ヘーゲルを読む 1 ネグリのコモン論を批判する

(前著『知的所有論』の紹介)

 

高橋一行

0より続く
 
1. コモン論
 
 非物質労働とコモンという概念を出したのは、ネグリの功績である。
 『マルチチュード』1では、まず、現代において、非物質的労働が主導権を握るということが主張される。ここで、非物質的労働とは、ひとつには、知的ないしは、言語的労働であり、もうひとつは、安心感や幸福感、満足、興奮、情熱などを生み出すサーヴィス業であり、ネグリの言葉を使えば、「情動労働」である。ネグリの第一の功績は、こういう労働が、現代において、主導権を握る、つまり、包括的に、質的な変容と移行を促すと考えたことである。
 第二に、これらの労働においては、情報、コミュニケーション、協働が生産の基準となり、ネットワークが組織の支配的形態となり、そこにおいては、コモンが顕著に現れて来ると、ネグリは言う。この指摘こそが、ネグリの主張の中核にある(以上、2-1)。
 そして結論として、資本主義社会においては、私的所有が、社会主義においては、公的所有が、共産主義にとっては、コモンが支配的な所有形態になるとしている(『コモンウェルス』5-1) 2
 これに対して、私は、ヘーゲルの『法哲学』3 及び、「論理学」4から、所有の概念を導き、そこから、知的所有の概念と、その性質としてのコモン性を導いた。
 すなわち、所有とは、第一に、労働の成果としてあり、また社会の中で承認されたものとしてあり、第二に、社会の中で使用されることで、その意義が確認され、第三に、交換、譲渡、売買されることで、その真価を表すというものである。このことは、『法哲学』の中で、主張され、それは、「論理学」の、肯定判断、否定判断、無限判断に対応するとヘーゲルは考えている。このことを私は、以下のように、消しゴムを例に挙げて、説明した。肯定判断、否定判断は分かるだろう。無限判断とは、さしあたって、否定の徹底である。
 
肯定判断 : 消しゴムを自ら労働して、作り上げ、そのことが認められて、それを所有する。
否定判断 : 消しゴムを使い切ってしまったので、もはやそれを所有していない。
無限判断 : 消しゴムを交換、譲渡、売買したので、もはやそれを所有していない。
 
 これはこんなふうに考えるべきである。まず、最初の判断で、所有が認められる。次に、所有物を使い切ってしまえば、所有は否定される。しかし、最後に、所有物を、交換、譲渡、売買すれば、それは自分の所有物ではなくなり、つまり、自らの所有の否定であるが、しかし、それが可能なのは、その所有物を所有していたからこそであり、そこに所有が社会的に確認される。つまり、無限判断において、そこでは「否定の否定」の論理が使われるのだが、それは、否定の徹底であり、同時に、肯定でもある。
 そしてまた、ヘーゲルが、このように三つの判断を並べるとき、一番重要なのは、最後のものだから、最後の段階で、所有が否定され、かつ肯定されることに、所有の意義がある。そこから、所有物の交換、譲渡、売買を巡って、人間関係が生じる。かくして、社会は、所有から構築される。『法哲学』全体の構成が、それは、所有から始まり、その所有を守るためには、法が要請され、それを支える道徳が確認され、現実的に、家族、市民社会、国家とその概念が説明され、最後は、世界史に至るという仕組みになっている。
 さらに私は、この所有の概念は、知的所有にも当てはまるということを示した。つまり、数学の知識の例で言えば、以下のようになる。
 
肯定判断 : 数学の知識を自ら労働=勉強して、頭の中に形成することで、それを所有する。
否定判断 : 数学の知識を社会で活用したので、それを一人占めしている訳ではない。
無限判断 : 数学の知識を交換、譲渡、売買したので、もはやそれを独占していない。
 
 ここにコモンが出て来る。知的所有物は、コモンである。なぜなら、知識は、社会の中で使用することで、人々の役に立ち、さらにそれを、交換、譲渡、売買することで、一層、知識は人々の間に広まる。また、交換、譲渡、売買しても、自らの所有物であることを止めず、つまり私的所有物であり続け、むしろ、そうすることで、一層豊かになるものだからだ。
 先には、無限判断において、所有物が否定され、しかし所有の概念は肯定された。ここでは、私的所有の概念が否定され、いや、徹底的に否定されて、コモン性が出て来て、しかし同時に私的所有は肯定される。この二義性、ないしはダイナミズムを確認したい。
 そして、この知的所有物の、共有物であり、かつ私的所有物であるという性格を以って、コモンと言う。つまり、単なる共有ではなく、それ以上の概念として、このコモンという言葉を使いたい。ここまでを私の結論として、提出する。
 ここで、ネグリの議論との整合性を確認しておく。つまり、ネグリは非物質的労働といい、私は知的所有と言っているのだが、この関係について付言しておく。所有の定義について、上で述べたように、人は労働し、そのことによって、労働生産物を所有する。労働こそが、所有を正当化する。つまり、非物質的労働の生産物が、知的所有物である。
 さらに、ここで、知的所有において成り立つことを、所有一般、つまりモノの所有においても成り立つと言うことを説明しておく。
 知的所有物が、コモンであるのは、容易に理解できる。そして所有一般は、必然的に、知的所有化する。つまり所有一般が、そもそもコモンであったのだが、それが、知的所有化したことで、顕在化した。そう考える。
 それは同時に、情報化社会の出現の必然性の問題である。所有は必然的に知的所有化し、社会は必然的に情報化社会となり、潜在的にあったコモン性が顕在化する。そのことを確認したい。
 まず、現代では、事実として、知的所有が重要な概念となっている。このことをきちんと説明する必要がある。これは次のふたつの意味においてである。
 ひとつは、現代においては、知的労働が主導権を握っているということであり、これはまさしく、ネグリが指摘したことだ。私たちは、第三次産業中心の社会に生きている。第二に、物質の生産においても、つまり第一次産業、第二次産業においても、知的蓄積が重要である。農業でも、機械化され、工業では、さらにオートメーション化され、それらは、知的労働の成果である。その結果、それらにおいても、肉体労働の比重は減っている。
 この第二の意味が重要で、私たちは、根本的に、物質的生産力に規定されているが、そこに知的蓄積があることで、生産力は上がり、生産性も上がり、第一次産業、第二次産業の中で、知的労働の割合が高まり、さらに分業の進展の結果、第三次産業が、分離して発達し、それがいまや支配的になる。そういう順番である。
 その結果、物質的財も、十分に存在するということで、コモン性が出て来る。現代社会において、直ちに、物質的財がコモンであるとまでは言わないが、コモンになり得ると言うことはできる。それは、繰り返すが、知的財のおかげで、十分な量が生産でき、かつ、その中に、知的財の部分を多く占めているからである。物質代謝に規定されてありつつも、知的財の面が前面に出て来ており、そのことを、潜在的にあったコモン性が顕在化したと表現したのである。
 また、上の議論と関連するが、次のように言うこともできる。つまり、農業や工業においても、元々は、労働は、対自然であると同時に、その中に、人と人との関係が内在している。対自然の労働を根源において、その中に、人と人との相互関係を内在化させているものが、労働である。そして、知的労働においては、対自然を介せず、直接、人と人との関係を気付くことができる。これも、十分な物質代謝、つまり対自然との関係を根源においての話である。この、人と人との関係が、ネグリが言うように、ネットワークをその支配的形態として要求し、そこにコモンが顕在化するのである。
 
2. ネグリ批判1
 
 その上で、次のような議論をしたい。ネグリは、資本主義=私、社会主義=公、共産主義=コモンであるとして、三つを並べたが、しかし問題はここにある。つまり、単に三つ並べているだけに過ぎない。しかし、ジジェクは、ここに、無限判断論を使う5 (『ポストモダンの共産主義』2-9) 6。ジジェクは、彼の議論において頻出する無限判断論を、『精神現象学』から得ているのだが、ここでは、先に私の議論の中で説明したように、「論理学」の使い方に従っている7
 
肯定判断 : 資本主義は、私的所有を支持する。
否定判断 : 社会主義は、国有を支持する。
無限判断 : 共産主義は、コモンを支持する。
 
 このようにネグリのトリアーデを、ジジェクが無限判断論と結び付けることで、コモンの説明ができるようになる。さしあたって、ジジェクは、次のように考えている。
 
肯定判断 : 資本主義社会では、所有は、元来、私的所有である。
否定判断 : 社会主義社会では、私的所有は否定される。
無限判断 : 共産主義社会では、私的所有の概念もが、徹底的に否定される。
 
 つまり、彼にとって、「否定の否定」としての、無限判断は、否定の徹底である。ここでは、私的所有性が、徹底的に否定されている。
 さて、ジジェクについては、このシリーズの、のちの回で、詳述する。つまり、「否定の否定」が、どこまで正しく理解されているか、つまり、それは否定の徹底であると同時に、肯定でもあるのだが、そのことをどこまでジジェクが理解しているかについては、のちに書きたい。ここでは、ネグリが提起した、コモンの概念が、ジジェクにおいて、ヘーゲルの判断論と結び付けられたことを、指摘し、それをジジェクの功績として挙げておく。
 以下は、私の無限判断の解釈に従う。つまり、無限判断において、所有の概念は、否定され、かつ肯定されたのだが、私的所有の概念も、同じく、否定され、かつ肯定される。そのダイナミズムが重要である。
 そして、ネグリに対する第一の批判は、ネグリが、このダイナミズムを理解していないということである。ネグリの議論では、私的所有と共有の関係が平板である。つまり、ネグリが無限判断のダイナミズムを理解していないために、その提案が、つまらないものになっているという指摘をしたい。ネグリは、ごく単純に、ヘーゲルのダイナミズムを拒否している。
 まず、コモンが、一部の人間に私的所有化されているから、それを取り戻して、コモンにせよと、ネグリは主張するのだが、そして、その議論自体は、正しい場合もあるが、現代社会の問題はそれに尽きるものではない。私的所有であり、かつコモンであるというあり方もあり、そういうあり方を、コモンと言うのである。本来共有されているものが、現代社会では、収奪されているから、それを単に取り戻せということでは、話は済まない。財が共有されていても、格差が大きくなることもある。どのような割合で共有するのかも考えねばならない。問題は、配分と交換過程の両方で、ひずみがあることである。私有財産がすべて悪で、共有すれば、すべて解決するということでもない。
 また、知識の獲得を考えれば、分かることだが、知識という共有財産にしても、最初は私的所有物である。つまり、自分の頭で苦労して獲得しなければ、それは財産にならない。コモンは、単なる共有ではないというのは、そういうことだ。まず、私的所有の根源性を押さえることが重要である。そして、そこに個人差が生まれる原因があり、その結果、そもそも必然的に、情報化社会では、格差は大きくなるのである8。ネグリには、その認識がない。
 ネグリは、『帝国』の結論として、グローバルな市民権の権利、ベーシックインカムの支給、知、情報、コミュニケーション等の、新しい生産手段を再領有する権利と、みっつの目標を挙げている9
 つまり、まず、コモンの担い手としての市民ひとりひとりの権利を確保し、消費財については、私的所有を認めるが、そのための保証をし、根本は、しかし、生産財の共有が必要だと持って来ている。これについて異論はない。しかし、ここでもネグリは、横領されたコモンを取り戻せとしか、言っていないのではないか。
 所有の水準には様々なものがある。共有しても、そこから疎外される場合もある。格差も生じる。しかし、それをどうバランスを取るか。一部の論者が言うような、所有の撤廃を求めるのでもなく、かつ現状肯定でもなく、また、ただ単に、配分的正義のみを求める福祉国家を理想とするのでもなく、所有の様々な水準を考慮すべきである。拙著『所有論』からの主張を繰り返せば、少なくとも、他律的所有と自律的所有の区別は導入し、労働者の自主管理、住民の政治参加だけでなく、代議制民主主義という委任制度の役割も、一定程度認め、所有の形態として位置付けて行くことが必要である。
 所有の水準は、労働の水準に繋がり、それは、協働の水準でもある。多様な共同のあり方が模索されるべきである。
 
3. ネグリ批判2
 
 以上、ヘーゲルの無限判断論を使って、ネグリを批判してきたが、以下、さらにネグリ批判を行いたい。
 大澤真幸は、先の、ネグリの『帝国』の結論部分の、みっつの主張について、大袈裟な概念を駆使し、しかし最後に、凡庸な結論を導いているとしている。その理由として、彼にナショナリズムの困難についての認識が欠如しているからだとした(大澤2009序章) 10。私は、大澤の、ネグリ批判の内容にも、その理由にも、賛成する。
 そのことをさらに展開するために、ヘーゲルの、普遍 – 特殊 – 個別の理論を説明する必要がある。
 私(個別)は、日本人であり(特殊)、かつ、人類の一員(普遍)である。個別は特殊を通じて、普遍に到達する。その際に、ネグリのようなマルクス主義者は、往々にして、普遍に達することを重視して、その特殊性を軽視する。共産主義に目覚めれば、偏狭なナショナリズムは克服されるべきであるとされている。しかし特殊性は、最後まで残る。個別は、普遍に達するが、同時に、特殊は残るのである。このダイナミズムが重要だ。
 一方で、特殊を超えることができず、むしろそこに留まることを奨励する風潮の中で、普遍に目覚めさせることに取り組んで来たマルクス主義者の努力は評価すべきである。しかし、大澤の言う、「ナショナリズムの困難」は、その特殊性を、最終的には、克服できるとしてしまったことに起因するのではないか。
 ネグリ批判の、第二点目は、この、普遍と特殊のダイナミズムがないことだ。個別は、特殊を経て、普遍と合致する11
 『帝国』では、大澤の批判するような展開がなされているが、『コモンウェルス』では、ネグリは、意識的に、アイデンティティ批判をしている(6-1)。そこでは、アイデンティティは、所有物であり(これは正しい認識だ)、従って、第一に、そこにある従属関係を可視化し、再領有すること、第二に、その従属的なアイデンティティを武器として、つまりその憤激を利用して、国家権力へ反撃すること、さらに第三に、最終的には、アイデンティティを破棄することが、主張されている。
 結局、アイデンティティは私的所有物だから、廃棄せよということに、彼の主張は,尽きると思う。アイデンティティを、部分的には活用することが示唆されているが、しかし、それはその限りでしかない。
 しかし、特殊を経なければ、普遍に辿り着かないし、特殊の役割は、単に過渡的なものではない。その否定的媒介性に着目することが必要である。
 このように考えると分かり易い。実は、ナショナリズムの興隆は、情報化社会の進展に伴う必然的な動きと解すべきである。しかしネグリは、情報化社会の特徴を、非物質労働、コモンという概念を使って、的確に把握しておきながら、最終的には、情報化社会以前の革命論に終始している。
 ナショナリズムの興隆の必然性を理解すること。私がここで言いたいのは、世界的に、ナショナリズムの興隆があり、それはただ単に、過渡的な現象ではないということで、グローバリズムという普遍を求める運動に、ナショナリズムという特殊性を求める運動は、連動している。そう考えないと、有効な戦略は出て来ない。ナショナリズムという特殊性を通じた、普遍性としての革命論が必要である。
2-1へ続く
 
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1 ネグリ、A., & ハート、M.,『マルチチュード -<帝国>時代の戦争と民主主義-』幾島幸子他訳、NHKブックス、2005
2 ネグリ、A., & ハート、M.,『コモンウェルス -<帝国>を超える革命論-』水嶋一憲他訳、NHKブックス、2012
3 ヘーゲルについては、私自身は、Suhrkamp版を使うが、様々な訳書も参照しており、このシリーズでは、すべて、ページ数は出さず、しかし、節などの番号を示して、出典箇所が分かるようにしたい。
4「論理学」とは、『大論理学』と『エンチュクロペディー』第一部「小論理学」の総称である。
5 ジジェクは、2009年のハートの会議場での発言から、このトリアーデの着想を得たと書いているが、ネグリ&ハートは、同年に出た『コモンウェルス』の中で、このトリアーデを明記している。
6 ジジェク、S.,『ポストモダンの共産主義 -はじめは悲劇として、二度目は笑劇として-』栗原百代訳、筑摩書房、2010
7『精神現象学』と「論理学」の無限判断論の違いについては、2-3で示す。
8 この観点は、非常に重要である。福祉国家論者のように、単に課税と福祉で、調整できる問題ではない。貨幣の交換過程そのものの考察がないと、このあまりにも大きくなりすぎた格差について、その解決策が出て来ない。また、奪われたものを取り戻せという、古典的なマルクス主義でも、解決策として、不十分である。
9 ネグリ、A., & ハート、M.,『帝国 -グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性-』水嶋一憲他訳、以文社、2003
10 大澤真幸&姜尚中『ナショナリズム論・入門』有斐閣、2009
11 先の無限判断論と、この、普遍 – 特殊 – 個別の推理論的連結の関係も、ヘーゲル解釈にとって、大きな問題である。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
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