」を喪失したのち、端的に欲望を肯定すること=「欲望自然主義(3)」によって、はじめて『個人』――西欧的な個人とは本質的に異なる――を成立させた。しかし日本の『個人』は再びムラ的な心性に捉われていったので、集団的な・しかし普遍性を持たない「欲望」が、近代日本を支配することになったわけです。

2. 丸山眞男と「精神的貴族主義」

   日本の「リベラル・左派」は、ほとんどの期間、政権を担当する立場にはありませんでしたから、自分たちの「リアリズム」やそれを支える「エートス」がシビアに問われる機会はなかったに等しい。しかし「リベラル・左派」でも「エートス」の重要性を認識した人はいなかったわけではありません。丸山眞男は1959年に「精神的貴族主義」の必要性を提起しています。
 

「精神的貴族主義がなければ、日本のデモクラシーは多数という名の暴力の前に屈せられてしまう。/ほんとうの意味の大衆に対する奉仕の意識ということと、つまりさっきの貴族は義務づけるということとくっついているわけで、精神的貴族主義というものはそういうものだと思う(4)。」

 
   ここで丸山が提起しているものは――それが「精神的貴族主義」と言われる以上は――たんなる「知」ではなく、ある種の「エートス」でしょう。日本のリベラル・左派はしばしば「理論」と「実践」という二項で運動を考えますが、丸山は、さらに「エートス」が必要であると考えている。しかし丸山が関わっている市民運動では「エートス」の必要性は必ずしも実感されない。なぜなら、いわゆる市民運動では<命を懸ける>というようなテンションの高さは、必ずしも求められませんから。ところが60年代でも、よりラディカルな運動では、「エートス」が問題にならざるを得なかった。

3. 全共闘と「任侠」

   以下では、小杉亮子『東大闘争の語り』から、1969年1月の東大安田講堂占拠闘争を闘った学生(当時東大法学部在学)の回想を、引用しますが、この例を見ると、この闘いで「エートス」がどのように機能していたのかを見て取ることができるでしょう。
 

「そのとき[1月15日―引用者]も〔安田講堂に〕泊まり込んでて。このときは天気がよくってね、朝、安田講堂の時計台の一番てっぺんで見張りしてて、富士山が見えてきれいだった。いい眺めだなと思ったんだけど。…結局…やる連中は少数派で、もうこの際とことんまでやろうみたいなそういう気持ちでいましたからね。…あと、すごく闘争の状況にはまってたもんだから、それが終わるということにたいしての逆の意味の恐怖感みたいなものもあるような状況だったと思う。…それと、これでがんばらなくちゃ男が廃るというのか、悔いが残るみたいな、そういう気持ちもあったし(5)。」

 
   彼も、「実践」をするにあたっては、当然ながら、一通りの「理論」はもっていたでしょう。しかし彼の実践――安田講堂に留まること――を決定づけたのは、「理論」というよりは、「男が廃る」というような「エートス」だった。
   もうひとつ、岩井哲『“私の”東大闘争』からも、彼(岩井)が政治闘争に参加した結末の話を、例として、挙げておきましょう。彼は、党派の先輩から指名されて、69年にゲリラ的な政治闘争を敢行し、逮捕される。ところが10カ月後に保釈されて、駒場に戻ってくると、その先輩は、弁護士を目指していて、もう運動からは消えていた。彼の回想録には、この先輩に対する知人の評言として、「ヤクザ以下じゃん」という言葉が記されています(6)
   この二つの例では、実践を支えるエートスは、いささか「任侠的」な言葉で表現されていますが、そう言うと、<例の取り方が恣意的では?>と言われるかもしれない。しかし68年の東大駒場祭のポスターの「キャッチコピー」も、「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている…」だったのですから、「任侠的」というのが恣意的であるとは、必ずしも言えないでしょう。このように、実践が自分の人生を左右するような局面では、自らが闘う根拠としての「エートス」が問題とならざるを得なかった。しかし以上の例では、彼らの「エートス」は――丸山の場合でも、全共闘の場合でも――まだほとんど主観的なものに留まっています。そこにあるのは孤独な個人であって、「集団」は存在しても、それは「エートス」を支えるものとはなり得ていません。

4. いわゆる『武士道』と「武士のエートス」

   しかしほんらい「エートス」とは「習俗」を起源に持つもの、「客観的な精神」であって、「集団」によって支えられているものです。それでは「客観的な精神」としての「エートス」とはどのようなものか。この問題については、日本の「武士のエートス」を例に取って考えることにします。
   さて「武士のエートス」は、より普通の言い方をすれば、「武士道」ということになるでしょうが、「武士道」は、一般にどのようなものとして理解されているのか。佐伯真一は次のように言います。
 

「ここ数年、「武士道」を扱う書物を何冊か読んでみた。…「武士道」とは、ある論者にとっては日本固有の武士の思想のことであり、ある論者にとっては儒教の日本的変容のことであり、ある論者にとっては自立した個人を基礎とした主従関係のことであり、ある論者にとっては主君と惚れ合う男と男の関係のことであり、ある論者にとっては支配階級としての責任感のことであり、…(7)。」

 
   つまり、「武士道」という言葉はポピュラーであるが、<武士道とは何か>となると、「共通認識」は未だに存在しない。なぜでしょうか? じつは、「武士道」という語が流行するのは、「明治三〇年代以降」――すなわち、現実には「武士」が滅び、「武士のエートス」も滅びつつある時代――のこと(8)なのですが、このとき、「武士道の流行」の発端となった諸著作は、「武士道」の歴史的・客観的な把握とはとてもいえないもの(山岡鉄舟『武士道』、新渡戸稲造『BUSHIDO』など)、あるいは「武士道」としては異端のもの(山本常朝『葉隠』)だったわけです(9)
   したがって、こうした『武士道』観から脱却できなければ、それなりに客観的な「共通認識」などは望むべくもない。さらに、歴史資料に裏付けられた所説であっても、取り上げる時代・地域・階層の違いによって、私たちは、様々な「武士道」を見出すことになる。
   したがって、いわゆる『武士道』とは異なる、歴史的・客観的な「武士道」(「武士のエートス」)の全体像を掴むことは容易ではないのですが、以下では『丸山眞男講義録5. 1965(10)』によって、その全体像を探ってみることにしましょう。

5. 丸山眞男による「鎌倉期」までの「武士のエートス」把握
 
a. 武士の定義、階層差、地域差

   まず議論の前提をなす「土地・農民の支配権」の推移と「武士の定義」について、丸山は次のように言います。
 

「律令体系における官僚制的権限、つぎには…荘園制における半官職的な、半ば私権化した土地・農民の支配権…、さらに、実質的に律令体系からも荘園の本所・領家支配からも独立した領主的土地所有権、そうした性格を異にした支配関係が、オーヴァラップ…しながらも前者から後者の優越へと推移していったのは、十世紀から十六世紀にまで及ぶ、数百年にわたったきわめて徐々な変容のプロセスであった。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.54)
「この巨大な、しかし徐々たる古代国家の変革を主体的に担った階級としての武士に、発生的に社会史的定義を与えるならば、それは、土着(在地)の、自己武装領主または名主…〔である〕。」(同上、p.54)

 
   次に「武士の階層」に関しては、「一口に武士といっても、武家の棟梁といわれた名門ないし豪族的武将のレヴェルと、全国各地に無数に輩出した自生的な在地領主…と、さらに、それらに結集された郎従層とは、むろんその間に移行関係があったにしても区別して語られねばならない」(p.52)とされる(11)
   さらに、初期の武士団の地域差は、次のように把握されている。
   まず畿内は、「公家・大寺社の勢力範囲」であったため、畿内の在地領主は、「すすんで朝廷や公家・大寺社等の権門勢家に直接奉仕して、「武者」「舎人」となって、警護その他の公事にあたった」(p.56-7)。
   ところが都から遠く隔たった東国は、「荒地や未開墾地が多く、…土地支配関係が固定していない」。それで「開墾して、de facto〔事実上〕に自分の領地をつくりうる」し、また「強盗団にいつそれを取られるか分からない」。したがって武力によって私領を守る必要があり、「開発領主のなかから大豪族が生長する基盤」があった。
   そしてこの東国型と畿内型の「中間型」といえるのが、中国・四国・九州の武士団だった。

b. 「武士のエートス」の生成

   それでは、「武士のエートス」は、どのように生成してきたのか。丸山は「坂東武者の習い」こそが「最も原始的な武士のエートス」であると言います。
 

「東国は中央統制力が弱く、また領主の所領の流動性が高かったまさにそのために、地域の広大性にもかかわらず、…観念的にまとまった一つの武家世界としての意識が平安末期から成熟し、東国の中央政府からの半独立的・分離的傾向…は、京の貴族からも、半ば諦めの念をもって認識されていた…。いわゆる「坂東武者の習い」〈最も原始的な武士のエートス〉は、まさにこうした東国の武士的世界の観念的統一性と共通性の基盤の上に生い立ったものにほかならない。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.57-8)

 
   十一世紀中頃から十二世紀の初め頃(12)になると武士団は、「自己意識としても、また一般世人の目からも、ある種の生活態度、生活様式、独自の習俗および規範意識をもったところの、特殊な戦闘者集団」として現われるようになる。この「一定のマナーなり、生活規範」が、彼らを単なる暴力集団や武芸に優れた貴族から区別し、彼らに「身分的な独自性」を与えていく。
   そして十二世紀以降、「この身分的な独自性は、やがて主従関係の発展にともない、「兵」の家が父子相伝として相続されることによって、いよいよ明確になってゆく」。
   この「兵の道、弓矢の習」は、「戦闘者としての武士の具体的存在状況そのもののなかから自生的に形成された習俗」に他ならない。武士の精神を内部から拘束する「規範意識」は、「神道・儒教ないし仏教的な由来」をもつ範疇を通じて表現されていたけれども、「そうしたいわば理論化された武士の「道」も、具体的な武士の生活状況に底礎されてはじめて、生きた行動の規範たりえた」。

c. 要素としての「強烈な名誉感・自負心」と「特殊な主従的結合」

   「武士のエートス」の構成要素としては、「強烈な名誉感と自負心」と「特殊な主従的結合」が挙げられています。
   まず「名誉感」について言えば、それは『太平記』の「弓矢の家に生れたるものは名こそ惜しめ、命をば惜まぬ者を(13)」という言葉に端的に示されていますが、「名を惜しむ」という考えは、「世間の名声・評判への志向」という外面的なものと「他人の毀誉褒貶にかかわらぬ、深く内に恃(たの)むもの」という内面的なものとの二つの方向をもっている。
   このうち、前者である「他者志向性」は、初期の武者の行動様式にもすでに存在していた。なぜなら「恥」を知る――人に笑われるな――という「武人の名誉感情」は、「他人の評価を前提にしないでは成り立たない」から(その点は絶対神との関係による罪(sin)の意識とは異なっている)。また武士が――自我を「一家一門」と同一化して――「生命を失っても、「名」と恩賞は、家門に付着して残ることになる」と考えるのも、「他者志向性」の現れである。
   なお――丸山は詳しく論じてはいませんが――武士は自己の名誉の承認を求めるだけではなく、他者も名誉に値するものであることを知れば、そこに「相互的承認」が生まれてくる(14)ことは、注目すべきでしょう。
   次に「特殊な主従的結合」について。
   「武士団の構造」は「同族団的結合(15)」と「恩給制的結合」という二つの契機からなっていますが、後者から「特殊な主従的結合」が生まれてくる。そしてこの主従的結合によって、武士団は同族団的結合をはるかに超えた社会関係を形成しえたのですが、その結果、「主従の牽引力が同族意識を突破して武士の行動様式を決定」することにもなります。
   この主従関係の特徴について、丸山はつぎの様に言う。
 

「この主従関係は、…[儒教的な―引用者]身分と身分との間の「別」…を前提とした服従のモラル…とも異なって…、もっとはるかに直接的・感覚的な人格的〈personalな〉相互関係であり、…多分に私的な情誼〈的同一化にもとづく〉関係として意識されていた。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.88)
「初期の武士団においては、…主従の結合は戦闘における運命共同体という状況のなかから生れたから、情誼的一体化というモメントが強く、それが、東国武者の素朴な感激性によって充進されるので、恩と報恩は等価どころか、主人の僅かの知遇に感じて身命を捧げるケースが多い。…政治力のある武将とは、こうした坂東武者の気質を巧みに利用もしくは煽動することによって、…恩賞の物的資源に数倍する忠誠を引き出しえた」(同上、p.92)
「この情緒的な一体感は、主従関係が持続し、さらに何代にも相続されることによって〈主家と従家との、家と家との関係となって〉飛躍的に増大する。」(同上、p.88)


d. 武士のエートスの概念的洗練化・合理化――「道理」と「天道」

   武士のエートスは、儒教・仏教などの知識と相互作用をすることで、その「概念的洗練化・合理化」を進めていきます。そしてその背景には、「鎌倉幕府」の成立(16)と「御家人の組織化」があり、さらには「執権政による将軍の地位の名目化」とともに、政治構造が「客観的な自律性」を持つようになったことがある。即ち、「評定衆制度…・引付衆制度が生れ、訴訟を中心としたrule of lawがたんに名目的でなく実行」されるようになり、武家社会の「自律的規範意識」がその内側から成熟して、「道理」が「この時代の合言葉」になっていく。
   こうした鎌倉幕府政権の機構的合理化は、「武家の習いの自己意識化としての合理化」であり、そうであればこそ「幕府」という政治構造は長期にわたって存続し、「貞永式目」(=「御成敗式目」、1232年制定)はその後の「武家法のモデル」ともなります。
   この「概念的合理化」をもっとも典型的に表現するものが、「道理」とか「天道」という言葉で、それは「社会関係を内部から規律し、支配する見えざるイデーへの確信」であり、一種の「自然法思想」を言い表している。この「道理の観念」は、「統治の理念」としては「天道」「天下の政道」などとも言われるが、この「天下」の理念は、いわゆる「仁政安民」の観念とも結合しています。
   この「天道」や「仁政安民」の観念は、「行政・統治の機能を担当する地位にあるもの」を主たる担い手としていますが、少からぬ御家人は、「独立の在地領主」として、「作米百姓に対する統治者」であり、また北条氏などの幕府幹部も、将軍の御家人ですから、「一般御家人から質的に区別された支配者」ではありません。
   さて、丸山は、鎌倉幕府草創期の政治理念を――源頼朝の書状(17)から――三点に要約しています。すなわち、第一に、「天下之政道」は重臣会議の決定によるべきこと、第二に、「道理」の支配が、将軍自身を含むいかなる実力者、いかなる伝統的権威にも優越すべきこと、第三に、「忠臣」は、「道理」のためには、諫争することが忠であること。
   こうして「武士のエートス」が鎌倉幕府という権力機構において機能するようになると、やがてそれは「貞永式目」という武家法(18)となって現れる。
   丸山は、「貞永式目」において「道理」は、第一に「上下の権力勢力関係および自然的親疎感情(情実)に裁判が左右されないこと」、第二に「刑事規定における容疑者・連累者の権利保護」、第三に「due process of law〈法の正当な手続き〉の尊重」として具体化していると言います。これらのことは「道理」とはいささか異なるものの様にも思えるかもしれません。じつは、これらが「道理」の具体化であるのは、「御成敗式目」がどのような「法についての考え方」に基づいているかに、関わっている。丸山は、「法についての二つの対蹠的な考え方」があるとして、次のように言います。
 

「〈日本古来の法の考え方からすれば、〉法とは、上から宣布される「のり」(宣=法)であり、垂直的構造をもつものであった。/〈また、明治以後は、その伝統的「のり」観念と西欧法思想、とりわけ〉ドイツ法〈の観念が結びつき〉、(官僚制と癒着した)法秩序完全性〈のドグマが支配的となった〉。法律―命令―執行が、整然たるヒエラルヒーをなすシステムを形づくり、そこでは、実定法によって権利が与えられるのである。ここにおいては、国家の下層体系として社会があるといってもよい。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.120)
「他方「市民法〔における〕法の精神は水平的構造をもつ。…事実上の権利が立法に先行し〈思想史的には自然権の思想〉、横の紛争〈conflict〉の実存性から出発する。訴権が中核となり、秩序は紛争の排除〈によるシステムの維持のなかにあるの〉ではなく、訴訟手続の合理化による紛争解決の、つまり権利侵害と回復の、動的なプロセスのなかにある(したがって、裁判においては、当事者主義が優位を占める)。原告と被告の間の水平的なDialektikのプロセスから判決が生れ、それが道理=社会通念となっていくのである。」(同上、p.120-121)

 
   「貞永式目」が制定された時代は、「この市民法的考え方によって全体の法思想が浸透されていた時代」であり、そこには「法の精神の水平的構造」が存在していた。ですから、ここで言われている「道理」も、政治的・宗教的権威から下されたものではなく、「Dialektikのプロセス」から生み出されたものです。
 
   以上、丸山眞男にしたがって、「鎌倉期」までの「武士のエートス」について素描してきましたが、ここから幕末に到るまでの「武士のエートス」の歴史を辿っていくためには、さらに長文を要するでしょう。しかしここで、これ以上歴史の記述を続けると、本稿の主題――リベラル・左派の何が問題か――から乖離しすぎてしまう。そこでいったん、これまでに見てきた「武士のエートス」が現代の私たちに問かけているものについて、考えてみることにします。

6. 「武士のエートス」が私たちに問いかけているもの

   このように言うと、もっぱら「西欧の思想と学問」を学んできた人たちからは、<「武士のエートス」や鎌倉時代の「道理」など過去のものでしかない>と言われるかもしれない。しかしそうでしょうか?「人間の尊厳」とか「基本的人権」は、あるい「法治主義」とか「民主主義」は、日本で本当に根付いているでしょうか。「リベラル・左派」の人たちでさえ、多くの場合「人間の尊厳」など知識として知っているだけではないか(19)。つまり日本の「リベラル・左派」にとって「西欧の思想と学問」というのは、みずからの「エートス」とは――即ち生き方とは――乖離したものになっているように見える。
   そうであるならば、かつての武士たちが「道理」を如何に大切にしたかを知ることには価値があるのではないか。「道理」の中身は、時代とともに変わるにしても、「道理」が大切であることに変わりはないのではないか。ところが今日では「道理」は忘れられて、万事「御都合」が優先している。「リベラル・左派」も「道理」を大切しているようには、とても見えない(20)。さらに、鎌倉時代の「道理」が<自分たちのDialektikのプロセスから生み出されてくるもの>であるのに比して、現代の日本では、人々は――「リベラル・左派」においても――、そもそも「Dialektikのプロセス」を欠いているのではないか。
   あるいは、今日の日本でどれだけ闊達で、かつ「道理」に基づいた議論が行われているか。また「実力者」に対しての「諫言」を求める気風はあるのか。
   これらの点を見る限り、「リベラル・左派」を含む今日の日本人の『エートス』が、武士の「エートス」と較べて劣ったものに見えることは、明らかでしょう。
 
   それでは、「武士のエートス」の基層ともいえる「名誉心」や「命を惜しまないこと」、「相互的承認」、「心情的な主従関係」などはどう評価すべきか?
   このうち「心情的な主従関係」は、今日では少なくとも一般的な「エートス」とはなり得ないことは、明らかでしょう。なぜなら、すでに明治維新によって、武士たちも忠誠の対象をより普遍的・理念的なものに替えざるをえなかった(21)のですから。
   「命を惜しまないこと」はどうか。これも私たちは、ふつう「命より大切なものはない」と考えている。しかし「命より大切なものはない」ということを絶対化できるかと言えば、それは難しい問題です。そもそも近代の「民主主義」は、「自由を与えよ、然らずんば、死を与えよ」という言葉とともに始まっている。そうすると「民主主義」を肯定するだけでも、「命より大切なものがある」という思想を否定することは難しい。
   この他にも「武士のエートス」が示している諸契機を――「名誉心」や「相互的承認」などを含めて――どう評価すべきか、もう少し突っ込んで考えて見たいところですが、既に長文となりましたので、それは次回以降の課題と致します。(八へ続く)
 

1 「エートス」に語義についてはこの連載の(五)の注2で、丸山眞男の説明を紹介している。
   なお樫山欽四郎はヘーゲル『精神現象学』の“Sittlichkeit”をもって「エートス」に相当する語としている(河出書房新社『世界の大思想12ヘーゲル精神現象学』 p.207の注釈)。この“Sittlichkeit”の語根である“Sitte”は、カントやヘーゲルの翻訳においては、「人倫」、「習俗」と訳される。
2 「兵学的リアリズム」が「エートス」に依存しているのは、ここで述べた事由によるだけでなく、「兵学的リアリズム」を行使するにあたっては、強固な「エートス」なしには行使の主体が自壊するということにもよるが、この点は次回以降問題にしたい。
3 「欲望自然主義」については、この連載の(三) ならびに(五)を参照されたい。
4 『丸山眞男集別集第二巻』p.198およびp.199。この場合『貴族』というのは何をイメージしているのか?日本の「公家」をイメージしてはいないだろうから、古代のローマ貴族あたりがイメージされているのかも知れない。清水 靖久『丸山真男と戦後民主義』(p.177-8)は、中島誠「丸山真男――宙づりの思想家」(現代の偶像12、68年12月1日『朝日ジャーナル』)によって、68年11月頃、「丸山は自分自身をローマ貴族、学生をゲルマン民族にたとえた」という逸話を紹介している。
5 小杉亮子『東大闘争の語り』p.278
6 岩井哲『“私の”東大闘争』p.177-178
7 佐伯真一『戦場の精神史』p.192-3
8 ただし「武士道」という語が使われはじめたのは、佐伯真一『戦場の精神史』(p.192)によれば、「戦国時代後半ないし末期ごろ」である。
   なお「武士道」という言葉が使われる以前には、「弓馬の道」などという言葉が使われているが、この場合の「道」の意味について、佐伯真一は次のように言う。
   「おそらく、平安時代から鎌倉時代にかけて、「兵の道」「弓箭の道」あるいは「弓馬の道」などは、おおよそ武士らしい能力や習慣、ないしは生き方全般に広く関わる言葉であって、特に倫理・道徳を意味したわけではなかった。「弓矢取りの習ひ」などと同様の言葉であったと考えてよいだろう。「道」という語は、中世では多く専門的な技能などの意味で用いられた。」(『戦場の精神史』p.195)
9 明治30年代における「武士道」の流行の発端となった諸著作の慣行状況とその内容は、『戦場の精神史』(p.249~)によれば、以下の通りである。
   まず明治31年2月、雑誌『武士道』に発刊される。その執筆陣には、福地源一郎・江原素六・尾崎行雄・加納(嘉納)治五郎・片岡健吉・中江兆民・植村正久・大井憲太郎等々という「豪華かつ多彩な顔ぶれ」だった。
   山岡鉄舟の『武士道』が明治35年に出版されるが、これは、「まず仏教の四恩を語り、次いで社会の堕落と科学の発達の関係を語った後、日本には古来、「天地未発の前」から、「皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)」に伴って「武士道」が存在していた」というものであり、その内容はほとんど「荒唐無稽」と言えるものであるが、それが「この後にさかんになる「武士道史観」ともいうべき歴史観の原型をなしている」。
   山本常朝の『葉隠』は、明治39年になって、初めて佐賀県外でも知られるようになった。同書は、本来ならば、「異端の書という位置づけ」が相応しいはずだが、「『葉隠』を起点に「武士道」を考えるような風潮さえ生まれる」。
   新渡戸稲造の『BUSHIDO, THE SOUL OF JAPAN』が、アメリカで明治32年に刊行され、日本では明治41年に翻訳書『武士道』が刊行される)。しかし「[新渡戸の―引用者]『武士道』は、あまり日本史に詳しくない新渡戸が自己の脳裏にある「武士」像をふくらませて創り出した、一つの創作として読むべき書物であって、歴史的な裏づけのあるものでない」。
10 同書は、一九六五(昭和四十)年度冬学期に東京大学法学部で行なわれた「東洋政治思想史」の講義を収録したものである。したがってこの講義は、その時点での日本史研究の状況に制約されている点には留意しておきたい。
11 武士団の内的構成は――丸山によれば――家督(一族一門の長)を中心に、嫡子と血縁の一族、姻族(非血縁ではあるが一族に含まれるもの)、そして家督と主従関係にある「家の子、家人、家礼」、さらにその外周にいる「郎従・郎等」、そして武士としては扱われない「所従・下人」(歩兵)となっている。
12 「十一世紀中頃」とは、具体的に言えば、河内源氏の棟梁・源頼義が陸奥守と鎮守府将軍に就任(1051年)して、「前九年の役」が始まった頃にあたり、「十二世紀の初め頃」というのは――「後三年の役」での源氏の勝利を経て――源義家が死去(1106年)した頃にあたる。
13 『太平記』の当該箇所については、以下のURLを参照されたい。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B
14 『今昔物語集』巻二五第三話の「源充と平良文の戦い」の話( https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku25-3 を参照)などは、その典型である。
   また「貞永式目」でも武士には「名誉感の尊重」が求められていて、その第十二条は「悪口の咎(とが)の事」である。
15 「同族団的結合」について丸山は次のように言う。
   「血縁的(擬制も含む)共同体および祭祀共同体的性格から生ずるところの観念と意識は、日本の思想史の「原型」として、いかなる時代の精神構造においても最底辺に位置して、持続的にさまざまのイデオロギーとの間に相互作用をいとなむ。武士のエートスが体系性を具えた教義ではなく、日常生活と離れがたく結びつき、そこから自然生長的に発展していったものである限りにおいて、それが「原型」の強い磁力の下にあるのは当然である。」
16 鎌倉幕府の性格について、丸山眞男は次のように言う。「武士は荘園制に寄生した存在として、しかし土着的なエネルギーとして登場した。/幕府の成立は、この土着のエネルギーの制度化であって、そのかぎりでは、律令制、荘園制に取って代わるような新体制ではなかった。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.148)
17 『吾妻鏡』巻六、一一八六(文治二)年四月三十日条にある藤原兼元への書状である。
18 「武士団は、本所領家法からは独自の社会集団として組織された。その結果、御家人と非御家人のグループができ、前者に対する特別法として武家法の妥当する領域ができたのである。」(『丸山眞男講義録5. 1965』p.148)なお、「非御家人」とは、「天皇・摂関家に直属し、あるいは、その荘園の荘官としてとどまった武士団、および地方の独立した武装土豪(武士団)」である。
19 中野晃一氏はツイッター上で、オリンピックに参加しようとする選手が「自分たちに罪はないと思ってたりする」ことについて、彼らを「バカ」・「筋肉」などと罵った( https://twitter.com/knakano1970/status/1412885542623072257 )が、これを諫める発言は、リベラル・左派からはほとんど出なかった。オリンピックに参加することが誤りだとしても、だからといって、選手の「人間の尊厳」を侵してよいものだろうか。また<罪があるのに、その罪を直視し得ない>ということは、ほとんどの人について言えることではないか。もっとも、この発言とそれに対するリベラル・左派の態度が、「エートス」の欠如に起因するのか、あるいは「理論」に起因するのかについては、考える必要がある。
20 横浜市長選挙で野党各党が推薦・応援して当選した山中竹春氏には重大なハラスメント疑惑があることが、郷原信郎弁護士によって提起されている( https://nobuogohara.com/2021/08/ )。しかし本稿執筆時点において、野党各党からはこれに対して意味のある釈明はなされていないように思われる。
21 神島二郎は、明治維新による献身対象の転換について次のように言う。
   「従来パースナルな君父にむけられていたひとびとの献身が、「公道」という言語象徴にふりむけられた。まさにこの一歩は一歩にして千里となる。かくしてひとびとは、「国事」といい、「政事」といい、「自由」といい、「民権」というも、すべてこれを献身の対象とみなした。」(『近代日本の精神構造』p.187)
   「言語象徴」ではなく、あくまでも「パースナルな君父」を「心情的な主従関係」の対象としようしたという点で、近代日本において例外をなしているのは、天皇=「現人神」を「心情的な主従関係」の対象としようした運動であろう。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(注の番号を訂正しました-編集部。2021年11月23日)
(pubspace-x8273,2021.09.20)