なぜ「新しい公共空間」か 連載② ―江戸の読書会とは何か―

相馬千春

連載①より続く
 
四、江戸の読書会とは何か
 
1. 「近代化」は「西欧化」を意味しない
 前回、<「近代日本精神」のあり方を克服するためには、私たちは再び『江戸の読書会』を興す必要があるのではないか?>と書きました。
 こんなことを言うと、「理性的なものは西欧化によってもたらされたのであり、それ以前には日本に理性的精神など存在しなかったのだ」と反論されるかもしれません。しかし、西欧的理性を全面的に肯定するか否かはともかく、「近代―前近代」、「理性―非理性」という二つの対の関係を考えるとき、私たちはまず次の点に注意すべきでしょう。
 すなわち、幕末の日本に限らず、資本主義的な「世界システム」によって、外部の領域が包摂されるとき、包摂される領域(近代化される領域)は単純に「西欧化」されるわけではありません。そこ(例えば日本)に形成されるのは、「西欧的システムそのもの」とは異なった「独自のサブシステム」です。だから「世界システム」によって包摂される領域での「近代化」(の徹底)は、必ずしも「西欧化」を意味しはしない。
 このことは「知識人」たちの精神の有り様についても言える。近代日本の「教育」は西欧的な学問(理性的なもの)にかんする「知識の注入」であったけれど、それによって形成されたエリートは、先に見た通り丸山真男のいう「近代的人格の前提たる道徳の内面化」を欠いている。いや正確に言えば、『西欧近代的人格の前提たる道徳の内面化』を欠いているのが、近代化の所産としての「近代日本人」である。
 他方で、<西欧文明が流入する以前の日本には理性的な精神はなかった>と言えるのか?西欧中心主義や儒学にたいする先入観を少なくとも一度棚上げにするならば、当然のことですが、近代化以前の日本の思想・学問のあり方を実際に見てみるしかない。「江戸の読書会」を知ることには、少なくともそういう意味があるでしょう。

2.江戸時代の儒学
 ところで、江戸時代の学問と言えば、儒学が主流であり、「読書会」もまず儒学の私塾で始まったわけですが、儒学・儒教の内容と地位が中国・朝鮮と日本では大きく異なっています。
 中国・朝鮮は「儒教社会」であり、儒教は統治システムの一部であったわけですが、日本では、江戸幕府が朱子学を公認イデオロギーとしたといっても、儒教が統治システムとして機能したわけではない1。「科挙」の制度があった中国・朝鮮では、「勉強すれば、富も、豪邸も、地位も、美女もすべて手にはいる」(前田勉『江戸の読書会』平凡社選書2012〔以下「江」と表記〕p.20)。ところが江戸期の日本では「家老の息子は家老、下級武士の子は下級武士」で、「学問」が立身出世に結びつくことは基本的にはなかった。
 このように江戸の儒者が、中国・韓国の士大夫とは、その社会的地位においてもその精神性においても全く異なった存在であることを考慮しないと、「江戸の儒学」で以下で述べるような「読書会」が行われるようになったことは理解が困難でしょう。
 ところで江戸の人々が「立身出世」につながらない儒学を勉強した動機は、なんだったのか?
 儒学の理屈からすれば、一つの答えは「聖人に成ることを目指したから」ということになるのですが、前田はこれとは別のアプローチを考えます。

「私が注目するのは、この漢学塾が「門閥制度」の支配する実生活とは別空間だったという点である」(「江」p.31)
「福沢[諭吉]によれば、実生活においては…「…小供の戯れの遊ぶにも門閥が付て廻」ったのであるが、「…上士族の子弟と、学校に行て読書会読と云ふやうな事になれば、何時でも此方(こつち)が勝つ…」。」(「江」p.32)

 立身出世に結びつかない学問が学ばれたのは「逆説的だが、身分制度の実生活が厳としてあったため」であり、「学問の場が「門閥制度」の実生活とは異なる空間、自己の「正味の実力」のみを競う空間だったからではなかったか」、こう前田は推量します。
 人が抑圧されている現実の社会の中に、それとは異なる、対等性の原理を持つ「ミクロの社会」が作られたとき、それが魅力的だったことは想像に難くありません。

3.読書会の始まり
 儒学の学習方法には「読書会」=「会読」の他に「素読」や「講釈」がありますが、後の二つに比べると「会読」は新しい方法で、これを最初に行ったのは、しばしば荻生徂徠(1666-1728)のグループであるとされるが、それ以前に伊藤仁斎(1627-1705)がおこなっているのだそうです。
 前田は、「注目すべきは…仁斎が、独り部屋に閉じこもってする孤独な読書ではなく、「同志」とともに共同の読書=「会読」を行うようになった点である」(p.72)としたうえで、仁斎の読書会の特徴を次のように把握します。

「この同志会の会式で注目すべき事柄は、第一に、「会長」と「講者」が別であることである。「会長」は、あくまで「講者」と参加者の問答において、「講者」が「理」に外れたときに軌道修正するまでで、基本的には第三者の立場にいる。」
「第二には、「講者」が複数いたという点である。…ここでは「講者」と聴衆が役割を替えることが前提とされていた…。…同志会では…「講者」と聴衆が入れ替わることによって、参加者の対等性が担保されているのである。」
「第三に、この同志会は、…「会約」を作って、「講者」と聴衆との間で、一定のルールのもと、疑問を出し合っていた点である。」(「江」p.74~75)

 これら三つの点から、前田は「会読の相互コミュニケーション性、対等性、結社性の原理が、仁斎の同志会のなかですでに実現していた、あるいは、実現させようとしていたことが見て取れる」としています。

4.公共空間としての「会読」
 「相互コミュニケーション性、対等性、結社性という三つの原理」のゆえに、会読の場は「門閥制度の近世日本国家のなかで、きわめて特異な空間」となったわけですが、前田は「三つの原理」を次のように特徴づけます。

「会読の第一の原理は、…参加者お互いの「討論」を積極的に奨励するという相互コミュニケーション性である。この原理が特筆されるべき理由は、近世日本の国家が、上意下達の一方向的なタテの人間関係を基本にしていたからである。」(「江」p.55)。
「会読の第二の原理は、「討論」においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとで行うという対等性である。」(「江」p.59)
「この対等な討論は生徒間ばかりではなく…師弟間でも同様である。」(「江」P.60)
「会読の場は、こうした対等な者同士の実力だけが試される場であった。…そこは、「門閥制度」の実生活とは異なる、対等な人間同士の場だったのである。」(「江」p.63)
「第三の原理は、読書を目的とし、期日を決め、一定の場所で行うことを規則に定めて、複数の人々が自発的に集会するという結社性である。」(「江」p.63)

 なお、江戸時代には「徒党を組むことは、厳しく禁じられてい」たわけですが、「会読の会が徒党とみなされず、禁じられなかった」のは、学問の会読も「漢詩、俳諾や狂歌と同一レベルのもの、一種の遊戯だと思われていたからであろう」と前田は言います。

 注意すべきは、こういう「原理」のもとで行われた「会読」は、西欧においても行われていたという点です。
 この点について、前田はハーバーマスとシュテファン・ルートヴィヒ・ホフマンから引用しています。

「公権力の公共性が私人たちの政治的論議の的になり、それが結局は公権力から全く奪取されるようになる前にも、公権力の公共性の傘の下で非政治的形態の公共性が形成される。これが、政治的機能をもつ公共性の前駆をなす文芸的公共性なのである」(「江」p.16)2
「…ヨーロッパのどこでも、そうした読書サークルや協会の会員たちは、たとえ身分が違っていたとしても、おたがいに平等であった。彼らは、より文明化されたふるまいの高いレヴェルに到達しようと、お互いに協力しあうことを望み、国家の枠をこえる新しい社会空間を創りだした。そうした新しい社会空間では、ヨーロッパの啓蒙思想のテクストや理念が流通し、批判的に論議された」(同上)3

 さてここまで来て、ようやく拙文の題にある「公共空間」にたどりつくことが出来ました。
 <「江戸の読書会」とは西欧思想の言葉でいえば、文芸的な「公共空間」であり、このようなものこそ今日の我々に必要なものではないか?>というのが拙文の主旨なのですが、結論を急がず、さらに「江戸の読書会」をみることにしましょう。

5.読書会が重んじたこと
 このように伊藤仁斎や荻生徂徠たちが始めた「会読」は、やがて儒学のみならず蘭学や国学の私塾や各藩校でも広く行われるようになるわけですが、そこで重視されたことを一部だけでも紹介しておきましょう。

伊藤仁斎
 前田は伊藤仁斎の次の言葉を取り上げています。

「予、門人小子の説と雖も、筍(いや)しくも取るべき者有るは、皆之に従ふ…(『童子問』巻下、四五章)」(「江」p.76)

 仁斎は「自分の意見と異なる者との議論のほうか、自分にとっても、また相手にとっても有益」と考えて、門人の異説を受け付け、それに理があれば採用したわけです。はたして今日の日本で、師匠の説に異説を唱えることは容易でしょうか。

「学問は当(まさ)に勝心を以て大戒と為すべし。吾、勝心有る者を観るに、其の言、多く義理を以て糚點すと雖も、然れども皆、勝心より来りて、其の言、中に潜滋し暗長して、益々解すべからず。/学問、愈々進めば、邪心、愈々長ず。議論、愈々工(たく)みなれば、私心、愈々深し。(『古学先生文集』巻五)」(「江」p.76)

 「真理」を目指しているかのように、振舞っているが、実際には、勝心・邪心・私心によって「工みな」言辞を弄しているだけ。これもよく経験することでは?
 さらに前田はつぎのように述べます。

「「己を持す」ことを戒める言説は、仁斎が「仁」を説く時、己を否定することの意味を理解するうえでもヒントを与えるのではないか…。仁斎の場合、「克己復礼」(『論語』顔淵篇)は、朱子学的な天理―人欲の対立という個々人の心のなかの事柄ではなく、間主観的な事柄であったからである。これはまた、会読のなかでの己と他者との間の問題としてとらえることができるだろう。というのは、会読において異なる他者にたいしてどのように対応するかという根源的な問題につながっているからである。」(「江」p.77-78)

 会読でテキストを読むとき、目的はテキストを解読する(真理を知る)ことであり、会読は真理を知るための「手段」と考えられるかもしれない。しかし解明されるべきものが「仁」とか、哲学的な意味での「真理」とかいうことになると、「対話をしている他者とどのように対応するか」ということは、本質的な問題ではないか。しかし「真理」は往々にして「他者」との関係を抜きにして考えられ、「他者」は「手段」にされてしまう。これもすぐれて今日的な問題でしょう。

荻生徂徠
 前田は荻生徂徠の「朋友聚候て会読などいたし候得ば、東を被言(いはれ)候て西の合点(がてん)参リ候事も有之[これあり]候」(『徂徠先生答問書』巻下)を引用して次の様に言います。

「ここには、徂徠の二つの考えが内包されている。一つは、他者の異論によってはじめて自己を認識できるという考えである。…朋友との会読による討論は、そうした機会を与えてくれる絶好の場となる…。(「江」p.82)
 もう一つの…内容は、自分自身で納得することの重要性である。徂徠は、疑いを持ち、自らで考え、「自身ニわれと合点」することを強調した。異論と接する会読は、「合点」する前提となる疑いを抱く機会を与えてくれる…。」(「江」p.84-85)

 荻生徂徠は「惣じて学問と申候物は、自身ニわれと合点いたし候事にて御座候」(『徂徠先生答問書』巻上)というわけですが、<学説にありとあらゆる批判をぶつけて、それに耐えられることを確認して、初めて合点する>ということはなかなか難しい。しばしば師(権威筋)の説や流行の説を鵜のみにして、それを自分の考えであるかの如く錯覚している。

本居宣長
 国学の本居宣長の「師の説になづまざる事」は有名ですが、前田は、すでに賀茂真淵が「一人の意見では間違いが多いからと、遠慮なく意見を言ってくれるよう求めて」おり、さらに平田篤胤も「疑はしき事は、いくたびも、問ひ究め、信(したが)ひがたき事は論(あげつら)ひ試みもして、勤め学ぶをこそ、誠によく学ぶ者とはいふべけれ」(『気吹舎筆叢』巻上)と説いていたことを紹介しています。
 このように国学では師の説に対する批判が容認されただけでなく、むしろそれが求められていたわけです。
 たしかに儒学のほうでは、弟子の反対説を許さない「心きたなきわざ」(平田篤胤)も少なくなかったのでしょうが、仁斎や徂徠のもとでは、弟子たちの異論も取り上げられていたことは、上に見た通りです。

明倫堂「入学生学的」
 前田は、金沢藩明倫堂の「入学生学的」をも紹介していますが、これは初学者にもわかるように具体的です。
 「入学生学的」は「会読之法は畢竟道理を論し明白の処に落着いたし候ために、互に虚心を以可致討論義[もつてたうろんいたすべきぎ]に候」(会読の方法は、帰するところ、道理を論じて、明白な結論にいたるために、お互い虚心に討論すべきものである)(「江」p.48)としたうえで、「上達の道」を妨げるものとして、次の事柄が挙げられています。

「彼我の間に優劣をつけようと競争心をもやして、弁舌の末梢的な問題を争い、くわしく調べ、たずねたり、つつしんで思う工夫(『中庸』)もしない[こと]」、
「みだりに自分の意見を正しいとし、他人の意見を間違いとする心をもつこと」、
「自分の一得があると矜誇の色をあらわすこと」、
「他人の疎漏の誤りを妄りにそしり笑うこと」、
「自分の非を飾り、他説に付和雷同すること、軽率にもわかった顔をして、他説を表面的にしか聞かないこと」、
「自分を是として疑いを発しないこと、疑わしいことがあっても自分勝手に解釈して安心していること」、
「他人を煩わせることを憚って質問をしないこと、未熟であることを恥じて言葉を出さないこと」(「江」p.48-49)

 仁斎・徂徠・宣長そして明倫堂「入学生学的」の注意は、今日においても有益であるだけでなく、「理性」とは何か、「理性」の基盤となる「倫理的共同性」とは何かを考える上でも重要ではないでしょうか。

6.読書会が生み出したもの
 このように伊藤仁斎や荻生徂徠の私塾ではじまった「会読」は――国学や蘭学の私塾のみならず――各藩校でも取り入れられ一般化していきますが、江戸後期ともなると「藩財政の困窮に加えて…対外的な危機も重なり、全国どこの藩でも、なんらかの藩政改革を行わざるをえな」くなる。そのためには、「才能や能力によって、下級武士といえども藩政に参画させる人材登用・抜擢が切実な課題とされ、人材育成の方策として、学校が重要な位置を占めるようになる」(「江」p.209)。
 しかし会読が採用されることによって「能力の差が余りにも明白になり得」、「世襲制度との間の矛盾があらわになっていく」ことにもなります。
 また藩の方針の外で、自主的な「会読」の場が形成され「政治的な問題について横議・横行するような現象も生まれてくる」。つまり文芸的「公共空間」から「政治的問題を討論する自発的なアソシエーション」が形成されれていくわけです。
 しかも「相互コミュニケーションは藩内にとどまらず、外部に開かれてい」て、「会読は藩と藩との垣根を越える可能性をもっていた」。私塾や昌平坂学問所「書生寮」を介して、藩を越えた人脈が形成されていたわけです。
 「会読」は、こうして藩政のみならず国政を論じる場となり、諸藩での「言路洞開」を生み出す。そして吉田松陰の「草葬崛起」論、横井小楠の「天下公共の政」の提起などをへて、明治維新の「万機公論二決スベシ」に繋がっていきます。

7.江戸の読書会の意義
 以上、前田勉「江戸の読書会」を読んできましたが、<「文芸的公共空間」という、言葉にすれば一見西欧風のものが、江戸期の日本にも『読書会』として現存していた>ということは、「近代日本精神」克服の必要性を感じるものにとって、何か元気のようなものを与える話ではないでしょうか。
 私のように「西欧思想」を身に着けるのは、難しいと思うものでも、江戸の人々がやっていたことなら、自分たちにもできないこともないのでは?と思える。またそれが近代日本の教育・学問のあり方と根本的に違うものなら、近代日本人の限界を突破する思想・生き方を展望できるのではないか?とも思えるのです。
連載③へ続く
 
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1 丸山眞男は「ただ如何に日本における儒教の影響を消極的に評価する学者も、その社会における儒教の適応性をある程度まで容認せざるをえない時代がある。儒教の最盛期とされる徳川時代がそれである」(『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952、p.8)とする。これを読むと江戸時代は儒教の影響力は大きかったと思ってしまうが、実態は大分は違ったようで、前田は、平戸藩主松浦静山の随筆『甲子夜話』から以下のような話を引用している。

「宝暦年間(一七五一-六四)、朱子学者中村蘭林が幕府の奥儒者だったとき、江戸城内では、誰一人、彼に敬礼する者もなく、当直に出れば、若い小納戸衆などから「孔子の奥方、御容儀は美なりしや醜なりしや」などと問いかけられ、嘲弄されたという…。また、倹約令の厳刻だった明和・安永年間(一七六四-八一)でも、幕府の作事奉行から、「昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべし」と建言され、若年寄水野忠友がこれを聞き届け、将軍家治に言上するようにと取次衆に伝えたところ、取次衆は聖堂が何であるかを知らず、奥右筆組頭大前孫兵衛に、「聖堂に安置あるは神か仏か」と尋ねたという。すると大前は、「たしか本尊は孔子とか云ことに候」と答えた。ところが、取次衆は「其の孔子と云は何なりや」とまた尋ねた…」(「江」P.107-8)

 一方朝鮮の儒教について小倉紀蔵は次のように描写する。

「朝鮮の村の構造は、両班という儒教的知識人(支配層)の家と庶民の家々とがひとつの有機体を形成している。そしてこの村のはずれに、シャーマンがいるのである。/村全体は、両班の気によって支配されている。それは儒教的道徳によって方向づけられた気である。仁義礼智という観念(理)が浸透し、秩序は儒教的に整然と保たれていることが理想である。しかし両班の邸宅から離れて村のはずれのほうにゆけば、そこでは非儒教的な気が濃くなってゆく。朝鮮王朝時代には仏教は排斥され、寺院は山中深くに追いやられたので、村には仏教的な気配はほとんどない。非儒教的な気というのは、主に、風水地理などの道教的なものと、儒教からは迷信として蔑まれたシャーマニズム的なものである。」(小倉紀蔵『入門 朱子学と陽明学』ちくま新書、2012、p.018-019)

 このように朝鮮(大陸)と日本を比較しみると、その違いは明らかだろう。
 朝鮮では士大夫(知識人)を担い手として儒教が社会を秩序づけているが、日本の場合は、武家支配の基本原理は武であり、また宗教においては、仏教と神道――これは朱子学からすれば「迷信」であろう――、あるいは両者の習合が支配的であった。
 だから江戸の人びとが如何に儒教のテキストを読もうと、儒教はテキストの内部にのみ存在するのであり、「実際に生きることのできる」思想ではなかっただろう。
2 ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1973、P.48よりの引用。
3 シュテファン・ルートヴィヒ・ホフマン『市民結社と民主主義』山本秀行訳、岩波書店、2009、p.29よりの引用。

(そうまちはる 「公共空間X」同人)
(pubspace-x317,2014.04.11)