相馬千春
連載②より続く
五、近代日本人の「考え方」を考える
――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を踏まえて――
1.「会読」の解体
前回(四)見たように、江戸期の会読(文芸的公共空間)からは「政治的問題を討論する自発的なアソシエーション」が生まれ、それがやがて「明治維新」に繋がっていくわけですが、「維新」によって成立した近代日本のなかで「会読」は廃れていく。
その要因として前田は、次のようなものを挙げています。
「それ[もっと根源的な要因]は、端的にいえば、学問が立身出世に直結したことである」(『江戸の読書会』1 (以下『江』と表記)p.373~)。
「お互い「道理」を探究して対等に討論することも、同志の意識をもつこともなくなり、自分一人の立身出世を遂げるために、競争相手を出し抜く、秘かな読書に励むようになる、いわば科挙に合格するための受験勉強となる」(『江』p.374) 。
「修身道徳復活の動向のなかで…会読(輪講)よりも前段階の素読的な暗誦の注入主義が取り上げられることになってゆく」(『江』p.376)
「明治政府の立場からすれば、「討論」する会読(輪講)の学習方法は過激な…「政談」をもたらすものである、それゆえに、否定された」(『江』p.378)
「生徒間で討論しながら学び合う輪講は、西欧教育法を摂取するなかで、捨てられてゆく。その大きな契機となったのは、師範学校の教授法の導入だった。」(『江』p.350)
「民権結社においては会読の相互討論以上に演説が重視されるようになる」(『江』p.365)。演説において「「自由」と「民権」を叫ぶ時、情念・感惰を煽(あお)るものに陥りやすかっただろう…。このとき、会読の場での「正理」にもとづく討論という理性的な側面は消えてしまう」(『江』p.372)。
これらの理由はいずれも興味深いものです。「学問が立身出世に直結し」、「いわば科挙に合格するための受験勉強」となっただけでなく、かつて会読の中で育った「維新の元勲」たちがいまや会読を抑圧する側に回る。また西欧近代式の教育自体がそもそも子供たちを型に嵌めて、「国民」として成形するためのものである。さらに『反体制』の側でも「会読」より「演説」が重視される。
こうして会読は廃れていくわけですが、それでは会読が廃れたあとに形成された近代日本の精神とはどのようなものなのかを、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
2.日本の近代化と儒教
日本の「近代化」と「儒教」との関係は、ふつう対立するものと捉えられ、「近代化」即ち「儒教の否定」であり、「儒教」的な要素の残存は「近代化」の不徹底と看做されがちです。しかし既に見たように近代に先立つ江戸期は儒教社会とはいえず、朱子学的な社会制度の要ともいえる「科挙」のごとき試験制度が導入されるのは、近代になってです。
このように「近代化」=「脱儒教」という図式では近代日本の精神を上手く説明できないので、日本の近代化をむしろ「朱子学化」という側面から捉える見かたもあります。小倉紀蔵の『朱子学化する日本近代』2 (以下『朱』と表記)がそれです。
なお小倉は「擬似儒教的」という言葉も使っており、大陸の朱子学と日本における「朱子学」の違いを明確にし、かつ〈朱子学的思惟〉を独自の意味で使っていますから、「再儒教化」とか「朱子学化」という表現を表面的な意味で受け取らないよう、注意が必要です。
西欧思想・制度の導入にもかかわらず、明治維新によって成立した権力が、近代日本のシステムを単純な西欧のコピーとしなかったことは、「帝国憲法」や「教育勅語」に明らかです。そこに朱子学の影響を見るのは容易でしょう。
しかし小倉は、こうした権力側のイデオロギーにだけではなく、福澤諭吉のような、政治権力の外側にいた――しばしば「西洋思想一本槍」と看做される――思想家にも〈朱子学的思惟〉を観てとっています。その〈朱子学的思惟〉とはなにか。
しかしその話に入る前に、我々は、まず朱子学についての初歩的な知識を仕入れておく必要があります。
3.気と理、理の階層性
小倉の『朱子学化する日本近代』を読むためには、「気と理」、「理の階層性」についての初歩的な知識が必要になりますが、この点についての同書の説明は難しいので、まず氏の『入門 朱子学と陽明学』3 (以下『入』と表記)から、これらについての説明を引用しておきましょう。
「朱子学や陽明学を理解する上でもっとも重要なキイワードは何であろうか。/私としてはこの問いに、理と気であると答えたい。」(『入』p.120)
「気とは何だろうか。/この宇宙はすべて一気から成り立っている。/気というのは理解しにくいものであるが、ひとつだけたしかなのは、気は単なる物質ではない、ということである。バイタルな生命力を有した物質である。したがって「vital material(生命的物質)」といえるだろう。あるいは「バイタル」を「スピリチュアル」といってもよい。」(『入』p.121)
「朱子の思想の核心は、「理」という概念にある。/理とは、宇宙・世界・国家・社会・共同体・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則である。」(『入』p.124)
「理には、さまざまな階層性がある。朱子学では次のように理の二重性が規定されている。ひとつめは、「一理」と「万理」の別である。すべてのものごとには個別的な理がある。これが万理である。だが、それらはすべてひとつの理に包摂される。これが一理である。」(『入』p.133)
「私としては、理には実はもうひとつ別のメタレベルがあると考えなくては、朱子学という思惟体系の構造(特にその政治性・権力性)を正確に把握できないと考えている。それは、一理つまり絶対的理の説明体系の地平そのものを支えている論理構造としての理である。」(『入』p.135)
なお小倉は、『朱子学化する日本近代』では「一理」を〈理α〉、「万理」を〈理β〉、「一理つまり絶対的理の説明体系の地平そのものを支えている論理構造としての理」を〈理X〉と名付けています。
さて、朱子学は、この〈理〉が「すべての存在・人間にあまねく賦与されている」(性善説)と考えるわけですが、「理には階層性があるため「〈理〉の構造の説明体系の全体を受け容れた者、認識しえた者のみが、〈主体的〉に〈理〉社会に登録されるのである。そうでない者は〈主体的〉な〈理〉を保持しえず、支配者によって〈客体的〉に分殊〈理〉を賦与される。すなわち〈主体的〉には〈理〉から排除されたまま、〈客体的〉にのみ〈理〉に組み入れられる」(p.93)。前者は〈主体的主体〉ですが、後者は〈客体的主体〉です。
小倉は、「日本の近代化」を「社会を「再儒教化」する過程だった、…それは官僚制と中央集権という基礎の上に、国民を〈主体化〉し〈序列化〉する過程であった」と特徴づけますが、以上の予備知識を踏まえると、国民の〈主体化〉とは、朱子学において「社会の構成員がすべて〈理〉を持つ」とされることによるものであり、〈序列化〉は「それぞれの体現する〈理〉の多寡」をその正当性の根拠とするものであることが了解されます。
4.福澤諭吉と〈朱子学的思惟〉
さて先にものべたように、小倉は、近代日本の権力側の思想に〈朱子学〉の影響を指摘するのみならず、ふつうは「封建的旧物打破」の思想家とも、「西洋思想一本槍」の「徹底したプラグマティスト」とも目される福澤に〈朱子学的思惟〉を見出します。「西欧思想」の影響下にあると認識されている思想家たちに、〈朱子学的思惟〉を見出す点こそ、小倉の指摘のうちでもっとも注目すべき点の一つでしょう。
ただこの場合、〈朱子学的思惟〉とは、以下で説明するような特徴を持ったもの指し、表面上は朱子学と全く関連のないような諸々の思想もそこに含まれることには、十分注意する必要があります。すなわち小倉は次のように言います。
「これらの特徴を持っているということが〈朱子学的思惟〉なのであり、これはいわゆる「朱子学」だけでなく、表面上は朱子学と全く関連のないような諸々の思想にも往々にして宿っている特徴だと考えるのである。
朱子学をこのように把えなくてはならない当為性は、時代との関係にある。
翻って私が朱子学を右に述べたような〈朱子学的思惟〉と把えるのも、時代的要請のためである。
すなわち朱子学の桎梏からわれわれはいまだに逃れえていないことを、自覚するためなのである。」(『朱』p.278)
さて小倉は〈朱子学的思惟〉は次のように特徴づけます。いささか長くかつ難解でもありますが、引用します。
「①朱子学の究極本質は〈理〉であるとされるが、実はこの〈理〉は次のような三重構造になっている。つまり根源的な唯一の理念(これを私は〈理α〉と呼ぶ)があり、それが普遍的に構成員に賦与されており(同じく〈理β〉)、さらにその構造を支える根抵権力としての論理(〈理X〉)があるという構造なのである。
②朱子学においてはこの〈理〉を認識する階梯が非常に重要であるが、「格物窮理」と呼ばれるこの認識階梯は、・・・〈演繹かつ帰納〉とも呼ぶべき既知の知への接近としてのトートロジカルな体系であった。
③〈理〉の存在を支え、それを普遍化してゆくために、〈信〉の体系が厳然と整えられていること。
④〈主体〉の内在的階層性。・・・
⑤政治思想たる朱子学は義と利の相剋において利を否定できず、「利は義の和」として義と利との調和を計らねばならないが、そのことにより常に全体性(義)と部分性(利)の緊張が生じる。
⑥〈朱子学的思惟〉は歴史を固定化するという側面のほかに、その〈普遍運動〉としての歴史改革への不断の意志を強く持っているのである。」4 (『朱』p.277~8)
各項のすべてを正確に理解すること、またそれらすべてを「桎梏」として問題にすることは、私の力量では困難です。ここでは、①項で言われる〈理〉の構造と④項で言われる〈主体〉の内在的階層性、すなわち〈序列化〉のみを検討の対象とすることにしましょう。
それでは、小倉が福澤諭吉に〈朱子学的思惟〉を見出したのはなぜか。ここでは、我々の検討対象である①項と④項に関するところだけを引用します。
「①まず、福澤の思惟方法には、〈朱子学的思惟〉における〈理〉の三重構造がそのまま認められる。今、『学問のすゝめ』(一八七二)において考えてみよう。
まず、〈理α〉は、「天理」である。これは福澤にとって、近代社会を形成する上での根源的な唯一の理念である。
次に〈理β〉は、「権理通義」5である。これは、「天理」がすべての社会構成員に平等に賦与されたものである。
最後に〈理X〉は、「(天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず)と言えり」「そもそも政府と人民との間柄は、前にも言える如く、ただ強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし」などというテーゼであり、これは〈理α〉が成立するための権力としての地平を提供するものである。」(『朱』P.279)
「④〈理〉の内在的階層性に関して福澤は、「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」という明確な言葉で説明している。これは性善説的な理一分殊の体系の一変形である。」(『朱』P.280)
④の「階層性」の問題は比較的理解しやすいでしょう。人と人との「エクウヲリチ」(equality=平等関係)を説く福澤においても、「誰でも学べば賢くなれる」という「性善説」が、『賢人』と『愚人』の「差別」を正当化する根拠になってしまう。これは重要な問題ですが、後で問題することにしましょう。
ところで、①のほうは何が問題なのか、これを読んだだけで理解するのは難しい。しかし小倉が次のように言うとき、その意味は理解しやすいでしょう。
「福澤は旧い封建的な〈理α〉と〈理β〉の先験性を否定したという意味では反朱子学的な側面を持っていたが、〈理X〉の先験性を否定しえなかった(既述したように、「天理」や「権理通義」の新しい革命的な先験性を確保するために、それらの〈理〉を成立させる先験的な地平として西洋近代思想に依拠したことがそれである)という意味では朱子学的だったのである。」(『朱』p.284)
小倉の批判は天の理や地上の権理(right)を根拠づける〈理X〉の先験性(超越性)を否定することができない点に向けられている。すなわち福澤においては、特定の西洋近代思想が自らを超越的なものとして、天の理や地上の権理を根拠づけている。
「福澤が西洋思想を信奉したとしても、その思想の「中身」に関係なく、その思想の「形式」が〈朱子学的思惟〉であるということがありうる。
彼[福澤]は、…国民国家という枠組みの中での〈主体性〉を国民に付与しようとした…。その〈主体性〉の原理となるのは、超越性を付与された特定の西洋思想であった。プラグマティストであることと超越主義者であることは、近代日本においては矛盾しない。現実的な効用や実践を追求するために、外部(主に西洋)の特定の理念や原理などを絶対化し超越化するということは、ごく普通の行為である。このように、形式上の超越性を内容的に充填するものが西洋思想である、という「型」は、…福澤がそれを明確に定式化した。ここに、特定の西洋思想を超越性として受け容れ、それによって自己を〈主体化〉するという近代日本的な「型」が定式化されたのである。」(『朱』P.30~31)
そして、この「特定の西洋思想を超越性として受け容れ、それによって自己を〈主体化〉する」のが、福澤以来近代日本の「定式化された(思考の)型」であるというのは、今日でも変わっていない。
5.近代日本の「定式化された(思考の)型」―とりあえずの纏め
今日の日本の思想状況はどのようなものか、それを三島憲一は次のように描写しています。
「学問の精神とまったく相反する神様選びと偶像崇拝がわが国に横行して久しい。西欧の偉大な思想家や理論家を自分が世界をみる枠組みにしてそれで「事足れり」としている気配が濃厚である。…多くの人は,時には卒論以来一貫してそういう名前をやってきて,もはや,その神様が作ったものの見方や概念以外では頭が動かなくなっている。」(『ハーバーマスとデリダのヨーロッパ』6 (以下『ハ』と表記)p.4)
三島の言う「神様選び」は、「特定の西洋思想を超越性として受け容れ、それによって自己を〈主体化〉する」ことそのものです。小倉が言うように「西洋思想を信奉したとしても、その思想の「中身」に関係なく、その思想の「形式」」のほうは〈西欧的思惟〉とは似ても似つかぬものです。すなわち思想の「形式」のほうは〈朱子学的〉であったり、あるいは〈「ムラ」的〉であったりする。三島によれば次のごとくです。
「組織原理が三田族とか馬場族,あるいは待兼山集団というアイデンティティ集団であり,普遍性に反する民族主義である。そこで扱われているテーマは最近では,ナショナリズム批判であったり,アイデンティティの脱構築であったりしても,集まっている原理がきわめて未熟かつ素朴なアイデンティティ集団なのであるから,まさにパーフォーマンスの矛盾としかいいようがない。」(『ハ』p.5)
三島は次のようにも言う。
「こうした教団や宗派の総括責任者は時には,神様のヴェーバーやニーチェやハイデガーより偉いことがある――本願寺の宗務総長がお釈迦様より偉いのと同じかもしれない。」(『ハ』p.4)
「同じことはこうした傾向を解体するべく登場したポストコロニアリズムやフェミニズム,カルチュラル・スタディーズといった比較的新しい知的動きについても言えるから,根は深い。」(『ハ』p.4)
この「教団や宗派の総括責任者」が「神様より偉い」という事態のほうは、〈朱子学的思惟〉のもう一つの問題、「把握している〈理〉による人の〈序列化〉」の問題とも重なります。
ここで「知」による〈序列化〉について触れると、近代日本の「知識人」は「『科挙』に合格するための受験勉強」を前提とした存在あり、「知識人」が「知識人」であるのは、この〈序列化〉によっています。ですから「知識人」という自己規定を捨てない限り、「知」によって〈序列化〉する「権威」を究極的に否定することはできません。
そして「知」による〈序列化〉も、人の差別化であり、抑圧であることには、変わりありません。
このように考えると、「特定の…思想を超越性として受け容れ、それによって自己を〈主体化〉」し、またその受容度によって〈序列化〉を行うという「思惟の形式」からの転換こそが必要なのではないでしょうか。
連載④へ続く
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注
1 前田勉『江戸の読書会』(平凡社選書 2012)
2 小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』(藤原書店 2012)
3 小倉紀蔵『入門 朱子学と陽明学』(筑摩新書 2012)
4 この6個の項目中、③項は、理解が難しいが、小倉は――『朱子語類』を引用して――次のように解説している。
「「信是誠實此四者(=仁義禮智)、實有是仁、實有是義」
(信は仁義礼智というこの四つを誠にし実にするものである。この仁を実有し、この義を実有する)[『朱子語類』巻六]
私の考えでは、〈信〉とは仁義礼智を成立させる形式、つまり〈理X〉の形式なのである。そして重要なことは、〈信〉自体にすでに〈理〉の枠組みが刷りこまれてあるということである。
つまり〈信〉を認識した瞬間に、すでに〈理〉の内容がそこに刷り込まれてあるということだ。」(『朱子学化する日本近代』p.80)
5 『学問のすゝめ』で福澤はrightに「権理通義」という訳語を当てている。
6 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/6649/1/72448_362.pdf
(そうまちはる 「公共空間X」同人)
(pubspace-x443,2014.04.21)