私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(2)

蒲地きよ子

(1)より続く
 
 わたくしの視線が一度正確に作中の一文に触れるとき、その文章は突如としてスポットライトを浴びた彫像のように、怪しく闇のなかに輝きはじめる。ゲルマント公爵夫人が『ベルマ』を観ている一階桟敷に水族館のなかでのように浮かびあがり、空を映した水面に開花する睡蓮には怪しい光芒が漂う。陽光にきらめく波濤の虹がバルベックの海上を彩る。わたくしが作中の文章の或る一点に眼を据えると、ヴァントゥイユの七重奏曲が静かに流れはじめ、その音の波動がわたくしの眼前で風のまにまに空中に氷結する。わたくしはオデットでも、ゲルマント公爵夫人でも、シャルリュス男爵でも、サン・ルーでも、ブロックでも道ですれちがえばすぐ見分けられそうな気がする。しかし、≪私≫が熱愛したジルベルトや、アルベルチーヌの姿をよく想い描こうとすると、ちょうどわたくしがかつて愛した異性を思い出すとき、彼はただ歓びや、苦痛や、嫉妬心をわたくしの心によびおこした、永久に不透明な存在のままで終ってしまったように、彼女たちもまた話者にとって、したがって読者のわたくしにとって不透明なままそっくり放置されていて、大切なのはモルモットである≪私≫の内面にそれらの対象が与えた波紋なのであった。
 ≪私≫は一応、固有な生活環境をもった、独立した人格ではあるが、実は自らその受動感覚のすべてをあげて外界との接点に立ち、そこから受ける刺戟に振動し、歓喜し、苦悩する精神の内部の精密なグラフによって己れをさらしたその人物は、人間という特異な、神による被創造体としての存在全体を背後に背負ったまさしく生贄なのであり、その≪私≫が愛した対象も、実はそれ自体が重要なのではなく、それによって一人の人間に体験された愛という極めて個人的な、したがって誰にも共通した、人間の内面現象の方則を引き出すための媒介なのである。
 こうして次第に自己の存在の内面へと沈潜してゆく意識の流れのなかで、≪私≫という話者はますます存在の特異性を失い、読者は作者の意のままに「読書に関する考察」へと導かれてゆく。「――実際は、如何なる読者も読書中は自分自身の読者なのである。作家の作品とは、その書物なしにはおそらく読者が自分自身のうちに見落すものを読者に見分けさせるがために作家の提供する、いわば光学機械にほかならぬ。」(3)
 第六篇、第七篇とすすむにつれて、作品は作家プルーストが扉の陰からひょいと普段着のまま姿を現わすように舞台に上ってきて、話者と読者の中間に介在したり、引込んだりしながらフィナーレにむかっての総出演の準備をする。悪魔の饗宴への誘いのように、鳴りわたるフィナーレの合奏はすべての登場人物と共に、話者なる≪私≫と互いに交錯し合ってひとつに溶けたどろどろの精神状態のまま作家と読者を伴連れにし、永劫の天地の渾沌のなかへと、一つの方向を目ざして熾烈にもえさかる炎となる。その音響の興奮のさなか、わたくしたちは玉手箱をひらいた浦島の愕きと狼狽にも似た≪私≫の眼をとおして、勝利に酔いしれた≪時≫の刻印を悉く押され、わたくしたちの古い馴染の登場人物たちが、それでもむかしの肉体的特徴をそれぞれとどめたまま、≪時≫という丈高い竹馬を履いて一堂に集まるのを見届けるのである。このとき、驚いて目を瞠る≪私≫は、ちょうど鏡を前にした人のように、同じく驚いて己れを漸くそれと見分けているむかしの友人、知人たちの眼差に出遇う。他のすべての人々と同様に、≪私≫もまた≪時≫の刻印を押され、≪老い≫という頭巾を頭に被っていたのであった。玉手箱から立ちのぼる煙に似て、人々の頭巾の白さが満堂を灰色に彩るとき、新しい世代の青年たちがかつての自分たちがそうであったと同じように、この灰白色の世界のなかでいやでも認めねばならぬ明暗を際立たせているのであった。
 ≪時≫という、透明なその流れのなかで人と生れ、そのなかを流れながら刻々それをひきずりつつ、やがて目立たぬうちに老い、死へと歩みすすむ人間の生存。その肉体が捉え、記憶した諸々の感覚は、それを感知した時間的、空間的条件と密接に結びついて、忘却という死の世界に埋もれているが、忘れ去られたかに見えるその記憶は、それを感知した生命の持続しているあいだは、偶然という自然の恩恵によって、或日、もうすでに忘れ去ったかと思われたその感覚を同じ条件でキャッチしたとき、忽然として再生する。
 或る期間、或る人を愛したという記憶は、その愛した人とわたくしたちが微笑みかわしたリラの香の漂うベンチとか、接吻しようとして足をつまずかせた石段の感触と密接に結びついているので、偶然によって、その肉体がうけたそのおなじ香り、おなじ感触を、あるとき同じ情況のもとで捉えたとき、わたくしたちが言い知れぬ歓びを其処に見出すのは、束の間のこの記憶の再生をもたらした過去と現在に共通した刺戟によって、わたくしたちの感覚器官が揺りおこされ、現在を知覚するときにはあまり働かない想像力が、このとき瞬時、記憶が蘇生した過去にむかって強烈に働いて美を知覚するからなのだ。理知の力では決して捉えることのできないこのような過去の蘇生は、単なる過去の一瞬でなくて、遙かにそれを超えたものであり、現在とか、過去とかいう限定した枠を超えた人間生存の本質に直結する何ものかなのだ。「――いつか耳にした或る響き、嘗て吸った或る香気が、現時でなくそれでいて現実的な、抽象的でなくそれでいて観念的な、現実と過去との同時のなかで、再び聞かれ呼吸されると、事物の普段隠されている不変のエッセンスはおのずから解放され、ときには久しい以前から死んでいるように思われたが別にそうではなかったところのわれわれの真の自我は、もたらされる天上の糧を受けて、目ざめ、生気を帯びてよみがえる。時間の世界から超越した一瞬間が、その一瞬間を感じさせるためにわれわれのなかに時間の世界から超越した人間を創造したのだ。」(4)(傍線筆者)
 幼い日の話者の精神世界で、地上の両極のように思われていた「ゲルマントの方」と、「メゼグリーズの方」とは、その終曲において円環状に合体したものとなり、「地獄の入口」と同様に地上にあることが信じられなかった観念的存在であったヴィヴォーヌ川の源が、まるで『失われた時を求めて』の全体の水源がはじめから其処にあったかのように、その二方向の結合点の傍に見出される。「ゲルマントの方」を通じて展開される貴族社会と、「メゼグリーズの方」を通じて展開されるヴェルデュラン夫人のブルジョワのサロンが、ここでもまた前者を象徴するサン・ルーと、後者を象徴するジルベルト・スワンの結婚によって合流し、その結合から、珠玉のようなサン・ルー嬢が、あたかも≪時≫の手がけた見事な芸術作品のように、話者の≪私≫が失ってしまった歳月のなかに花開き、あたかも『失われた時を求めて』というこの大作の、いく層もの錯綜した支脉が一点に合流して形成する球体の臍部を締めくくるように、聳え立つ二双の方向が象徴する二つの家系の肉体的特徴を具現して、まぶしいまでの美しさをたたえてその合流点に直立すると、フィナーレの大合奏は最後のフォルテシモを打ち鳴らして、ここに一大交響曲が終る。
 すでに平面的手法では無理と知って、この地上の人間生存の真実を立体的に捉えようとし、さらに、時間という永遠の流れのなかの四次元の世界に於て把握しようとしたプルーストの、五十一年の生涯の意味が、ここに結実され、ここに幕切れとなった作品のあとに蜿蜒と尾をひいて、「とてつもなく大きい一つの場所を時のうちに占め」(5)てゆく。話者の≪私≫も、もはや故人である作家も、読者のわたくしも、その茫々たる時の流れに同じように投げこまれて、彼我の区別もなく、己れの裡に「幾千尺の谿を見下すように、おびただしい歳月を望見して眩暈を覚え」(6)るのである。この幕切れがすなわち、これから話者の≪私≫がいよいよ書きはじめようとする物語の序章へとひきつがれることになる。宇宙に際立つ巨大な≪山の手線≫のように、作品は終ることなく循環し、第一章のはじまりへと再び動きはじめる。
 

(3)”失われた時”――見出された時Ⅱ――淀野隆三訳(新潮社)30頁 R.T.P.(B.P.)vol.ⅢP.911.
(4)”失われた時”――見出された時Ⅰ――井上究一郎訳(新潮文庫)274頁 Ibid.,(B.P.)P.872-3
(5) (3)に同じ一七九頁(新潮)P. 1048 (B.P.)
(6) (3)に同じ一七八頁(新潮)P. 1047 (B.P.)
(3)に続く
 
(かまちきよこ)
(pubspace-x396,2014.04.15)