日本のリベラル・左派と民衆のギャップを考える

――リベラル・左派の何が問題か?(一)

 

相馬千春

   
 
はじめに――都知事選の結果を受けて
   今回の都知事選、立憲民主党と共産党、社民党が支持した宇都宮健児は84万票余しか取れませんでした。現職の小池百合子は366万余票を獲得したわけですから、リベラル・左派勢力はあまりに票を獲得できていません。
   こう言うと、<山本太郎が立候補したのが悪いのだ、おかげでリベラル・左派勢力が分断されたのだ>と言われるのかも知れません。しかし、宇都宮の得票に山本の得票65万票余を足しても小池には遠く及びませんし、2014年の都知事選――宇都宮98万票余、細川護熙95万票余と較べても、リベラル・左派は得票を減らしています。さらに70年代の革新自治体の時代と較べれば、リベラル・左派は随分と支持を減らしている。
   こうした結果になっているのは、なにより日本の「リベラル・左派」のセンスと一般民衆のセンスとの間にかなりのギャップがあるからではないか。
   そこで、そのギャップはどのようなものかを考えてみたいと思います。この問題へのアプローチには様々な経路があるのでしょうが、ここでは、この問題を日本のリベラル・左派と民衆の「歴史貫通的な性格」はどのようなものか、という視点から考えて見たいと思います。
 
一、日本のリベラル・左派と民衆のギャップ――その歴史的経緯
   明治7年には「民撰議院設立建白書」が提出されて、自由民権運動が開始されますから、ここでは、これを広義のリベラル派の源流と位置付けることにしましょう。そこで、この運動の性格を押さえることから、「リベラル・左派の歴史貫通的な性格」の検討を始めたいと思います。
   民撰議院設立=自由民権の運動は征韓論で下野した勢力(士族)の運動として始まり、ついで豪農層もこれに参加していきますが、一般民衆は、運動の主体ではなく、演説会などを見に来る御客、啓蒙の対象(=客体)に留まったと言ってよいでしょう。
   当時の自由民権派は、<その思想上のコンテンツは西欧からの輸入品であり、近代化を肯定し、民衆に対しては啓蒙的である>といった性格を持っていますが、これが、その後の「日本のリベラル・左派」についても多くのばあい当てはまる、すなわち<リベラル・左派の歴史貫通的な性格>となっている、と思われるのは、興味深い点です。
   ところが、こうした自由民権派の性格は、大方の民衆の想いとはズレていました。なぜなら、明治初めの民衆にとって、西欧(=耶蘇教・異人)とは嫌悪・恐怖の的であり、近代化とは、「百姓」身分を奪われ、その近世的な土地所持 (1) が否定されることであり、啓蒙とは、それまでの慣行や生活習俗の強制的な変更であったのですから。
   こうした近代化に対する民衆の反撥は、明治4年~6年には、西日本を中心とした「新政反対一揆」となって爆発します (2) 。これは参加者の規模が数十万にも上る近代日本史上最大の民衆蜂起ですが、それは近代化=西欧化に邁進する「天朝御政」への憤りに基づくものでした。こうした反近代の民衆闘争は、明治17年の1府15県で発生した「困民党」の運動 (3) まで続きますが、その後もそのメンタリティは民衆の心の底に流れていったと見てよいでしょう (4)
   しかし、自由民権派はやがて民衆の方に接近します。葦津珍彦によれば、「民権家は、初期には米英仏の思想学説の影響をうけたが、その運動の実践を通じて、洋風外来イデオロギーでは国民が動かないで、固有の国民意識との結合によってのみ、国民大衆の支持共感を高揚し得ることを学び知った (5) 。」この葦津の言は、現在のリベラル・左派にとっても参考に値するものと思われますが、その後の歴史過程を見れば、「固有の国民意識との結合」をどう総括すべきかは、難問です。
   さて、日清・日露戦争を通じて、中・下層の民衆も『国民意識』に芽生え、政治の世界に登場してきますが、その端緒が日露戦争の講和(=終結)に反対する「日比谷焼き打ち事件 (6) 」であったことに示されるように、民衆の意識は、いわゆるリベラル・左派の思想とは全く異なるものであり、「帝国的国民意識」 (7) と言えるものであったわけです。こうした流れの中で、そもそもナショナリストであった民権派の多数は国粋的になっていき、リベラリズムと国際協調を重んじる勢力は、下層民衆の生活の改善に必ずしも興味を示したわけではないこともあって、リベラリズムと下層民衆の結合は実現しなかった言ってよいでしょう。
 
   19世紀から20世紀の変わり目のころには、日本にも左派=社会主義者が登場しますが、左派の場合は――リベラル派にも増して――思想のコンテンツは西欧からの輸入品であり、近代化=進歩の側に立ち、民衆に対して啓蒙的であるという傾向が強かったと言えるでしょう。当然ながらこうした傾向は、左派の大衆からの遊離を生むことになる。
   ここではプロレタリア文学の作家・貴司山治の発言を引用しておきましょう。学歴が小学校卒の貴司は、小林多喜二のような「インテリゲンチヤ」は自己と大衆との距離について自覚的でないと批判し、小林の代表作『蟹工船』を「小説中に描かれてあるやうな漁夫や水夫の間に持込んだら果して読むだらうか?恐らく読まないだらう。理解することができないだらう」と言う (8) 。大衆の好みは『キング (9) 』のような――帝国的国民意識に沿った――雑誌であり、あるいは浪曲 (10) のような反近代的情念を抱えたものだったわけです。 
   こうしてリベラルも左派も民衆の心を捉えることが出来ないまま、1930年には世界恐慌が日本を襲い、日本の近代化=資本主義化は、その「結末」において、都市での失業と農村の窮乏化をもたらすものとなり、借金のカタに娘たちが大量に売られていく時代が到来します。そういう状況下では「超国家主義」が民衆にとっても魅力的なものとなって行く。すなわち、国内的には「明治以来の近代化」は超克されるべきものとなり、日本回帰が指向され、また対外的には近代的世界システム=英米のヘゲモニーへの挑戦が企てられていく。民衆自身が戦争を指向し、広義国防論のような戦争体制に自らの展望を見出すようになるわけです (11) 。 
 
二、西欧化、近代化、啓蒙、戦後民主主義からの民衆意識の離脱過程
   さて日本の「超国家主義」は無残な敗戦で終わり、日本近代化の第二幕が始まる。GHQによる近代化・民主化をほとんどの人が肯定し、近代化や進歩がプラスの価値を持つものとなりました。じっさい戦後体制はほとんどの民衆にとっては戦前の体制よりもはるかに良いものと感じられたでしょう。しかし「超国家主義」は、物理的に壊滅せられただけであって、人びとがそれを精神の内面において克服したわけではありませんし、また憲法や教育基本法が「個人の尊重」、「個人の尊厳」を謳っていても、日本で西欧的な意味での「個人」なるものが成立しているのかと言えば、どうもそうとは思えません (12) 。「戦後民主主義」は、「個人」を欠いているという点で、そもそも脆弱性を抱えていたと考えてよいでしょう。
   その後、日本が経済面で西欧社会へのキャッチアップを果たし、また戦後体制の様々な問題が明らかになってくると、当然ながら、西欧化、近代化、啓蒙への人びとの評価は複雑なものとなって行きます。これらを引き続き肯定する人がいる一方で、むしろ日本文化・日本精神を再評価する人、近代を再び否定的に捉える人、知識人の啓蒙的態度に疑念を持つ人が出てくる (13)
   さらにバブル崩壊後の日本経済の長期的停滞は、ロスト・ジェネレーションを生み出し、戦後民主主義に憎悪を向ける若者たちが現われ、また差別的衝動を抑制しようともしない大人たちが大量に登場してきます (14) 。彼らは当然のことながら戦後憲法を嫌悪している。
   21世紀に入ると、「日本回帰」はいよいよ顕著になってきますが、これは何も、「美しい国」を唱える保守派だけのことではありません。例えば、2019年の参議院選挙で山本太郎を応援した茂木健一郎は「日本ってこんな国だったっけ?」と聴衆に問いかけていました (15) 。この問いかけは、現代日本で「日本回帰」が再び訴求力を得ていることを示しているでしょう。
   こういう状況の推移にリベラル・左派はうまく対応できていないのではないか。
 
三、啓蒙から対話への転換が必要ではないか
   本来ならば、小作争議や労働争議といった社会運動で示された民衆の意識をも分析しなければならないでしょう。しかし、ここでそれを割愛して私見を述べることをお許しいただけるのであれば、近代日本民衆の政治意識としては、少なくとも①国家に対する「客分」意識、②帝国的国民意識、③『本来の日本』への回帰を求める意識=反近代の情念の三つが基本的なものとしてある (16) 、と思うのです。そして、それらは戦後にも受け継がれて、現代の政治・社会状況を規定しているのではないか?
   これらの三つの意識は、少なくともリベラル・左派にとっては「ネガティブなもの」なのでしょうが、しかしまた、人びとの想いから乖離した言説では、現実の政治過程に大きな影響力を持つことはできないのも確かでしょう。
   或るものを批判する場合、それを啓蒙的に批判しても、あまり効果はない。本当の批判とは、批判すべき思想を一端は前提にした上で、それ自身の矛盾によってそれを止揚する (17) という――対話的な――方法に拠るものだと思うのです。
(二へ続く)
 

1 拙稿「「戦前回帰」を考える(八)――明治維新期の「世直し一揆」」を参照されたい。
2 拙稿「「戦前回帰」を考える(十)――「新政反対一揆」」を参照されたい。
3 拙稿「「戦前回帰」を考える(九)――「困民党」などの自由民権期の民衆運動」を参照されたい。
4 拙稿「「戦前回帰」を考える(十四)――近代日本民衆の反近代的情念について」を参照されたい。
5 葦津珍彦『国家神道とは何であったか』p.123
6 拙稿「「戦前回帰」を考える(六)――島薗進<明治体制の「顕教」・「密教」>論を検討をする」を参照されたい。
7 拙稿「「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」を参照されたい。
8 佐藤卓己『『キング』の時代』p.76による。同書によると、ここで引用した貴司山治の発言は1929年10月14日付けの『東京朝日新聞』に掲載されたものである。
9 雑誌『キング』については、佐藤卓己『『キング』の時代』を参照されたい。
10 浪曲については、兵藤裕己『〈声〉の国民国家』を参照されたい。
11 社会大衆党書記長麻生久は1936年、衆議院での代表質問で「陸軍省ハ『国防ノ本義ト其強化[ノ提唱]ト題スル『パンフレット』を出シテ[一九三四年]、是カラ先ノ国防ハ単ニ軍備ノミヲ以テハ足リナイ、国民生活ノ真ノ安定ト云フモノガ基礎ニナラナケレバ本当ノ国防ハ出来ナイ、国民生活安定ノ為ニ若シ今日ノ経済組織ガ邪魔ニナルナラバ、宜シク之ヲ改造シテ、国民生活ノ安定ノ出来ル経済組織ヲ立ツベシト云フノガ、其結論デアッタト私ハ思フノデアル。吾々ハ此軍部ノ広義ノ立前ニ対シテハ、全ク賛意ヲ表スルノデアリマス」と述べている。(坂野潤治『日本憲政史』p.187による。)
12 この点については、次回以降、少し詳しく考えてみたい。
13 日本知識人の精神の構造的な問題については、すでに1940年にカール・レーヴィットがつぎのように言っている。
「[日本人は]二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、[レーヴィットのような]ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、疑問に思う。」(『ヨーロッパのニヒリズム』跋文)
14 「戦後民主主義に憎悪を向ける若者たち」の言説としては、赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を挙げておく。また「差別的衝動を抑制しようともしない大人たち」の源流には「欲望自然主義」があるのではないか、と思われるが、この点については、次回以降考えることとする。
15 茂木健一郎の他にも「れいわ新選組」のあるオリジナルメンバーは、「新しいものを作り出したいんじゃないんです。元に戻したいという気持ちの政策」と語っている。「れいわ」には、こうしたメンタリティが含まれているのではないか。
現状が行き詰ったときに、「伝統」あるいは「過去」に回帰しようとするのは――外来思想の輸入による対応と並んで――日本の歴史では、よく見られるパターンであろう。したがって、むきになって批判する必要はないし、むしろ政治的言説としては極めて有効であると評価すべきなのかも知れない。
しかし敢えて言えば、「伝統」というのは、「ヘーゲル的な無」――これについては、高橋一行「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1) 闇と鬱」を参照されたい――のようなモノであって、そこからは、ほとんどあらゆるものが取り出せる仕組みになっている点は、押えておくべきだろう。
16 拙稿「「戦前回帰」を考える(十三)――近代日本「民衆」の政治上の三つの意識」を参照されたい。
17 ヘーゲルはつぎのように言う。
「真の論駁は反対者の力の中に入り込み、その強固さの圏域に身を置くのでなければならない」(『論理の学III 概念論』山口祐弘訳p.12 作品社)
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(注の番号を訂正しました-編集部。2021年11月23日)
(pubspace-x7876,2020.07.11)